「で、こりゃ負け戦だと思ってな、俺あさっさと逃げ出した。死んじまったら元も子もねえ。身重のおめえを残してよ、俺だけ先にくたばっちまや、あの世で夢見が悪いってな。そうなりゃおめえも権造の爺いに手えついて、苦いもんでもしゃぶらねえとよ、この世で生きてもいかれねえだろうしなあ」
「いやだよ、あんた、やめとくれよ」
天文五年(1536年)、ここは長門の片田舎。時あたかも戦国の緊張が入道雲のように湧き上がり、日本全土に暗い影を落とし始めたころであった。周防長門の国主であった大内義隆は、海峡を越えて西海道に攻め入って、幾多の勝利と敗北を経験しながら、数年をかけて北九州一帯を平定した。戦の主力は長槍を持った農民兵である。この家の主も、田畑を措いて戦に駆り出された不幸な男の一人であった。だがこの男はまだ運がよいほうだ。こうして生き残り、妻とともに再び囲炉裏の炎を囲めたのだから。そしてもうひとつ、男には幸運があった。
「藪に隠れたが、敵が多くて出られねえ。仕方ねえから這いつくばってずっとそのまま待ったのさ。しばらくしたら物音が減ってよ、そーっと首を上げてみたら、誰もいなくなっていた。みんなどっかにいっちまったのさ。でふと見たら、そこら中に死体、死体、死体さ。しめたもんだ。いつ誰が来ないともわからねえ。俺あそーっと槍の先を持ってね、こう、死人の耳をよ、ざっくり、ざっくり斬り始めた。刃のとこをここに当てて」男は指でこめかみを叩いた。「片手で横から押さえてな、柄のとこを足で踏み込むんだ。すとん。あっというまに二十個よ。大した手柄さ。死人の巾着を頂戴して、ぱんぱんに詰めて逃げ出した。そしたら龍造寺の軍が助けにきてな、気づいてみれば勝ち戦さ。で、こうなったんだ」
男は懐に手を入れて、床板の上に銀の粒をばらまいた。妻は目を見張った。こんな大金、生まれてこのかたお目にかかったことがない。
「喜べ。これで俺たちもちょっとはいい暮らしができる。安心してやや子を産めよ」
「あんた、あんた……本当にあんたは日本一の男だよ。あたい男の子を産むよ。名前、考えとくれよ」
「そうだな、芳一、芳一なんてのはどうだ」
「いい名前だね、それにしよう。きっと丈夫な子になるよ。あたい幸せだよ、あんた」
――産まれた子は盲目であった。親が死ぬと、芳一はたちまち食えなくなった。路頭に迷った幼い盲者を、ある寺の和尚が拾い上げた。
そしてこの子が、のちに、あの――
耳なし芳一となる。
(あくまでフィクションです) |