食べ吐きのクセが始まったのはいつからだったろう。
あのときエリーは、少しばかり体重を減らしたいと思っていた。
もともと太りやすい体質ではなかったけど、ハタチ前後の女にありがちな特有の気まぐれな食欲のせいで、ダイエットはうまくいっていなかった。
ある夜、エリーは人差し指と中指を喉の奥まで突っ込んでみる。
臓器が震えて、先まで食べていたものがドロドロと出てきた。驚いた彼女は、トイレへ震える躯で走った。ドロドロドロはき続ける。
予想に反して、それは痛くもつらくもなかった。
立ち上がってバスルームの鏡をのぞくと、瞳が潤んでいる。生理的な涙。唾液で湿った唇は赤々と光を反射している。
彼女は歯を磨いて、パジャマに着替えてベッドに入った。
どういう効果かはわからないが、その夜はいつもより深く眠れた。不思議な心地よさ、運動後のような心地よい疲労感がそっと彼女を包み込んでいた。翌朝、ドビュッシーの月の光が鳴って、彼女は目を覚ます。
彼女はこの、シルバーピンクの『箱』を嫌っていた。それは最近エリーが吸い始めた煙草のパッケージに似ている。でも、ベッドサイドのテーブルの上にある、それらを手に取るのに間違いはしない。
『おはよう、元気?』
「元気よ。あなたは?」
『ねえ、これからうちに来ない? パンを焼いたの。エリー好きでしょう、私の焼いたパン。』
「ええ、ええ」
適当に相槌を打って、電話を切る。
アンナからだった。
アンナは何時だって、このピンクの箱で、エリーを好きに呼び出した。
試験の前の夜だって、好きな人と過ごしている時間だって、アンナは呼び出しを拒否することを許さなかった。
エリーは念入りに衣装を選んでメイクをして、アンナに会いにいく。
いつだってそうだ。
そして、誕生日に『プレゼントよ』とアンナからもらったシルバーピンクの携帯電話を持って彼女の家へ向かう。壁や屋根を緑が覆う彼女の洒落た家へ向かうのだ。
*
初めての日から、エリーの食べ吐きは続いていた。
でも毎日じゃない。
ときどき、思い出すように大量に食べて吐いた。
おかしなもので、コツを掴んだ彼女は、もっと楽に沢山吐けるようにさえなっていた。
吐いた後は必ず鏡の前に立つ。
肌に触れる。
瑞々しく柔らかい。潤んだ瞳は爛々として、唇は血色も良く紅色だ。
もう気が付き始めている。
生まれ変わるように、エリーは美しく戻っていた。さすがに怖くなって、友人に相談すると、
「やめなさい。吐くのはとっても身体に負担がかかるのよ。肌がボロボロになっちゃうわよ。」
必死な形相で忠告を受けた。
でも、今のエリーはどうだろう?
ボロボロになるどころか、躯の内側からエネルギーが満ちあふれているように、肌は十代の頃のような弾力が蘇り、キメも整い、輝くようだ。
ドビュッシーの月の光が鳴るのも無視して、エリーは好きなものを好きなだけ食べる。
ちょっと前はダイエットのために我慢していた好きなスイーツを好きなだけ食べる。それは至福の時間だった。思いつきで、マーケットの籠に放り込んだ出来合いのお刺身、ツマも食べる。ツマに添えられた太陽みたいな飾りのタンポポも口に放り込んだ。噛まずに呑む。数時間後に吐いて、鏡の前に立って、歯を磨いて、眠りにつこうとしたところで、ドビュッシーが鳴り響いた。
『ねえ、どうして出てくれないの?』
アンナからの電話は、延々と続いて、エリーはそれをいつものように気が済むまで聞いてやる。
いつだってそうだ。
エリーはアンナより美しい女を見たことがなかった。アンナより気高い女を見たことがなかった。
出逢ったときから、方程式みたいに、エリーはアンナに逆らうことは出来なかったし、アンナもそれが当然のようにエリーに接した。エリーはアンナを嫌いなのか好きなのかもわからなかった。
「……タンポポ」
電話を切った後、無意識に呟く。
昨夜口に入れた飾り花のタンポポが躯から出ていない。
吐いたものには含まれていなかった。まあ、いつかは出てくるだろう。
軽い気持ちでいたが、幾日過ぎても、タンポポはエリーの体内から出てくる気配はなかった。
吸収されてしまったんだろうか。
まさか。あれは躯の成分に馴染むものではない、はず。
エリーは鏡を見た。
そこには、もうこれ以上はないというくらいに美しくなり続ける自分の姿がある。そして、
「あ」
見つけた。
彼女の潤む瞳の奥に、小さな小さな黄色いハナが在った。
花よりも華よりも、カタカナでハナが相応しい。宝石のように煌めいている、でも熟していない、幼い命。
芽吹いているイノチ。
「アハッ、アハハッ」
驚くよりも先に、新鮮な喜びで、エリーは高々に笑った。
瞳の中のタンポポは、身体中のどの部分よりもエリーのお気に入りになった。
*
ドビュッシーも聞き飽きたので、エリーは洒落た紙袋を手にアンナの家へ出向いた。
その日は気分も軽かった。これを逃すと当分行けそうになかった。
紙袋にはアンナの好みのアップルパイが入っている。
彼女は、その菓子店の、その包装でなければ受け取ってくれない。白い化粧箱に真っ赤なリボン。そして、リボンに巻かれた子供っぽいピンク色のバラ飾り。
「よく来てくれたわ。」
優雅に微笑んでエリーはアンナを出迎える。いつだってそうだ。
この、壁と屋根を緑が包む家で微笑むアンナは完璧で、決して電話のように怒鳴ったり僻んだりすることはない。
バラの花瓶が置かれた白いテーブルセットが置かれている、バルコニーに出ると、アンナは紅茶をいれてくるから、とキッチンへ消えた。
エリーはひとりになると、バルコニーの手すりに凭れる。
屋根の上からたれている観葉植物は、完璧なバランスで、庭に広がる光景に溶けている。
庭には小さな池があった。お姫様のお城。
垂れている青々とした葉には少しだけ黄色が混じっている。
それらを弄んでいるうちに、こそばゆいような妙な感情がわき起こった。
ふいに、食べてみよう、と思ったのだ。
摘んでいた指先に力を込めて、その葉をちぎる。
ぶちり。
それはスリリングな感覚がした。もう止まりそうになかった。
念入りにルージュを塗った唇に、口に、その葉を入れる。咀嚼する。呑む込む。
アンナの美しさを、気高さを、閉じこめたように濃厚で甘い。
瞳の中で、青葉とタンポポが並んだら、どれだけ美しいだろう。想像して恍惚となる。
「あら」振り向くと、ティーセットが乗った銀色トレーを持ったアンナが、じっとエリーを見つめていた。
無表情で、人形のような顔が見つめてくる。
「アンナ、」
何でもないように、微笑みさえ浮かべて、エリーは呼びかける。
葉を摘んでいない方の手で、バックからシルバーピンクの箱を取り出した。
瞳のなかのタンポポが少女のような光を宿す。
月の光を口ずさみながら、エリーは携帯電話を庭の池に向かって放り投げた。
優雅な放物線を描いて、最初からこうなることが決まっていたかのように、それは池に沈んでいった。
end...
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