カルシウム
ゆっくりと歩く紗希の後に、てけてけと猫の俺が続く。
「待つわ〜いつまでも待つわ〜 他の誰かにあなたがふられる日まで〜」
紗希はまだ唄っている。
よく聴くと、結構すんごい歌詞だ。
Sなのか、Mなのか。
なんて思いながら紗希の影を追い、歩く砂利道の感触が少々痛い。
遠くの山にカラスが帰る。
砂利道を抜けると、舗装された細い道に出る。
紗希のアパートはここから30mくらい先だ。
チカチカと点滅しながら街灯がつき始めた。
空は紫とも青ともつかない色になっている。
秋の日の入りはあっという間だ。
見上げる空に細い月が薄く顔を出していた。
追っていた紗希の頭の影もなくなった。
「にゃ」
薄暗くなったにも拘らず、俺の視界は意外にもクリアだ。
昼間よりもはっきり見えるかもしれない。
数歩前を行く紗希の後姿もよく見える。
時折ジーンズのポケット付近に手を伸ばし、ボリボリとケツを掻いている。
「にゃ…」(掻きながら歩くなって)
「何だかイライラしてきた」
ボソッと紗希が呟いた。
「カルシウム不足のような気がする」
「にゃ」(カルシウム?)
舗装道路に入って20m付近、この辺りで唯一のコンビニに紗希は入った。
俺はコンビニの自動ドアの横で座り込み、紗希を待った。
スイーッチョン、スイーッチョン…向こうの草むらの中で虫が鳴いている。
突然、自動ドアの前にぴょんと現われた何だか分からない虫が俺の背中に飛び乗った。
コオロギかもしれないが、猫になった俺の目に映る虫は、カブトムシくらいに大きく見える。
「んにゃにゃ!」(ひえ〜〜)
それでなくとも、俺は虫嫌いだ。
びっくりした俺は、自動ドア前で、バッタバッタとひとしきり転げまわった。
「ありがとーございましたー」
日本人の店員、「日本人さん」の声が開いた自動ドアから響く。
「ア、ガットー、ゴザイター」
商品名かと思ったが、ナニジンだか分からない黒い顔の外国人店員が後に続いて、恐らく「ありがとうございました」と言っている。
この町を選び、このコンビニに就職したわけを知りたい。
「あら、猫ちゃん、どうしたの?」
転がる俺の頭の上で紗希の声がした。
「にゃ」(あ)
「お腹でも痛いの?」
「にゃ…」(紗希…)
何だろう。
紗希の顔を改めて目の前で見た俺は、その場から逃げ出したい気分になった。
「にゃ…」
しゃがみこむ紗希の顔が少し上にある。
俺はじっとうずくまり、紗希を見あげる。
隣りを、何だか分からない虫がぴょんと逃げていった。
「大丈夫?」
紗希はじっと俺を見ている。
何だか、照れくさい。
「にゃ」
俺はうつむいた。
「元気ないわね、大丈夫かしら?」
背中を紗希の手が撫でた。
びくんと背中が波打つ。
「あら」
背中を撫でる手が、俺の前足に伸びた。
「血?怪我してるの?」
赤く染まっている俺の両前足をちょんちょんと注意深く触りながら心配気な顔をする紗希。
「にゃ…」(いや、鼻血…)
心配してくれてる血の原因が、Tバックを見て、二度も流した鼻血だということを思い出した俺は、ますます紗希の顔を見ていられなくなった。
前足を撫でる紗希の指先を見つめ、うつむいたまま「にゃ…」と声が漏れた。
(最悪だな、俺…)
「やっぱり元気ないわね。怪我してるみたいだし」
いや、お前の顔が見れないだけなんだ。
「牛乳飲む?」
言いながらコンビニ袋を俺の前に差し出す。
袋の中には、1、2、3…6本ものパック牛乳が詰め込まれていた。
「にゃ…」(一体、どんだけカルシウム摂取するつもりなんだ)
呆れてその袋をじっと眺める俺を見て勘違いしたのか、紗希は牛乳パックを一つ取り出した。
「にゃにゃ」(いや、いらん)
髭の前で左前足を振った。
「ん?いらないの?」
コクリと頭を下げる。
「カルシウム摂取は大切よ」
紗希はそう言いながら、取り出した牛乳パックにストローを突っこみ、ゴクゴクと一気に飲み干した。
言っておくが、1Lパックだ。
どんだけ?
しかもストローって。
「ぷはーっ!カルシウム最高!」
口の周りを白く染めながら、酒でも飲み干した後のような爽快感を顔面に浮かべる紗希。
お前はストローで飲んでも口の周りを白く染められるのだな。
ガゴッと音がして、突然コンビニの自動ドアが開いた。
黒い顔に目玉だけが白くギラギラと浮かぶ、ナニジンだか分からないさっきの店員が出てきた。
「サッキサーン、スンマソーン」
「にゃ?」
「なに?」
俺と紗希、同時にその外国人を見上げた。
「ワタシ、ワスッテマスター」
「にゃ?」(マスター?)
「忘れてた?」
…紗希、よく分かるな。
「忘れてたって何が?佐藤くん?」
佐藤って!!
「ツリセン、オカーシ」
「にゃ?」(お菓子?)
「お返し…ああ、おつりね」
…なんで分かる?
「スンマソーン、ハイ、291マーン」
「にゃ…」(291万…)
「あはは。あたしもすっかり忘れてた。ありがと、裕次郎くん」
ええーーっ?!裕次郎!?
「ア、ガトー、ゴザイター」
白い歯をニカリと光らせ、ナニジン…立派な日本人は中へ引っ込んだ。
「佐藤君、いっつもおつり忘れるんだもんなぁ」
…いっつも貰い忘れてるお前もなかなかのもんだぞ。
「よいしょ」
紗希が再びしゃがみこみ、俺をじっと見る。
「猫ちゃん、あんたこの辺では見ない子ね。しっぽの先が黒い子は初めてだわ」
「にゃ」
「パトロール中?」
「にゃ…」(追跡中…)
「帰るとこあるの?」
「にゃにゃ」と首を振り、うつむいた。
頭を撫でる紗希の手のひらはやっぱり温かい。
「怪我してるみたいだし、うちに来る?」
「にゃにゃ」
頭を撫でられながら、俺は紗希を見上げた。
口の周りを白く染めたまま、紗希が微笑んでいる。
「ま、どっちでもいいわ。来たけりゃついてきて」
そう言うと紗希は立ち上がり、片手で牛乳パックをグシャリと揉み潰し、ゴミ箱へ投げ入れた。
サンダルをカラコロと鳴らし、紗希が舗装道路を歩きだす。
「にゃにゃ」
紗希をたずねて3000里。
言い過ぎだが、やっと紗希にたどり着いた俺の心は、まだ申し訳なさと照れくささに覆われていた。
歩く紗希の後ろ姿を、うずくまったまましばらく眺めた。
5本の牛乳パックが詰め込まれたビニール袋が、点滅する街灯に照らされて揺れる。
ゲブッと一つ、でかいゲップを吐き、「やだー、はずかしい」と一人突っこみをする紗希。
草むらの中で、カブトムシ大の何だか分からない虫が、カサコソと動いている。
「にゃにゃ」
俺は立ち上がり、草むらの中で動く何だか分からない虫を睨みながら、急いで紗希の後を追った。
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