その男は2度死ぬ
道端で帽子を被って、黒いコートを着た男が手を挙げていた。夜なので暗く、男の姿は闇に紛れていたが、タクシーの運転手はそれに気付き、車を男のそばに停めて後部座席のドアを開けた。
男は乗り込むと、低く小さな声で、
「青山一丁目まで」
と告げた。帽子を目深に被った男の顔はあまりよく見えない。運転手は適当に返事をして車を走らせた。
「お客さん、お仕事の帰りですか?」
しばらく走らせたところで、沈黙が気まずくなり、運転手は男に話しかけた。
しかし、男は答えない。
「お客さんは、何の仕事をしてるんですか?」
別の質問をしてみたが、やはり返事はなかった。仕方がないので、運転手は自分のことを語り始めた。
「私はこの仕事をしてから、もう15年になりますかね……。それまでは普通にサラリーマンしてたんだけど、色んな人と気楽に触れ合える仕事がやりたくてね。会社だと、あんまりそういう機会ってないもんで……。本当、今まで色々な人を乗せてきましたよ」
「例えば?」
男が訊いてきた。話を聴いてくれているのがわかって、運転手は少し嬉しくなった。
「酷く酔っ払って、車の中をゲロまみれにしてくれた男とか、自殺しようと考えていた女性だったり、あとは乗せた男が指名手配犯だったりなんてこともありましたね。あの時は本当、どうなるかと思いましたよ」
「幽霊を乗せたことは?」
運転手は冗談で訊いているものだと思ったが、男の口調は真剣そのものだった。運転手は笑って答えた。
「いやあ、今のところないね……。そもそも幽霊なんて、あんまり信じてないからね。いるんだったら見てみたいよ。お客さん、もしかして幽霊だったりする?」
場を和ませようと、運転手はジョークを言った。しかし男は答えない。
「まさかね、そんなはずありませんよね、ハハ」
運転手はバックミラー越しに男を見ながら、作り笑いを浮かべた。
やはり、男は無言だ。帽子のせいでよくわからないが、黒で統一された服とは対照的に、血の気の失せたような白い肌をしている。なんだか気味が悪い。まさか、という考えが頭の中に浮かび上がる度に、運転手は頭を振る。幽霊などいるわけがない。運転手のその考えは未だ揺るぎないものだった。
「そういえば、青山一丁目って何で有名でしたっけ?」
再び運転手が男に尋ねた時、運転手の目に看板が飛び込んできた。
『青山霊園 2㎞先』
青山霊園。それは青山一丁目の近くだった。運転手はそれに気付いた。
「そうですね……。大きな墓地がありますね」
男は静かに言う。まるで運転手の心の中を読んでいるかのように。
「あっ、そ、そういえば、そうですね……」
運転手は男に話を振っても、悪い方向にしか向かわないような気がした。運転手は結局、男と話すのを諦めた。
「あの……ラジオつけてもいいですか?」
運転手は訊きながら、ラジオのスイッチに手を伸ばす。スイッチを入れると、スピーカーから芸人の声が流れてくる。
『いやあ、夏ですね。暑いですね。そこで今夜はちょっとした怪談話で涼しくなろうというテーマで行こうと思ってます。あなたの身近なホラーな法螺話をどしどしハガキやメール・電話で教えてください。って、法螺話は困りますね。実話でお願いします、実話で』
一人ノリツッコミが決まったところで、芸人はハガキの宛先やメールアドレス・電話番号を読み上げる。
『さあ、最初の話はこちらです』
おどろおどろしい効果音が流れる。芸人はそれっぽい感じの声で読み上げるが、元々の声が高いのか、あまり怖さを感じない。それどころか、頑張って喋っているのを想像すると、笑えてきさえもする。
『ある夜に1人の男が、タクシーに乗ってきた。その男は青山に向かってほしいと言う。どうにも不審な格好をしている男。帽子を深く被り、コートを着ているその男は、運転手が話しかけても答えてくれない。運転手は気味が悪くなり、さっさと男を送り届けようとした。そこで焦って、事故を起こしてしまった。薄れゆく意識の中、運転手は耳のそばで男の声を聴いた。
俺がお前を送ってたんだよ。
頭から血を流した運転手が薄れゆく意識の中、最期に目にした光景は青山霊園の墓だった。そう、運転手は男にあの世へ連れて行かれたのだった……』
女性の悲鳴がラジオから流れてくる。よくある演出だ。しかし、運転手は話の内容に妙に惹かれていた。それは今の状況と、その話の内容が酷似したからに他ならない。偶然にしては出来すぎているような気がして、運転手はなにやら嫌な予感を感じ取った。
運転手は途端に、後ろの男が気になって仕方がなくなった。この男は、もしかしたら、本当に……。さっきは捨てたその考えが、再び運転手の頭の中に蘇る。
運転手はちらちら男のほうを見た。それがいけなかった。よそ見をしていたために、タクシーは車線をはみ出したまま走行し、さらに反対車線から車が来ているのに気付かなかった。クラクションを鳴らされようやく気付いた運転手は前を見て悲鳴を上げ、思わず急ハンドルを切った。間一髪で車との接触を免れたが、スピードを殺すことのできなかったタクシーはそのまま街路樹に激突した。
衝突の際に頭をぶつけた運転手は薄れゆく意識の中で、男の声を聴いた。
「俺がお前を送ってたんだよ」
男はにやりと笑った。運転手は力を振り絞って車の外に出たが、そこに整然と並んでいた青山霊園の墓を目にした直後に、こと切れた。
帽子を被った男は事故を起こしたタクシーから降りて、運転手が死にゆく様を見届けた。
男はこの世に成仏しきれていない魂を成仏させる仕事をしている、成仏屋であった。こういう類の仕事は大抵は寺のお坊さんだったり、霊媒師だったりがやるのだが、今回のタクシー運転手のような霊の場合は彼らにも手に負えないのだ。何故ならこのタクシー運転手は自分が死んでるとは露にも思ってないからだ。稀にあるこういう場合に、彼のような人物が駆り出される。今回はタクシー運転手をもう一度死なせることで、成仏させるというやり方をとった。
「全く……、ようやく成仏できたな」
男が伸びをすると、タクシーと息絶えた運転手の姿が消え始めた。男はそれらが完全に消え去るのを静かに見届けた。