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  妖怪禅師 作者:雨宮雨彦
ラセツの最期
 いつもの朝と同じように、家を出てススムは学校へ向かっているところでした。

 もうそろそろ校門が見えてくるあたりでしたが、驚きのあまり、ススムはもう少しで腰を抜かしそうになりました。物影から突然妖怪が飛び出してきたのです。

 だけど悲鳴を上げる必要はありませんでした。よくよく眺めると、見知った顔だったではありませんか。

「お母さん、何してるの?」

「ああススム、しばらくの間、これを預かってくれるかい? 私は敵に追われているのだよ」

 お母さんがそう言ったかと思うと、毛皮のおなかが割れ、白い手と共に本が差し出されたのです。もちろんあの大切な2冊です。

 すぐに受け取り、ススムは自分のカバンの中へ入れました。

「ススム、いうまでもないが、とても大切なものだから、大事に扱うのだよ」

「でもお母さん…」

「話している暇はないのだよ。ほら、もう敵が追いついてきた」

 その言葉と共に、お母さんは電柱の上へとサッと駆け上がり、風のように消えてしまいました。

 ススムは、敵の姿を目撃することはできませんでした。

 家々の屋根すれすれに低く飛んで、敵がお母さんのあとを追っていったことがわかっただけでした。でもその大きさで太陽の光がさえぎられ、あたりは薄暗くなるほどだったのです。

 ため息をつき、カバンをかかえなおして、ススムは校門をくぐることになりました。

 この日は一日中、授業中も休み時間も、ススムはカバンから目を離す気になりませんでした。それでも時間はすぎ、ついに放課後になったのです。

 お母さんからの連絡は一度もありませんでした。何かあったのではないかと、ススムは心配になり始めたのです。

 しかしその心配も、長くは続きませんでした。

 学校をあとに、駅で電車を降りて、人通りの少ない道を歩いていたとき、物影から突然お母さんが姿を現したからです。

「ススム、私の本は無事か?」

「うん、カバンの中にあるよ」

「それならいい。さあ私の背にお乗り」

 ススムがそうすると、お母さんがすぐに駆け出したのは、いうまでもありません。

 背後へと流れる景色に目を細めながら、ススムは口を開きました。

「ねえお母さん、ラセツは妹なんでしょう? なんとか和解して、仲直りすることはできないの?」

「それはつまり、私かラセツのどちらかが、息子に王位を継がせることをあきらめろ、ということかい?」

「うん」

「そんなことができるものか。母親とはおろかなものでね。息子のためならどんなことでもするのだよ」

「僕のお母さんも、生きているときにはそんな気持ちだったのかなあ」

「それは間違いないさ。私が保障してもいい」

「どうしてお母さんが保障するの?」

「えっ? いやなに、つまりなんだ。息子に対する母親の気持ちとは、どこへいっても変わらぬものだということさ。

 それよりもススム、あの怪物を追い払う方法について相談しようじゃないか」

「ずいぶん大きな妖怪みたいだね」

「ああ、あれほどの大物は珍しい。ススム、私の首のまわりには鉄製のロープが巻きつけてあるだろう?」

「うん、何だろうとさっきから思ってた」

「それを手にお取り」

「あれ? 鉄なのにずいぶんやわらかいね。それに糸のように細いし」

「その鉄はやわらかいが、呪文がかけてあるから、見かけ以上に丈夫なのだよ。何十トンという重さに耐えることができる。それを使って、おまえは私の手助けをするのだ」

「どうやるの?」

「よくお聞き。今回の敵はウロコに包まれた巨大な体をしている。このウロコはヨロイのように硬く、少々の攻撃にはびくともしない。だがやつにも、一つだけ弱点があってな」

「どんな?」

「やつの胸にはただ一枚だけ、他とは逆さまに生えた奇妙なウロコがあるのだよ。このウロコに傷を受けると、さすがのやつもすぐに死んでしまう」

「まさか、このロープをその逆さウロコに引っかけて、はぎ取ろうというの?」

「はぎ取ることまでは無理だろうよ。そのウロコはゲキリンというのだが、ちょっとロープをかすらせることぐらいしかできまいよ」

「それじゃあ敵は死なないよ」

「死ななくてもいいさ。ぞっとさせ、おびえさせるだけでいい。やつが妖怪王国へ逃げ帰るように仕向けるのさ」

「そんなにうまくいくかなあ」

「うまくいかなければ、また別の手を考えるよ。さあススム、作戦を実行する場所が見えてきたぞ。あそこにある大木が見えるか?」

「うん、ずいぶん大きな木だね」

「猫坂神社の神木だからさ。もう2000年も前から、この地に立っているのだよ」

 それは本当に、ススムが目を丸くするのも当然な眺めだったではありませんか。

 2000歳といえば相当なものです。ただ一本の木に過ぎないのに、広く張りめぐらされた枝は葉が濃く、分厚く生え、まるで緑色のピラミッドのような姿なのです。

 この木の頂上あたりに、ススムは降ろされることになりました。お母さんと協力して、ワナを仕掛けたのです。

 2本の枝の間に、ロープをピンと強く張り渡したのでした。木の葉のカーテンの下にうまく隠れ、ちょっと見ただけではわからないようにしたのは、いうまでもありません。

 準備がすむと、お母さんはサッと姿を消してしまいました。高い木の上にススムは独りぼっちになったわけですが、お母さんはこう言い残したのです。

「ススム、私はやつをおびき寄せるから、おまえはおとなしく待っているのだよ。絶対にここを動くのではないよ」

「いつまで待てばいいの?」

「そうはかかるまいよ」

 そう言ってお母さんは出かけてしまったのです。腰を下ろし、ススムは待つことにしました。

 目をこらすと、葉と葉の間からは猫坂の町の風景が、見渡すかぎり遠くまで続いています。あまりにも平和で、何かが起こるような気はとてもしませんでした。

 だけどその気分も長く続くことはありませんでした。巨大な怪物の恐ろしい鳴き声が、風に乗ってついに聞こえてきたからです。

 敵を引き連れて、お母さんが戻ってきたに違いありません。その姿が見えてくるのに、時間はかかりませんでした。

 敵の姿を目にして、目を丸くするどころか、ススムは恐ろしささえ感じることになりました。

 いつものようにお母さんは、電柱の頂上を全速力で駆けていました。そのお母さんと比べても、敵のサイズは圧倒的だったのです。

 頭からしっぽの先まで入れれば、100メートルはあるに違いない竜だったではありませんか。巨大な翼で空を飛び、お母さんを小ネズミのように追いかけまわしているのです。

 竜とお母さんは、ドンドン近づいてきます。ついにお母さんは、神木の中へと身を隠したではありませんか。

 もちろん竜も追跡をあきらめはしません。

 竜に触れて、鉄のロープがまっすぐになるのが見えました。ロープは竜の胸の表面を滑っていったのです。そして…

 その結果を、ススムは目の前で目撃することになりました。

 例のゲキリンにも、ススムはすぐに気がつきました。胸の中央で一枚だけ上を向き、本当に逆さまに生えているのです。

 だけどなんということでしょう。ススムの目の前でロープはそのゲキリンにちょうどぶつかり、まるでギロチンのように、あっという間にむしりとってしまったではありませんか。

 耳をおおいたくなるような悲鳴が、あたりに響くことになりました。猫坂中に聞こえたに違いありません。

 ゲキリンは竜のエネルギーの中心であるというお母さんの説明は、間違っていなかったのでしょう。まるでスイッチでも切れたかのように、竜は一瞬で力を失ってしまったではありませんか。

 頭は力なくたれさがり、翼は羽ばたくのをやめ、神木へと真正面からぶつかっていったのです。

 あれほど大きな怪物ですから、とんでもなく強い衝撃だったに違いありません。地割れのように太いヒビが幹の中心を走り、なんと神木は崩壊を始めたのです。

 激しくゆすぶられ、ススムは枝につかまろうとしたのですが、うまくいきませんでした。ついに足まで離れてしまい、どうすることもできなくなったのです。

 お母さんがやってきてくれたのは、次の瞬間のことでした。ススムの体の下へ、お母さんはサッと飛びこんだのです。

「ススム、私の首につかまれ」

 神木の崩壊は、まだ続いていました。

 細い枝はムチのように空気を切り、太い枝は、牙をむいたオオカミのように襲いかかってきます。幹はバラバラのカケラになり、雷に打たれた岩山のように崩れ落ちてゆくのでした。

 それでもお母さんは、幹から幹、枝から枝へとジャンプし続けたのです。

 二人は、ついに安全な地面に降りることができました。立ち止まって、ほっと息をつき、背後を振り返ったのです。

 ウロコは相変わらず美しく輝いていますが、竜はもはやピクリともしませんでした。長々と地面に横たわっているのです。

 まるで眠っているような姿ですが、胸から流れ出す血は見落としようがありません。

「お母さん、竜は死んだのかな?」

「ゲキリンがちぎれ飛んでしまうとは、まさか私も思わなかったよ。ああ、確実に死んださ」

「これからどうするの?」

「ラセツがどう出てくるかが見ものだが…、おやススム、あれをごらん。なんてことだ」

 その言葉に、ススムも思わず息をのむことになりました。竜の体にある変化のきざしが見えたのです。

「お母さん、あの竜はラセツが変身したものだったんだ」

 ススムの言うとおりでした。二人の目の前で、竜の死体はゆっくりと縮んでいったではありませんか。同時に形も変え、ついにはラセツの姿となってしまったのです。

 胸から血を流して、ラセツは横たわっているのでした。死んでいるのは間違いありません。まぶたを閉じているので、宝石のように輝く瞳を見ることはできませんでした。

 お母さんが口を開きました。

「ラセツのやつめ、かなり無理をしていたのだな」

「どうして?」

「みずから竜に変身するなど、なかなかできることではないからさ。命と引き換えの覚悟が必要な大変な術だよ」

「自分の息子のために、ラセツは大きな賭けをしたんだね。恐ろしい姿だけど、こうしてみるとラセツもかわいそうだね」

「まあな。しかしこれで、私の息子が王位を得ることに決まったわけだ。めでたいといえば、めでたいではないか」

「めでたいって、ラセツが死んだのに? 妹なんでしょう?」

「だからどうしたというのだね? しかしススム、私たちはここに長くとどまらぬほうがよかろう」

「どうして?」

「仮にも妖怪王の娘が死んだのだ。やがて家来たちが集まり、死体を王国へ連れ戻ることだろう。葬儀には私も出席せねばなるまいな」

「お母さんが殺したのに?」

「妖怪の名誉をかけた戦いだったのさ。勝っても負けても、何も恥じることはない。だがススム、とにかく騒がしくなる前にこの場を離れることにしよう」

 お母さんの背中に座り、家へ向かって駆けながら、ススムは口を開かないではいられませんでした。

「ねえお母さん、お母さんの息子が次の代の王になると決まったから、もう本を探す必要はないんでしょう? お母さんは妖怪王国へ帰っちゃうの?」

「いいやススム、まだ帰りはしないさ。おまえとミチコが大人になる日まで母親の代わりをすると、私は約束したのだ。約束は守らねばならぬ」

「お母さんの息子はどうなるの? 一人でさびしがらない?」

「ふふふ、あの子はさびしがったりせぬさ。それにススム、妖怪王はまだまだ元気なのだ。私の息子が即位するのは、まだまだ先の話だ」

「ふうん。あのね…」

「どうした?」

「ううん、なんでもない」

 お母さんにききたいことは、まだまだたくさんあったのですが、ススムは次の機会を待つことにしたのです。

 今日のところは、お母さんがこの先もまだ何年間か一緒にいてくれる、ということがわかっただけで、満足することにしたのでした。


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