長年付き合っていた彼氏とも去年別れてからは独りだ。
独りは嫌いじゃない。
仕事も別れてから、すごく順調だ。今は企画部の主任を任せられている。
……充実していると思う。
でも、このままだと思うと、時々不安になる。
あいつの別れ話の最後に言われた一言を思い出す。
「お前は独りでも生きていけるよ、強いから」
あの時の言われた一言、否定もできなかった。
そして、別れた直後も涙は流れる事もなく、そのままいつもの生活へと、私は流された。
なるほど、私は強いのかもしれない。
「主任! 主任ってば!!」
「え!」
「何、ボーとしてんですか?」
部下に話し掛けられている事に気づかなかった。
一瞬、何故だかわからないが意識がもうろうとしていた。
心配そうな顔をこちらに向けて、まだ話続けてくる。
「らしくないっすよ」
私はうっとうしくなり、彼から用件を訊き出す。
「んっ。何、何か用?」
「コピーしてきましたよ。はい、これ」
私は素っ気なく、彼から分厚い紙の塊をすぐに受け取る。
「ああ、これね」
「あと部長、呼んでましたよ」
「そう……」
首を傾げながら、彼は私のデスクから、離れていく。
受け取った資料を自分のデスクの上に置き、イスから立ち上がると私は部長のデスクの方へ急ぎ足で向う。
「部長なんですか?」
「今度の企画も君に任せるよ。しっかり頑張ってくれよ」
「はい、ありがとうございます!!」
また、今回も仕事を任された。
やりがいのある仕事は打ち込めるからホントに嬉しい。
仕事に打ち込んでいるときは、余計な事を考えなくていいからだ。
デスクに戻って来ると、若い女に話し掛けられた。若いだけあって私より肌も綺麗だ。そして、何より計算高い女。
彼女は私の下でアシスタント。長年アシスタントとして仕事をしているせいか、最近、くすぶっている様だ。
「また主任、仕事任されたんですね。彼と別れてからずっと、仕事してますよね? 身体疲れません? あたし、心配だなぁ。いつでも変わりますよ、お仕事」
私を心配しながら、主任の座を狙っている女。
「大丈夫よ、身体なら。余計な事言わないで、仕事したらどうなの?」
なんで、一年も前に別れた事、今、引っ張り出すのよ。
ホント……余計な事しか言わない女。
「そ、そうですよね」
「それと、今から営業に出るから、帰って来た時までに今回の企画資料に目を通して、資料まとめておいて」
「わかりました、やっておきます。また、あの会社に行かれるんですか?」
「そうよ、何か問題でも?」
「いえ」
何かに感づいているのか、余計な事にしか興味のない女。
「行って、そのまま直帰するから。あとお願い」
今から会う人間は企画を持ち込んできた取引先の私より年下の男性社員。
何度か会ううちに、向こうから告白されたのだ。それまで、私的な事は話した事はなかった。
この私に憧れている、なんて真面目な顔をして繰り返し何度も言われると、悪い気はしない。
必要にされているような気がして嬉しかった。そんな彼に少し惹かれている自分がいる。
「あの、今日食事しませんか? 企画が通った訳ですし。もちろん、あなたさえよければですが」
企画の打ち合わせが終わると遠慮しがちに彼は私を誘った。
もしかしたら、あまり女を口説いた事がないのかもしれない。瞳にはその姿がなんだか可愛らしく映った。
私は快く彼の申し出を受け入れる事にした。
「いいですよ。行きましょうか」
久しぶりに二人での食事は楽しかった。
そろそろ、こういうのもいいのかもしれない。そんな事を思いながら、私は家に帰り着く。
そして、良い気分を抱いたままベットに行き、ここ何年ぶりかの深い眠りについた。
翌朝、目が覚めても気分はよく、その気分のまま会社へと出勤したのだ。
「なんだか、顔色いいですね。何か、いい事でもあったんですか? 例えばぁ彼氏でもできました?」
「……仕事しなさい」
この女ホント余計な事しか言わない。
「すみません」
時間通りに仕事をして、今日は久しぶりに時間通りに家へ帰れる。
久々に飲みにでも行くか、そう思うと私はいつも飲みに行くバーへと、ひとり軽やかに足が向く。
ほろ酔い気分で家に帰る途中、バッタリと出会ってしまったのだ。
繁華街のホテルからアシスタントの女と取引先の男性社員が出て来たところに……
「あっ主任。偶然ですね」
男はバツの悪そうな顔をしてうつむく。 女は嬉しそうに私に話を続ける。
「主任と彼って、食事したんですよね。今時それで終わらせるなんて、ガキじゃあるまいし。彼がカワイソウですよ、主任」
「あなたに関係ないでしょ、そんな事言われる筋合いないんだけど。私あなたに何かした?」
「してないですよ。ただ、主任が持っている物、全部欲しくなったんですよね――いい男とそして、やりがいのある仕事に責任のあるポスト。すべてを持っているあなたから全部奪いたくなちゃったんです。……それと彼とは身体の相性がいいだけですから、それ以上でもそれ以下でもないですよ、ねっ?」
女は小悪魔のような微笑を男に向けて返事の催促をする。
男は小さくうなずくだけだった。
その瞬間、彼にあった好意は私の中から消えていく。
「そう、もうわかったわ――失礼させてもらうわ」
私はそう言うと家に何事もなかった様に帰宅する。
翌朝、起きると身体はだるく熱もあり、会社を休む事にした。
気分は最悪だった、心も身体も……
夜になり、食べ物を調達するべく、コンビ二へと出かけた。
一人暮らしでは頼れる家族もなく、友人はみんな結婚していて自然と頼る事もなくなった。
こういう時、ひとり身がすごく、悲しくて、虚しくて、孤独を感じる。
もう誰も私の事に気づかないんじゃないか、と思うくらいに……
私はそんな事を考えながらコンビニからの帰路をドテラにマスクをした格好で歩いていた時、背後から誰かわからない人間が声を掛けて来たのである。
「センパイ?」
声は聞き憶えのある太くてハツラツとした男性の声でだった。
私は振り向くと高校の美術部の後輩が、そこに照れ笑いした様な、ハニカンだ様な顔で立っている。
「あれ、あんたは」
「はい。思い出しました? センパイこの辺りに住んでるんですね」
「えぇ。あんたこそ、なんでココに?」
「引っ越して来たんですよ。この間」
「そう」
「風邪ですか? 大変ですね、荷物でも持ちますよ?」
そう言って、たくましくなった後輩は有無を言わさず、私から手の荷物を奪う。
私の前を歩き始めた。その広くたくましい背中は大人の男を感じさせ、あの頃の頼りない少年の姿をすっかり消しさっていた。そして、あれから時が流れた事に気づかされるのだった。
家までの帰路、それっきりお互い、何も語らずに黙ったまま歩いていた。
懐かしさで、彼との沈黙は苦にならなかった。
それ以前に彼の隣はなぜか――心地いい。気がづくと自分の家に到着していた。
「あ、ありがと」
「いいですよ、これくらい」
彼の屈託のない笑顔がなんだか私を照れさせる。
きっと私は男性に親切にされ慣れてなく、そういうのに免疫がないんだ。
そんな事を思っていると、彼が荷物を部屋の前に置いて帰る姿だった。
「それじゃあ、センパイお大事に」
「ホントにありがとね」
最後にまた彼は私へとハニカンだ。
彼の姿が見えなくなると私は買い物袋を持って、部屋に入る。
食事を済ませて私はベットに潜り込むと先ほどのまでの孤独感を忘れていたのか、すぐに眠りにつく事ができたのだ。
次の日、会社では企画の事で部長に呼び出された。
「部長、何でしょうか?」
「ああ、君か。君、最近疲れているようだね」
「いえ、そんなことは」
「昨日、休んでいただろう? 君の部下がね、頑張って例の企画をまとめてくれたようでね」
部長室にあの女が何か手に持って入ってくる。
「部長! これで今回の企画書オッケイです。あれ主任? 企画ならちゃんとできましたよ、今」
「そう、企画書ありがとう」
「この際だから、主任少しお休みになられたらどうですか? ねぇ、部長もそう思いますよね?」
小悪魔のような微笑を部長に向ける。そして、彼女の指は自然と部長の耳を優しく撫でていた。
部長は既に彼女の色香に骨抜きにされていた。
「そ、そうだね。少し休みたまえ。確か有給が残っているだろう? ここらで消化しときなさい。部長命令だ」
「ぶ、部長……わかりました」
私は上司に言われるがまま有給を消化するため、休む事になった。
休みなんて何もする事ないし……すると、珍しくチャイムが鳴る。
私は不思議に思いながらも部屋のドアを開けた。
目の前にはこの前の後輩が笑顔で立っている。
「センパイ、ご飯食べませんか?」
「えっ」
いきなりで私は戸惑ったものの彼の優しい笑顔につられ返事をする。
「いいけど、何食べに行く?」
「実はもうあるんですよ、おでんが。作ったのが余ったんですよね」
「ああ」
「これよかったら食べて下さい。どうせ、ろくなもん食べてないんじゃないですか?」
「う、うん。まあね。ありがと。食べさしてもらうね」
「はぁい、どうぞ、どうぞ」
その後も彼は休暇中の私に作り過ぎた晩御飯を届けてくれていた。
休暇はあっという間に過ぎ、気がつくと最後の休み。
今日も私は夕飯の時間が近づくと窓から見えるオレンジ色に染まった空をぼんやりと見て、いつもの様に彼が来るのを待っていた。
そして、いつもの時間になるとチャイムがなる。ドアを急いで開けると彼は優しい笑顔を見せてくれた。
「センパイ、ご飯食べませんか?」
いつものハニカム笑顔、いつもの優しい声、いつもの聞きなれたセリフ、いつもの――この何日か彼の笑顔を見る度に私は心から癒されていた。
今の私には少なくとも彼の笑顔だけがこの世界での救いのような気さえしていたのだ。
「うん、今日はあがっていく?」
私の思いがけない言葉に彼は驚き、そして、いつもとは違う表情を見せると答える。
「い、いいんですか? お邪魔して」
「ええ。別に、構わないわよ」
いつしか私は彼の笑顔をいつまでも見ていたいという欲を抱いていた。
「それじゃ。お邪魔します」
「どうぞ、適当に座ってて」
彼をみると部屋の中でかしこまった様な態度。そして、正座をしてからコタツの前に遠慮がちに座っている。
「入りなよ」
「ああ、はい」
私の目の前でガチガチに大の男が緊張している。
なんだかおかしな光景だな、と思いながら、彼に話かけるといろんな事を話した。大学の時の事。現在の事。時間がどんなにあっても足りない位だった。
「もう、絵描かないんですね? 俺、センパイの描くブルーが好きだったのに。美大に行くとばかり思ってました」
「才能ないから。そーいえば、あんたいつも私にくっついてたよね」
「はい、センパイの描くブルーがすごくキレイで。だから、俺、今も近づきたくて」
「そう」
私はなんとなく悲しくなる。それは彼が好きなのは私の描くブルーで私じゃないという事が。
「もう、描かないんですか?」
「もう無理かな。そんなキレイなブルーは描けないよ」
そんな話をしながら、今日は彼が持ってきたご飯を独りではなく、彼と一緒に食べた。
「あっもう時間遅いんで帰りますね、俺」
時計を見て彼が言った。
私はもうそんな時間か、と思い彼に返事をする。
「あぁ、うん」
私は彼を玄関まで見送るとお礼を言うが、
「ご飯、ありがと」
ホントは独りになりたくない、と心から思い始めていた。
「いえいえ。それじゃ」
彼はそんな事には気づかず、またいつもの屈託のない笑顔で帰って行く。
休暇が終わり、私は久しぶりに会社へと行く。
会社では私の企画だったのを、もうアシスタントのあの女が引き継ぎでいる。
私はただその風景を眺める事しか出来なかった。
仕事場がグラついている、いや目の前の風景が同じ様にグラついていた。
次に暗闇が私を襲う――
会社のソファで意識を取り戻した私は唯一、自分の居場所だった会社にさえ、もう居場所が無くなったのだと理解した。
私はその足で早退を申し出ると独りで真っ暗な家に帰って来た。
部屋の電気すらつける気力もなく、何も出来ずに時間がただ過ぎて行くのだった。私は気がつくと帰って来たままの格好で寝てしまっていた。顔には涙の後。
ふと何時なのか気になり、私は時計を確認すると昼過ぎの時刻を刻んでいた。
倒れてから何も食べていない事に気がついた。
食欲はないがそれでも何か口にしなければと私はコンビニへと買い物に出掛けた。
コンビニから出て来たのは後輩の彼と可愛らしい女性。私は彼らに気づかれない様に見えない所に思わず身を隠す。やり過ごすと、結局、コンビニにへは行かずに家へと帰って来た。
自分でもわかっていたけど――それでもどこか彼に期待していた自分がいたから、
…………ショックだった。
そこへチャイムが鳴る。
「センパイ、ご飯食べませんか?」
彼は彼女が作ったあまり物の晩御飯を私に毎日届けに来ていたのだろうか――――
私は馬鹿にされた様な気がした。いや、ちがう――勝手にそんな事を想い描いては彼に期待をしていた自分が許せないのだった。
玄関越しに私は涙と震える声を抑えながら彼に叫んだ。
「もう二度と来ないで、迷惑だから帰って」
「センパイ? どうかしたんですか?」
何も知るよしもない彼の質問には答える事ができない。
私は黙るしか出来なかった。
「わかりました。何があったのか、わからないですが今日のところは帰りますね」
彼の気配がなくなるとそれまで我慢していた物が一気に込上げてくる。
それは嗚咽まじりの声。私は暗闇の中で全てのものを呑みこむかの様な勢いで、言葉ではない声を出して泣き崩れていた。
あの日からチャイムは鳴らなくなった。
元通りの生活に戻った――ただそれだけなのに家での時間が途方もなく長い。
ある休日、私はふと窓の外を覗いた。
目には一面銀世界が広がっている。キラキラ輝く真っ白な雪。
私には目が眩むほど、とでも眩しかった。
真っ白な世界へ、ただ無性に飛出したくなる衝動が走る。
勢いで部屋を出たが、私はどこかわからない路地に積もった雪の上を彷徨い歩いていた。
何処へ続いているかわからない道――――何処へ行こうとしているのかわからない私。
彷徨っていた私に何か固いものが背中にあたる。
それは――小さな白くて丸い雪。
振り向くとちょっと離れた場所に鼻と耳を真っ赤にしている後輩の彼が立っていた。
「センパイ! なんでココに?」
「あんたこそ、なんで?」
「ここうちの家の近くなんですよ。センパイの姿がみえたから。つい」
「そう。じゃあ、帰るね。私」
帰ろうとした私に彼は少し声を大きくしてたずねる。
「なんで避けるんですか?」
「別に避けてなんかないわよ」
背中を向けた私がしばらく黙っていると、彼が何か、ふっ切った様子で声を出す。
「センパイ、俺ホントは偶然なんかじゃないんです。ココに引っ越してきたのは」
私は彼の思いもしない言葉に振り向いた。
「何、言ってるの?」
「ココにセンパイが住んでるって聞いたから」
「何のために? なんで私に近づくの?」
「センパイに会えたら――言おうと思っていた事があります。俺、センパイの事――が、――センパイの事が好きです。誰も描く事が出来ないあの透き通った美しいブルーを描くセンパイを尊敬していました。自分もいつかそんなブルーを描きたくて、だから、いつもいつも傍にいました。でも、ある出来事で気づいたんです、自分の想いに。あのキレイなブルーに近づけたら、伝えようと思ったけど、その前にセンパイは卒業してしまって、何も伝えられなかった――――俺、今でも絵を描く事を続けています」
「急に何言ってるの……彼女、い、る――のに」
「はっ?」
私の言った事に理解できずに困惑する彼は少し固まっていたが、次に迷いなくズカズカと私へと近づいて来る。
「……ついて来て下さい」
彼は私の腕を掴むと力強く引っ張っていく。
いつのまにやら、どこかの部屋の中につれて行かれて来られていた。
「これ憶えていますか?」
彼は一枚の大きな絵を私に見せてくれる。それは見憶えのある絵だった。
「憶えてるよ、展示会の時の」
「この絵、倒れてきてグチャグチャになったんですよね。当時パニックになった俺に声を掛けてくれたセンパイが、空の部分を直してくれた絵です。あの時の真剣なセンパイの横顔忘れません。すごく、キレイでした。その時確信したんです。ああ、俺センパイが好きだなって」
彼の話でその当時の事がよみがえった。
――それは私が高校三年の時――
「君はもう少し人と関わりなさい。そうすればきっと今の絵に暖かさがでると思うんですよね」
「先生、私進学する事にしました。だから絵はもう描きません」
「……そうですか。残念ですが決めた事なら仕方ありませんね」
そう私は昔から人付き合いがうまくなく、独りが楽で、ずっと絵を描き続けていたのだ。
でも、そんな絵の世界も限界が訪れて私はすぐに諦めた。 そして、今もその時と変わらない自分がいる。
彼はもう一枚、未完成の絵を出し来ると私に見せる。
――小さな青い絵、海の絵だった。
でも、なぜか空の部分だけ真っ白のまま。
「センパイに会った日から、絵を描いていました。家に行かなくなったあの日から急いである人に手伝ってもらい、空以外の部分は完成しました」
そう言って彼は写真立てに視線をうながす。
写真は彼の大学の卒業写真だった。
そこには、あの日見た女性が写っていた――、化粧のせいでわからなかったが、よく見ると彼と全く同じ顔をしている。
「俺の事知らないんですね」
クスッと彼はそう言うといつものハニカンだ笑み。
「嘘……」
そう呟く私の手を彼がそっと手に取ると、強く握りしめる。
そして、私は誰かの為に――――変わりたいと、
変わらなきゃいけないと――初めて心から強く強く願った。
「一緒に、今からでも描けるかな?」
「描けますよ――――今からでも、きっと」
思い出の絵と未完成な絵を見つめながら私も彼の手を強く強く握り締める。
この手を離さないように…… |