野良猫のアインシュタイン・パラダイム
境内に植えられた桜の中の一本が、季節外れの花を咲かそうとしていた。
それは地球にとっては些細な現象であり、猫には何の影響もなかった。
もちろん、桜の樹自身にとっても、どうでもいいことだった。
「他の桜も咲かないかなー。そしたらまた、お花見しようよ」
先に鳥居の下まで行っていたラーは、柱で爪を研ぎながら、いたって無邪気なものである。
「そうね」
「あのさーアム」
「なによ」
「ニュートン・パラダイムのこと、もう少し聞きたいんだけど」
「いいわよ。じゃあ教室で」
「えっ、何処の?何処の?」
「あんたの部屋よ」
「えっ?家に上がるのあんなに嫌がってたのに、気に入ったの?」
「まあね。奥さんも顔を出さないし」
「そうでしょ、アムが来たときには遠慮するように言ってあるもの」
ラーは得意そうにスキップした。
家の近くまで来たところでラーが「シロが飼われてるのは、私の家よりちょっと先だけど、見に行く?」と言った。
「行かない」
アムは、ラーの家までの道筋にシロがいなくなったのなら、ラーとの昼食の回数を増やしてもいいなと考えていた。
家に着くとラーは「ちょっと待っててね」と言って、玄関ドアの猫用入り口の中へ消えた。
しばらくすると中から「ニャー」と呼ぶ声がした。
真っ白なカーペットが敷かれたラーの部屋の真ん中には、一昨日と同じ綺麗に洗濯された緑色のテーブルクロスが広げられていたが、レストランのような食器類ではなく、普通の猫用の餌入れが置かれていた。
猫用ペットフードを何種類かブレンドした餌は、ラーのものとアムのものでは随分違っていた。
アムの餌は何種類かが均等にブレンドされていたが、ラーの餌はすごくバランスが悪い。
「いくら鰹味が好きだからって、偏食ばかりしてたら痛風になっちゃうわよ」
「私は20歳でしょ、50歳で痛風になるとして30年先か、その頃には地球…は関係ないか、じゃなくって生態系の半分以上は淘汰されて、この辺りに住んでる猫も例外じゃないって言ってたじゃん。だったら別に気にしなくてもいいもんね」
「人間のルールを猫年齢に換算しないでよ。あんたが猫年齢110歳まで生きていれば淘汰される可能性大だけど。50歳から110歳まで、色んな成人病とお友達でいたい訳?」
「餌、交換してくれる?」
ラーは自分の餌入れに右手をかけて、ズリズリとアムの方へ押し出した。
「次からにすればいいでしょ」
「先延ばしは言い訳だって、アムがいつも言ってるじゃない」
「あんた、少し賢くなったんじゃない?でも交換してあげない。もう一つ選択肢があるでしょ」
「どんな?」
「食べないことよ」
結局ラーは、大好物の鰹味昼食を、半分以上食べ残した。
「意地っ張りなところは、相変わらずね」
昼食後、ラーはビデオを観ようと言い出した。
「電話してちょうだい……」「電話してちょうだい……」
○○ピアノのコマーシャルが何度も流れ、ラーは楽しそうに体を揺らしていた。
「猫だねえ…」
アムはニュートン・パラダイムの説明が、決して簡単ではないと覚悟せざるを得なかった。
「フーッ…」
仕事が終わって一息ついたというように、ラーはビデオを停止させた。
「じゃあ始めようか」
「何を?」
ラーは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてアムを見た。
「ニュートン・パラダイムよ」
「ラジャ!」
「出席を取ります。ラー」
「私一人ですけど、教授」
「余計なことは言わないの。それに私のことは先生と呼ぶように」
「でもー、講義を受けるなら教授でしょ、だった准教授?」
「猫には金に任せて行ける大学なんてないの。20歳でもあんたは中学生がいいとこ。だから先生と呼びなさい」
「はーい」
「じゃあ始めます…コホン」
アムは丸めた右手を口許に当てて咳払いしたつもりだったが、実際は爪が少し動いただけだった。
未開発国家=本能的な欲望×(人力)
新興経済国家=機能的な欲望×(石油)
=ニュートン・パラダイム(資本主義の隆盛)
先進経済国家=スーパーフラットな欲望×(生体分子工学・量子論・相対性理論)
=アインシュタイン・パラダイム(資本主義の混迷・破綻)
先進経済国家の辿った、科学に基づく社会構造変遷の歴史は、現代の地球上に遍在してい る。
日本は、明治以降ニュートン・パラダイムによる幸福の実現、戦後以降幸福の意味の喪失という過程を経てきた。
そして現在、新興経済国家に対して、苦言を呈す立場に甘んじている。私たちの過ちを繰り返すことなかれと…。
確かに、二酸化炭素を撒き散らしての経済成長は、如何なものかと思われる。
しかし、ニュートン・パラダイムに基づく、科学技術の進歩、経済の発展は、ある意味では新興経済国家の国民に幸福をもたらしている。地球環境に悪影響があるとしても、親が子に、自分の若き日の過ちを繰り返すなと言いながら、自分の現在の行動においても相変わらず間違いを犯しているなら、説得力に欠ける反面教師でしかない。そのような私たちには、機械文明の恩恵を享受したいという、人間の欲望を否定する権利はない。ニュートン・パラダイムは本質的にイケイケなのだから。
すでに大量消費から無限浪費に変化したアインシュタイン・パラダイム国家の責務は、生体分子工学に倫理観を持ち込むのは当然のこととして、量子論の展開などにより無限の生産性を導き出す経済システムにも、倫理観を構築することだと言える。
量子論を駆使すれば、パソコンや携帯電話に次から次へと新機能を付加し、商品化することなど容易い。生活必需品とは思えないものを浪費させ続けるために、日本の経済システムが導入したのが、国民の生活自体をゲーム感覚に貶めることだ。
全ての欲望はスーパーフラットの地平で、決して満たされることがない。
流行の先端を走り続けることは時代遅れであると認識すれば、アインシュタイン・パラダイムの混迷や破綻は解消できる。以上
「何か質問は?」
「はい先生。スーパーフラットな欲望って、良く分かんないんですけど」
ラーが手を挙げながら質問した。
「猫にはない種類の欲望ね。あんたなら、電話してちょうだいのビデオがあれば、一生楽しめるでしょ。それが本質的な純粋欲望だとすれば、何らかの、例えば無限に消費させるために、本質を差異化しながら更新していく手段ね」
「ナミエちゃんのDVDも好きだけど……」
「だったらそれは、本質的なものだと言うしかないわね。猫がスーパーフラットの地平に迷い込むなんて、絶対にないはずなんだから…でもラーの場合はねえ……」
「先生、それは失礼だと思います。ってか、スーパーフラットな欲望について、もう少し話してもらえませんか」
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