掌編――女神のキスと悪魔の尻尾
「だから、言ってるじゃねぇか。単なる――事故だって」
目の前でふくれっつらしてる女。ああ、間違い。目尻に光るのは涙だよな。泣いてる女は苦手だ。
騒ぎを聞きつけて足を止める野次馬たちの視線が痛い。俺が泣かしたんじゃないってば。……って、俺が泣かしたのか。くそう。
「何が事故よっ! 人の唇奪っておいて、事故でしたで済ますつもりっ?」
「だから事故だっての。――ああもう、なんて言や分かってくれんだよ」
日に焼けた褐色の肌。蜂蜜みたいに黄色く染めた髪。短いレザーパンツにタンクトップ引っ掛けただけのへそ出し女は真っ赤になって怒りだした。俺の襟首つかんで怒鳴りながら、ぼろぼろ涙をこぼしてる。
やべぇ、ドツボだ、こりゃ。
ええ年こいて泣かすなよ、兄ちゃん、と野次馬の声。
うるせぇ、泣かしたくて泣かしてんじゃねえんだよっ。
「……聞いてんのっ?!」
よそ見してるのばれてるや。飛んできた拳を受け止める。
「聞いてるよ。悪かったって謝ってるだろ?」
あの人とおんなじ格好してるから間違えたんだ、とか言ったら火に油だろうなあ。……と思いつつ、つい舌が滑った。
次の瞬間、平手が飛んできた。――やっぱり。
「あんたなんてサイッテー! ばか! スケベ!」
思いつく限りの罵詈雑言を並べ立ててくれる。野次馬は増える一方だ。視線が痛いよ、ほんと。
俺だっていつまでもここで見世物にされるのは嫌なんだってば。それにバイトの時間が……くそっ。
「あー、はいはい。俺がすべて悪いんです。だからちったぁ落ち着いてくれよ。落ち着いてくれないと――」
「な、なによっ、開き直るつもり? ほんと、男って馬鹿ばっかり! あんたなんか――」
続きは言わせなかった。
野次馬からどよめきが上がるが、無視。
力の限り殴ってくるねーちゃんの拳も、無視。
沸き上がってくる俺の下心も、ちょいと無視。
彼女の拳から力が抜けるまで、中腰を続けた。
結局、バイトには遅れた。
「遅かったわねえ……あら、ケンカでもしたの? 唇切れてるわよ」
こっそり入ってきた俺を目ざとく見つけたのはエプロン姿の緑さんだ。
長い栗毛を三つ編みにしてるのも、後れ毛も、人の良さそうな笑顔も、面倒見のよいところも、いい匂いも、ジーンズにおさまってる豊かなヒップも、全部ひっくるめて理想の女性。
なんでアレをこの人と見間違えたんだろう。
「なんでもねぇよ」
「なんでもよくないわよ。接客業は顔が命なんだから。もう……今日は本店から応援が来るからちょうどいいわ。カウンターに入ってね。顔洗ってらっしゃい。傷の手当てしなきゃ」
「はいはい」
トイレ前の鏡に写してみたら、下唇から血が出ていた。アザもできてる。こりゃしばらくウェイターできそうにないなあ。客に引かれちまう。
くっそう。あの女、グーで殴りやがって。
キスひとつぐらいでぐだぐだ言ってんじゃねえっての。あ、キス二つか。
俺も妄想入ってたのは認めるけど、減るもんじゃねえし、騒ぎすぎだっつーの。ったく。
あれを緑さんと見間違えるなんて、俺もどうかしてる。妄想入りすぎだ。昨夜、昔の緑さんの写真を見せてもらったせいだよな。高校時代の緑さん、もー、ふるいつきたくなるほどかわいくてかわいくて……。おっと、ヨダレ。
「あのー、掃除終わりましたか?」
お客さんの声にあわてて振り返る。やべぇ、仕事中だった。ぼーっとトイレの入口塞いでちゃ怒られる。
「すみません、どうぞお使いくださ……あーっ! おまえ!」
思わず指差し確認しちまったぜ。
あの憎ったらしい女がいるじゃねえか。しかも……おい、この制服……。
「あのサイテー男! なんであんたがここにいるのよっ!」
「なんでおまえがここの制服着てんだよっ」
同時にわめく。
「あたしが聞いてんのよっ!」
すっごい剣幕。睨み殺そうとしないでくれよ、頼むから。
「俺はここの従業員だ!」
「ウソ!」
「おまえにウソついて俺に何か得なことがあんのかよ。おまえこそなんでそんなカッコしてんだよ!」
「あたしは店長の娘よ!」
なん……だって?
「うそ……緑さんの……娘?」
「そうよ、なんか文句ある?」
どうみたってこいつ、高校生以上、だよな。てことは……緑さんって実は……何歳なんだっ!
「ウソだーっ!」
俺の健全な人生設計がガラガラと崩れていった。
「あら、拓ちゃんとは初顔合わせだったかしら?」
初顔合わせはないだろ、相撲じゃないんだからさぁ。
「知らないっすよ……」
「ふーん。あたし、よくここ手伝ってるんだけどなぁー。あんた以外のバイト君はみーんな知ってるわよ? モグリじゃないの?」
「ゆかり、あんたって言わないの。言葉遣いの悪い」
バイト君はないだろ、バイト君は。
いや、そんなこたぁ、どーでもいいのだ。この際。
緑さんに子供がいたなんてなぁ。それも俺と二つしか違わない娘が。
手当してあげてね、と言い残して緑さんが店に戻っていく。ちぇーっ、緑さんにしてもらいたかったのに。全部こいつのせいだ。
「俺は午前中しか入らないから知らないだけだろ」
「当たり前よ。午前中は学校だもの。来れるわけないじゃない。今日は振替休日で人が足りないってママがいうから来ただけだし。それにしても……あんた、大学生? なんで午前中にバイトなんかしてんのよ。大学の講義あるんじゃないの? 留年なんかしたら親が泣くわよ」
「うーるせぇ。ほっとけよ」
午前中しか店にいない緑さんに会いたいがため、だなんてこいつにだけは絶対に言いたくねえ。
「あ、そう。じゃ、昼間のこと、ぜーんぶママに話してもいい?」
勝ち誇った口調。小生意気な笑い顔。くそ、なんでこいつに脅かされなきゃなんねぇんだよっ。
「あることないこと言いまくるけど。ま、間違いなくクビでしょうけどねぇ。ご両親にも報告させてもらおうかなぁ」
なんか嫌な予感。
「……何が言いたいんだよ」
「あら、あたしは正当な対価を請求してるだけよ。……ファーストキスの代金は高いわよ。覚悟してね」
悪魔かおまえは。笑顔の後ろに悪魔の尻尾が見えるぞ。
「一回目も二回目も同じだろ」
「……反対側にもアザ作って欲しいの?」
グーの拳見せつけてきやがる。
へいへい。くっそ、首根っこつかまれた猫状態だ。身動きも取れやしない。
「いろいろしっかり働いてもらうわよ。た・く・ちゃん」
こいつ、絶対悪魔だ。
幸福の女神の接吻を受ける代わりに悪魔の尻尾をつかんじまったってわけか。
天を仰いでジーザスと呟きたくなった。