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野良猫の言い分
作:crea



野良猫のパラダイムギャップ


「ラーは、パラダイムシフトって知らないよね」
「ンニャッ?はい、中学生ですから」
「そんな時だけ中学生を言い訳にするなっちゅうの。20歳にもなって」
「でもー…人間年齢では、まだ4歳にもなってないし」
「人間は、自分が生まれ育った時代や、その国の習慣、文化に合わせるのに時間が必要なの。 あんた猫だから依るべきパラダイムなんてないでしょ。じゃあ説明するね」

 ニュートンパラダイムって言葉、物理学の分野では万能を意味していない。
 リンゴが何故落ちるかなんて、それ以前は理論も実証もない形而上学的な問題だった。「物体は地面が好きだから」と答えても、その国の宗教を否定しない限り、誰も反論しなかった。
 それをニュートン力学が証明したことによって、物理学には社会を巻き込むほどの著しいパラダイムシフトが訪れる。物理学という狭義でのパラダイムが、社会学としての意味を持たされた。
 物理学上のニュートンパラダイムに対応するように、社会は資本主義へとパラダイムシフトした。
 日本では1980年頃までにニュートンパラダイムによる資本主義は完成したといえる。
 社会的な、特許に類するルールも整備され、工業的な技術さえあれば、イケイケ資本主義の未来は約束されたかのように思われた。
 しかし、物理学は第二次世界大戦後、既にアインシュタインパラダイムへとシフトしていた。
 その後、相当の期間を経てパソコンの登場以後、社会には急速なパラダイムシフトの波がやって来た。
 最早、工業的技術の優位性は、資本主義発展の原動力になり得ない。
 国際マーケットの中心は、ニュートンパラダイムにシフトしたばかりの後進国だからだ。
 車は、荷物が運べればいいのだ。テレビは情報が得られればいいのだ。
 日本車でなければ用を足さない理由が見つからないのである。
 30年前の日本車は、当時の日本経済を支えるために、十分機能してきたし、テレビだって20インチのブラウン管仕様で、国民の娯楽の王様であり得たのだから。

 現在の日本が売りにしている工業的技術は、必要最低限ではなく、国あるいは企業がメディアにパブリシティーすることで、ターゲットオーディエンスの際限のないスーパーフラットな欲望を掻き立てることによって、付加されるオプションに過ぎない。
 電化製品や携帯電話の機能のほとんどは、高齢者にとっては邪魔なものといえる。今後、日本の高級車や大型液晶テレビは、アメリカのサブプライム層を除外したプライム層以上の人々に関心を持たれるに留まる。

 しかしながら、皮肉にもアインシュタインパラダイムによって、複製可能な有利性を確保したことで、スーパーフラットな欲望にまみれた日本が世界を席捲しているものがある。
 それがポップカルチャーと呼ばれるアニメやゲームの類だ。
 何故ポップカルチャーだけは、世界に受け入れられるか?
 お気付きのように、限りなく廉価、場合によっては無料だからというのも理由のひとつではある。

「解りましたか、ラー」
「スーパーフラットな欲望というのは、工業製品やアニメ、ゲームなどにパラダイムシフトを巻き起こすほどのこともない、単なるディテイルの変更にも拘らず、意図的なパブリシティーによって扇動された欲望だということです。日本のポップカルチャーが世界に通用している理由、他にもあるんですか?」
「なかなかいい質問だね、ラー」
「って、先生の話の流れからいって、そうなるんでしょ?」
「説明します」

 マンガを例に採ってみよう。
 海外のマンガは、「主義主張」、中でも勧善懲悪ものが多い。理由としては、宗教からの影響が多いからだ。あとは「ナンセンス」くらいかな。
 海外でも、欲望まみれとまでは行かなくとも、資本主義のシステムは存在する。
 そのような状況下、善も悪も関係ない「競争原理」マンガが受け入れられているのだ。
 日本では勧善懲悪ものなんて、昔話の世界でしかない。
 「ナンセンス」「主義主張」「競争原理」、以上三つのカテゴリーのうち、「競争原理」マンガが海外の若者、の中でもどちらかといえば、弱い立場の者に勇気と、現実では味わえない達成感を与えて来たのだ。
 「ナンセンス」マンガは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」「アラレちゃん」、「主義主張」マンガは手塚治、松本零士の一連の作品、「競争原理」マンガに至っては、数限りない。
「競争原理」マンガには座標軸が存在する。
 X軸は常に時間であり、Y軸は金、恋愛、優勝、一般的にYの値はプラスで完結するが、それがマイナスで完結すれば、そのマンガは悲劇だということになる。
 ところが、海外でバカ受けの「競争原理」マンガが、日本では既に衰退して来た。
 それを説明するには、戦後の日本の経済と教育の相関を示す必要がある。

 戦後の日本は、ニュートンパラダイムに基く資本主義経済と、それを支えるための教育を実践してきた。
 戦後、日本の子供たちには、極力優しく接して、チョコレートをばら撒くことと、厳しく命じられたアメリカ兵により、また、戦前まで存在していた神話性を、新憲法と新教育理論で、見事に崩壊させられたことにより、世界中で唯一、民族としてのアイデンティティーを喪失した日本人は、同時に世界一扇動されやすい人種と化していた。
 そのことは、過去に世界からエコノミックアニマルと称され、畏れられ嘲笑されたたことからも窺い知ることができる。

 現在の日本経済は、既にアインシュタインパラダイムに、どっぷりと足を踏み入れている。
 にも拘らず、教育はニュートンパラダイムのディテイル修正に留まっている。
 何故なのか?今のところ権力者にとっては、不都合がないからである。
 物理学におけるアインシュタインパラダイムへのシフトは、経済システムに影響は及ぼすが、教育への影響はニュートンパラダイムのように速やかにという訳には行かない。
 何故なら、イケイケのまま教育をシフトしてもだいじょうぶなニュートンパラダイムと違って、アインシュタインパラダイムには制約が必要だからである。
 それは、多くの場合経済の停滞、あるいは衰退を意味するので、権力者にとっては不都合といえる。
 生体分子工学の範疇では、万能細胞などの利用方法には、海外の宗教的倫理観により、今後、国際的ルールが創設されるかも知れない。
 しかし、量子論や相対性理論は、経済においても教育においてもイケイケのまま放置される。
 原子力発電のパブリシティーについては、その動向が注目されるところである。

 ところが、日本人が如何にパブリシティーに扇動されやすく、欲望まみれといっても、人間であることに変わりはない。
 資源の量に劣る経済の閉塞感、ディテイルばかりを取り上げるメディアと教育。
 日本のポップカルチャーは、そんな状況下に置かれた若者を、そのまま反映したものに変わりつつある。
 ニュートンパラダイムに基く「競争原理」マンガには、X軸とY軸からなる座標軸が存在した。
 しかしながら、世相は明らかにアインシュタインパラダイムとの摩擦による、パラダイムギャップにより混迷している。
 更に、ランドールパラダイムともなれば、座標軸は放射状に散逸、あるいは存在すらしなくなる状況が考えられる。

 「競争原理」マンガでは、主人公は座標の中のある点から時間の経過とともに上昇したり下降したりして、物語を形成していく。
 ところが、座標軸の存在しない物語の中では、主人公が通過するべき定点も存在しない。
 主人公は、目標を持たないただの点として、時空間にふらふらと存在するのみだ。
 「パラダイムギャップ」を孕んだポップカルチャーを説明するには、今流行のラヴソングを取り上げる方が、理解しやすいだろう。

 今流行っているラヴソングの特筆すべきは、キリスト教的な宗教の教義に近いということだ。
 私は善人ですなんてことを、臆面もなく相手に訴えかけて、恋愛関係を構築あるいは守り切ろうとしている。
 理由は歴然としている。貧しくて将来の自分に自身さえ持っていないからだ。
 今の時代、将来を約束された若者の数は、約束されていない若者に比べ、圧倒的に少ない。
 努力が報われる保障を、経済システムや教育は与えてくれない。
 「パラダイムギャップ」の字空間をふらふらしている大多数の若者は、現実の社会の中で拠りどころを見付けられない。
 宗教が社会と密接に関係していない日本で、若者は恋愛の中に拠りどころを求めているのだ。
 殉教者のようにラヴソングを口ずさむ若者の表情は、貧しさに歪んでいる。
 「競争原理」のポップカルチャーが世界を席巻しても、「パラダイムギャップ」のポップカルチャーが世界に受け入れられることは、絶対にあり得ない。
 幼い頃から「競争原理」のテレビゲームという仮想世界で、夢を見ていた若者が、現実世界で「パラダイムギャップ」に遭遇し、宗教じみた恋愛観に拠りどころを求める。
 これが、今の日本の若者文化ってところかな?












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