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「ところで、フランシス。絵は進んだの?」
といつものように謹厳実直な顔つきのまま、ギルフォード夫人はこの気まぐれで贅沢好きな“友人”であるフランシスに尋ねた。この問いはいつもしたくてウズウズしていたのだ。毎日ジェームズは判で押したように10時に来て、12時前に屋敷から去って行くが、けれども友からは何の絵も見せられたことは無い。
不道徳なことは何一つ想像も出来ないギルフォード夫人だったが、さすがにフランシスが何日も滞在しているのを訝しく思い始めていた。
フランシスは欠伸をかみ殺しながら、待ってましたとばかり応える。
「もちろんよ! 今見せてあげましょうか?」
頷くギルフォード夫人の元に、フランシスは自室から分厚いデッサン帳を運んで来た。夫人と息子のジョン、そしてキティともう一人の客の老紳士がそれを覗き込んだ。
「一枚目は、杖を持った羊飼い」
「なるほど! これは凄い!」と客は鼻眼鏡を掛けなおしながら嘆息した。「今にも動き出しそうな絵柄ですな」
「ま、綺麗な若者ではあるわ。ちょっと綺麗過ぎるけど」
とギルフォード夫人は、背をシャンとしたままそう誉めた。
「二枚目は、英国風の牧神。来たるべき春をバックに」
フランシスのやや得意そうな説明を待つまでも無く、そこには華やぐ春の花々の間に立つ、若々しい牧神の姿があった。若いのにどこか老成して物憂げな顔は、確かに幾分ジェームズに似ている。けれどもその中には、はっきりと分かる痛々しさがあった。
そして紛れも無いエロチックなアーモンド形の大きな瞳……。
「ほんと! ジェームズに似ているわ。それにこの景色ったら、夢の中のようね。天国のよう、とでも言うのかしら? 天国は知らないけれど」
キティが感心したような上ずった声をあげた。「おば様ってやっぱり絵がお上手なのね」
「何言ってるのよ、キティ。こう見えても、フランシスは画家なのですよ!」
「まあ! こう見えても、だなんて、アンったら!」
フランシスは、不敵に微笑んだ。けれども事実は、この絵やデッサンは実際のジェームズを見ながら描いたわけではない。夜、一人で薄暗い灯火の下で、ジェームズの面影を慕って描いたまでのこと。
窓から暗い夜を眺めながら、フランシスはじっと瞑目し、そしてジェームズを描き続けていたのだ。画家である彼女には、例えモデルが側に居なくても、脳裏に焼き付けたその姿だけで全てを把握することが出来るのだ。そして本物の居ない絵の前で、深い吐息をつくのだった。
― あと何日かしら、彼と居られるのは? もうわたしも去らなければならない時が来たのね……。
* 〜*〜*〜*〜*〜*〜*
ジェームズは、フランシスとの契約された情事で得たお金で薬を買うと、日曜の午後ボブの奉公している靴屋にやって来た。
けれども中に入るや否や、靴屋のお上さんのドロシーがジェームズを呼び止めると、意味ありげに手招きした。
「ちょっと話があるのよ、ジェームズ」
訝しげなジェームズを部屋の隅に引っ張って行くと、彼女はヒソヒソと耳打ちした。
「あんた、字が書けるでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、ボブのこと、あたし達の代筆でこう書いてくれない? 『ボブ・ハーシーはもうここには置いておく事は出来ません。直ぐにでも引き取って下さい』とね。あて先はボブの実家」
ジェームズは暫く返事をしなかった。頭が空っぽにでもなった気がしたからだ。
「つまり」とやっとのことで彼にしては珍しく、たどたどしい口調でジェームズは問いかけた。「ボブを見捨てるんですね」
「“見捨てる”って、そりゃどういう意味さ? こちとらはお情けで、病気でろくろく働けない奉公人を置いているんだよ。それにさ、ここだけの話……あいつはもう助からないって言うじゃない? そんな人間をこれ以上ここに泊めて置く事はできないさ。こっちだって、慈善事業をしているんじゃないからね」
「お、親方は?」
「もちろん、承知よ。そしてね、ボブ自身も承知しているんだよ」
「薬を買って来たのに……」とジェームズは小声で俯き加減につぶやいた。
「またかい? でも、それって、効いているの? 無駄にお金を使うんじゃないよ、ジェームズ」
最初の剣呑な勢いを少し削がれて、ドロシーはやや諦め気味に言いかけた。
「そんなお金があったら、あんたの妹の所にでも送りなさいよ。あんた、妹を引き取らないって言うじゃないか! 本当にあんたって何を考えているんだか、あたしにゃ分からないね、全く!」
「……」
「いいよ、好きにおし」
本来は気のいいドロシーは、ブツブツつぶやきながら、又入り口近くの靴の並んでいる店先に陣取ったので、その隙にジェームズは階段を駆け上がり、靴屋の屋根裏部屋に上がりこんだ。
小さな窓が一つしかない暗くて寒い部屋。それがボブの部屋だった。
ジェームズが静かにドアを開けると、ボブは微かな寝息を立てて眠っていた。ジェームズはベッドの直ぐ側の小さな木製の背もたれの無い椅子に腰掛けると、じっとボブの寝顔を見つめていたが、その内に急に悲しみと無念さ、そして情けなさが押し寄せ、やがて周囲が何処かへ消え去っていくような空間に入り込んでいた。
この上、親友のボブまで失ってしまう。耐えがたいことだ。ジェームズは、腰をかがめると、眠っているボブに向かって囁いた。
「ボブ……俺を置いて逝かないでくれ!」
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