プロローグ
マウスが動く──ポインタが動く。
クリック音を追って、パネルが次々と裏返る。
現れ出る数字は、報酬にして道標。
指先と神経を研ぎ澄まし、地雷原を駆ける──
「────ッ……」
鮒木は、二時間ぶりにモニターから顔を上げた。
肺に溜め込んだ空気を、唇の隙間からゆっくりと吐き出す。
まるで海面で潮を吹く鯨のようだった。
事実、鮒木は潜っていたのだ──海ならぬ、ゲームの世界に。
ゲーム機や漫画の散乱した自室に鎮座するパソコン。
そこに映し出されているのは、飾り気のない灰色の長方形だ。方眼状の桝目には旗と数字が並んでいる。旗は赤、数字は数によって色が違う。長方形の上段中央にはサングラスをかけた丸顔のアイコンが笑い、左右には赤いデジタルの数字が刻まれている。どれもシンプル極まりないデザインだ。
マインスイーパ──
それは、世界でもっとも普及したゲームである。
同時に、もっとも死蔵率の高いだろうゲームだ。死蔵とは、所有しながら遊ばない、遊んだことのない状態を指す。
──何故か?
前者の理由は単純で、それが世界一のシェアを誇るOS(オペレーションシステム)ソフト付属のフリーソフトだからだ。ソリティア等と並び、パソコンを扱う人間なら、その存在を知らぬという者は少ない。
では、後者の理由は何故なのか。
それにはまず、このゲームのルールを理解する必要がある。
マインスイーパはタイトル通り、隠された地雷を処理するゲームだ。
方眼で区切られた灰色パネルは地雷原だ。そこには決まった数の地雷がランダムに埋まっている。左上の数字は残った地雷の数、右上は経過秒数の表示となる。
プレイヤーはマウスでポインタを操作し、一枚ずつパネルを開いていく。地雷に当たればゲームオーバー、そうでなければ1から8の数字が現れる。数字は、周囲8マスに幾つの地雷が埋まっているかを示しており、それをヒントに地雷を回避していく。地雷と判断したパネルに目印の旗を立てながら、地雷以外の全てのパネルを開けば、晴れてゲームクリア。タイムが短ければハイスコアとなり、スコアネームを残せる。
パズルゲームのルールとしては、ごく単純な部類だろう。
フリーソフトらしい装飾のなさが、市販されているコンピューターゲームに比べ物足りないのは間違いない。だが、同じ境遇のソリティアやフリーセルにはファンが多い。どちらもトランプを使った簡易パズルだ。両者の違いとは、何か──
それは、マインスイーパの持つ、断崖のような苛烈さだ。
地雷を踏めば死ぬという、一撃死のシステム。
地雷のランダム配置が引き起こす、理不尽感。
難解、かつ初心者の疑問を突き放すような数字ヒント。
これらの原因が複合すると、どうなるか。
──初プレイで、わけもわからず、死ぬ。
これではプレイ人口が増えるはずもない。のんびりとクリアを目指すソリティアに比べ、不利なのは自明の理と言える。
フリーソフトの存在目的が作業中の息抜きだとすれば、マインスイーパは目的を逸脱した失敗作でしかない。
けれど──ほんの、一握り。
地雷原に魅了された人種が存在する。
鮒木もまた、そんな一人だった。
すっかり冷めたコーヒーを一口啜る。時計は七時を指していた。大学から帰り、夕食を待つ間に軽く二時間。日課ではない。空き時間を全てマインスイーパに費やすという習慣だ。
この半年、鮒木の生活は、マインスイーパを中心に回っていた。
早朝に起床し、目覚まし代わりにワンプレイ。大学のある日は帰ってから、そうでなければ終日モニター前から動かない。食事はマウス片手に片付け、風呂は反省会、トイレは気分転換を兼ねる。寝床でもイメージトレーニングを続け、眠れば果てなき地雷源を夢に見た。何処に出しても恥ずかしくない立派な中毒者ぶりだった。
きっかけは語るのも恥ずかしい、くだらないことだ。
自嘲し、自虐し、それでも捨て切れず、ここまで来た。
度を越えた「暇つぶし」。
親にはそう思われているし、それで構わない。
速く──ただ速く。
己の全てを研ぎ澄ませ、コンマ一秒を削る。
周回するレーサーのように。この世の全てを置きざりにするために。
それでいいと思っていた──そのはずだった。
だが、今は──
いつしか鮒木の手は、再びマウスを掴んでいた。
灰色の地雷原に重なり浮かぶ、今日の出来事を睨み付けた。