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自宅警備・オブ・ザ・デッド

作者:IOTA

 ある日、目が覚めたら、どうやら世界は終わっているようだった。
 カーテンをそっと開けて、滅亡後の世界を窺う。
 通勤、通学、買い物。飽きもせず朝の雑踏を繰り返していた社会の歯車どもが、今やアアァとかウウゥとかオオォとか母音をうめきながら土色の顔をぐりんぐりんと振り回してさまよっている。
 ぼくの密かな眼福だった通学する女学生の健康的なおみあしも、紫色の皮膚がべろんべろんにめくれて、筋肉の躍動をじかに見せてくれる。ずりネタがずりずりになっていたわけだ。もうフライドチキンは食べられそうにない。
 何が起きたのだろうか。
 そういえば最近、テレビやネットで致死性ウィルスとか隔離地域とか、物々しい単語が散見された気がするけれど、ぼくは努めて俗世には関わらないようにしていたので、よくわからない。
 取り急ぎ、部屋のなかで武器になりそうなものを探した。
 マルイ工廠のシングルアクション自動拳銃、オートマグが見つかった。スライド固定の完全クローズドボルト構造。六ミリ口径、コンマ二グラムのプラスチック製飛翔体を推定初速五十メートル毎秒で撃ちだす、十歳未満には使用が禁じられた代物だ。無論、ゴミである。
 あとはファミ通を丸めた紙の棒ぐらいだ。こんなものに頼るなら、ジャンプの角のほうが攻撃力を望めるだろう。あれは下手な武器よりも破壊力がある。高校のころ、クズどもにそれをくらって病院送りになったぼくが証言するのだから間違いない……くそ。嫌なこと思いだした。
 こんな世界になって、きっとああいう連中はみんな死んでいる。あの手合いに共通した有り余る社交性を駆使して社畜のなかでも最底辺のおこぼれにあずかるやつらは、みんな仲よくゾンビ化だ。ざまあみさらせ。放浪しているのを見かけたらオートマグで撃って、ジャンプの角で撲殺してやる。
 親父とお袋はどうなったのだろうか……。
 ぼくの部屋が無事ということは、きっとゾンビどもはこの家には侵入してきていないのだろう。その上で人の気配がしないということは、やつらと同じく外でさまよっているか、あるいはどこかに避難したのか。
 できれば、後者であって欲しい。避難したということはつまり、ぼくは見捨てられたということになるのだけれど、べつにかまわない。説得されても、ぼくはこの部屋からでられなかっただろうし、無理やり引きずりだされても、レヴェル60ぐらいの社交性が要求される避難所生活は、ぼくには耐えられなかっただろうから。
 ただ、最後にお袋の豚のしょうが焼きが食べたかったなあ……。
 不意に目頭が熱くなった。失って初めてわかる大切なもの。そんなのは実際ただの現金なやつの文言で、それを恥ずかしげもなくたれながす世間がぼくは腹立たしかったから、ぼくはいま自分に腹が立つ。
 彼らの願いをさんざん無碍にして、彼らの説得をすべて無視してきたぼくには涙を流す資格さえないはずなのに。ましてや、では平穏だったころに時間を巻き戻したら彼らの言葉に耳をかすのかと問われたら、そんなことはなく、やっぱりぼくはぬくぬくとひきニートを続けるであろう確信があるのに。虫のいい話だ。無視だけに。くそおもしろくもない。
 ふと、一階から物音が聞こえた。
 ぞくんと総毛立つ。
 息を殺して、耳を澄ませた。
 こうなる以前からぼくにとっての世界はこの家のなかだけだった。家のことなら部屋にいても手にとるようにわかる。それに外界はずいぶん静かになった。思わず陶然としてしまうほどの静けさのみが降り落ちる死んだ世界では、どんな些末な物音でも聞きもらさず、聞き分けられる。
 勝手口から這入ったのだろう。フローリングの床が律動的に軋んでいる。
 ゾンビじゃない。やつらは外でおとなしくうろついている。
 誰かが椅子にぶつかった。誰かがそれをたしなめた。誰かがそれを仲裁した。
 しゃべっている。人だ。
 まだゾンビ化していない人間。それが三人。
 ぼくはそろりそろりと手を伸ばしてパソコンの電源をいれた。かつては気にもならなかったファンの回転音に神経を竦ませながら、クリック音でさえも恐れてあえてマウスを使わずにタッチパッドでソフトを起ちあげる。
 家中にしかけた隠しカメラがぼくの目となり、同様の集音マイクが耳となる。四角く切り取られた無数の広角画像に食い入り、ヘッドフォンからこぼれるせせらぎを思わせる静かなノイズに集中する。壁に耳あり障子に目あり。さしずめぼくはオケラだ。複眼と触覚をもち地中にこもる醜い蟲だ。
 自分でもちょっと病的だと思うけれど、自宅警備員も職歴が十年を数えると、これぐらいはやるのだ。これのおかげで来客や電話が鳴るたびにびくびくと心煩わせるストレスから、ぼくは解放された。でも、カウンセラーとかお節介な親戚とか、危惧が的中して来客の用事がぼくにあった場合、どうにもならない。心の準備ぐらいはできるから不意打ちをくらわないですむけれど、それだけだ。
 嫌な予感がする。きっと今回もそうだ。
 ぎしりぎしりと軋みは近づく。
 ひそひそとした囁きが耳朶を打つ。
「よお、アイちゃん。二階に人影が見えたって本当かよ」
「この家、どうみても無人みたいだけど」
「本当ですよ。カーテンが揺れて、その奥に確かに誰かいたの。普通の人間に見えた」
 くそが。やはり目的はぼくか。心臓が口からこぼれそうだった。
 普通だったら喜ぶべきところなのだろう。他の生存者と出会えたと。でも期待に副えずにもうしわけないが、あいにくこちとら普通の人間じゃない。もう十年、家族以外との接触をいっさい絶っているのだ。家族とさえもまともに接していたとは言いがたい。
 どうしよう。
 合流して一緒に行動するのがベターなのだろう。手を取りあってゾンビ・アポカリプスの世界を生き抜くのだ。偏った食生活に悪態を吐いて、バンを装甲車に改造して、狂気の略奪者や軍隊と戦って、バリーがこいつを使えとロケットランチャーを投下したりして、滅菌作戦の核弾頭からヘリで脱出して、きのこ雲を背景に口づけをかわしたりするという――そんなレッツ・サバイブは、とうぜん無理だ。絶対に無理だ。
 ぼくなんか足手まといにしかならない。映画とかでおろおろして一番最初に喰われて死ぬ男、それはぼくに他らない。それに、困ったことに、ぼくはこの家をでてまで生き延びたいとは、どういうわけだかちっとも思わないのだ。
 どうしよう。
 丁重にお引き取り願うか。だがなんて言えばいい。嘘を吐こうか。ぼくは感染していて長くないのでかまわずに行ってください、とか。あるいは高圧的に、貴様らおれの棲家から失せやがれ、とか。駄目だ。部屋のドアに貼った『勝手にはいったらコロス』という貼り紙がすべてを裏切り、物語る。しかも『コロスッッ!!』。ちっちゃいツと感嘆符を二つもつけてしまった。あああぁ、ちょっとしたお茶目だったんだ。若気の至りだ。許してくれ。
 考えがまとまらない。着実に一歩いっぽ迫る階段の軋み。彼らは慎重をきして、勇気を奮いたたせて、恐怖がまとわりつく足を一縷の希望でひっぱっているのだろうけれど、ぼくは彼ら以上に怯えている。ぼくにとって彼らの緩慢な足運びは、執行をじらす処刑人の跫音に近しい。
 ぼくに残されたすべは、吐き気を抑えるために口許を覆うのみ。あとは階段をあがってくる三人をモニターで確認するぐらいだった。
 一人は青いオーバーオール。あとの二人はラフな服装をしていた。機械工と大学生といったところか。大学生の一人は女、いや、セミロングの髪のなかで恐怖をこらえる面差しにはまだあどけなさが多く残る。少女といったほうが適切であろう。確かアイと呼ばれていた。もう一人は眼鏡の青年だった。短髪で証明写真の見本みたいな真面目そうな顔立ちをしている。
 すこしだけ吐き気がやわらぐ。二人とも歳下のようだし、一緒にサバイブは無理でも、ドアを開けて話をするぐらいならぼくにだってできるかもしれない。
 でも機械工はどうやらぼくと歳が近そうで――
 その顔をまじまじと見つめた途端、黄水がこみあげてきて、咽を灼いた。
 くそが。
 くそがくそがくそがくそが。
 なんだっていうんだ。
 もうなんなんだよ。なんなんだよもう、やだよもう神さま。ふざけるな。ふざけるなよ。これは冗談か、幻覚か、地獄か。くそったれが。くそったれがくそったれがくそったれが。死ねよもう。神もこいつもみんな死んでしまえよ。
 たまらず、ぼくは暴れていた。本棚を引き倒して、本を投げ散らかし、ゴミ箱を蹴とばして――。
 気配を殺すことも忘れて、外では生血を求めるやつらが跋扈していることも忘れて。冗談みたいな不運に、奇蹟みたいな最悪に、暴れずにはいられなかった。神を罵らずにはいられなかった。
 浅野だ。機械工の男は浅野だった。
 やつこそが、ぼくに自腹でジャンプを買いに行かせて、ジャンプっつったらヤンジャンだろうがとかほざきやがって、そのジャンプでぼくの頭を殴った男。何度も何度も、何度も何度もなんどもナンドモッ、理由もなくぼくを虐げ続けた連中の筆頭。ぼくが世界を社会の連中と異にするまで飽きもせずぼくを害し続けた代表格。
 十年経っても、忘れるもノカ。忘れたくても、そのきつねみたいな狡賢そうなツラは、ぼくの脳裡と目ダマに焼きついて、いつまでも消えてくれないンダヨ。
 彼らは泡を食って階段を駆けあがり、ドア越しに精一杯押し殺した声をかけてきた。
「おいっ。あんた馬鹿か。静かにしろよ。どうしたってんだよ」
「落ち着いてください。何かあったんですか」
「大丈夫。私たちは人間です。ドアを開けて」
 ドアノブががちゃがちゃと動く。しかし、無駄だ。ぼくの部屋は幾重にもロックされている。
 ぼくが望まないかぎり何人たりともこの不可侵領域を侵すことはできない。ここはぼくだけの世界、ぼくだけの聖域だ。それこそ自滅覚悟でゾンビどもを引き寄せる大音をたてて打ち壊そうとでもしないかぎり、ぜったいに外から開けることはできないのだ。
 そう、ゼッタイにだ。絶対にこの扉をあけてヤルものカ。
 そうだ。もういっそのこと窓を開け放ち怒鳴ってやろうか。ゾンビのみなさーん、ここに新鮮な肉がありますよー。特に青いツナギのやつなんて最高に活きがいいですよー。逃げ場のない彼らはいちころだろう。
 しかし、ちくしょう。あとの二人が気がかりだ。なんの罪もない彼らまで手にかけるのはさすがに気が引ける。浅野が一人で現れればよかったのに。そうすればぼくは一瞬だって躊躇しなかっただろう。やつらのご同輩となった浅野をエアガンで撃って、ジャンプの角で滅多打ちにできたのに。ぼくがかつてそうされたように。
 筒抜けだと知らずに、彼らはひそひそと作戦会議だ。
 天岩戸の神話を思いだす。だが天照大神よりもぼくは頑固である自信があった。何があろうとも開けるつもりはない。なにせ、世界が終わっても開けなかったのだからな。この扉をあけるとき、それはぼくが終わるときだ。
「誰かいるのは間違いないみたいですね」
「でも、どうしたんだろう? なんで開けてくれないのかしら」
「這入ったら殺すって……。おいおい、ようやく見つけた生存者がまさかの引きこもりとか、勘弁しろよ」
 浅野、お前だったら這入らずとも殺してやりたいけどな。
 ぼくの呪詛が届いたのか。浅野はびくりと肩を揺らし、周囲に視線を巡らせた。しゃくれたおとがいをつまみ、似合わない思案顔をつくる。
 くそ。まずい。馬鹿なりにも思いあたるふしがあるらしい。
「さっき居間で見たハガキ……。この家の名字って田中だったよな」
「はい。そうでしたね。それがどうしたんですか?」
「田中で引きこもりって、まさか――」
 言葉を区切り、浅野はドアに顔を近づけた。
「お前、三組の田中か?」
 ぼくは答えない。
 どん、とドアが鳴った。浅野が蹴ったのだ。
 ぼくはびくりと後ずさってゲームのパッケージを踏んでしまった。
 まるで肯定したみたいなパキリという音に、浅野の顔がにんまりと歪む。
「やっぱり田中だろ。お前相変わらずビビリな。俺だよ、一組の浅野。憶えてるだろ。なにお前、まだ引きこもってたのかよ。つーかこんな事態になってもこもるとか、その根性マジ尊敬するわ」
 黙れ。
「お知り合いなんですか?」
「そう、高校の同級生。一年のときだけだったけどね。こいつ全然学校こねえんだもん」
 誰のッ、誰のせいだと思っテいるノダ。
「田中さんっていうんですか? 田中さん、とりあえずドアを開けてください」
「お願いします。四人で話し合いましょう」
「田中よぉ。お前たいがいにしろよ。状況わかってんの? 助け合わねえと駄目だろうが」
 途端に苛立たしげになる浅野の声。見られているとも知らずに、大儀そうにかぶりを振って、ドアを爪先で蹴ってやがる。もっとも、この男だったら誰の目があっても頓着しないだろう。若者二人も気まずげだ。
 どん、どん、どん、どん。くそ。息が詰まる。胸が苦しい。ぼくは本当にビビリだ。十年も経ったというのに、そこに浅野がいるだけで根も息もたてることができない。ドア越しだというのに、粗雑なノック音のたびに心臓が跳ねる。
 どうにかなってしまいそうだった。ほんとうに、どうしてこんなことになったのだろう。ぼくをこの部屋に追いこんだ張本人が、その部屋の前で待ち構えているのだ。悪夢以外のなにものでもない。
 何を思い至ったのか、ぴたりと音がとまった。
「お前、まさか部屋に食糧とか隠してるんじゃねえだろうな?」
 ぼそりと言って、途端、狐みたいな軽薄な貌が蛇みたいな冷酷さをおびた。
 食糧? ふざけるな。ぼくだって何も知らないのだ。備蓄なんてしているわけがない。三十路手前にして魔法使いまであと一歩という練度に達してはいるが、未来予知なんて能力を授かった憶えはない。
 しかし、勝手に勘違いした浅野の恫喝はとまらない。
「たーなーかー。てめえ、自分一人で生き延びようってはらかよ、おいッ!」
「浅野さん、抑えて。ちょっと声が大きいですよ」
「うるせえよ……」
 止めにはいった眼鏡の青年にもその醜い敵意をまき散らし、浅野は舌打ちをして階段を降りていった。
 冷蔵庫か何かを漁るつもりなのだろうと思っていたら、案の定だった。頻りにろくなもんがねえと悪態を吐きながら我が物顔で家探しを続行する。ろくでもないのは貴様だし、この家にあるものは塵一つとっても存在価値で貴様よりも勝っている。
「田中さん、なんかすいません。自分たちが来ちゃったせいで迷惑かけたみたいで……」
「ユウスケが謝ることないって……。あの人がちょっとおかしいのよ。会ったばかりなのに偉そうだし」
「アイ。これから協力して生きていかなくちゃならないんだから、そんな言いかたはよくない」
 眼鏡の彼はユウスケというらしい。若いのになかなか見上げた青年だった。
 ただ、ちょっとおかしいというアイの言葉にもう少し耳を傾けるべきだろう。人を見る目は養ったほうがいいと思う。対人恐怖症であるひきニートのぼくが何を言ったところで余計なお世話にさえなりえないだろうが。
 しかし、浅野と行動をともにしているのがマズイのは本当だ。会って日が浅いらしいが、生存者グループの最年長がよりにもよってあいつとは、二人が憐れだ。約束しよう。あの男は懸命に生きようとする彼らに必ず破滅をもたらす。
 食糧が底をついたら率先してモヒカン刈りにし、ヒャッハーと人狩りに耽る世紀末的人格破綻者、それが浅野だ。この若い二人を食べるのはゾンビが先か、浅野が先か。ちっとも大袈裟ではなく、ぼくは心配だった。
 それだけでもどうにか伝えられないだろうか。一筆したためてドアの下から差しだすとか。でも、もし浅野にばれたら、前後不覚に怒り狂ったあの男はそれこそドアを打ち壊しかねない。人を殴り倒しておいて、わけわかんなくなった、と幼児のような言い訳を悪びれもせずにのたまう手合いなのだ。十年経ってもあの様子では、改善は望めないだろう。
 ぼくの憂慮など露知らず、アイはうるんだ眸でユウスケを見上げ、ユウスケはその肩をそっと抱いた。
「そうだよね……。ごめんね、ユウスケ」
「いや、俺のほうこそ、ごめん。大丈夫だよ。きっとなんとかなるって」
 おそらくこの二人は付き合っているのだろう。
 カップルやアベックといった雌雄のペアを例外なく不純としてきた聖女のような純潔さのぼくとしては、部屋の前で親しげにされるのもいい加減拷問だけれど、しかしそれは単純に嫉妬でしかなくて、ますますこの二人が可哀相になってきた。
「田中さん。もう開けてくれとは言いません。ですが今晩、一晩だけ泊めさせてください。あと、厚かましいとは思いますが、下の階の食べ物を少しだけわけてください」
 勝手にやってくれ。どうせもう浅野が食い散らかしている。
 去り際に、アイは控えめにノックして、そっと告げた。
「わたしたち二階の部屋を使わせてもらいますので、気が変わったら、いつでも声をかけてくださいね」
 なんだそれは。なんかエロいぞ。
 なんだそれ、なんかエロいぞ、エロいぞアイ(字余り)。
 久しく耳朶をくすぐったリアルな乙女の軽やかな声音に、はからずも一句つくってしまった。
 いいかい、アイ。よく聞いておくれ。この十年、年頃の女の接近を半径十メートル以内に許したことのない身としては、何気ない言葉一つでいかんともしがたい妄想がふくらんでしまうのだよ。おお、なんということだ。これを見よ、アイ。ふくらむのは妄想だけではないではないか。世界が滅んでもなお我が息子は生命力にあふれているではないか。
 ……悪ふざけがすぎた。ぼくは愚息と一緒にこうべをたれる。
 日が暮れてきた。ぼくは外を窺う。
 ゾンビどもは相変わらず母音の発声練習に余念がない。ただ生存者の匂いに引き寄せられるのか、その数は増していた。理性と一緒に帰るべき家も見うしなったやつらは、まるでそれを奪おうとするかのように人を喰らう。すこし遠くに電柱にぶつかって大破した乗用車が見えた。人間として事故死した彼らの肉は、喰うに値するのだろう。割れたガラスに上半身を突っこんでうごめく姿は腐肉にたかる蛆そのものだった。後部座席から転がり落ちた、もうほとんど肉の残っていない頭蓋骨は、あきらかに子供のそれだった。
 夜の帳がおりた。ぼくはモニターを覗く。
 缶詰をむさぼる浅野。俺は身体がでかいから、昼にやつらを三匹も殺したから、この家の階段をのぼるときも先頭だったから、滑車のようにからからと軽薄な口をまわして、食糧をほとんど独占してしまった。けっして責めようとはせず、苦笑いをうかべながら残りわずかな食糧を懸命に探す二人を尻目に、インスタント麺をかじる。あまつさえ、その戸棚はさっき探したからもうねえよとか、アドバイスじみたまねをする。自分だけ腹を満たしながらもその目はぎらぎらと監視しているようで、案の定、二人がようやく見つけたベーコンでさえ、お、うまそう、おれにもわけてよ、と厚顔はなはだしく迫る。
 ゾンビと同じだ。あまりに醜い。見ているだけで胸がむかむかする。
 しかし、他者に頓着しないその図太さこそが強さなのだろう。この世界で生き残るためには、ゾンビに劣らない貪欲さが不可欠なのだろう。
 そしてそれは、世界が終わる前からさして変わらない。
 富や名声、誰もが欲してやまないそれは、無尽蔵というわけではない。椅子の数は限られているのだ。誰もが座席を欲している。得たものは、手ばなすまいと長々と横たえながら、さらに得ようと両手を伸ばす。得なかったものは蹴落とすタイミングを虎視眈々と狙い、血走ったまなこでライバルを威嚇する。
 弱肉強食。それが世界のことわりなのだ。わたしたちは人間ですとどんなに高潔ぶっても、生物である以上、限りある資源を糧に生きていかなければならない以上、揺り籠から墓場まで、その条理からは逃れられない。
 他者への思いやり。最初は信じていた。でも信じて疑わない無垢なぼくに、現実の世界は醜くて、厳しくて……。そんなものは、本当は群れるに向かない生き物である人間を集団生活という檻に押しこめるための幻想だと思いなしてきた。ピラミッドの上の座席を占める連中が馬鹿な底辺を量産するためにまきちらす、腹の足しにもならない撒き餌なのだと思い定めてきた。
 でも――それでもぼくは、アイとユウスケから目がはなせなかった。
 居間にあった粗末なお茶請け。カビの生えた砂糖醤油のせんべいがたったの三枚。それを見つけた二人は、けれども食べようとはせず、何やら悩ましげに目配せをしあって、
 ――やめてくれ。頼むからそんなことしないでくれ。
 名案に至ったように深く頷きあって、
 ――どうか二人でわけあってくれ。ぼくをまきこまないでくれ。
 とんとんとんとんと二階へあがり、
 ――お願いだ。
 祈りもむなしく、ぼくの部屋の前にせんべいがそっとおかれた。
「田中さん、すいません。貴重な食べ物をほとんど食べてしまいました。もうそれしか残っていません。……本当にごめんなさい」
 馬鹿だ。救いようがない。自分たちのぶんではなく、ぼくの食糧を確保しようと必死に探していたというのか。犯人である浅野の名前さえださないというのか。
 聖人気どりの大馬鹿の謝罪を聞き、心底申し訳なさそうなおひとよしの表情を見つめ、ぼくはたまらくなって顔を覆った。
 豚のしょうが焼き。あれはいつだったか。休日の夕飯。ぼくが好物だと告げたら、父と母は自分の皿から一枚づつぼくの皿に移したのだ。ぼくが遠慮すると、父は交換だと言って、プチトマトをぼくの皿からとった。ぼくがプチトマトが苦手だと知っていたのだ。頬をふくらませた母は、自分のプチトマトをぼくの皿に移した。
 ささやかな夕食、ぼくは得るばかりで何も失わなかった。結局すべてを与えられた。
 群れるに適さないはずの人間は、群れなければ生きていけないほど脆弱で、孤高を気どるぼくは、結局親に依存しきっていた。
 市役所勤めでぼくに対する口さがない嫌味もたくさんあっただろうにそれをおくびにもださず、なんだかんだと言いながらも心配してくれる父親に。日に日に老けこんでいつしか口を利かなくなりながらも、月に一回はぼくの好きな豚のしょうが焼きを部屋の前においてくれた母親に。
 くそ。だから人とは関わりたくなかったのだ。
 こんな世界になってなお、ぼくのようなひきニートを気遣ってくれる若い二人に、ぼくはできるかぎりのことをしてあげたくなった。
 もっとも、自宅専守防衛を旨とするぼくにできることなどたかが知れている。
 じっと監視して、危険を報せてあげることぐらいだ。
 外のやつらから。そして浅野から。
 やはり客人は、たったの一晩も平穏無事には過ごせなかった。
 事件は夜に起こった。そしてぼくにとっては灼然のことだったけれど、原因はゾンビではない。浅野だった。
 夜半、お手洗いに起きたアイ。トイレからでた彼女は、浅野と鉢合わせたのだ。
「どうかしたんですか?」
「いやあ、偶然だね。おれも小便」
 もちろん、でたらめだ。
 すべてを俯瞰していたぼくは、アイがトイレに這入った途端、浅野がドアにはりついて放尿の音を聞き、股間をまさぐっているところまで、しっかりと目撃していた。そもそも就寝前の遣り取りからしておかしかったのだ。二階で寝ると告げたアイとユウスケ。まとまっていたほうがいいと言う二人の意見を、浅野は頑として聞き入れなかった。見張りが必要だとかもっともらしいことを言って階段近くの居間に陣取ったのだ。
 その思惑はわかり切っていた。浅野の劣情が自慰だけで収まるわけがないことは知り尽くしていた。それでも部屋をでれないぼくは、指を噛んで黙って見ていることしかできなかった。
「あっちいよね。なかなか寝つけなくてさ」
 白々しいことを言いながらツナギのジッパーをへそまでおろす浅野。不自然かつ不愉快きわまりない。誘っているつもりなのか。まるで何かのネタのようだったが、笑い飛ばすには状況が悪すぎる。
「そうですね。でもエアコンをつけて室外機を回すわけにもいかないし。我慢するしかないですよね」
 身の危険を感じないわけがないだろうに、アイは努めて笑顔で応じて立ち去ろうとする。だがその気丈さをぎくしゃくとした足取りが裏切っていた。照明代わりに手にした蝋燭の灯りが彼女の心を映したかのように縮み、震えている。
「あ。そっか。さすが大学生、あたまいいねえ。いや、実はさっきつけようとしたんだけどさ、もう電気通ってないみたいなんだよね」
 追いすがる浅野。会話を継続させることでアイの退避を阻む。射影に翳る貌の目と口許だけが赤くうかびあがっていた。涎をたらしそうなまでにゆるむ口角は明らかに会話を愉しむそれではなくて、三日月みたいに歪む下卑た視線は彼女の顔にはなく、腰や胸をなぶるように這っている。
「アイちゃんさぁ、めちゃくちゃ可愛いよね。彼氏いるの?」
「はあ? ユウスケがそうですけど。知らなかったんですか?」
「あの眼鏡が? 嘘だろ」
「本当ですよ。ユウスケは彼氏です」
「またまたぁ。不釣り合いだって」
「なんなんですかっ? 勝手なこと言わないで」
 絡みつくようなねつい声音と無礼な発言に、たまらずアイは声を荒らげた。
 いよいよ一方的に会話を打ち切って階段をのぼろうとするが、浅野のちっぽけな辛抱の瓦解は突然だった。蝋燭が掻き消え、ことりと落ちる。背後からアイの口をおさえて捕まえると、居間に引きずりこんだのだ。
 全身がぎゅっと強張った。くそ。どうすればいい。ユウスケを起こすか。ドアをめいっぱい叩けば彼は起きるだろう。驚かせてやれば浅野の行為も止まるはずだ。
 だが、昼間は多少暴れても気づかなかった外のやつらでも、いまや格段にその数を増している。通りに面したぼくの部屋、直線距離で考えれば、ユウスケのいる部屋よりやつらのほうが近いほどだ。やつらに気づかれずにユウスケだけを起こすなんて器用なまねは不可能だ。
 うかしかけた尻が無力さに縫いつけられる。目だけがドアと窓とモニターの狭間で滑る。
 アイは声にならないうめきをはっしてもがいていた。小さな躯に覆いかぶさった浅野はゾンビ顔負けの肉欲を剥きだしにした形相を耳元に近づけ、呪いの言葉を吐きだした。
「おとなしくしろよ。ゾンビどもに気づかれるぞ。そうしたらお前の彼氏も喰われるんだぞ」
 はっと見開かれるアイの目。浅野を睨みつけ、悔しさに潤む。駄目だ。ぼくは夢中で叫んだ。そいつの口車にのっちゃ駄目だ。だが心の中の声は誰にも届かない。浅野の呪詛は恋人を想う純粋なアイに覿面だった。抵抗の声は次第にか細くなり、すぐに途絶えてしまった。抵抗のうめきが苦悶のあえぎに変わる。駄目だ、駄目だ。
「アイちゃん、わかってくれよ。俺は男なんだよ。女がいれば、男はやりたくなるんだ。こればっかりはどうしようもねえんだよ。だからさ、俺は肉体労働、アイちゃんは夜の肉体労働。これで平等じゃん」
 浅野はアイの細い首筋に顔をうずめ、柔らかな髪と肌の匂いをいっぱいに嗅ぐ。獲物にしゃぶりつく餓狼そのものだ。アイは顔をそむけ、かたく目を瞑っていた。これから起こる悲劇を一晩の悪夢として忘れようとしているかのようだった。
「そうすればこれまでどおり、三人で協力して生きていけるんだ。あの眼鏡だって言ってるだろ。困ったときはお互い協力しようって。困ってるんだよ、協力しろよ」
 シャツをまさぐって侵入した汚らしい手が乱暴に乳房をもみしだく。狂ったようにのたうつ唾液まみれの唇と舌が羞恥にそまった頬に伝うしずくをねぶる。ツナギを脚まで下げて跳びおきた異物がアイの太ももを割る。淫虐を切り取る蝋燭の寂光は散りゆく純潔を惜しむかのように頻りに頼りなく揺らいでいた。
 嫌だ。こんなの嫌だよう。助けて、誰か助けて――。
 律動的な布擦れの音と湿った呼気の裏側で、咽も裂けよと振りしぼられる音にならないアイの悲鳴が、頭蓋のなかでこだましていた。
 おかしくなりそうだった。ずぐんずぐんと腹の底が脈打つ。額の奥がびりびりと痺れた。表情筋が憤怒の衝撃に打ち震えた。両親以外で初めてぼくに優しくしてくれた人たちを虐げる悪意は、自分が被害者であったとき以上に、ぼくを狂わせた。体中が痛む。とくに咽がひどく痛い。誰かが声にナラナイ怨嗟の音色ヲ口からほとばしラセテいた。
 今度こそぼくは、叫んでいた。アイの真っ蒼な悲鳴への応答は、真っ黒な咆哮となって、部屋を、家を、ぼくの世界のすべてを鳴動させた。
 浅野。お前は死ね。今ここで。
「ひゃいっ。た、田中……?」
 浅野は上半身を仰けのけぞらせ、そのまま金縛りにあったように硬直した。
 実際に金縛りにかかっているのだ。ぼくの呪縛がやつの神経を戦慄に塗り染めたのだ。
 自由になったアイは居間を飛びだして階段を駆けのぼってくる。
 そうだ。いいぞ。急いでくれ。そのままユウスケと合流するんだ。こんな呪われた家にいてはいけない。この家にぼくを留まらせた天命は、きっと君たちをあのくそ野郎の魔手から救うことだったんだ。あの下種をこの世から葬ることだったんだ。
 ぼくは竜巻みたいに暴れる。手あたり次第に、蹴り、倒し、投げた。ラックとテレビが洗濯機にぶちこまれたみたいに狭い部屋のなかを縦横無尽にぐるぐると回る。互いにぶつかって、派手な音をたてて四散した。
 いいぞ、もっとだ。娑婆中の亡者を引き寄せる勢いで、ぼくは暴れに暴れた。
 パソコンももう必要ない。それをうかせて、射出する。筐体が窓ガラスをぶち抜いてお隣さんのシャッターにめりこむ。モニターはゾンビの頭をかち割った。あんなもの最初から必要なかったんだ。電気も通っていなかったのだから。使えるわけがない。
 ゾンビども。くるがいい。この街で最強の自宅警備員だったぼくが名誉を返上して、特別に家に招いてやる。居間にはごちそうが転がっているぞ。二人のために通りを明け渡せ。亡者ふぜいが調子にのるなよ。ほんものの亡霊からの命令だ。
 本能に忠実で従順なやつらは、白熱しすぎたロックライブみたいに玄関先にうずたかく積もって、自重で扉をぶち破って文字通りなだれこんでくる。ちぎれかかった首のヘッドバンギング。胃袋からこぼれだす母音のアンサンブルが貪婪の宴に狂喜する。
 彼らがまず殺到するのは、果然、居間でえびぞりのままなすすべもない浅野。
「ひぃ。ひひぃぃぃ。た、たしゅけてくれ。あ、アイひゃん、ユウシュケぇ」
 殺到するゾンビの群れを認めた目がこぼれ落ちんばかりに剥かれ、泡をたらした口が魚みたいにぱくぱくとあえぐ。
「たーなーかーッッ。たしゅけろやおらあァぁァァ」
 残念。それはできない相談だ。
 数瞬後の最悪を想像しろ。貴様に与えられる苦しみは、その五倍はかたいぞ。
 貴様が他者にもたらしてきた苦痛に較べたら、安いものだ。
 ドキュメンタリーか何かで誰もが一度は見たことがあるであろう光景。獲物に群がる蟻。違いは、獲物も蟻も人のかたちをした人ならざるものというところにあった。全身を咬まれ、あらゆる突起を食い千切られて、それでも舌に喰らいついたお手柄な一体のおかげで断末魔をはっすることも許されず、タコ足みたいに舌を引きのばされて、今生にありながら閻魔にぶちんと裁かれて――
 命ある身でありながら他者を食いものにしてきた大罪人は、生きたまま躰をむさぼり喰われ、死後に他者を求めることも許されず、きれいさっぱりお亡くなりになった。
「アイ! 何があった!?」
「わ、わからない……。浅野さんに乱暴されて、ものすごい音がして……」
 よし。恋人たちはぼくの部屋の前で再会を果たした。だが感動してばかりはいられない。浅野をたいらげたやつらが階段をのぼりはじめるのは時間の問題だ。 
 ぼくは覚悟を決めた。
 十年間、閉ざしてきた小さな世界を手ばなすときがきた。
 否定して目をそむけてきた現実を、受けいれるときがきた。
 ぼくはドアを開け放つ。
 顔を見あわせた二人は、すぐに意図を察してくれた。
 すぐさま飛びこんできて、途端に硬直し、ちいさくうめいて口許を覆った。
「そんな……」
「うそ……」
 それ以降、継ぐべき言葉を忘れ、立ち尽くす。
 散大する眸には、腐乱した三つの死体が映っていた。
 父と、母と、ぼくの死体だ。
 世界が終わる兆しを見せてすぐ、両親は心中を選んだ。服毒自殺だ。何も知らずに母の手料理を食べて死んだぼく。二人もあとを追った。
 そう。最初からわかっていたんだ。わかりたくないだけだった。
 でも今なら、二人の気持ちがよくわかる。彼らは結局、どうしても部屋からでれないぼくを見捨てられなかったのだ。どうしようもない一人息子を見殺しにはできなかったのだ。最初から最期まで、ぼくとともにあることを選択してくれた。
 群れるに適さないはずの人間は、群れなければ生きていけないほど脆弱で、でも時としてそのつながりは、生きることを否定するほど頑強で、自死を是とするほど強烈で、ぞっとするほどひどく切なく、心が灼けるほど温かかった。
 ぼくは半分ミイラ化した自分の腕を念で動かして、窓を指さした。たいした高さではない。この一帯のゾンビたちはほぼすべて階下に集まっている。今なら容易に逃げられるはずだ。
 アイは去り際に言った。
「ありがとう。……田中さん」
 どういたしまして。
 どうか末長くお幸せに。こんなご時世だから、もし子をなしても、ぼくみたいなひきニートに育つおそれはないだろう。
 ぼくもそろそろ行かなければ。
 聞き覚えのある二つの声がぼくを呼んでいる。
 豚のしょうが焼きの匂いがした。
 ぼくはそちらに走りだす。




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