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──何故、「やる」と言ったのだろう。
授業に出る気にもなれず、キャンパス端のベンチで、鮒木は敗戦投手のように肩を落としていた。
銀崎の指摘は正しい。鮒木に戦う理由は、もはやない。
秘めた想いを銀崎に知られていたことはショックだったが、すでにかすみへの執心は失われていた。憑き物が落ちたように、と言うべきか。
怒りの拠り所であったプライドも、真実の前にはちっぽけでしかない。敵は、十五年の歳月をマインスイーパに費やしてきた怪物なのだ。マインスイーパ暦半年の自分に勝てる道理はない。
だが、もっとも本質的な違いは、両者の姿勢にある。
鮒木は失恋の理由を、絵の才能の不足に求めた。もっと絵が上手ければ、かすみを引き止められたという理屈だ。乱暴過ぎる結論だが、裏返せばそれは、絵に賭ける誇りの高さを意味する。
──自分にとってマインスイーパとは、捨てた絵の代償行為に過ぎないのではないか?
心の何処かでわだかまっていた黒い疑問は、銀崎という名の太陽に照らされ、惨めな姿を露呈したように思われた。
馬鹿なことをしていると、ずっと自嘲してきた。それは、自分のマインスイーパが、逃避の手段にすぎないと感じていたからではないか。
そんな偽者が、本物に勝てるはずもない。
──何故、「やる」と言ってしまったのだろう?
今すぐ逃げ出したかった。銀崎だけでなく、この世界の全てから。
マインスイーパに没頭することで、今日までそうして来たように。
「お前なら、そう言うと思っていた」
銀崎の返答は、至極あっさりとしていた。
月が笑えば、あんな表情になるかもしれない。
その時の気持ちを、どう表現すればいいのだろう。
胸に火を点されたような誇らしさと、一抹の後ろめたさ。
似たような感覚には、覚えがある。
自分の絵を、初めて、誉められた時だ。
嬉しい反面、過大評価であることを怖れた。
ああ、そうか──鮒木は気がついた。
逃げ出したいのは、銀崎の期待に応えられないからだ。
唯一のライバルと認めてくれた人物に、幻滅されたくないからだ。
半年近くも宿敵と憎み続けてきた、今日、初めて会話したはずの、銀崎という男が、自分の中でこれ以上なく大きな存在になっていることを、鮒木は認めざるをえなかった。
銀崎に負けず、鮒木も他人に興味のない人間だ。
それは、誰も鮒木に興味を持たなかったからだ。
自分を認めない相手を、認めてやる必要はない。
だから友人はいないし、いらない。例外はかすみだけだった。
そのきっかけは、自分の絵を認めてもらえたから。
銀崎もそれと同じだった。
異なるのは、銀崎が掛け値なしの本物であることだ。
夕日を背に受け、長く、誰とも交差せず伸びた影。
今日何度目かの溜息を、鮒木は漏らした。
逆の立場ならどうだろうと、ふと考える。
銀崎が自分の立場なら、どうするだろうか?
きっとマインスイーパから得た教訓を活かし、活路を見出すはずだ。それがわずかな勝機であれ、あきらめず勝負に出るのがマインスイーパの定石。弱い心が生むのはタイムロスだけだ。覚悟を決め、されど死を恐れず、最適の方策を見出して実行する──それしかない。
「……はは」
我知らず、笑いが漏れた。
自分にも出来ると気付いたのだ。
銀崎の言う、マインスイーパに即した思考というものが。
胸が急に軽くなった気がした。
頭をもたげ、彼方に輝く夕雲を見上げる。
この夕焼けが夜空になれば、タイムリミットだ。
だが──時間制限には、慣れている。
精神が持ち直すと、次第に現実が見えてきた。
実際問題として、銀崎の十五年に、鮒木の半年は敵うべくもない。
無論、後一時間ばかりで、その差が埋まるわけもない。
単純に比較すれば、絶望的な状況だ。
しかし、その実力差をもっとも読み取れるはずの銀崎が、鮒木をライバルと認めているという事実がある。
逆説的に銀崎の眼力を信じるなら、何らかの勝利要因が鮒木には存在するはずなのだ──自らは気付いていない可能性が。
星の見え始めた夕焼けを睨みながら、鮒木は答えを探し続ける。
銀崎の過去、自分の過去。銀崎の十五年、自分の──
稲妻のような閃きが、全身を貫いた。
鮒木は、迷わず立ち上がった。
夜の帳が、東の空に降り始めている。
もう一刻も無駄に出来ない──そう思った。