さみしさの神様
人の感情は、どんなものでも時間と共に失われていきます。
それは、ものわすれの神様が感情を摘み取ってしまうからです。ものわすれの神様は、その摘み取った感情をそのまま捨ててしまいます。
ものわすれの神様が摘み取った感情は、それぞれの感情の神様に拾われます。
喜びは、喜びの神様に。
怒りは、怒りの神様に。
哀しみは、哀しみの神様に。
楽しみは、楽しみの神様に。
それぞれ、拾われていくのです。
感情の神様たちは、拾った感情を、また別の人に植え付けていきます。
さみしさの神様も、そんな感情の神様の一人で、さみしさを拾っては、人々の心に植え付けていました。
けれど、さみしさの神様は悩んでいました。
さみしさの神様が、さみしさを植え付けてしまうと、さみしくて、みんな泣いてしまうからです。
親を見失った迷子の少女は、ぽろぽろと泣きました。
友だちのできない男の子は、しくしくと泣きました。
恋人に捨てられた女性は、わんわんと泣きました。
妻を亡くしたおじいさんは、声を出さずに泣きました。
その涙を見るたびに、さみしさの神様は、胸が締めつけられました。
苦しくて、悲しくて、さみしくなってしまいました。
そうしていつからか、さみしさの神様は、さみしさを植え付けるのとやめてしまいました。
ただただ、ものわすれの神様が落としたさみしさを、かごに詰めこんでいき、さみしさの神様は抱え続けています。
抱え込んださみしさは、集めれば集めるほど、重くなって運ぶのに苦労しましたが、どこかに置いていくわけにもいきません。
そんなことをしたら、誰かがさみしさを拾ってしまうかもしれないからです。
もしも、たくさんのさみしさが、あのいじわるい悪魔にでも拾われたら、大変です。
きっと、さみしさの神様が人の心にさみしさを植え付けていた時よりも、たくさんの人がさみしさに泣いてしまうでしょう。
そんなふうに、いつも重そうにさみしさを抱えているさみしさの神様を見るたび、他の感情の神様たちはなんとかしてあげたいと思うのですが、なにもできませんでした。
さみしさの神様は、他の神様に会うたびに、自分の抱えたさみしさのかごを見せて、誇らしげに笑うのです。
〝もう、さみしくて泣く人はいなくなりました〟
〝みんな、さみしくなんてないんです。だって、さみしさはぜんぶ、このかごの中なんですから〟
そういって、胸を張るさみしさの神様を止めるなんて、誰にもできなかったのです。
誇らしく、さみしさの詰まったかごを抱えて、毎日毎日さみしさを拾うさみしさの神様のところに、ある日、恋心の神様が訪ねてきました。
いつも、恋の喜びに笑顔満点な恋心の神様が、悩ましげに整った眉を寄せています。
〝どうしたんですか〟
いつもと違う恋心の神様を心配して、さみしさの神様は声をかけました。
しばらく、恋心の神様はなにも言わないで、さみしさの神様を見つめていました。とても迷って、ここまできたけれど、それでもまだ口に出せない、そんな雰囲気です。
さみしさの神様は、なにかしてしまったのかと、あわて出して、話を聞く前に、深く深く頭を下げて謝りました。
そうすると、当然、恋心の神様もこまってしまって、なんとかさみしさの神様に顔をあげてもらわないといけません。
けっきょく、なにがあったのかを話すからと、恋心の神様がそう言ってやっと、さみしさの神様は泣くのをやめました。
恋心の神様は、言葉を選びながら、ゆっくりと話していきます。
〝最近、恋心を人に植え付けても、誰も彼も、告白をしなくなってしまったの〟
〝みんな、遠くから想い人を見ているだけで、満足してしまっているの〟
それは、とても困ったことだと、さみしさの神様もおどろきました。
恋人にならなければ、せっかく恋心の神様が植え付けた恋心も育ちません。恋愛という大事な感情が、育ってくれないのです。
それは、とても悲しいことです。
どうして、とさみしさの神様は問いかけました。
恋心の神様は、胸を締めつけられる苦しさを感じながら、さみしさの神様を見下ろします。
こてん、と首をかしげたさみしさの神様に、恋心の神様の固くのどに張り付いた声が真実を告げました。
〝それは、さみしさがなくなってしまったからよ〟
始め、さみしさの神様は、なにを言われてるのか、わかりませんでした。
〝好きな人のそばにいられなくて、さみしい〟
〝好きな人に振り向いてもらえなくて、さみしい〟
〝好きな人に逢えなくて、さみしい〟
〝そんなさみしさがなくなってしまったから、人は恋を見失ってしまったの。恋することができなくなってしまったの〟
〝さみしさは、恋に必要な感情だったのよ〟
ぐるぐる、ぐるぐると、さみしさの神様の頭の中で、恋心の神様の言葉が回っています。
とても信じられないと、そのまっすぐで黒目がちな瞳が語っています。
だから、恋心の神様は、さみしさの神様の手を引いて、一人の女の子のところに来ました。
その娘は、恋心の神様が恋心を植え付けた娘です。
彼女は、まだ着られているセーラー服に身を包み、そわそわと胸元のリボンをいじっています。
そして、廊下の角から顔を覗かせました。
その視線の先には、彼女の先輩にあたる男の子が、友だちと話していました。
時おり、声をあげて笑う先輩を、休み時間いっぱいまで見て、それから、彼女は教室に戻ります。
その顔は、とても幸せそうで、満足げでした。
〝はぁ、幸せ。先輩、やっぱりかっこいいなぁ〟
彼女から、そんな声がこぼれました。
小さくもれたその声を、彼女の友だちが耳ざとく聞きつけます。
〝あら。じゃ、告白したら〟
そう言われて、彼女は笑って首を横に振りました。
〝え、いいよ。今はもう、先輩の顔を見られるだけで、幸せだもん〟
彼女は、たしかにさみしくなんてないんでしょう。
さみしさの神様も、彼女のさみしさを拾った覚えがありました。
先輩を好きになって、さみしくなってしまった彼女は、しばらく思い悩んでいましたが、ものわすれの神様がそれを取ってしまったら、けろりと元気になったのです。
その時に、恋心もいっしょに取られていましたが、恋心の神様が大切に拾い、彼女の心が落ちついたころに、戻してあげたのです。
さみしさをなくして、心の落ちついた彼女は、もう泣くことも苦しむこともありません。
けれど、このまま告白することもなく、ずっと遠くから先輩を見ているだけで心が満たされるのでしょう。
恋人のぬくもりも知らないまま。
恋人にささやかれる愛の言葉の甘さも知らないまま。
恋人に呼ばれる時だけ、自分の名前が特別に輝くような喜びも知らないまま。
そのまま、この恋も終わり、わすれてしまうのでしょう。
恋心の神様は、とてもこまった顔をしています。
さみしさの神様は、ぼうぜんとしてしまいました。
とくとく、と、さみしさの神様は、切ない自分の鼓動を握りしめます。
ぽたり。
さみしさの神様のほほを、大きなしずくがすべり落ちました。
ぽたり、ぽたり。
しょっぱいそのしずくは、とまることなく、落ち続けます。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
さみしさの神様の黒目がちな瞳からこぼれるそのしずくは、その重さで地面に落ちていくのです。
さみしさの神様は、ひとつのさみしさを、かごから取り出しました。
とくとく、と、それは切なく鼓動をうっています。
はやく、はやく。
あいたい、あいたい。
さみしい、さみしい。
秘められた感情のままに、それは淡く光をこぼしているのです。
さみしさの神様は、そのさみしさを、恋する彼女にそっと植え付けました。
今日も先輩のことを物陰から見て、満足した足取りで帰ろうとしていた彼女は、おもむろに足を止めました。
とくとく、と、心の奥から感情がわいてきます。
さみしい、さみしい。
あいたい、あいたい。
はやく、はやく。
急かしてくる感情に、彼女は胸を握りしめました。
彼女の心では、さみしさが、切なく淡い光をこぼしています。
その弱く小さな光は、つぅ、と彼女のほほをしずくになって伝います。
彼女の瞳から落ちたしずくは、その重みで地面に落ちてしまいました。
けれど、心のさみしさがこぼした光のしずくは、恋心に届きます。
ぴょこん、と恋心から、ふたばが顔を出しました。
ぽたり、とさみしさはまたしずくをこぼします。
そのしずくを受けて、恋心のふたばがゆれて、芽がのびていきます。
いつしか、さみしさの光はきらきらと輝く望みとなって、恋心を照らしています。
〝逢いたい!〟
彼女は、かけだしました。
愛おしい先輩の下へ、はやく、はやく、と全速力で走っていきます。
そんな恋心が育っていくのを見て、恋心の神様は幸せでほほをゆるませています。
さみしさの神様は、さみしさのつまったかごを、抱え直します。
そして、空の上から、恋心を抱く人たちに、淡く光るさみしさを降らせると、人々は次々に好きな人のところへと走っていきました。
今まで育たなかった恋が、あふれんばかりに実っていきます。
恋心の神様は、さみしさの神様に言いました。
〝貴女って、出逢いの神様だったのね〟
それから、さみしさの神様を抱きしめました。
恋心の神様の豊かな胸に顔を押さえつけられて、さみしさの神様はとても苦しそうですけれど、とても誇らしげに笑っていたのでした。
めでたし、めでたし
I miss youとは、『あなたがいなくて、さみしい』という意味です。
missという単語は、単純にさみしい、ではなく、大切な人がそばにいなくてさみしい、というニュアンスがあるのです。
このお話は、そんなmissという単語から思い付いたものです。
さみしいとか、悲しいとかは、ただ辛い感情だと思われていますが、その感情があるからこそ、恋心や喜びが輝くのだと思います。
だから、どうか、あなたも、あなたのさみしさを愛してあげてほしいです。それは、きっと愛しい人に逢えるという希望の裏返しなのですから。捨てないでいてほしいです。
その想い全てで、あなたなのですから。