犬と子供と爺さんと
とりあえず左に進み、猫になった俺は道路沿いを歩いた。
昨日振った雨で出来た水溜りが異常に大きく見える。
ちょっとした湖的水溜りもあった。
小さくなるとかなり歩行が困難だ。
なるべく避けて通ったりもしたが、いつ背後から車がやってくるか分からない。
後ろを振り向き、慎重に車道へ出ては水溜りを避ける。
しかしそれも数分後には全く意味を無くしていた。
やはり背後からやってきた白いミニバン。
勢いよく側を走り抜けて行ったそいつの後に、全身びっしょりに濡れた俺がいた。
「にゃっにゃー!」(ちくしょー!)
もうどうでもいい。
水溜りに足を突っこみながら、ひたすら前へと進んだ。
…つもりだった。
しかしそこは猫の足だ。
思っている以上に距離は稼げていなかった。
後ろを振り向くと、まだアパートの屋根が見える。
「…ふー」
肩を落とし、ため息をつく猫が水溜りに映っている。
猫だ。俺は猫なんだ。
しばらく歩くと、山根さん家の前まで来た。
アパートからおよそ200mというところか。
「ウゥーーー…」
塀の向こうから唸り声が聞こえる。
そうだ。忘れてた。
この家には犬がいる。
人間の俺でも偶に怖い、デカいハスキー犬だ。
ブルーにちょんと乗っかった黒い点の瞳が、はっきり言って可愛くない。
この家の前を通る度、何故かいつも吠えられる。
紗希と一緒にいても何故か俺だけに執拗に吠えまくる。
紗希…そういえば今日は何してるんだろうか…なんて考えた時だった。
「ワン!ワン!ゥゥーッ、ワンッ!!」
ぼんやりと塀の前を通り抜けようとした俺に…猫になった俺にそのハスキーが吠え始めた。
あの可愛くない目を三角にしてキバを剥き出して、今にも襲いかかってきそうな前傾姿勢で吠えまくる。
鎖がピンとはっている。
「にゃー…」(怖ぇー)
足早にそいつの前を通り過ぎた。
5mほど進んでもまだ吠えている。
「この馬鹿犬!」
山根さんも吠えている。
途中、コンビニ前の自販機の側で、子供の手を引いた若い母親とすれ違った。
「にゃんこちゃんだー」
髪を二つに分けた3歳児くらいの女の子が俺を指差して近づいて来る。
身体が固まる。
子供は苦手だ。
捕まらないように走ってみたが、子供はどこまでもついて来る。
これ以上走ると交差点だ。車が多い。
自分の事と子供の事をとっさに考えて走るのをやめた。
「ママー、にゃんこだよ」
俺の頭を撫でながら、子供が母親を振り返る。
慌てて子供を追いかけてきた母親が子供の隣りにしゃがみこむ。
「ユミちゃん、危ないでしょ、車が来たらどうするの!」
「だって、にゃんこ」
俺の頭を撫で続けながら唇を尖らせる子供。
俺の身体はこわばっていた。
「あら…珍しいわね、このコ」
そう言いながら、母親の手が俺の背中に伸びてきた。
「身体は白いのに、しっぽの先が黒いのね。変わったコね」
(悪かったな…)
俺が望んでこの模様になったんじゃ無い。
どうせ猫になるならアメショーとかそこらのキレイな縞模様になりたかったものだ。
どう見たって変わった模様の雑種猫だし…ってそういう問題じゃない。
母親が来れば安心だ。
俺はその親子の手を逃れ、交差点の角を慎重に折れた。
「ばいばーい、にゃんこちゃん!」
振り向くと子供が手を振っていた。
「にゃー」
一応挨拶して別れた。
「お返事してくれたわね」
後ろから母親の声が聞こえた。
何となく気分が良かった。
散歩中の犬とすれ違った時など、そりゃあ怖かった。
とりあえず近くの家の塀にジャンプた。
塀に足をかけ、吠えまくる犬を残し、そのまま塀の先まで歩いた。
スリリング。
なんて恐ろしいんだ、人間の世界は。
気分まですっかり猫だった。
塀からひらりと飛び降り、少し進むと公園にたどり着いた。
アパートからそれほど離れてもいない公園だったが、足を踏み入れるのは初めてだった。
初めての経験が猫になってからだとは。
想像もしてなかった。いや当然だが。
土の上に腰を降ろし、その敷地をくるりと見渡すと、ブランコにすべり台、砂場にベンチ、たったそれだけが置いてある小さな公園だった。
周りは緑で囲まれている。
しめった砂場の横を通り過ぎ、ベンチの上にジャンプする。
9時前の公園には誰もいなかった。
とりあえずベンチの上に身体を横たえて、「ふぅ…」と一つ息を吐いた。
かなり疲れる。
だいぶ乾いてきた全身と、砂まみれになった前足を眺める。
(マジ、このままだったらどうしよう)
だんだんと不安が沸き起こってきた。
ブルブルっと身体を震わす。
毛づくろい…したほうがいいんだろうか。
しかしその勇気は沸いて来なかった。
(でも猫は毛づくろいすると落ち着くって言うしな…)
躊躇ったが舌を出し、軽く横腹を舐めてみる。
駄目だった。
見た目は猫だが、中身は人間だ。
乾いて少し土色になった毛など、やっぱり舐める事など出来なかった。
「にゃ…」(そうだ…)
山根さん家のハスキーに吠えられてすっかり忘れていた紗希の事を思い出した。
(紗希、何してるかな)
先の黒いしっぽが無意識に動いた。
それを眺め、ベンチに座り直した。
ささくれて尖った木の一部がケツに刺さる。
少し移動してもう一度寝転がる。
ちらほらと公園内にお年寄りが現れ始めた。
散歩だろうか。シルバーカーを押し、所々に設けられたベンチに「よっこいしょ」と腰かける。
こちらに向かってゆっくりと歩いてくる爺さん。
目が合う。
にっこりと微笑んでいる。
あと2m。
俺はささくれた木の一部に腰を移動し、爺さんの為に隣りを空けた。
「よっこ…らしょ」
はぁっと息を吐き、すとんと腰を下ろした爺さんが俺を見る。
「なんだってまぁ、汚れて」
爺さんの皺だらけの手が背中を撫でる。
丸まった背骨を沿うその手の動きが気持ちいい。
ゴロゴロゴロ…
驚いたが自然に喉が鳴っていた。
「しかしまぁ、珍しい猫だ」
爺さんはそう言うと目を閉じ、そのまま寝息を立ててしまった。
ケツの下のささくれが痛い。
(猫になると、少し優しくなるのか?)
そんな事を思っていた。
「にゃ…にゃ」(優しく…ね)
爺さんの寝息が聞こえる。
ケツの下のささくれがやっぱり痛い。
爺さんの側にぴたりと移動し、ささくれを避け、前を見つめる。
乾いた風が髭を撫でた。
ゆっくり目を閉じる。
昨日の紗希の尖った唇を思い出していた。
|