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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
謹慎編
15/184

第四話 逃避の果て.2






          2






 蛇の舌に撫でられたような感触が頬に触れた。

 ゾッとしつつも、それがただの風であると気づく頃には、すっかり目も覚めていた。


 「いたッ」

 サーサリアは腰や背中に走った、今まで感じたこともない痛みと不快感に声をあげた。

 目が覚めたそこは、柔らかい寝台の上ではなく、ゴツゴツとした岩壁で囲まれた殺風景な洞窟の中だった。


 ――夢じゃ、なかった。

 眠りに就く前に、ほんの少し抱いていた期待が、まるで無意味だったことを知る。

 外は朝陽に包まれているらしい。天井の隙間からは真新しい陽の光が差し込み、洞窟の中を薄く照らしていた。


 少し離れた場所では、満身創痍のカナリアが横たわっている。隣には座り姿勢で眠る灰色髪の男の姿もあった。

 この男の事を、サーサリアはまるで理解していなかった。


 そもそも誰なのか、どうして自分の側にいるのか。なぜ反抗的な目で自分を睨むのか。髪の色からして異国人のようだし、顔を覆う大きな眼帯も気味が悪い。


 ――かえりたい、かえりたい、かえりたい。

 昨日まではリュケインの花の事で頭がいっぱいだった。が、今となっては暖かく安全な場所で体を休めたいという願いしかない。


 カナリアを起こし、自分の意思を伝えようと思った。実際には命令という形でだが、ムラクモの王族たる自分が要求を伝えれば、それを断る事ができる者は少ないのだ。

 そう、なにかと口やかましいグエンがそうであったように、カナリアの隣に座るこの男のような人間は、サーサリアにとって異例中の異例なのである。


 音を立てないようそっとカナリアへ近づいた。心のどこかで、灰色髪の男に対する警戒心があったのだ。

 「カナリア?」

 横になったまま微動だにしない肩に触れ、名前を呼んだ。


 昨日のカナリアはとても疲れているようだった。傷も負っていたようだが、一日ぐっすりと眠ればきっと回復しているにちがいない。

 自分が呼べば、いつも通りに、

 『はい、殿下』

 という声が返ってくるものと、サーサリアは信じて疑わなかった。


 だが、いっこうにカナリアからの応答はない。深く眠っているにしても、なんともいえない違和感があった。

 「――ッ!」

 体を乗り出し、横たわるカナリアの顔を覗いて、サーサリアは悲鳴を上げて尻から倒れ込んだ。

 変色した唇。色を失った肌。うっすらと開いたまま少しも動かない瞳。


 「うそ……うそッ」

 騒がしさから、隣で寝ていた男が顔を上げた。

 「どうした?」

 彼は腰を抜かしたサーサリアを見ると、すぐにその視線の先にあるモノに気づいて飛び上がるように立ち上がった。


 「カナリアさん!?」

 男はカナリアの名を何度も呼び、肩を揺さぶった。

 カナリアは動かない。そこらに転がっている石と同じように、そこに命の痕跡を見る事はできなかった。

 カナリアを呼ぶ男の声が悲痛な色に染まりだす。サーサリアは耐えきれず、耳を塞いだ。




          *




 事切れたカナリアの顔を隠し、遺体の隣で腰を下ろしたまま、シュオウはただ無為に時をすごした。

 どうしてこうなったのか、他にできたことがあったのではないか――。そうしたとりとめのない後悔に取り憑かれ、陽の傾きにより伸びていく影を、ただぼうっと眺めていた。


 ――俺のせいじゃない。

 悲しみと後悔に打ちのめされそうだったシュオウの心が行き着いた答えが、それだった。

 耳を塞ぎ、遺体に背を向けてすべての現実を拒絶するサーサリアを見て、嫌悪感を抱く。


 人の状況などおかまいなしに、自然はただあがるままだ。

 外からは温かな日差しが暗い洞窟の中を照らし、微かに届く小鳥の鳴き声が、途方もなく牧歌的な空気を演出していた。


 だが、そうした呑気な雰囲気を打ち消すアノ音によって空気は一変した。

 「いや、いやッ!」

 それは耳を塞いでいたサーサリアの耳にも届いたのだろう。

 ヴヴヴ、という震動音。シュオウ達をこの状況に追い込んだ紅い狩人が、ふたたび上空を飛行し始めた。


 アカバチの羽音は、しだいに小さくなって静けさを取り戻した後、また少しするとこちらへと戻ってきた。それを何度も繰り返している。

 ――巡回?

 まるで警備兵のように、この辺りを警戒するような行動を取っている。この出来事が、シュオウの中に大きな疑問を生んだ。


 アカバチの目的は食料を得るための狩りではなかったのか。今の見回りをするような行動は、襲われた時の生き残りである、自分達を探しているとしか思えない。

 だが、そこでまた新たな謎が生まれる。それは動機だ。

 ――なぜ。


 ここが深界であるならば、糧として弱小な存在である人に執着する事に理解は持てる。だが、ここは人が治める彼らにとって縁の薄い世界だ。

 時に人里に狂鬼が紛れ込み、多大な被害を与えたという事例は少なくないが、ある特定の相手をしつこく追い回したという話は聞いたことがない。そもそも狂鬼という存在が、個人としての人間を識別できているとは思えなかった。


 それでも、アカバチの行動が明らかに自分達を狙って捜している様子なのは間違いない。この周辺は彼らが自分達を見失った地点である事から、そう判断できる。

 ありえない、という言葉を抜きにして考えてみるのなら、彼らの目的はいったいなんなのか。


 シュオウの視線は、怯えて震えるサーサリアの背中に釘付けになった。

 命を落としてしまったカナリアを入れて、ここへ逃げ延びたのは三名。この中でその存在自体に”特別な”とつけることができる人物はただ一人、大国ムラクモを統べる王族、サーサリア王女その人である。


 雪崩に巻き込まれてしまう前、アカバチが真っ先に狙ったのは怪我人を背負って不利な立場に見える自分ではなく、サーサリアだったのを思い出す。

 そう考えると、なぜ自分達が襲われ、追われているかがしっくりときた。これまでシュオウが聞いてきたムラクモという国で、サーサリア王女の存在価値を考えれば、この状況に対する不信感が和らぐのだ。


 アカバチという名の狂鬼は、なんらかの目的を持ってサーサリア王女の捕獲、または抹殺を目的としている、という仮説を根拠とした結論を、シュオウは一時的に受け入れる事にした。

 どのみち、これから自分がしなければならない事に、なんら変わりはない。


 しかし、覚悟しなければならない事がいくつかあった。

 外との通路を塞がれてしまった洞窟内は、これ自体牢獄のようなものだが、現状はそのおかげで安全地帯を手に入れている。できれば救助を得られるまで、もしくは狂鬼が捜索をあきらめるまで中に隠れていたいところだが、手持ちの食料は小さな袋に入った塩漬けの木の実が少しあるだけで、長期の遭難にサーサリアが耐えられるとも思えなかった。


 アデュレリアを統率する公爵は有能な人物だ。この事態を知れば早急に必要な対策を講じるだろうが、自分達が狂鬼に襲われた現場を早急に特定できるかどうかは未知数だ。


 火を起こして煙を出し、位置を伝えるという方法もあるが、燃料に乏しい状況で狂鬼にも位置を知らせてしまう事を考えると、あまり現実的な案とはいえない。外殻で装甲した狂鬼ならば、多少の氷の壁など突破してしまうだろう。


 つまり、現状を打破するために待ちの手段をとる事は難しい。

 大切なのは、この洞窟からの迅速な脱出である、とシュオウは決断した。


 天井から入る風は、洞窟の奥へ続く細い道へと抜けている。奥へ進めば別の出口を見つけ、そこから脱出できる可能性はあるし、まったく別方向の出口から出られるなら、アカバチの眼から逃れられるかもしれない。


 ――よし。

 シュオウは顔を上げ、まっすぐ立ち上がり、隣で冷たく横たわる遺体を見下ろした。

 腰に手をまわして針を取り出し、カナリアの左手が置かれている位置に移動して屈む。


 ごそごそした雰囲気を察知したのか、サーサリアがこちらに不安げな視線を送っていた。

 ここから移動すると決めた以上、カナリアの遺体を放っておくことはできない。無事に逃げ延びたとして、土地勘のない自分が同じ場所に戻ってこられるという保証はないし、なにより、輝くような美貌を持っていた女性が、ここで一人寂しく朽ちて消えていくことが耐えられなかったのだ。


 シュオウは、針の先をカナリアの美しい輝石に当てた。

 「なにを……するき?」

 サーサリアの問いを無視して、シュオウは行動を持って答えを返す。

 狙いをつけ、振り上げた針でカナリアの輝石を打ち付ける。石を打つ硬い音が鳴るが、先端は歪な形の輝石に滑り、手の甲のはじを傷つけただけに終わった。


 その行為を見て、サーサリアは悲鳴をあげた。

 見つかってしまうかもしれない、という不安がよぎったが、シュオウはサーサリアを注意する事はしなかった。その余裕がなかったのである。


 額には玉のような汗が浮かんでる。心臓は早鐘のように鳴り、平常心は遙か彼方へ消え去ってしまった。傷つけてしまったカナリアの手。そこに差し込んだ針から伝わる肉の感触に手が震えた。


 シュオウはもう一度、同じ動作で針を下ろす。だが、同じように輝石を砕く事ができる点に、上手く針を穿つことができなかった。

 何度も失敗を繰り返し、洞窟内にはサーサリアの嗚咽と、針が輝石を打つ音が響いた。


 「やめて! おねがいだからやめて!!」

 懇願するサーサリアの声が耳障りだ。

 ――ごめんなさい。

 針を下ろす度、シュオウはその言葉を頭の中で繰り返した。

 自分のせいではない。そう思っていても、この言葉が頭にこびりついて離れない。

 ――ごめんなさい。

 助けられなかった事を、そして綺麗な手を傷つけている事を。

 ――ごめん、なさい。

 やけくそで一層高く振り上げた針を下ろした時、ついに輝石は砕け、針の先端は命核を打ち抜いた。


 キィンという硬い音が響いた瞬間、カナリアの体が砂のように崩れさる。カナリアであった光砂が、輝きを放ち天へと昇っていく様子は、抑圧されていた人々が解放される瞬間に放つ歓喜の雄叫びのように、自由だった。


 騒いでいたサーサリアは途端に押し黙ってそれを見送り、シュオウもカナリアの放った命の光を、なにも考える事なく見つめていた。


 後に残ったのは、カナリアが身につけていた衣類や剣、そして砕かれた輝石だけとなった。

 見知った人間の死を前に、途方もない悲しみが心を鷲掴みにする。だが、最後までシュオウは涙を流さなかった。




          *




 生き残りが見つかった、という報告を受けた時、アミュはしばし身動きがとれなかった。なによりその言葉が、想定していた最悪の事態に陥ってしまった事を証明していたからだ。


 「……誰が見つかった」

 そう問うも、そこから返ってくる答えが望む物でない事は、副官の顔を見れば一目瞭然だった。


 「ユウヒナです。本邸からそう離れていない場所で倒れているところを発見、保護されました」

 「あれが……。事情を聞き出したのであろうな」


 カザヒナは神妙に頷いた。

 「酷く怯えていて、きちんとした会話が出来る状態ではありませんでしたので、断片的に得られた情報のみになりますが」

 「かまわん」


 すべてを受け入れる覚悟を決め、アミュは両目を閉じて眉間に力を込めた。

 「王女の命令により、親衛隊は深夜の散策に赴いたようです。その後、一行は空を飛ぶ複数の狂鬼に襲撃され、親衛隊は壊滅状態に――」


 報告の途中でアミュは眼を見開いた。

 「狂鬼、じゃと……?」

 「――はい。急襲によりサーサリア王女を乗せた馬車もろとも、多くの輝士達は断崖の底へ落ちていったそうです」


 この場に誰もいなければ、頭を抱えて叫びだしていたかもしれない。いったいどれほどの不運が重なれば、王女の突然の外出に合わせて人の世界に狂鬼が現れるというのだろう。


 「それほどの状況で、ユウヒナはよくも生きて戻ったものじゃ」

 「それが……」

 カザヒナは言いにくそうに口元を歪めた。


 「このうえまだ言葉を選ぶほどの報告があるか」

 「ユウヒナが言うには、自分が崖から落ちそうになった瞬間に、ある人物に助けられたと。その人物は灰色の髪に大きな眼帯をした、当主様の客人だったそうです」


 アミュは、はッとして顔を上げた。

 「まさか、同行しておったのか?」

 「聞いてすぐ確認をとりましたが、どこにも姿が見えません。ユウヒナの言葉と特徴からいって、シュオウ君に間違いないと思います」


 「それでッ」

 アミュは続く報告を促した。

 「件の人物はユウヒナの身代わりになる形で空中に投げ出された、と。落ちていく姿を見届ける余裕もなく気を失い、目が覚めた頃には死して無残な姿になった輝士達の中に一人取り残されていたそうです。無我夢中で逃げまどっているうちに再び気を失い――」


 「発見されたというわけか」

 カザヒナから言葉はなく、ただ頷くのみであった。

 「王女が襲われた現場の特定は?」

 アミュは僅かな期待を込めて聞いた。


 「当時、山中は濃霧に覆われていたため経路の把握は困難であったようです。ユウヒナが逃げ延びる最中も霧が残っていたため、道順もわからないままただひたすらに走っていたようで」


 目印を付けるくらいの気をまわせなかったのかと、一瞬怒りが湧いたが、ユウヒナは正式な輝士でもなく宝玉院での卒業試験すら経験していないのだ。すべての平常心や判断力が吹き飛んでしまうほど恐ろしい思いをしたのだろうと思うと、同情する気持ちのほうが強く残った。


 「今がどのような状況か、把握しておるであろうな」

 アミュは強く副官を睨みつけた。

 「アデュレリアの存亡に関わる事態であると認識しております」

 「うむ……それでよい。ここから後、一つでも選択を誤ればアデュレリアは東の地に孤立する」


 ムラクモ王国において、サーサリア王女は唯一無二の存在である。国家の象徴たる天青石と王位を継ぐことが許された、ただ一人の人物だからだ。

 アデュレリアは王女を遊学という形で正式にその身を預かった。その最中にサーサリアが命を落としたとなれば、その責を追及されるのは当然の事。


 アデュレリアが国でも希有な名家とはいえ、ただ一人残された王族の命を守れなかったという責任は重い。さらに、犬猿の仲であるサーペンティア一族は、好機と見て全力を以ってこちらの責任を追及するだろう。王位を簒奪するため、わざと姫を暗殺した、などと嘯くに決まっている。


 最終的な判断を下すであろうグエンは、時に憎たらしいほど冷徹で合理的な裁定をする男でもある。国の柱を失う事から生じる国民感情や諸侯らの不安を受け、それに見合うだけの罰をアデュレリアに科す事は容易に想像ができた。


 そのうえ、今現在確認がとれている生存者が一族の者であった事が特にまずい。最終的に生きている人間がユウヒナだけとなった場合、身内である彼女の証言にはなんら信憑性は生まれない。この件が王女の言い出したことによって招かれた事であると、外の者達に信じてもらうには、相応に立場のある人間の証言でなければならないのだ。


 「王女を含めた者達すべての死を確認した者はおらぬ。まずは事の起こった場所を特定するのが急務である。せめて、あの馬鹿姫がなにを目的として深夜の山奥へ向かったのかがわかれば、具体的な予想が立てられるというに」


 思索するアミュに、カザヒナが告げる。

 「その事で、少し気になる報告を受けております」

 「姫に関してか?」

 「はい。ジェダ・サーペンティアの事を覚えておいでですか」

 「老人扱いはよすがよい、忘れてたまるものか。まさか、サーペンティアが噛んでいるとでも言うつもりか」


 「そこまではわかりませんが、夜会の時、あの男が王女に近づき話をしていたと、つけていた鈴から報告があがっております。途中まで王女は興味がない様子でしたが、なにかを渡されてから様子がおかしくなった、とも」


 その話が今回の一件にからんだ事なのか自信は持てなかったが、なにしろあのサーペンティアである。それだけで、アミュにとっては疑う理由としては十分すぎた。


 「クネカキにジェダ・サーペンティアが領内から出ていないかどうか確認を取れ。まだ内におるようであれば、ただちに拘束してここに出頭させよ。抵抗した場合の処置はまかせると伝えておけ」

 カザヒナは首肯する。

 「ただちに」




 意外にも、領内でもかなり質素な宿場を取っていたというジェダは、予想に反してなんら抵抗することなく出頭に応じた。


 「きさま、先日の晩餐会で王女になにかを渡していたそうじゃな」

 怒りの形相で睨むアミュに動じる事なく、ジェダは飄々として答える。

 「ええ、花を一輪献上しましたよ。といってもすっかり萎れていましたけどね」

 それがどうしたと言わんばかりの態度だった。


 「なんの花を渡した」

 投げた問いを受けた途端に、ジェダの口元が軽薄な笑みに歪んだ。

 「リュケイン、ですよ」

 一瞬で頭の血が溶岩のように湧き上がった。王の石たる氷長石を天へ掲げ、怒りにまかせて力を解放する。一瞬のうちに部屋の中は強烈な冷気に包まれ、同席していたカザヒナは怯えた様子で後退った。


 槍のように尖った氷の柱が床と天井から伸び、ジェダの周囲に突き刺さる。わずかでも避けるような行動をとっていれば体に風穴が空いていたところだが、彼は眉すら動かすことなく屹立していた。


 わずか一瞬のうちに、ジェダは歪な形をした氷の牢獄に囚われた。

 アミュの左手にある氷長石は、青白い強烈な光を尚も放ち続けている。


 「その口で王女を拐かしたか!」

 腕を動かすことも、膝を折る事も出来ない狭い空間の中で、ジェダは依然、心を動かした様子なく語る。

 「アデュレリア領内であの花がとれるという情報を、土産話としてお伝えしただけです。しかし、そのご様子からして、殿下になにか不測の事態でもあったようですね」


 完全に命を握られた状態においても、ジェダは本当に一切感情の色を見せなかった。淀みなく、ただ薄ら笑いを浮かべているのみである。


 ――こんな人間が。

 やや冷静さを取り戻しかけていたアミュの思考は、怒りを通りこしてジェダという人間の人格に疑問を感じていた。


 「領内にあのような汚らわしい花は存在せぬ。我らが治める各門においても、花びら一枚とて通過することを許してはこなかった」

 「嘘は言っていませんよ。市場で商いをしていた薬師から薬剤として売られていたあの花を買い、その際に領内の山中に採取できる場所があることを聞いたんです」


 アミュは逡巡する。これらの話が本当であれば、王女が襲われた場所のおおよその特定ができるかもしれない。


 「嘘偽りないと誓えるのじゃな」

 「言葉で信じてもらえるのなら、いくらでもそうだと答えますよ」

 「よかろう、その薬師とやらが見つからなければ、その身を凍り漬けにして氷室の飾りとしてくれる」

 「お好きなように」

 脅しではなく本気で言ったつもりだったが、やはりジェダは焦った様子などは微塵も伺わせはしなかった。


 薬師の特徴を聞き出した後、アミュはカザヒナに捜索を命じた。

 不安に頭をかかえ、怒りにまかせて力を解放したばかりだというのに、先ほどよりずっと肩が軽くなっていた事が不思議だった。


 ――シュオウ、か。

 その名が頭の中で幾度か繰り返される。

 自身が目を掛けるあの青年が、王女と共に居たという話を聞いてから、どこか根拠のない安堵のような心地がある。

 これまで、不可能を可能としてきたその名が、窮地に立つアデュレリアの領主にとって小さな希望の灯火となりつつあった。




          *




 月明かりすら届かない真の暗闇の中、夜光石の放つ僅かな明かりだけを頼りに進んでいく。

 洞窟は、奥へ行くほどむせかえるような水の臭いがした。


 道幅は広いとはいえないが、人が二人並んで通れるくらいの余裕はあり、平坦にならされた道をよく見ると、意図的に整地したような痕跡が見られる。ここは人がなんらかの目的で使用していた洞窟なのかもしれない。それなら、この先はやはりどこか別の出口に繋がっている可能性は高いだろう。


 「大丈夫か?」

 後ろをぼそぼそと付いてくるサーサリアを気遣い、シュオウは声をかけた。


 サーサリアは不快そうな視線をこちらへ向けながら一言も返事をよこさない。

 「言いたいことがあるなら――」

 責めるような視線に苛立って声を荒らげると、サーサリアは怯んだように一歩後退った。

 「――いや、なんでもない」


 何度悩んだか思い出せない。話しかけても無言、指示を伝えても反応するのは同じ事を繰り返し言ってから。かけらでもこの状況を打破するために協力をしようという気概を見せないサーサリアに対して、置いて行きたいと思う衝動に打ち勝つにはそれなりの理性を要求された。


 死の間際にあっても、あれほど王女の命に執着心を見せていたカナリアの事も頭にあったが、それ以上に、このまま王女の命が失われて一番の迷惑を被るのがアデュレリアの人々であると思った時に、一切の迷いを振り払ったのだ。


 世話になった相手への恩返しとしては、あまりに妙な状況だが、ただ一人窮地に置かれた王女の側にある者として、彼女を無事に連れて戻る事こそが、今の自分に与えられた使命なのかもしれない。


 再び前を見据えてゆっくりと歩き出すと、渋々といった様子でサーサリアも後を付いてきた。

 カナリアの輝石を砕き、その身を光砂として天に送ってから、シュオウは彼女の砕け散った輝石を可能なかぎりかき集め、残された衣類でそれを包んで手荷物に加えた。腰にぶら下がっていた輝士の長剣は、ベルトと共に今はシュオウの肩にかけられている。


 人一人が生きてきた証は軽くない。まだカナリアの血の臭いが残る外套を手に持ちながら、不安な気持ちを押し殺した。


 同じような景色が続く。巨大な虫や化け物の腹の中はこんなだろうか、と呑気な想像を巡らせていた時だった。背後から小さく悲鳴が聞こえ、どさりと倒れ込む音がしたのだ。

 振り返ってみると、こけたサーサリアが顔面から綺麗に地面に倒れ込んでいる。よほど痛かったのか、弱った子犬のような鳴き声で唸っていた。


 「ダイジョウブカ」

 まったく心のこもっていない声で聞くと、恨めしそうな顔で目に涙を溜めたサーサリアがこちらを見上げた。

 「早く起こしなさい!」

 傲慢な物言いと態度に、すでに我慢の限界だった。

 「自分で立て。小さな子どもでもそうする」


 サーサリアがこちらを見つめる力が、より強さを増す。

 「誰のせいでこんなことに――私に向かってこれ以上の不敬な態度は許さぬぞ!」

 おもむろに、サーサリアは左手を突き出した。突然胸が苦しくなり、呼吸がままならなくなる。喉の内から気道を握られたような圧迫感。空気が通らなくなり、シュオウは悲痛なうめきをあげた。

 「ァァ――ッ!? グガッ」


 目の前で火花が散ったようだった。苦しくて声も出せず、喉を押さえて藻掻き苦しむ。命の根底を握られている感覚。苦しさ以上に、この不快感は尋常ではない。


 考えるより早く、身体は原因の排除に努めた。膝をついたままのサーサリアの上半身を蹴り飛ばす。彼女が悲鳴をあげて転げたのと同時に、ようやく肺に空気を届ける事ができた。


 「はぁ、はぁ………………ふッざけるなよ」

 シュオウは転がったまま衝撃で身動きしないサーサリアの上に跨り、細い喉を掴んで叫ぶ。

 「よく聞け! 次にまた同じ事をしたら、首から下を二度と動かせないようにしてここに置き去りにしてやる!」


 感情をそのまま吐き出せば、殺してやると怒鳴りつけてやりたい気分だった。これほど不快な感情は、あのアベンチュリンの女王にすら感じなかった。


 サーサリアは動かない。こちらを凝視ししたまま言葉もなく、小さく震えていた。

 吐いた脅しは本気の言葉だった。自分の息の根を止めようとする人間を誰が助けようというのか。そうした気持ちがようやくわがままなお姫様にも伝わったのか、目の色にこちらに対する怯えが混じっていた。


 小休止をとり、かつてないほどの殺伐とした空気を抱えたままシュオウとサーサリアは洞窟の奥を目指して行進を再開した。

 明かりを持った自分が後ろを歩くわけにもいかず、あまり心地良いものではなかったが、先ほどまでと同じようにサーサリアは後をゆっくりとついてきている。


 歩けば歩くほど水の臭いがより強くなっていく。

 背後から前方へ抜けていく風が、突然拡散するように広がった。

 窮屈な道を抜けた先にある光景は一面の湖だった。


 波立つ事もなく、あちこちから沸いて出る透明な水は、完全にシュオウ達の行く手を遮っている。

 手持ちの夜光石のかけらが放つ明かりが届く距離は頼りない。奥まで照らすほどの力はないが、薄ぼんやりと湖の向こう側に続く道のようなものを視認できた。


 「渡るしかないな」

 「わた、る?」

 独り言のつもりで呟いた言葉に、サーサリアはさっと反応をしめした。


 「他に道もなかったし、ここを泳いで渡るしか向こう側へ行く方法がない」

 さっきまでとは打って変わり、サーサリアはあれほどこちらを睨みつけていたのに、今度は一瞬でも目を合わせようとしなくなった。

 苦手意識を植え付けてしまったのだろうか。

 極端に態度を変えられるのも心地良いものではないが、堂々と命を狙われるよりは随分ましだろう。


 「でも……」

 気弱に言い淀むサーサリアに、シュオウは聞いた。

 「泳げないのか?」

 彼女は小さく頷き、

 「泳いだことがない、から」

 と不安げに指先をもじもじと絡めた。


 「おぶっていくしかなさそうだな」

 湖は深そうだが、奥行きはそれほどない。端へ泳ぎ切るまでに要する体力も時間もたかがしれている。ただ一つ、問題があった――

 「よし、脱ぐぞ」

 「あ……え?」


 真顔で言ったシュオウを見たサーサリアの表情は、初めて見る彼女の素の感情を浮かべていた。完璧で作り物のようだった顔が、初めて幼子のように動揺している。


 「服を無駄に濡らしたくない。泳いで渡る間、服や持ち物が濡れないように頭に載せてもらうからな」

 そう言うと、サーサリアは何も言わず、ただ困惑した様子で頷いた。


 ――急に大人しくなったな。

 身を守るためだったとはいえ、一国の王女を蹴り飛ばし、脅したのはやりすぎだったかもしれない、と多少の後悔もあった。突然人が変わったように従順になった様子からして、それほど怖い思いをさせてしまったのかもしれない。


 無駄に考えながら、サーサリアに背を向けて服を脱ぐ。体温でほかほかと温かい服や下着を畳んだ。体の間を抜けていく風に身が縮むが、今は耐えなければならない。

 背後からは布ずれの音がする。当然の作法として、シュオウは後ろを振り返ったりはしなかった。


 「脱いだら畳んでおれの服の上に。それを持ったままこっちへ来てくれ」

 無言だが、気配からサーサリアが指示に従って動いているのがわかった。

 シュオウは一足早く湖に足を入れた。数万の針に刺されるような痛みを伴う冷たさが両足を襲う。おもわず叫び出したくなる衝動を噛み殺した。


 「じゅ、準備はできたか?」

 「……できた」

 「じゃあ背中に乗って。服や荷物はできるだけ濡らさないよう注意を」


 分厚い外套を含む衣類だけでもけっこうな重さがある。加えてシュオウの手荷物と、カナリアの長剣も加われば馬鹿にできない重量となる。それに人を一人背負って泳ぐのだから、そう簡単にはいかないだろう。ずっしりとした重さがのし掛かるのを覚悟した矢先――

 「ひッ」

 シュオウは情けない悲鳴を漏らした。

 肌で感じたのは重さではなく、温かくふんわりと柔らかい肌の感触だった。

 ――俺は……バカだ。


 サーサリアという人物を、どこかで役柄として見ていたのかもしれない。一国の王女であり、わがままで憎たらしい高貴な血を引く人間だと。

 だが、背中から伝わる生温かい柔肌の感触は、背負っているモノがただひたすら女であることを主張していた。おまけにドクドクと激しい鼓動が背中から伝わる。サーサリアが今どんな思いでシュオウの背に体を預けているのかを、激流のように激しいその脈動がすべて物語っていた。


 あれこれと言った手前、今更服を着ろというのも気恥ずかしい。

 ――これがバレたら不敬罪で殺されるな。

 どうやって口止めをしようか、と卑劣な考えが浮かんだのを振り払い、シュオウは行くぞと声をかけた。


 「水はかなり冷たい、少しの間だけ我慢してくれ」

 返事はなかったが、背中から伝わる感触からサーサリアが頷いた事がわかった。肩の辺りで揺れるやたらと柔らかいモノの正体がなんなのか、なるべく考えないよう努める。


 夜光石の入った容器を口に咥えてゆっくりと水に体を入れていく。命の危機を感じるほどの冷水に肩まで浸かり、両手と両足を動かして溺れないよう必死に水をかいた。

 シュオウと同じだけの冷たさをその身に感じているサーサリアは、右手で荷物を支えながら、左手をシュオウの胸にまわし、両足は腹のあたりを挟み込むように回していた。冷たさに耐えているのだろうが、耳元でハァハァと荒い呼吸を繰り返している。

 ――考えるな、何も考えるな。


 雑念から逃れるように、シュオウは強く水を掻いた。

 「はうッ」

 跳ね飛んだ水しぶきがサーサリアの顔に当たる。驚いたのか、甘ったるい声が耳元で囁かれた。

 ――誰か、助けて!

 咄嗟にシュオウの本能は防衛行動をとった。意識を別の事に集中させてこの場を乗り切るという手段に出たのだ。


 ――そうだ、クモカリ。あいつがいい。

 浮かんだのは、男でありながら厚塗りの化粧をした友人の姿だ。筋骨たくましい体を包むピチピチの服が少しずつやぶけていき……

 ――違う、そっちじゃない!

 取り返しのつかない光景を思い描く前に、防衛本能は危険な妄想からの救いの手を差し伸べた。


 結局、向こう側へ辿り着くまでに要したのは、労働者が朝食を早食いする程度の時間にすぎなかったが、その何倍もの時間が経過したように感じられた。

 例えようのない敗北感に、シュオウは四つん這いのまま、しばらくの間身動きが取れなかった。




 湖から出て、ガタガタと震える体を支えながら、乾いた自分達の服を使って体を拭く。

 唇が紫色に変わり、寒さで体の震えが収まらないサーサリアを見て、シュオウはこの場での休息を決めた。


 外の様子がまったくわからないせいで時刻の把握は難しいが、自分の体の感覚を信じるなら、すでに夜を迎えてかなりの時が経っているはずだ。

 濡れた服を乾かしながら下着だけを身につけ、二人は温かい外套を体にかけて硬い地面の上に寝転がった。


 夜光石の明かりを落とす。

 寂寞たる暗闇が場を支配した。


 視力以外の感覚が鋭くなり、鼻は強烈な水の臭いを感じ、耳は天井からしたたる水の雫が湖面を打つ甲高い音を拾う。


 少し離れた所で横になっているサーサリアからは、寝息すら聞こえてこない。

 あれこれと文句が飛んでくる事も覚悟していたのに、不気味なほど彼女は口をつぐんでいる。この状況を望んでいたはずなのに、いざ完全に沈黙されてしまうのもなんとも居心地が悪いものだ。


 そうした考えが漏れたわけではないだろうが、隣から不意にごそごそと身動きをする気配がした。

 「眠れないのか?」

 聞くとやや間を置いて、

 「うん」

 というか細い声が返ってきた。


 シュオウは起き上がり、夜光石の明かりをともした。

 ぼんやりとした青白いに光が周囲を照らす。まっさきに目に映ったのは、薄くて白い肌着だけを身に纏った、無防備なサーサリアの美しい肢体だった。

 「おい」

 咄嗟に顔を背ける。

 「あ……」

 と、どこか気の抜けたような声をあげて、サーサリアは厚手の外套で前を隠した。


 その後、二人はとくに何を言うでもなく、夜光石の明かりを囲むように座った。

 両者とも目も合わせず、わざわざ眠りを中断してまで起きたわりには、無為な時間がすぎていく。

 突然、グググ、と低音が響いた。

 「え? えッ!?」

 なにが起こったのか理解ができないサーサリアは、突然自分の腹から鳴り響いた音に戸惑った。こぼれていく音を拾い集めようとして、必死に腹のあたりで手をばたつかせている。


 「腹が減ってるみたいだな」

 「……どうして?」

 「その音が証拠だろ」

 「お腹が減るとお腹から音がする、の?」

 シュオウは後ろ頭を掻いた。

 彼女の立場を思えば無理もない。つまり、餓えたという経験がないのだ。


 「本当に、大切にされてきたんだな」

 王女として一時の餓えすら感じる間もなく食べ物を与えられてきたのだろう。その事が羨ましくもあり、それを少し哀れにも思った。


 荷物をあさり、塩漬けの木の実を一つ差し出した。

 「まともな食料はこれしかないんだ」

 手の平に転がるしわくちゃな木の実。昨日のサーサリアはこれを拒絶したが、今度は恐る恐る手に取った。

 「これは、本当に食べ物?」

 「たしかに特別上等な物でもないけど、悪い物でもない」


 サーサリアはゆっくりと木の実を口に運び、リスのように歯で少しだけ表面を削って噛んだ。

 食料として認識する事ができたのか、一粒丸ごとを放り込み、こきみよい音を立てて食べ始める。


 「食えるだろ」

 「でも……美味しくはない」

 とは言うものの、サーサリアの形相は必死だ。すべて噛み終えた後に物悲しい顔をしてこちらを見つめるので、シュオウは四粒ほどの木の実を渡した。塩気があるとはいえ、たいした大きさもないので、これくらいなければ最低限の満足感は得られないだろう。


 「こんなものですら、もうたいした量は残ってない。あと二日、せいぜい三日分。それもお前一人で食べた場合の話だ」

 「それじゃあ、あなたの分が……」

 「おれは――」

 言われて空腹を思い出す。考える事や不安が多すぎて食欲を忘れていたが、自分も小さな木の実を一つ放り込んでから何も食べていない。


 近くを見渡して、ごろんとした体格の良い石を見つけた。

 不思議そうに見つめるサーサリアに、シュオウは人差し指を口元に当ててみせ、大きな石を転がした。そこに現れたのは一匹の蜘蛛だった。子どもの拳ほどの大きさで、薄茶色の体には、びっしりと細かい毛が生えている。その蜘蛛を咄嗟に掴み捕った。


 シュオウの手の中から八本の足がもぞもぞと蠢く。それを見てサーサリアは悲鳴をあげた。

 甲高い声があちこちに反響する。


 「ただの虫だ。あの狂鬼とは違って人に害を及ぼすだけの力もない」

 サーサリアのほうは半狂乱だ。一心にシュオウの手の中の蜘蛛を見て、肉食動物の前に放り出された草食動物のように怯えている。


 尻餅をついてじたばたと暴れているせいで、羽織っていた外套がめくれてすらりと伸びた足や下着が丸見えだった。

 「落ち着け、別に脅かしたくて探したんじゃない」

 「じゃ、じゃ、じゃあ、なんでッ?!」

 「食うんだ」

 言うと、サーサリアの顔から血の気が引いた。

 「た、たべッ!?」


 説明も面倒になり、シュオウはそれを実演してみせた。生きたまま蜘蛛を口に入れ噛み砕いていく。毛の生えた石を口に入れたような食感。上下の歯がくっついてしまいそうなほどネバついた体液は、酸味を含んでいるうえ酷く苦い。腐った落ち葉のような臭いが口の中いっぱいに広がった。


 ほどほどに咀嚼そしゃくした後、食事を終えたシュオウは思わず言葉を漏らした。

 「…………まずい」

 こちらを見るサーサリアは涙目になって口をぱくぱくと動かしていた。

 「だ、大丈夫、なの?」

 蜘蛛の姿が消えた事で少し余裕が生まれたのだろう。サーサリアはこちらを心配する言葉をかけた。


 「大丈夫じゃない。虫の中にも食えるやつもいるが、蜘蛛は毒持ちが多い。だからこれも一緒に腹に入れる」

 荷の中の小袋に入った、小さな黒い丸薬を取り出す。


 「それは?」

 「シエーロ丸。深界の植物から作った丸薬で、よく噛み砕いて飲めば、胃の中で特殊な粘膜を張って消化の難しい食べ物を体に取り込むのを助けてくれる。それにこれ自体が毒のようなもので、体内の働きを鈍らせて悪い物が体に廻るのをある程度抑えてくれるんだ。ただ――」

 サーサリアは首を傾げた。

 「ただ?」

 「めちゃくちゃ苦いッ!」


 意を決して、シュオウはシエーロ丸を噛み砕いた。顔面が崩壊するような苦みに襲われ涙が止まらない。理想では湯に溶かして飲むのが一番良い方法なのだが、それができない今、よく噛み砕いて唾液で少しずつ腹に送るしかない。


 この殺人的な苦さを持つ薬に頼るのは、本当に極限状態に追い込まれた時だけだった。食料に窮した時に、毒キノコや奇怪な虫を無理矢理消化するために用いるのだ。しかし、毒を完全に中和できるわけではなく、可能な限り素通りさせるだけの効果しかないため、多用は体への負担を蓄積してしまううえ、あまりに強すぎる毒が相手では丸薬の効果は及ばない。つまり、完全に信頼できるような代物ではなかった。


 薬を丁寧に歯ですり潰し、腹に納める。涙が滝のように溢れ、シュオウは激しく咳き込んだ。

 「はぁ……」

 こちらを見つめ、同調するように苦しい表情を作るサーサリアが妙に可笑しかった。

 シュオウは口の端を指で引っかけ、サーサリアに歯を見せる。

 「まっくろ!」

 愉快そうな声でサーサリアが声をあげた。

 視線を交わす二人は、どちらともなく吹き出した。

 初めて見るサーサリアの笑顔は、すべての憂いが消え失せてしまったかのように朗らかだった。




 ほんの少し腹が満たされた事が良かったのだろうか。少し前まで殺伐とした空気しか流れていなかった二人の間に、ふんわりと温かい焼きたてのパンのような優しい空気が混じるようになった。

 自然と、両者の間には少しずつ会話が生まれ始めていた。


 「そこまで虫が嫌いか?」

 和らいでいたサーサリアの表情が強ばった。

 「うん…………子どもの頃の事だけど、お父様が使者として他国へ向かう事になって、大事な席だからって私もお母様も一緒に出席する事になった。少しお仕事をしたら三人でめずらしいものを見よう、美味しい物を食べようって言ってくれて――」


 サーサリアの言葉に濁りが増していく。すがるように自分を抱きしめて、視線は地面を見つめて動かない。


 「――深界を馬車で進んでいた時、突然大きな虫の狂鬼が二匹現れて、お父様と護衛の輝士達が一匹は倒したけど、二匹目にお母様が捕まって……。あの虫は、怯えて一歩も動けなかった私の前でお母様を……食べた。お父様はそれを見て冷静さを失った。狂ったように虫に向かっていって……」


 「辛い思いを、したんだな」

 聞くだけで悲しくなるような話だった。小さな女の子が、目の前で親を食われるという光景は、どれほど心に傷をつけたことだろう。彼女が異常なまでに虫を怖がる理由にも得心がいった。


 「一番忘れたい事なのに、あの時の空気の臭いや空の色まで思い出せるの。正気でいると、お母様が泣き叫ぶ声がずっと頭の中で繰り返されて、だからッ――」

 「だから?」

 サーサリアは言葉を失い、ごまかすように話題を切った。


 「あなたはだれ? 名前も知らないし、容姿も珍しい。私を女官の娘のように扱うし。それに、さっきはお父様のように私を叱ってくれた」

 俯き気味なサーサリアの口元がゆるんでいる。


 ――叱った?

 輝石の力で呼吸を止められそうになった時、シュオウが彼女を蹴り飛ばして馬乗りで怒鳴りつけた時の事を言っているのだろうか。だとしたらとんでもない思い違いだ。あの時、シュオウは心底殺意に似た感情を持って脅しにかかったのだから。


 「ここでこうするより前に、何度か顔を合わせている」

 サーサリアは信じられないという顔をした。

 ――そうだろうな。


 「一度目、お前がアデュレリアに来た時の出迎えの場で、棒で思い切り顔を殴られた」

 「…………あッ!」

 サーサリアは口元に手を当てて目を見開いた。

 「二度目は夜会の最中に中庭の長椅子で俺の隣に座った」

 「……覚えてる。思い出した」


 「はじめまして、と言わずにすんでよかったよ。だけど一応名乗っておく、シュオウだ」

 サーサリアは両手の指先を合わせて口元に当てた。

 「そう、シュオウ。あなたはアデュレリアの領民?」

 「違う」

 「じゃあ」

 「俺は……孤児だった。物心がついた頃にはムラクモの街で残飯を漁るような生活をしていて、その後は運良く人に拾われて育ててもらった。成長して王都に戻り、金目当てに国の仕事に関わって、流されるままに今はこの様だ」


 自虐するようにシュオウは言葉を吐き捨てた。

 ――本当にどうしてこんな。

 人を理不尽に殴っておいて、それをすぐに忘れていた事。それに無意味に死んでいった多くの輝士達。傷だらけで苦しみながら命を失ったカナリアの悲痛な顔が頭に浮かぶ。


 うやむやに忘れそうになっていたが、今の状況を招いたサーサリアに対する怒りが再び沸き上りつつあった。

 サーサリアが、前屈みに体を寄せてくる。

 「私と一緒。かわいそう……」

 差し伸べられる白い花びらのような手が顔に伸びる。

 「触るな!」

 伸ばされた手を、シュオウは強く弾いて拒絶した。


 驚き、胸の上で手を合わせて戸惑うサーサリアに強く言う。

 「同情なんていらない、俺は恵まれていた! 育ての親に拾われ、生きる術を教わり、一人で世界を歩く事ができる力を与えてもらったんだ。多くの人から守られて、その事に一切の感謝もなく、言葉一つで無意味に人を死に追いやるような人間と一緒にするなッ」


 「あ、あの――」

 慌ててなにか言いかけたサーサリアを待たず、シュオウは最も知りたかった事を聞いた。

 「どうしてあんな時間に山に入った? あれだけの人間の命を賭けるほどの、なんの目的があったんだ」


 結局、その問いへの答えを得る事はできなかった。

 ほんの僅かな間に流れていた楽しげな雰囲気は、すっかり霧消していた。

 一平民である青年に怒鳴りつけられた大国の王女は、なにかを言いかけては口を閉じ、結局俯いて顔を上げようとしなかった。


 「疲れが溜まっている。明かりを落とすぞ」

 夜光石を入れた容器から水を抜くと、ゆっくりと明かりが落ちていった。

 シュオウはさっと体を投げ出して、サーサリアに背を向けて眠りの体勢にはいる。


 洞窟の中が再び暗闇で埋め尽くされたその時、どさっと重たい感触を背中に感じた。甘い花のような香りが鼻をくすぐる。


 「……なんのつもりだ」

 サーサリアが隣に座り、寄り添うように背中に体を預けてきたのだ。シュオウは、正直戸惑っていた。


 「さっきみたいな虫が、他にもいるかもしれないって思ったら――」

 「あれは無理矢理引きずり出しただけだ……だから、離れてくれ」

 うっとうしい、という意思表示のため、シュオウは背中に力を入れて寄りかかるサーサリアを押す。

 しかし背後から、

 「おねがい……」

 という消え入りそうな懇願が届き、これ以上離れろと言うのも残酷な気がした。

 「もう、いい」

 言った途端、ぎゅっと背中を握る感触が伝わってきた。


 「温かい。寂しくて一緒に寝てくれた時の、あの時のお父様の背中みたい。私をサーサと呼んで、優しく頭をなでてくれ……た……」

 そこで言葉は途切れ、すぅっと寝息だけが聞こえてきた。

 ――もう眠ったのか。


 あれだけ強く責められて、その直後にこれだけベタベタとすり寄ってくるサーサリアに違和感を覚える。言葉がまるで耳に届いていないような手応えのなさ。怒りと苛立ちは一周して薄気味の悪さに変わりつつあった。

 サーサリアという人間を、シュオウは把握しかねていた。







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小説の表紙
― 新着の感想 ―
正露丸を咀嚼したのか…
この主人公、ちゃんと男の子でおもろい
[一言] 感情のジェットコースター。
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