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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
最終部 最終章「銀月の狼と人獣の王たち」
739/743

最終部 最終章 最終話(終)『最終幕』

 自分の名前が呼ばれているが、ドグは返事をしなかった。


 目の前で蠢く、小さな生き物に目を奪われていたからだ。


 それはヒキガエルのように丸々と太った、不気味な黒いトカゲである。

 ドグの小さな手でも潰せそうなほど矮小なのに、見た目はとても凶暴で実際に攻撃性も強く獰猛でもあり、顔つきや風貌までもすごく気味が悪い造作をしていた。

 見ていると嫌な気になるけれど、これが見えているのはどうやら彼と彼の相棒だけのようなのだ。

 父や母、祖父にも見えていない。

 だからといって、ドグは両親にこれの説明をしなかった。何故かと聞かれると分からないが、言うべきではないと思ったからだとしか言えない。

 これを見つけると、毎回必ずドグは相棒にお願いをしていた。


「いい? ディザイロウ」


 巨大にも思える銀狼は、その大きさに似合わぬ俊敏さでトカゲを咥えると、それを無造作に咬み砕き、飲み込んだ。


 ――もうあんしん。


 ほくほくと満足げに頬を上気させるドグ。


 けれどディザイロウがこんな風にトカゲ退治をしている事は、二人だけの秘密である。

 ディザイロウは本来ネクタルしか食べられないはずなのに、こんな気味の悪いトカゲを呑めるのは何故なのか。


 不思議と言えばそうなのだが、ドグはそれについての答えを持っていない。


 だがディザイロウは、これの正体を知っている。


 知ってはいるが、ディザイロウからすればむしろそんな自分の事よりもドグについての方が不思議だった。本来このトカゲは霊魂に近い存在であり、霊子の力がなければ見る事さえ叶わないものなのだ。だがドグだけは唯一人、このトカゲが見えているのである。


 とはいえそのおかげで、ディザイロウはこれの始末を容易に行えるのも事実だった。


「ドグ! ドグ!」


 声が近付き、ドグは振り返った。


「ここに居たのか。まったく……一人であちこち行っちゃ駄目って言ってるだろ」

「ごめんなさい。おとうさま」

「まあディザイロウがいるから万が一なんてないだろうけど……それよりお客様がもう到着してるみたいだよ。早く帰らなきゃ」


 お客様、という言葉に、ドグが目を輝かせる。


「おじさまもくるの?」

「ああ、おじさまだけじゃないよ。他にも沢山の人がいっぱい来るよ」

「じゃあじゃあ、きょうはごちそう?」


 緑色の髪をした父は、にっこりと微笑んだ。


「そうだよ。だから早く帰って一緒にお手伝いをしようか、ドグレール」

「うん! おてつだい!」


 ドグことドグレールをディザイロウの背中に乗せ、イーリオは家路についた。



 ドグレール・ヴェクセルバルグは、今年で五歳になる。


 髪色は母親譲りの美しい銀色で、顔立ちは最近になって、父のイーリオの面影が濃く出はじめていた。


 館に戻った親子の帰還を迎えたのは、一〇歳になる赤毛の少年である。


「お帰りなさい、先生」

「ただいま、アルヴァ。もう来てる?」

「はい、別館でお待ちです」


 彼の名はアルヴァ・ヴァッテンバッハ。

 亡き覇獣騎士団(ジークビースツ)の炎の勇者リッキー・ヴァッテンバッハの忘れ形見である。


 本来イーリオは、弟子を一切取らないと決めていた。

 あの大戦後、当然ながら数え切れない騎士達がイーリオに武術を教わりたい、弟子にしてほしいと詰めかけてきたのだが、イーリオはあれ以降、一度も戦闘をしていないし、戦いに戻る気もなかった。


 今の彼は、ムスタと同じく錬獣術師(アルゴールン)を営んでいる。


 だからもう百獣王でもなければ、弟子も取る気はないと外には言っているのだ。


 ただ、アルヴァだけは弟子にしてもらうまで絶対に帰らないと頑として譲らず、また兄のように慕っていたリッキーの息子の頼みともあって、たった一人の例外として住み込みの弟子になる事を許可したのだった。

 ただし弟子といっても、表向きは錬獣術師(アルゴールン)の弟子という事になっている。実際、アルヴァは錬獣術(アルゴーラ)も勉強しており、対外的に彼はそのような紹介をされていた。

 イーリオから獣騎術(シュヴィンゲン)などの武術を学んでいる事は、あくまで秘密という事。



 後にこのアルヴァが、イーリオから百獣王の称号を譲り受け、八代目百獣王カイゼルン・ヴァッテンバッハⅢ世となるのだが、それはまた別の話――。



 イーリオ達が住まいの別館に着くと、待ち構えていたように近寄る者が一人。


「ドグ! ドグレール! 元気にしてたか?! 息災か? むうう、可愛いなぁ。可愛すぎるぞ、ドグレール!」


 ドグレールを抱き抱えて頬ずりをするのは、あろう事か大帝国皇帝のハーラルだった。


「いたい。おじさまいたい。おひげじょりじょりしないで」

「おお、すまんすまん! もうこのぷにぷにほっぺはいつ見ても愛らしい。余が食べてしまいたいぞ。お前は本当に利発で賢い顔をしている。目元は母親似だが、顔立ちは父親似になってきたな。本当にお前は、父と母の良いところだけを受け継いでいる!」

「ハーラル……同じ事言うの何回目なの……」


 変わり果てたというか、おじ馬鹿ぶりを遺憾なく発揮するハーラルに、イーリオは苦笑を浮かべる。


「何を言っている。何度だって余は言うぞ。ドグレールは大陸一、いや世界一愛らしいとな! どうだドグレール、もういっその事、余の息子になっちゃわないか? お前が皇太子、いや、お前になら今すぐ帝位を譲っていいぞ。いやむしろもうお前は皇帝だ」


 おじ馬鹿がいささか暴走気味すぎる皇帝に、周りで控えていた彼の臣下の方が「ちょ、ちょっと陛下」と突っ込みを入れる始末。


「ハーラル、ちょっと落ち着きなって。周りが困ってるでしょうに。それに君にも皇女様が産まれたじゃないか。ねえ、アネッテ」


 横で微笑むアネッテ妃が、まだ二歳になったばかりの皇女を抱いて微笑んでいる。白髪と黒髪の夫と妻。とても似合いであると評判の鴛鴦夫婦だ。


 ハーラルは顎髭を生やしだし、段々と実の父の風貌に似つつあると感じさせる。

 一方でアネッテは、皇女を自ら抱き抱えるなどおよそ皇帝妃らしからぬ振る舞いが実に奔放だが、それを許しているのがハーラルの器であり、この二人の絆だろうとイーリオは思う。


 抱いたまま離さないドグレールをハーラルから取り戻したイーリオは、彼を後ろの方に促した。


「さあ、みんなドン引きしながら待ってるじゃないか。早いとこ済ませなよ」


 ここは別館にある広間。

 長テーブルが置かれており、そこにずらりと座っているのは大陸諸国家の王や皇帝達。


「久しぶりだよ。いつ以来だろうね、イーリオ君」


 優しげな笑みを浮かべるのは、メルヴィグ国王レオポルト。


「この俺を待たせるなんて、本当に無礼な男だよ、お前は」


 不遜に笑うのは、アクティウム国王クリスティオ。


「陛下、礼を欠く振る舞いをなさっているのは貴方ですよ。もうちょっとちゃんとお座りください」


 クリスティオ王を諌めるのは仮面の大公ブランド。


「ブランド公の仰る通りだ。イーリオ君を困らせるんじゃない」


 と、続けたのはアンカラ帝国皇帝セリム。


「……」


 黙して語らないのはトクサンドリア国王ヤン。


「今更ながら失礼しています、イーリオ様」


 この頃精悍さを増してきたのは、ジェジェン首長国大首長(ジュラ)ミハイロ。


「さあ、んな事よりさっさとはじめようぜ。なあ、レレケ」


 傍らの妻に言うのが、セルヴィスタン大公ジョルト。


「貴方は早くお食事をなさりたいだけでしょう?」


 揶揄うように返すのが、同じくセルヴィスタン女大公レナーテ。



 ハーラルを合わせて九名。



 さすがに遥か極西にいるユキヒメを呼ぶわけにはいかないし、そもそもこれはあの時の一〇名を集めた同窓の集いではないのだ。


 これは、大陸国家大同盟の第二回目の調印会議。


 四年前もなされたのだが、その時はまだ政情不安定でメルヴィグ、アンカラ、アクティウム、ゴートだけの参加だっただけに、この度改めて他の国々も加えての調印会議を行う事になったのである。

 カディス王国からは、代理の大使が遣わされているが、いかにも場違い感があり少し可哀想だな、とイーリオは思ってしまった。



 互いに侵略をせず、向こう一〇〇年はこの平和を遵守すべし――。



 単純にそれだけの話であり、何も大仰にする必要もないという事で、何故かこの式典の場に、イーリオの住まう館が選ばれたのだった。


 何で僕の館でそんな事を、何の冗談だとイーリオは言ったが、義弟(おとうと)――つまりハーラル帝がこれは決まった事だと強引に話を進めたのである。

 しかも各国から来る客への出迎えも、ハーラルが一切を取り仕切るのでイーリオ一家は何もしなくて良いとまで一方的に言ってきたのだ。


 それを耳にして、ここで初めて彼は「ははあ」と気付いたのであった。


 何の事はない。

 ドグレールにおじ馬鹿を炸裂させているハーラルなのだ。

 ただ単に自分も見たければ、皆にも見せたかっただけなのだろう。


 その目当ての女性(ひと)が、遅れた形で入室する。


「みなさん、お茶菓子でもどうぞ」


 アルヴァに手伝ってもらいながら菓子と茶を運んだのは、このワッフルを作った本人。

 ブラウンチーズをかけたワッフルは、彼女の得意料理でもある。


 銀の髪は前よりも更に美しく豊かさを増し、年を重ねたというより更に愛らしさを増したような柔らかな美貌。けれども美しさを気取る事もなければ、むしろそれには無頓着ささえあるのが、彼女らしい。


 イーリオの妻・シャルロッタ。


 彼女が給仕までしようとすると、ゴートの者らが「シャルロッタ様はそんな事なさらないで」と慌てている。

 彼女の後ろには、今や祖父となったムスタが立っていた。

 その手から泣き声が聞こえた事で、シャルロッタはそちらに寄って、ムスタから彼女を己の腕に移す。



 ハーラルの――王達の目当ての女性(ひと)を。



「やっぱり儂よりも母親じゃなきゃ駄目なんだろう。いやどうも参った」


 再び伸ばした髭面をぼりぼりと掻き、ムスタが何故か照れた顔で笑った。

 だが泣き声を耳にし、会議の王達までもがシャルロッタに近寄っていく。


「そうか、これが……。何とも愛らしい」

「こちらはドグ君よりも父親譲りですね」

「いや待て、目鼻立ちはシャルロッタではないか」


 次々に顔を近付ける王達に、随行するそれぞれの妃達が押し留める。


「分かりましたから、陛下。シャルロッタ様も娘様も困っておいででしょう。ちょっともう、座ってくださいな」

「そう興奮なさらないで、全くもう……」

「ちょっと、ご自分のお子以上に可愛がっていらっしゃるのではなくって?」


 遂には、自身も一児の母であるレレケが全員を席に戻し「お目当ては後になさってくださいませ」と微笑みながら諭した。


 お目当て。


 調印式はあくまで口実。

 いや、平和会議なのだからそれが口実など有り得ないのだが、実は彼ら王の目的は、イーリオとシャルロッタとの間に産まれた、二人目の子供を見る事。

 会議などは建前で、それをおおっぴらに行うため、調印式をわざわざこんな辺鄙な街で行う事にしたのである。


 何とも自分勝手というか馬鹿馬鹿しい理由だが、本人らは至って大真面目でもあった。


 凄まじい大戦を経て、今の平和がある――。

 だがこの平和を齎したのは、やはりイーリオとシャルロッタなのだ。


 その夫婦に新たな命が授かった。


 これ以上なくめでたい事だし、新たな命こそ、まさに平和の象徴そのものではないか。

 だから平和会議をイーリオの邸宅で行うのは、至極もっともなのだ――と。


 とはいえ、会議は会議。これが終われば宴に入る予定だが、今しばらくは時間もあった。


「もう少しだけ時間がかかるかもしれませんから、まだ少しの間席を離れても大丈夫ですよ」


 と、イーリオ一家にレレケが告げた。

 それなら少しだけ外に出ていようかとイーリオが言う。


 この会議において、イーリオの役目はない。


 ただ会議の終わった後で、皆がイーリオ家族を取り囲み、談笑する。つまりは酒の肴の役目がイーリオ一家なのだが、それもまあ構わないかと笑うしかなかった。

 シャルロッタなどは、ご馳走の用意を帝国持ちでしてくれるのだから、喜ばしい事この上ないわと屈託なく笑っていたが。




 色々な事があったなと、広間から外に出たイーリオは思った。


 あの戦いから、六年が過ぎていた。


 イーリオも、今や三一歳。


 シャルロッタについては、正しい年齢となれば千歳を超えてしまうのだが、以前アルタートゥムのロッテが話していたところによれば、シエルの加護を考えない場合の肉体的年齢はイーリオの二つ下くらいになるとの事だった。

 その事から、シャルロッタの年齢は現在二九歳という事にしている。

 実際、シエルが消滅した今、彼女は普通の人間と同じように年を重ねていた。他より若く見えるのは、夫のイーリオ同様、そういう体質なだけだろう。


 思えば、全ては彼女からはじまった。


 イーリオも他の多くの少年少女同様、幼い頃騎士(スプリンガー)に憧れた事もあった。鎧獣(ガルー)を纏って剣を取り、騎士となって冒険をする――。

 そんな子供らしい夢を持った事が。

 それは奇妙な出会いと不思議な運命によって現実のものとなり、それどころか夢に描いていた以上の大冒険へと、彼を導いていった。


 けれど、冒険のきっかけもその後も、いつだってイーリオの動機の根っこにあったのはシャルロッタを守る事。

 そこに色々なものが乗っかっただけである。

 国と国との戦争や陰謀、己の出生の秘密なども結局のところ彼女を守るためのおまけでしかなかった。


 最後まで、彼はそれを貫いた。


 そうして今や、彼女もただの一人の女性となった。


 異世界とこちらを繋ぐ〝座標〟はとうに失われ、聖女としての魂も力も何もない。ただのごく普通の人間。そしてイーリオの最愛の人。


 それがイーリオの望んだもの。

 シャルロッタと一緒に過ごす事。


「この街も、随分と人が増えましたね」


 後ろから声をかけたのは、レレケだった。


「あれ? 会議は?」

「ただの条約確認と調印だけなら俺だけで充分だから行ってこいよ、ですって」

「ジョルトさんらしいなぁ」


 レレケの娘は、乳母に預けてあるらしい。その娘はまだ三歳半といったところだが、国政だけでなく錬獣術師(アルゴールン)としても多忙を極めているため、彼女はそうしていた。


 そのレレケが、ディザイロウに目を向けて尋ねる。


「やっぱりもう、力は?」

「ああ」


 最後の戦いの後、ディザイロウにあった霊神融合(コーザリア)の力は全て消えた。

 それだけでなく、元々あった獣能(フィーツァー)もあの竜に奪われて戻ってはいない。

 イーリオも何度か試してはみたが、ディザイロウに獣能(フィーツァー)が戻る気配はなかった。鎧化(ガルアン)が出来ないわけではないし、戦闘や訓練などを積んでいればその内戻るかもしれないとは思う。またはそれらとは別に、何か新たな力が発現するかもしれない。

 けれどもイーリオに、そのつもりはなかった。


 神から授けられた異能だけではない。


 授器(リサイバー)を超えた神々の武装、霊授器(アルーデル)も戦いの最後に砕かれて、人竜と共に消えてなくなっている。レレケのレンアームが使っていた〝神の杖(カドケス)〟も、飛行補助器具(フライトユニット)となって助けてくれたロッテの消滅と共に砕かれ、失われている。


 つまり神の力の全てが、もう何処にも残っていないのだ。


 それは敵であったエポス達にまつわる全ても同じくであった。


 装竜(ドラーケ)が破壊されて消えたのと同じく、ヘクサニア本国にあった研究施設などを含めた全てが破壊され、跡形もない残骸となっていたのである。


 おそらく最後の竜、竜の神(ヤム・ナハル)そのものの次元竜神(カンヘル)が出現した際、その余波のようなもので施設全てが砕かれたのだろうというのが、これの調査にあたった者の見立てであった。


 ただどうあれ、世界を左右するような異世界にまつわる全てが失われた事は、イーリオ達にとって喜ばしい事であった。


 戦いに疲れた――というのも間違いではないが、それとは別に、もう二度とイーリオは戦いに戻る気はなかった。



 彼にとって戦いをはじめたきっかけも動機も、冒険同様、シャルロッタを守るためだけだったのだ。



 けれどエポスも神も、この世界からは消えた。

 シャルロッタにも力はない。

 だから彼女が襲われる心配もないし、となればイーリオが獣を纏う理由ももうないのだ。


 百獣王という名も、きっといつか誰か自分より優れた騎士が継いだらいいのだと思っているし、もしくは自分が最後の百獣王になってもいいとさえ思っていた。

 名前や肩書きなどに未練はないし、師匠だって分かってくれると思っている。



 自分の冒険と戦いは、もう終わったのだ――。



「ここはやっぱり、いいところですね」


 レレケの呟きに、イーリオとシャルロッタが微笑む。


 クナヴァリの街。


 八年前は村だったここも、今はそれなりの街にまで発展していた。

 イーリオの屋敷は、前の場所から移り、街を見下ろせる高台の位置に移転している。村だった頃も村外れの位置に屋敷があったのだが、街となり拡張されていく過程で、彼の住まいも変わっただけの事である。

 街を見下ろす場所で、冬の風を受けながら、平和そのものの景色を見つめていた。


「最近になって思うんだ」


 ぽつりと、イーリオが呟いた。


「もしかして全部、エール神が仕組んだ事だったんじゃないかって」

「どういう事ですか?」


 怪訝な顔でレレケが問いかけた。

 彼女は女大公になった今も錬獣術師(アルゴールン)であり、あの眼鏡も今だに持っていた。それを首にかけているのが衣服とは不釣り合いだが、それが何とも彼女らしいとも言える。


「エール神は、この世界から手を引きたかった。多分それは向こう側の都合なんだろうけど、痕跡すら残さないほどに退きたかったんだと思う。だから僕がシャルロッタに相応しい人間かどうかを直接確かめるため、星の城(ステルンボルグ)に招いた。つまりエポス達に利用されたり誑かされるような人間なのかどうかを知りたかっただけで、それを確認し僕らを認めた事で、その目的は充分果たされてたんじゃないかなって。だから最後の戦いは、神にとって――異世界の人々にとって――は、後始末というか後片付けというか」

「おまけのようなもの――ですか?」

「そう。そんな感じだったんじゃないかな。勿論、僕らにとってはそうじゃないけど、神……異世界の人にとってはそうなのかもって。僕を認めたのも、僕がヘルの認めた人間だったからなのかも」

「ヘルが認めたから……?」

「ヘルは自分の目的を果たすため、あらゆる条件から――例えば座標の巫女のつがいとしてとか――そういった全部から逸脱した存在である僕を選んだ。僕が全ての〝期待外れ〟だった事が、ヘルにとって一番望ましい条件だったからね。そんな僕だから、万に一つも世界に対して何かを出来はしないし、だからエール神はヘルの育てた僕をそのまま利用したんだと思うんだ」


 なかなか卑屈な見方に聞こえるが、よくよく吟味すれば有り得る話だとも思う。


「ディザイロウが力を取り戻さなかったのも霊授器(アルーデル)を失ったのも、そしてアルタートゥムのみんなが消えてしまったのも、最終的にはエール神の望んだ形になっている。ディザイロウにだって、あの〝三つの力〟がある限り、異世界とこちらの世界を繋げる可能性は残ってしまう。星の城(ステルンボルグ)やシエルもそうだ。だからその全部を綺麗に消すために、あえて僕やディザイロウをカンヘルに吸収させた。そして使用後に失われてしまう事が決まっている限定的な力をディザイロウに与え、全部を消去させた」


 前にザイロウこそが滅びの獣だと、エポス達は偽りを述べた事があった。だがもしイーリオの言葉が当たっているなら、それは真実だったのかもしれない。


 この世界を、ある意味においては滅ぼしていると言えるのだから。


 鎧獣(ガルー)のいる世界。

 異世界からの介入がある世界。

 そのことわりは、消えてしまったのだから。


 イーリオ達が星の城(ステルンボルグ)に赴いたあの時、鎧獣(ガルー)も徐々に消えていくとアルタートゥムは言っていたが、事実、神之眼(プロヴィデンス)持ちは減少しつつあるという。

 この後どれくらいかかるかは分からないが、いずれこの世から鎧獣(ガルー)は完全にいなくなるだろう。


 これはイーリオ達ですら知り得ぬ事だが、この惑星を囲っていた軌道衛星・星の城(ステルンボルグ)は、大戦の折に一部が破壊された事で崩壊がはじまり、それは徐々に広がっていったのである。

 中央演算装置の完全崩壊にはまだ数百年の時間がかかるが、少なくともこの世界の人類が宇宙にまで進出する頃には、跡形もなく消えているのは間違いなかった。



 ちなみにこれは余談であり遥か先の話だが、記録された最後の鎧獣(ガルー)は、〝カイゼルン〟を名乗った人物が駆っていたという。



「全てはエール神の思惑通り……。私達はただ手の平の上で踊らされただけだったと……?」

「そういう事になるよね。でも、僕はそれでいいと思ってる。利害が一致した結果、と言い換えてもいいかな。どちらにせよ、神によって振り回される世界より、苦しかったり間違っていても、自分達の足で、手で、魂で進んでいく未来の方が、きっといい事だと思うから」

「そうですね」


 イーリオが娘を愛しげに見つめた。


「そういえばお名前はもう決めてあるんですか?」

「うん。女の子が生まれたらこの名前だねってシャルロッタと決めていたから」

「どんなお名前ですか?」



「オリヴィア」



 オリヴィア・ヴェクセルバルグは、すやすやと寝息をたてて母の腕の中で眠っている。


「とても強い女性になりそうですね」

「そうかもね。でも、オリヴィア様のように最強になんてならなくってもいいんだよ。ただあの人のように、強くてまっすぐな心を持った大人になってくれたら、それで」

「きっとそうなりますよ」


 ドグレールは母親譲りの銀髪だが、オリヴィアは父親譲りの緑金の髪色をしている。瞳は二人とも同じ緑金だが、娘の方がイーリオ似なのかもしれない。


 そのドグレールが、またディザイロウを伴って、こっそりと離れた所で蹲っていた。


 また何かしてるなと、イーリオは息子を呼ぼうとするが、その前にレレケが「何をしてるんですか、ドグレール君?」と一緒に遊ぼうかと近付いていった。


 その際、ドグレールを少し笑わすというか驚かせてやろうと、レレケはいつもの眼鏡をかけてみる。


 仰々しいツマミのついた彼女ならではのこの眼鏡は、子供からすると道化のように面白く見えるらしい。それを分かっていての事だったのだが――。



 ドグレールに近付いたレレケの目が、気持ちの悪いトカゲのようなもの捉えてしまう。



 真っ黒なのに体表が渦を巻いているように蠢いているのが分かった。まるで皮膚がかき混ぜられた沼のようだ。瞳も緑色をしているのに黒く血走っていて、毒気も多ければ何故か嫌悪感を抱かせる不気味さ。


「ドグレール君……それは……?」


 思わず声を潜めてしまうレレケ。

 振り返ったドグレールが、驚きに目を丸くしていた。


「おばさん、これ、みえるの?」

「え、ええ……」

「ぼくだけがみえてるんじゃないんだ。よかった」


 無邪気な笑顔で笑うドグレールだが、気味の悪い生き物に、レレケは思わず後退りそうになる。


「あ、とうさまやかあさまにはないしょにしててね」

「え?」


 どうして――と言う前に、素早い動きでディザイロウがそのトカゲを咥えると、牙を立てて咬み砕き、ひと息で呑み込んでしまう。


「――!」

「ね、ないしょだよ」


 呑み込んだディザイロウは、平然としている。


 変化もなければ異常もなさそうだった。

 ドグレールも無邪気なままだった。


 ディザイロウが咬み砕いた際に零れ落ちた前足の一本が、地面で蠢いていた。

 それをまじまじと見ていて、レレケは気付く。


 眼鏡を外して見ると、その足は見えない。だが眼鏡のレンズごしだとはっきり写っている。ただそれは数秒もせぬ間に、黒い靄となって消え去ってしまったが。


「これは……」


 レレケの眼鏡はただの大仰な飾りではなく、鎧獣術士(ガルーヘクス)の視覚空間と同じものが見えるように出来ている。突き詰めればそれは霊子的空間であり、このトカゲのような生き物は、術式の空間にのみ存在する仮想生物のようなものだという事。

 だからディザイロウが呑み込めたのだと推察出来るが――

 そこでレレケは気付く。


 ――今のはまさか、次元竜神(カンヘル)の欠片……?


 プルートイオンの結晶のようなもの。

 それが擬似生命となっているのではないかと、レレケは悪寒を覚えながら推察した。


 最後に亜空間の涯に消え去った時、己の細胞や力の一部をそのような形で残したのではないか。それが飛び散り、潜んでいるのだとしたら……。


 それもおぞましい事だが、その事よりもトカゲが見えるドグレールに、レレケは何よりも驚いていた。


 もしかするとドグレールには、母親が持っていた聖女の力の一部が混ざっているのかもしれない。


 ドグレールが生まれたのは大戦から一〇ヶ月後だ。

 つまり、まだシエルがシャルロッタと共にいた時に生命が芽生えている可能性があり、そうすると、あのシエルからほんの少しだけ受け継いだ、力の欠片のようなものがあるという事も可能性としてなくはない。


 そこでハタと、レレケは気付く。


 イーリオはさっき、異世界由来のあらゆるものが消え去ったのは、エール神の計画だったのではと語った。


 では何故、ディザイロウだけは消えなかったのか。


 単に三つの力や霊神融合(コーザリア)由来の力がなくなり、ただの鎧獣(ガルー)と同じになったからだと、レレケは思っていた。

 それはイーリオも同じ考えだろう。だから彼も、ディザイロウの事は言うまでもないと触れなかったのだ。


 しかし、もしさっき見たトカゲがカンヘルの残滓であり、そんなものがこの世界に残ってしまう可能性までエール神が考慮に入れていたのだとしたら……。

 そしてディザイロウならば、そのカンヘルの力を打ち消せるのだとしたら……。



 どこまでが真実で、どこまでが間違た考えなのか――。



 どうあれ、全ては今のところ、何の確証もないレレケの妄想でしかないのだ。

 確かめようはあるかもしれないが、果たしてそれを暴くべきなのかは、彼女にも判断がつきかねる事だった。

 仮に、考えの全てが当たっていたとしても、ドグレールに備わった〝力〟――見破る目がある事は、エール神でも予想外ではないだろうか。そうかもしれないし、それすら計算の内かもしれない。

 どちらにせよ、ドグレールがいる以上、自分などは必要ないのかもしれない。

 そんな風に、レレケは思った。


「そう……ですね。私も内緒にします」


 レレケの返事に、ドグレールは屈託のない笑顔で笑った。


「ありがとっ」

「一つだけいいですか、ドグレール君」

「なぁに」

「もしも今のトカゲさんやそういう気味の悪い何かで困る事があったら、私に相談してください。私も貴方のお父様とお母様の友人ですし、ああいう生き物については、お父様よりも詳しいんですよ。だからきっと、力になれると思います」

「うん、わかった!」


 笑顔に笑顔で返し、「じゃああっちへ」と言ってレレケは少年の手を引っ張っていく。


「何のお話をしてたの?」


 と尋ねるシャルロッタに、レレケとドグレールは顔を見つめた後、


「ないしょ」


 と言って笑った。


 そんな姿に、イーリオやシャルロッタも釣られて笑った。

 離れた屋敷の方では、彼らの朗らかな様子に、大陸諸国の王達が暖かな目で見守っていた。


「あ、ゆき」


 ドグレールの呟きに、皆が空を見上げた。

 ふわふわとした雪が、透き通った遥か彼方から舞い降りてくる。


 まだ形も丸い、玉雪が一つ、二つ――。

 

「おとうさま、ぼくね、あのね」

「何?」

「ぼくね、おっきくなったらおとうさまみたいなきしになるんだ」

「騎士に? お父様みたいなら錬獣術師(アルゴールン)じゃないの?」

「ううん、きしだよ。だってみんないってたよ。ハーラルのおじさまもいってた。おとうさまはすごいきしだったって」


 ドグレールを抱き上げて、イーリオは苦笑を浮かべる。


「あいつめ……またそんな事を教えて……」

「だからぼく、きしになるの。ディザイロウといっしょに、きしになってオリヴィアをまもるんだ」


 小さな勇者のささやかな誓いに、イーリオ、シャルロッタの夫婦はほんの少し驚いた後、少し気恥ずかしげに微笑みあった。


 イーリオという英雄に認められた、もう一人の英雄。


 その〝彼〟から名前を継いだこの子なら、きっとその誓いを守り抜くだろう――。


 そんな風に思いながら。


「ねえ、おとうさま」

「今度は何?」

「また、おとうさまのおはなし、むかしのおはなし、きかせて。ぼくとおなじおなまえの、すっごいえいゆうのおはなし」

「ああ、いいよ」


 イーリオは、優しく微笑んだ。



 こんな風に思う事があった。


 きっとこの子も――いや、この子だけでなくどんな人にも誰にだって、躓く時はあるだろう。


 辛くて打ちひしがれたり、胸が張り裂けそうな夜もあるだろう。


 けれども君の知っているイーリオなら、ドグなら、レレケなら――前を向いて進んでいくはずだ。だからそれを、忘れないでほしいと。

 そんな風に、イーリオは願った。





 ――その記録こそが、この物語。



 苦しくて目を背けたい時がきたら、彼らの冒険に思いを馳せるのもいいかもしれない。


 休んだ後、目の前にあるその先には、彼らが辿り着いたような暖かな世界があるかもしれないのだから。


 どれだけ計り知れない困難があっても、絶望だけの終わりなんてあるはずがない。


 諦めさえ、しなければ――。




 これは、獣の力をその身に纏った騎士たちが織りなした、人外の戦語り。


 一人の若者が導いた、偉大なる獣の王たちの物語。




 そして――。




 これからの冒険を生きる、全ての未来ある子供達に贈る物語。






挿絵(By みてみん)






 銀月の狼 人獣の王たち




 終幕。



長い長いこのお話を最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。


この後、「あとがき」として作者の私からこの物語についてのメッセージのようなものを一話を使って書かせていただきました。

蛇足と感じるかもしれませんが、お読みいただけると嬉しいです。

勿論、作品だけで結構、として読み飛ばしていただいても全く問題ございません。


かえすがえすもここまで読んでいただき、心からお礼申し上げます。

ありがとうございました。



また完結後のアナザーエピソードとして、本作のサイドストーリー的な短編も後日掲載いたします。



また現在、新作の『僕は聖女兵器』を連載しています。

https://ncode.syosetu.com/n5300jx/

そちらも楽しんでいただけると嬉しいです。

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