彼は、生まれながらに、不思議な力を持ち合わせていた―――。
時は織豊の時代に差し掛かりし頃。
信長本拠地である尾張に、ある異変が起こった。
それは――
「ねえ、なんか最近、信長様の御様子、おかしくない?」
「やっぱり!?わたしもそう思ってたのよ!!」
「前まではあんなに怒鳴らなかったじゃない?それが今じゃ小さなことでがみがみと…」
侍女は額に手を置き、気だるそうにため息をついた。
もう一人も片方に同じく、真剣な面持ちで考えこんでいる。
「そうそう。まるで誰かと入れ替わったかのように…」
侍女達の話を流し目で聞きながら、彼は通りを歩いていた。
確かに、信長様の御様子がいつもと違うのは本当だが……。
「蘭丸殿!!」
「はい?」
後ろから呼び止められ、蘭丸は踵を返した。
森 蘭丸――。そう、彼は、織田の大将・信長公の愛姓、十七にして森家当主の、織田家きっての小姓であった。
「蘭丸殿……」
「どうなされた?」
蘭丸は自分を呼び止め走って来た臣下の者に、温厚な面持ちで尋ねた。
すると家臣の者は、一見神妙な表情で、顔が真っ青のまま語り出した。
「さ、先程…、信長様の御部屋に、頼まれていた御食事を御届けに参ったところ……」
「どうされた?」
家臣は青い顔をいっそう青くした。
「…その際、信長様の御部屋から……」
彼の話によると、彼が信長に食事を届けに部屋の前に行くと、声を掛ける前に、信長の声が聞こえたそうだ。
彼が入ってもよいのかと迷っていると、自然と中の声が漏れてきた。
「どうしたものか…」
後々考えると、それは信長の声ではなく、全く別人の男声であった。
「信長に憑依したはいいが……。しかし、この生活にも段々と飽きていたのう…」
彼は危うく食事を取り落としそうになった。
(憑依…?いったい、何の話だ)
部屋の中の男は、物音一つさせず、未だ一人でぶつぶつと何か小言を言っている。
「まあ、信長の体を手に入れただけでも、いいとしよう。暫くはこの生活を続けるとしようかのう」
彼は、急いでその場を逃げ去った。
「と、いうわけで御座いまして……」
「ほぉう」
蘭丸は腕を組み、ゆっくりと顎に手を当てる。
すると、慌てて家臣は腕を振り、必死に蘭丸に願い入れをする。
「本当です!!!信じてください!」
蘭丸は温厚な表情を変えずに言った。
「…まあ、普通なら信じられないでしょうが、」
「ですけど、ほんと…」
より慌てる家臣の言葉を遮り、蘭丸は静かに続けた。
「最近の信長様は、以前より少し御様子が違う。それを否定出来なくもない」
家臣の表情が一気に明るくなる。
「じゃあ……」
蘭丸は浅く微笑んだ。
「ああ、そなたの言い分、信用致そう」
家臣の顔に、安堵の色が広がった。
「それにしても…、いったいどういう……。」
蘭丸は、薄暗い月夜の中、小さな蝋燭一つを灯し、一人部屋に籠っていた。
しかし最近、信長のもとで仕える事が少なくなったような……
ふと蘭丸は目線を上げる。
「今一度、信長様に近づいてみるか……」
「信長様、お出掛けですか」
宵のうちに城を裏でから抜け出そうとしていた信長は、背後から気配も無く出現した蘭丸を見て、少し驚いたような面持ちを持った。
「ああ。久しく城下にでも出ようかとしたのだが、宵にでも出らんと、城の者がまた煩い」
「左様で御座いましたか。この森蘭丸、御供させて頂いても宜しいでしょうか」
再び信長の顔に吃驚な表情が広がる。
「どうなさいました?」
蘭丸の問に、信長は心底不思議そうに言った。
「止めぬのか?」
それに蘭丸は、彼らしい答えを出した。
「止めて、彼方は聞き入れますか?どうせ聞き入れぬのなら、供をして警護した方が正しいのでは」
その答えに、信長は大きく嘲笑する。
「蘭丸といったか」
蘭丸の顔に、僅かな歪みが、一瞬だけ生じた。
「はい。もうお忘れですか」
「お主、なかなか面白いのう。よし、気に入った。連いて来い。同行を許可する」
「恐れ入ります」
二人は城の裏口から、そっと漆黒の闇へと消えていった。
朝陽が流れ込むより先に、信長を引き連れ城に戻っていた蘭丸は、布団の中で一人考え浸っていた。
(あの時信長様は、確かにわたしの名を御存知では無かった。以前の信長様なら、わたしを知らぬ事もなしに、まして宵に城を抜け出すなど……)
ならば、あれは誰だ―――?
こうなれば、あの家臣の申す事も満更ではなくなってきた。
「蘭丸殿」
部屋の障子に、男の影が映る。
蘭丸は上体を布団から起こし、僅かに縺れた闇色の長髪を、手早に結った。
「信長様がお呼びです。只今、広間でお待ちかねで御座います」
男は伝言だけを伝えると、蘭丸の是非も聞かず、足早にその場を去った。
しかし、蘭丸の答えはもう決まっている。
蘭丸は起き上がると、素早く布団を片付けた。
きちんとした正装に身を包み、足早に信長の待つ広間を目指して歩みを進めた。
「おお蘭丸、よう来たな」
「はっ……。して、お呼びでしょうか」
蘭丸は畳みに膝を折って頭を垂れ、恭しく正座する。
すると、信長の表情はより和らぎ、言った。
「よいよい。面を上げよ」
蘭丸はゆっくりと頭を上げる。
頭を上げたその先には、さぞ機嫌の良さそうな、織田信長。
蘭丸は、ほんの僅かに眉根を寄せる。しかし信長はそんな事には気付かない。
「御主、儂が何者かわかるか?」
「…………」
何を言い出すかと思えば……。
まさか、彼方から仕掛けてくるとは。
しかし、頭の利く蘭丸が、何の策もなしにのこのこと謀にはまる筈がない。
蘭丸はわざと驚いたように言った。
「何を申されます。我等が御館、織田信長様では御座いませんか」
それに信長は大口を叩いて笑う。「はっはっはっ!!!いやー、そうかそうか。……しかしな、蘭丸」
「はい」
信長が真顔に戻る。
「儂は、今までに多数の人の血が流れるのを見てきた。勿論、この手で流した血もある」
「………」
蘭丸は黙ってそれを聞いている。
「だがな、儂は考えた。そうやって殺された者達が信長という体に入れば、どうなるかとな」
信長の表情が徐々に厳しいものに変わる。
「例えば、もしここにいる信長が信長ではなかったら?」
信長がすっと立ち上がり、此方に向かって来る。
しかし、蘭丸は皺一つ動かさず、正座して真っ直ぐに信長を見詰めている。
「もし、わたしが天下目前にして桶狭間で破れた、今川義元であったら?」
蘭丸はぴくり、と指を動かす。
「もし、わたしが今、御主にとり憑こうとしているならば?」
信長――いや、義元は、にやりと笑みを見せると、蘭丸の前に立ち止まり、懐刀を振り上げた。
蘭丸は鋭利な瞳を向け―――。
「蘭丸殿!!!」
「はい?」
先日の家臣が蘭丸に再び声をかけた。
「いや〜、最近は信長様の御様子がまた戻られて、安心致しました」
「確かに……。一件落着、ですね…」
蘭丸は小さく微笑んだ。
森 蘭丸、彼は幼少の頃より、霊を浄化させる力を持ち合わせていた。
勿論、彼にとっては、たった一体の幽体を除霊することなど、造作もなかった。
それが幸を呼び、今回の事は幕を閉じた。
あの時、蘭丸の詠唱に倒れた義元は、この世に戻った信長の魂と行き違いに、この世から出ていった。
その後、目を覚ました信長は、それまでの事を全く覚えてはおらず、何とも不思議な面持ちで考え込んでいた。
また、義元が信長の体に憑いたのは、どうやら自分の最期の怨みを、信長の体を乗っとる事で晴らそうとしたからだろう。
それに、蘭丸に乗り換えそうとしたのも、単なる義元の感心からだったのかもしれない。
「蘭丸よ」
信長が渡りを歩いていた蘭丸に声をかける。
「信長様。如何なさいましたか」
「うむ。近頃、主と茶の時間を共にしておらんかったと思うてな。どれ、濃や猿とでも、一服せんか」
いつも通りの信長が、蘭丸には懐かしく思えた。
「はい。信長様」
――わたしの御館様は
――信長様ただお一人です。 |