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それは、二限目の授業開始前のことだった。
大学一回生で満たされた大教室。始業ベルはすでに鳴っているが、教授の姿はない。定番の遅刻に慣れた生徒達は、おのおの糸一本の警戒を残しながら、歓談に興じていた。
「──ね、ひどいと思わないっ?」
よく通る声は、横井かすみだ。山盛りのママレードのような愛嬌を振りまきながら、取り巻きに訴えている。鮒木は、その輪から四つばかり席を外した定番位置でそれを聞いていた。取り巻きの取り巻きとでも言うべきポジションだ。
「自己ベスト寸前だった。誰でも怒る」
かすみの隣で反論したのは銀崎護だ。法学部主席、ヨット部所属、生徒会サークル次期会長候補。美男美女の二人がつきあい始めたのは入学してすぐだから、じき半年になる。
だってね? とかすみは主張を繰り返す。
昨晩、かすみは銀崎の部屋を訪ねた。だが銀崎は彼女そっちのけでゲームに没頭し、ろくに相手をしなかった。業を煮やしたかすみは、甘える振りをして背後から銀崎を抱きしめた。それが銀崎の逆鱗に触れ、大喧嘩になった──ということらしい。加えて、ゲームが理由の放置は初めてでなく、これまでも何度かあったとか。
いつもなら痴話喧嘩で済まされるような話題だが、他にネタもなかったのだろう。銀崎の気持ちもわかるという男性陣と、かすみに同情する女性陣に別れた議論は平行線を描くかに思われたが、それも銀崎がゲームの名を明かすまでだった。
「……マインスイーパぁ?」
「──悪いか?」
関が原よろしく、男性陣は揃って掌を返した。曰く、彼女を放置して熱中するようなもんか。あれはゲームとは呼ばない、運だけ。くだらない。やる価値もない。
無言で糾弾の矢面に晒されていた銀崎だが、批判の矢が尽きるのを見計らい、一言こう、うそぶいた。
「だが、マインスイーパで俺に勝てる奴はいない」
気障とも滑稽とも取れる台詞も、銀崎が口にすれば例外だ。
思わず静まり返る面々に、一石を投じたのはかすみだった。
「じゃあ、もし誰かに負けたら、マインスイーパやめる?」
「──いいとも」
「みんな聞いた? 聞いたよね?」
興奮した面持ちで取り巻きに振り向いたかすみは、両手を広げながら、大きく息を吸った。
「トツゼンですがぁ、明日! 『横井かすみ主催、マインスイーパ大会』を行いたいと思います! 皆様、ふるってご参加くださーい! あ、銀崎くんは逃げたりしないよーに!」
「俺が勝ったら、二度と文句は言わせないぞ」
「ねーねー、かすみちゃん。オレらが勝った時は?」
「え? んーと……じゃ、かすみが何か一つだけ、お願いを聞く」
「何でも?!」
男性陣がどよめいた。「エッチいのはナシだよ?」と繰り返すかすみの声も届く気配がない。或いは意図的に無視しているのか。
「勝つ、絶対勝つ!」「今夜は特訓するぜ!」「優勝はオレのもんだ!」
異常な盛り上がりを見せる男連中に嘆息するかすみの視線が、ふと鮒木に注がれた。
「鮒木くんて、ゲーム上手かったよね?」
「……そんなでもないよ」
「またまたー! もちろん明日は参加してくれるよね?」
奇異の眼差しが二人に収束する。
寡黙な鮒木が、グループの会話に参加することはほとんどない。それでいて、常にグループ周辺の席につくため、達磨のようなその容姿と相まって、一時はストーカー疑惑を持たれたほどだ。高校からのかすみの友人として紹介され、誤解の解けた今でも、鮒木と接する人間は誰もいない。害はないが薄気味悪い、奇妙な妖怪ぐらいに思われている。
「鮒木ってゲーム上手いの?」「オタクだからじゃね?」
周囲の騒めきを他所に、鮒木はかすみだけを見た。
「…………参加、するよ」
「やったあ! がんばってね!」
その声のかすかな震えに、かすみが気付いた様子はない。
「──そだ、新しいイラストは? 最近、見せてくれないね」
「……………………」
目を逸らす鮒木。二人の沈黙は扉を開ける音に遮られた。
慌しく入室した教授に教室は波打ち、会話はそこで打ち切られた。
追想の最中も、指は自動的に地雷原を処理していく。
モニタに映り込んだ自身と、ふと目が合う。およそ、女性に好かれることに無縁の造形だ。銀崎と比べるなど、余りにおこがましい。
いや、生まれ育ちも成績もスポーツも、何一つとしてかなわない。
だがマインスイーパでは──負けない。負けるわけがない。
半年もの間、地雷原に注ぎこんだ鮒木の捻じれた情念を、かすみは知らない。その理由が彼女にあることさえも。
いつか来ればいいと、その日を夢想していた。まさか来るとは思っていなかった。
マインスイーパで俺に勝てる奴はいない──それが天才の驕りであることを、雑草の自分が衆人の前で証明する。
銀崎に勝って、何かが変わるわけではない。
それでいながら、かすみの報酬に淡い期待を捨て切れない自分もいる。
自嘲し、自虐し、それでも捨て切れず、ここまで来た。
明日でそれも終わるのか、それとも何処かに辿り着けるのか。それは、明日のみぞ知る未来だ。
腹の底に溜め続けた何かが、音もなく炎を上げていた。
倒れるまで地雷原を走らなければ、今夜は眠れない気がした。