黄色いクマ
紗希を追って10mほど歩く。
青いトタン屋根の二階建てアパート。
二階の左端が紗希の部屋だ。
カツンカツンとサンダルのヒールを鳴らし、紗希が階段を登る。
その後を追って、俺も一段目に赤い前足をかけたのだが、何となく躊躇して、その体勢のまま紗希のジーンズのポケットを見上げていた。
「あら?猫ちゃんついてきてたの?」
コンビニから一度も後ろを振り向かなかった紗希が、二階の踊り場から俺を見下ろしている。
「にゃにゃ…」(ついて来いって言わなかったか?)
「ここまで来たなら、少し上がっていけば?」
まるで人間に上がれと促すような口ぶりで紗希が微笑みかける。
「にゃ…」
行くところなんて無いし、そうしたい。
でも、俺、猫だし。
やっと紗希までたどり着き、旨いこと会えたものの、
今、猫である俺は一体何をどうすればいいのだろう。
紗希の部屋に上がったところで、所詮俺は「にゃにゃにゃ」としか言えないのだ。
「カルシウム摂る?」と聞かれれば、「にゃ」と言って、
「怪我してるの?」と聞かれれば、また「にゃ」と言って、
「あんた馬鹿?」といきなり言われたとしても、「にゃ!」と言うしかないのだ。
階段にかけた前足から力が抜ける気がした。
踏ん張る後ろ足も何だかだるい。
紗希に会えたのはいいが、不安が募り、疲れが一気に身体を覆っていくような感じがした。
「猫ちゃん、どーするの?」
カチャリとドアの鍵を開け、玄関先の灯りを点けた紗希が俺に尋ねる。
「んにゃーぉ」
自分でも情けない鳴き声が漏れた。
ため息をついたはずだった。
しかしやっぱり「んにゃーぉ」という猫語にしかならない声が切なかった。
可愛そうすぎないか、俺。
切な過ぎじゃないか、俺。
ちょっとセンチメンタル気分になっていた。
が。
“ふっ”と猫のくせにやるせなく息を吐いた時、一段目にかけた前足の上をモゾモゾと何かが動いた。
「にゃ?」
コンビニ前で俺の背中に飛び乗った虫と同じ、何だか分からない黒い虫が右足に乗っかっていた。
何本あるか分からない足を使い、その黒い身体に生えた羽根をコキコキと整えている。
「んにゃにゃ!」(ひょぇ〜〜!)
何度も言うが、俺は虫嫌いだ。
「んぎゃぎゃぎゃー」
俺は奇声を発しながら一気に階段を登りきった。
紗希の足元までダッシュした俺は、紗希よりも先に玄関へ上がり込んだ。
玄関マットに足をかけると、そのまま水上スキーの如くマットと共に数メートル滑り、冷蔵庫前まで運ばれた。
勢いがついていたので、マットがピタリと止まると同時に、俺の身体はゴロンと一回転。
転がりながら目をやる先に、唖然とした紗希の顔があった。
「ちょっと猫ちゃん、躊躇するふりしてそれは無いんでないの?」
猛スピードで部屋に上がり込んできた猫である俺に呆れながら、パタンと後ろ手に紗希はドアを閉めた。
「にゃ」
結果的に部屋に入り込んでしまった。
サンダルを脱ぎ捨て、部屋に上がった紗希が冷蔵庫の扉を開く。
その側で転がったままの俺の腹をさする。
「あの勢いで駆け上がって来れるんなら、怪我も大したことないのね」
まだ赤い前足が怪我のせいだと思っている紗希は笑いながら冷蔵庫の中に牛乳パックを詰め込んだ。
「あ、そうだ、猫ちゃん、牛乳飲む?」
詰め込んだ牛乳パックを一本抜き取り、思い出したように俺に尋ねる。
「にゃ」(まさか)
「カルシウム再び」
パコっと飲み口を開き、紗希のカルシウム摂取が再び行われた。
立ち上がり、腰に手をかけ、グビグビっと一気。
「ぷはーっ」
またも口の周りを白く染め、満足気。
「やっぱ牛乳でしょ」
「…」
お前のその飲みっぷりなら、牛乳のCM、立派にこなせるぞ紗希。
「ケンチャンの健康牛乳!」
「…」
お前は何年前を生きているんだ紗希。
そしてお前はもう忘れている。
俺に“飲む?”と聞いた俺の分の牛乳はどうした。
「さすがにお腹が張る、キツイ」
俺がいることなど当に忘れてしまったかのような紗希は、赤いカーディガンを脱ぎ捨て、「ふっふーん」と鼻歌を唄いながら、足に張り付いたジーンズを下ろした。
紗希の尻に笑う黄色いクマの顔を見ながら「にゃ」とため息が出た。
「あ、猫ちゃん、いたんだっけ」
「…」
どこまでマイペースなんだ、お前は。
「猫ちゃん、お腹すいた?」
「にゃ」
牛乳はどうした…聞きたいが聞くことなどできない。
「キャットフードなんて買い置きしてないしなぁ」
「にゃ」
当然だろ…突っこみたいが突っこむことなどできない。
「あ、そうだそうだ」
両手をポンと会わせ、レンジの中を覗き込む。
前かがみになる紗希の尻の黄色いクマの顔が横に広がる。
「にゃ」
猫になってまで、その尻を可愛いと思ってしまう。
ああ、、、俺ってヤツは。
「煮物作ってあったんだけど、それでいい?」
「にゃ!」(煮物!)
煮物と聞いて、爺さんの墓参りに行った婆さんの顔が先に浮かんだ。
「あたしね、煮物だけは得意なの」
チーンとレンジの音が鳴り、開く扉の中から甘じょっぱい香りが漏れる。
紗希の腕を滑り、黄色いクマの顔を撫で、床を伝って俺の鼻先まで来たその匂いに、ギュルルと腹の虫が反応した。
「あら。やっぱりお腹へってるのね」
「にゃ」
婆さん、俺、紗希の煮物までたどり着いたぜ。
婆さん、ちゃんと家に帰れたか。
婆さんにも食わせてみてーな、紗希の煮物。
婆さんのも食ってみてーな、猫アレルギーの孫がいない時に。
「はい、どーぞ」
ジャガイモと人参、シイタケ、さつま揚げ、昆布の乗った皿をコトリと俺に差し出す。
「にゃ」
「猫だから猫舌でしょ。あんまり温めなかったから大丈夫」
ニコリと笑う紗希のえくぼ。
「んにゃ…」
少し上がる湯気を通して揺れる紗希の笑顔は、はっきり言って可愛かった。
ふがっと、ジャガイモにかぶり付く。
「ふにゃほ」
熱いぞ、紗希…。
「美味しい?」
「ふほぃにゃ」
美味いぞ、紗希。
「煮物だけは美味いって聡史も言うんだ」
「…」
婆さん、やっぱり紗希の煮物は美味いぞ。
芋を食いながら、泪が流れそうだった。
ボーンボーンボーン……
年季の入った振り子時計の音が狭い部屋に響いた。
「あ、始まっちゃう!」
突然紗希が立ち上がった。
「ド、ド、ドリフの大爆笑〜」
「…」
この町はきっと時計の針が遅れているのだ。
あるいは止まったままなのか。
「猫ちゃん、8時だよ」
テレビの前でうつ伏せに寝転がり、「よ、長さん!」と声をかける。
パタパタと上げ下げする紗希の足の動きに合わせて、
尻の黄色いクマの表情もまた、笑ったり怒ったり泣いたりを繰り返していた。
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