不老長寿の花
「本当に、あった」
はずんだ声に、目を覚ました。獅音が声の方を見ると、無数の菊の向こう側に、赤い着物の娘がいた。年の頃は二十程。着物と同じ色に頬を染め、大きな目を輝かせている。
獅音は身体を起こした。彼が足を踏み出すと、咲き乱れる菊はまるで意志を持っているかのように、そっと花弁を揺らし、彼を避けた。獅音は菊に注意を払うことなく、まっすぐに歩んでいく。
娘が、獅音に気づいたようだった。彼女は二度まばたきをし、それから微笑んだ。
「こんにちは。綺麗な花畑だけじゃなくて、素敵な男の子もいるのね。あなた、ここの番人さん?」
獅音は答えない。娘の目の前まで歩を進め、立ち止まる。
並んでみると、娘のほうがよほど背丈が高かった。見上げる形に首を持ち上げ、獅音は娘を見つめた。
美しかったであろう着物はあちらこちらが破け、むき出しの手足には複数のすり傷。額には血の乾いた跡もある。
これだけの思いをしてこの地を訪れ、それでもこうして微笑む者など、いままでいただろうか。
獅音の胸に、ほんの少しの興味が湧いた。息を吸い込んで、ほとんどを吐き出す。残った空気で、一年ぶりに言葉を紡いだ。
「君の、名前は?」
幼い声が空気を揺らす。娘は少し驚いたようだったが、もう一度笑って右手を差し出した。
「わたしは鈴花。麓の村から来たの。言い伝えのとおりね、なんて素敵な花畑! ここで暮らしているなんて、羨ましいわ、獅音」
獅音はその手を握り返さなかった。そう、とつぶやいて踵を返す。
菊の前で、膝を折った。
淡い淡い、菊の花。黄とも紅とも白ともいえる。それらは光の加減で色を変え、決して自己の主張はせず、風のままに揺らいでいる。
そのうちの一輪に、手を伸ばした。摘み取ることはせず、感情のこもらない仕草で、撫でる。
「これを採りにきたんだろう、鈴花。今日は九月九日だから」
「そうよ。ひょっとして、わたしのほかにも来たのかしら。今年はわたしで何人目?」
「一人目さ」
少しの笑みさえ含ませず、淡々と獅音は答えた。傷だらけになりながら、無邪気に問う娘を見上げる。
「この地を心から信じ、過酷な道のりを乗り越え、強い願いを込めなければ、ここを訪れることはできない。一年に一人、君でちょうど千人目だ」
鈴花は目を見開いた。
すぐに花に視線を戻してしまった、美しい少年の横顔を見る。
なんて哀しそうな目だろう、と鈴花は思った。しかし、それを口にすることはためらわれた。獅音と名乗った少年は、あらゆる干渉を拒絶しているかのようだった。遠くを見ているような、しかし何をも映していない、深い深い瞳。
鈴花は、その目を知っていた。
だからこそ、何もいえなくなった。
「綺麗な菊ね」
代わりに、そうつぶやいた。獅音が顔を上げた。
二人の間に、緩やかな風が吹く。鈴花は地面に膝をつくと、菊に触れてしまわないよう、注意深くそれを愛でた。
「なんて綺麗」
初めて、獅音は笑った。奇妙に歪んだ笑みだ。
「さっさと食らえばいい。どれでも好きなものを、一輪。言い伝えは真だ。これを食らえば、不老長寿が得られる」
「そうね」
しかし、鈴花はそうつぶやいただけだった。陽が雲に隠れ、影が差す。
薄暗くなった花畑に、僅かの音も響かない。風は音色を奏でず、虫も鳥もここには来ない。
まるで久遠の時のようだった。
一枚の絵に収まってしまったかのような雲が、それでもゆるやかに輪郭を揺らし、やがて陽が顔を出す。
鈴花は息を吐き出した。
着物に土が付くのも厭わず、花畑に身体を横たえた。見下ろす菊たちに、薄く笑いかける。
「望みがあったわ。どうしてわたしが、ここへ辿り着いてしまったのかしら。もう、意味などないのに」
「食らわないのか」
「意味がないの」
重ねて、鈴花はいう。それは意志のこもった、固い言葉だった。獅音は眉をひそめた。
「何故。そのために来たのだろう。これを食らえば、君は老と死から解放される。君の……」
続けようとして、獅音は少しだけためらった。
無防備に横たわる、娘の目を見てしまった。深遠の色。確かな願いと、そして揺るぎない事実とを宿した、哀しい色。
「……君の、いまにも消えそうなその命も、例外ではないというのに」
「違うのよ」
鈴花は目を閉じた。
閉じてしまえば、あらゆるものが蘇った。生まれた命、消えゆく命。救えるなどと信じていた、愚かな自分。そして、消えてしまった命。
本当はわかっていたのに、辿り着いてしまった。
重陽のこの日に。菊の咲き乱れる、この場所に。
「こどもが死んだの。生まれてから、たったの三日で。病持ちから生まれた子よ、長くないってわかってた。それでも、希望を捨てられなかった。結局、今日の陽が昇るのを待たずに、死んでしまったわ。重陽の菊をと願っていたの。九月九日、食べれば不老長寿が得られるという、神秘の花。そうすれば、きっと未来へ繋がると思ったから」
鈴花の閉じた瞳から、涙は流れなかった。
けれど獅音には、彼女の目から美しい何かが、流れ出るのが見えた。それは、獅音が初めて目にするものだった。
千の年月。
毎年の九月九日、重陽の日に、不老長寿の菊を求めて、人間が訪れた。
彼らはためらわず、菊を食らった。
不老長寿を得るのだと、むさぼるように。
最初はたった一輪だった、重陽の菊。
一年後の九月九日に、それは二輪になった。
二年後の九月九日に、それは三輪になった。
それから毎年、一輪ずつ。食らわれた数だけ、増えていった欲深き花。
彼らは不老長寿を得たのだ。
人間であることを放棄して。
「あなたはとても哀しそうだから」
許すかのように、愛おしむかのように、鈴花はとうとう、そう口にした。
「わたしはここで、眠るわ」
「ああ……」
獅音は空を仰いだ。
千年前と変わらない空。
あの日は、一輪の菊しかなかったけれど。
花を食らう人間たちを、ずっと、見てきた。
千年の昔、愚かな自分がそうしたように。
「これでやっと、終わるのか」
千輪の菊が、風に揺れた。
菊であったものは人の形を取り戻し、それらは歌うように淡く淡く、空の彼方に昇華した。
読んでいただき、ありがとうございました。
これは、田中M氏先生にいただいたイラストに物語を加えさせていただいたものです。