天使の香り(1/4)PDFで表示縦書き表示RDF


このお話は、だいぶ前に完結済の「バニラ」という小説に挿入されていた童話を抜き出して、若干の修正を加えたものです。かなり古典的なストーリーですが……
天使の香り
作:徳次郎



◆1ノ香◆


 天使は誰もがなりえる権利を持っている。
 天使は救った人間の苦悩、苦痛を一生背負わなければならない。
 そして、多くの天使たちはその苦痛に耐え切れず、無の世界へと自分の存在を消し去る。
 天使は善意が作り出す幻影と人は言う。
 しかし、誰かを救いたいと言う強い気持ちがこの世に芽生える限り、天使は存在するのだ。
 穂のかに甘い香りと共に。


 * * *


 その昔、天使と悪魔は平等に認められた存在だった。
 生をつかさどる天使。
 死をつかさどる悪魔。
 そして、死者の魂を運ぶ死神もまた、天界に認められた存在だった。




 青い空にぽっかりと浮かぶ雲がいくつも連なって、風に吹かれてゆっくりと流れていた。
 レンガ造りの建物が並ぶ小さな町の周辺には、瑞々みずみずしい緑の葉に覆われたブドウ畑が広がっていた。
 そのブドウ畑の向こうには小高い丘がある。
 丘の周辺には小さな森が幾つもあるが、それらは丘を越えた深い森に続いていた。
 町から一番遠い丘のふもとに、少女は住んでいた。
 少女の身体は重い難病におかされていた。
 その昔、その時代の医学では原因が特定できず、治療は不可能だった。
 全身の筋肉が麻痺まひして感覚を失い、最後は心臓の筋肉もその機能を失い止まってしまうのだ。


 彼女は最初に右腕の感覚を失った。
 残った左腕で文字を書き、食事をした。
 彼女は絵を描くのが好きだった。
 病気になる前は、町の展覧会で入賞した事もあった。
 左手ではどうにも上手く描けなかったが、それでも少女は絵を描き続けた。


 その次に少女は左足の自由を失った。
 それでも彼女は、右足だけで歩き回り、共働きの両親には負担をかけまいと家事の手伝いまでしていた。
 両親は娘の病気を何とか治そうと、懸命に働いた。
 医者に見てもらうだけでも大変なお金がかかるのだ。
 町じゅうの医者に見てもらった少女は、隣の大きな町の大きな病院にも通ったが、結局治療法は解らなかった。





 少女は時間があると、毎日絵を描いた。
 それが彼女の唯一の気分転換でもあったのだ。
 家の近くの小さな森の入り口で絵を描いていたある日、その少年は少女に声を掛けて来た。
「なんだこれ、へったくそな絵だな」
 隣の家までは100メートルはある。そのまた隣まで100メートル。
 町外れにある家々はそんな感じだったから、近くに住む親しい子供はいなかった。
「あなた、誰?」
 少女は警戒けいかいする事も無く、その見知らぬ少年に訊いた。
「僕はククルって言うんだ」
「ククル? 変った名前ね。あたしはアンジェリカ。みんなはアンジェって呼ぶわ」
 少女は屈託くったくの無い笑顔で少年を見つめた。
「あなたって、バニラの香りがするのね」
「そうかい?」
「うん。すごくいい匂い」
「それは、光栄だね」
 少年はキラキラと輝く、涼しげな青い目をしていた。
 木立から注ぐ木漏れ日が、瞳の中に吸い込まれていくようだった。
「アンジェは絵が好きなのかい?」
「うん」
「その割には、へただな」
 少年の透き通るような金色の髪がサラサラと風でそよいでいた。
「あたし、本当は右利きなの。でも、もう右手は動かないの」
「へぇ、それで左手で描いてるのか」
 少年は手を腰に当てて、首を傾げながら
「まぁ、それなりに味のある絵だよな。うん」
「ありがとう」
 アンジェの笑顔はククルの心に暖かい火を灯すような、そんな笑顔だった。


 アンジェリカは学校に行っていなかった。もちろん、健康な頃はみんなと同じように学校へ通い、友達と遊んだ。
 しかし、病気の症状が出ると、学校側から「来られると困る」
 そう、言われたのだった。
 足手まといという事もあるが、原因不明の病気が他の生徒にうつるのではないかと思われたのだ。
 身体の不自由になった彼女にとって、まだまだ偏見の多い時代だった。




 次の日、アンジェリカが何時もの森の入り口まで来ると、ククルが立っていた。
「キミは、足も悪いのかい?」
 少女はピョンピョンと杖をつきながら、右足だけで歩いて来たのだ。
「うん。左足も動かないの」
「それは、大変だね」
 少年は木にもたれて、少女がイーゼルにキャンバスを立てかける様子を眺めていた。
「ククルは何処から来るの?」
「僕は、この森のずっと奥に住んでるんだ」
「この森に人が住んでるなんて知らなかった」
「僕の家の周りにはバニラの花が咲いていて、それを乾燥させて食べるんだ」
「バニラの花を食べるの?」
 アンジェは大きく瞬きをしながら言った。
「ああ、けっこう旨いよ」
 ククルの瞳は、澄んだ青空を映し出しているようだった。
「だから、ククルはバニラの匂いがするのね」
 アンジェはそう言って笑った。
「ククルは、この森の奥で一人で暮らしてるの?」
「いや、母親と一緒さ」
「やさしい?」
「いや、鬼だね」
 ククルは笑って言った。そして、アンジェもつられるように声を出して笑った。








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