前奏曲〜嵐の前触れ〜1
前奏曲〜嵐の前触れ〜
1
「ジェームズ! ジェームズ!」
遠くでダニエル爺さんが呼んでいた。ジェームズは農場の端で、冬支度の為に干草を刈っていたが、その手を止め、仕方なく爺さんの所に飛んで行った。珍しく晴れた一日だ。
ダニエル爺さんの側には、ジョン・ギルフォードが立っていたので、ジェームズは分からないように、下を向いてちぇっと舌打ちした。
「ジョン坊ちゃんの狩のお供をしとくれ。今日はわしの痛風がいつもより酷くてな。行きたくても行けんのじゃよ」
ダニエル爺さんは、申し訳なさそうに頼み込んだが、その実顔は安堵していたのを、ジェームズは見逃さなかった。
ジョンはのっぽでヒョロヒョロした、このギルフォード大農場の次男だった。長男は今は植民地インドに行っているというので、事実上長男も同然の若者で、ほぼジェームズと同い年のようだった。そして彼ら一家はイングランド人だった。
弟のヘンリーはまだ少年で、イングランドのさるパブリック・スクールで勉学中だ。そして、どうにも我が儘な二人の妹達がいた。
いずれにせよジェームズは、この自分の雇い主であるギルフォード一族全員を嫌っていた。ただ単に好きになれないと言うことではなく、心の底から嫌悪し憎悪していたのだ。
屋敷には召使いだけで12人は常時居るし、別棟にある使用人小屋にも、ジェームズを入れて4人の者達が居るという、この界隈きっての大農場主だったが、貴族ではない。つまりそのことが、常にジョンを苛立たせている事実だった。
ジョンは詩が好きで詩人になりたがっていた。けれどもオスカー・ワイルドやバイロンのような大詩人にはなりたくてもなれず、それはすなわち彼には天分が無いと言う事だったのだが、ジョンはその事実を直視せずにいつもイラつき、そしてその矛先が常に使用人たちに向けられていた。
皿を割ったといっては、少年を殴り、若い下女は手当たり次第に手を付けていた。それでも誰も正面からジョンを咎める者は居なかった。母でさえ、見てみぬ振りをしていた。
ジェームズは銃を持つジョンの後ろに数歩下がって、広大な森の中に分け入った。ジョンは時折晴れ渡った空を見上げたり、手をブラブラさせたりしながら、それでもいい加減な調子で獲物を狙っていた。ジェームズはジョンが狩猟好きでないことを知ってはいたが、つまりは暇つぶしなのだろう。
「オイ、お前」とジョンは側の潅木に寄りかかりながら、小川の近くの岩に腰を下ろした。彼には数歩以上は近寄らず、ジェームズは立っていた。ジョンは微かに嘲笑を込めた笑いを浮かべると、ジェームズに向かって言い掛けた。
「お前は女が好きか? それとも、女の方から近寄って来るのかい? 村やドーセットの町の娘達が、お前目当てに涎を垂らして寄って来るんだろう?」
ジェームズはどう答えていいか分からずに黙っていた。
「質問に答えろよ!」と言う苛ついたジョンの声が飛ぶ。
「女は……嫌いじゃないです、ご主人様」
「そうか。僕も好きだよ」
ニタリとしながらジョンがジェームズを見上げたので、彼は目を伏せた。ジョンが何を言いたいのか、嫌な予感がしたのだ。
「お前の妹は別嬪だろ? もうすぐここに来るんだろ? 行くところが無くて」
「さあ〜」とジェームズは曖昧に受け流すと、ジョンは刺々しく言い放つ。
「ウェールズ人って言うのは、頭は馬鹿だし女もブスばかりだ。妙な言葉も使う。だが時にはいい女も居る。お前の妹は多分、その”いい女”の内の一人だろうな。ここへ来るんなら、下女の口ぐらい幾らでも世話してやる。そして……僕が可愛がってやるさ。とことんな」
ジェームズは今もしもこの男を殺すことが出来たとしたら、どんなに嬉しいかと感じた。そしてそのことで自分が首を吊られても、絶対に後悔はしないだろう。けれども例えジョンを殺しても、第二、第三のジョンがここにはうじゃうじゃ居るのだ。
どんなにあがいた所で、ここは彼らの土地なのだ。何百年にも渡って、彼らの支配の下でしか住めなかったのだから。
実際ジェームズの祖先が、大昔はどんな名前だったかすら、それも今となっては何一つ分からない。
その時、ふいに又しても、サラの瞳を思い出した。
「妹は多分ここには来ないと思います」とジェームズは答えた。
「じゃあどこへ行くんだい? カーディフか? カーディフの親類達は皆お前達兄妹を見捨てたんだろう? 同胞愛も無いのが、お前達ウェールズ人の特徴だよな。それとも、ロンドンで淫売でもやるか?」
ジェームズの手がブルブルと小刻みに震え出すその有様を、ジョンは面白そうに見つめていた。その内にジェームズの白い肌は少しずつ赤くなり、伏せられた長い睫毛が痙攣でもしたかのようにパチパチと上下した。
けれどもジョンにはジェームズが何一つ言い返せず、手を出すことすら出来ないのを知っていた。長年にわたって、彼らはそうやってじっと耐えることを学んで来たし、それは随分地位が上のウェールズ人でさえそうだったのだ。
彼らは何一つ刃向かうことができない。もしも何か一言でも言い返せば、ジェームズは間違いなく血が滲むまで肩や背中を鞭で打たれるだろう。
「分かりません」という返事が、辛うじて彼の口から出てきた。
「ふん! お前達ができるのは、結局妙な言葉で歌うだけか、シーナ・ラ・ギグ(注:ドルイド教のエロスの女神)のように、大勢の子供を孕むぐらいさ。孕まないと、その内に滅亡してしまうからな。それとも、いっそイングランド人の子供を宿すか」
ジェームズは初めてジョンをしっかりと見つめた。深い紫水晶のような瞳が、憎しみでキラリと光った。
「狩を始めませんか、ご主人様?」
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