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ラピスの心臓  作者: 羽二重銀太郎
謹慎編
14/184

第三話 逃避の果て.1

     Ⅲ 逃避の果て






          1






 底も見えない絶壁を真っ逆さまに落ちていく。

 空中に投げ出された少女を救う代わりに、シュオウの体は霧に隠された闇の底へと投げ出された。

 判断を誤った事を後悔する。救ったはずの少女はアカバチが狩りを行っている真っ直中に残されたままなのだ。彼女がこれからどんな目に遭うのか――

 シュオウはすべての後悔を振り払う。思考力のすべては今自分が生き残るための判断へとまわされた。


 高所から落下しているこの状況においても、高速に流れる景色の中に活路を見いだすのは、それほど難しい事ではない。

 絶壁から伸びる太い根のようなものがお辞儀をするように垂れ下がっていたのを、シュオウは目聡く見つけた。


 見える光景はゆるやかでも、判断は一瞬の事。世界をゆるやかに認識できるからといって、体を動かせる範囲は人に許されたものでしかない。

 ここしかないというところで手を伸ばす。シュオウは文字通り命綱となる根っこを掴み取った。


 「ぐッ」

 落下の勢いを殺しきれず、肩と背中が壁面に激突する。目の前に星がはじけ飛ぶような衝撃を受けながらも、必死に手だけは離さずにしがみついた。

 崖の途中にぶら下がっているという頼りない状況ではあるが、死出の旅路からはとりあえず逃れる事ができたようだ。


 だが安堵している暇はない。足場すら確保できない場所で、腕力だけでいつまでもぶらさがっていられるわけもないのだ。

 壁面から、簡単に抜き取る事ができそうな手頃な石を手にとって下にむかって放り投げる。微かに、ゴコン、という音が聞こえた。音が耳に届くまでにかかった時間はほんの一瞬だった。地面が近いと判断して間違いない。


 ここで一つ、勇気を必要とした。見えない場所へ足を下ろすというのは危険な行為だ。地面の状況や地形すらわからないなか、支えも無しに身を投げ出すというのは、下手をすれば命の危険にさらされる行為でもある。しかし、結局とることができる選択肢は一つだけだ。

 できるだけ衝撃が減るように意識し、命綱を放す。思いの外着地の感触は早く得られた。

 じゃりっというきめ細かい砂の感触がして、シュオウは二本の足を地面に降ろした。


 周囲はうっすら雪に覆われていて、大きな岩がぽつぽつと散見される。雪の下は踏んだときの感触と音からして砂で被われていると見て間違いない。下りた場所が岩の上だったなら、足を痛めていただろう。


 ずきずきと肩が痛むが、身を案じる前にシュオウは惨い光景をその眼に捉えた。

 体を横たえたまま身動き一つしない輝士達と数頭の馬。横倒しになった馬車は車体が半壊状態で、中の人間がどうなっているのかたやすく想像できる状況だ。

 点在する大きな岩には、血糊がたっぷりと付着している。飛び散った脳漿のようなものまで散らばっていた。


 足を引きずりながら歩み寄り、横たわる輝士達を見て回るが、ある者は両目を見開いたまま絶命し、またある者は直前まで命があったらしく、地面を這ったまま絶命していた。なかには体の骨が肉の壁を突き破って外にでてしまっている者もいる。あまりにも痛々しい光景に、即死であったことを無意識に願った。


 死屍累々の中、見知った人物の姿を見つけて慌てて駆け寄る。

 「カナリアさん……」

 気高く、美しい輝士であったカナリアは見るも無惨な姿となって横たわっていた。口から血反吐をこぼし、片腕がおかしな方向へねじ曲がっている。

 一見死んだようにしか思えなかったが、よく見ると呼吸により体がわずかに動いている事に気づく。

 試みにそうっと彼女の肩に触れると、カナリアの口から苦しげにうめき声がもれた。

 うっすら開いた瞳がシュオウを見る。虚ろな視線だが意識ははっきりとしているようだった。


 「う、あ……くうッ」

 「酷い怪我です、無理をしないでください」

 頭上から鈍い羽音が響く。咄嗟に見上げるが、霧に阻まれてどうなっているのか判断がつかない。

 ――降りてくるつもりか。


 たしかにかなりの人数が下へ落ちてしまったが、上に残された者達だけでも、狂鬼にとっては十分な量の獲物となったはず。にもかかわらず、彼らはどん欲にすべてを得るつもりなのだろうか。羽音はこちらに向かって音量を増しているような気がした。


 「狂鬼が来るかもしれません、逃げますよ」

 一秒が惜しい状況だ。しかし、カナリアはシュオウを引き留めるように首を横に振った。

 「ひッ……ひめ、さま……を」


 痛みに耐え苦悶の表情を浮かべて言ったカナリアの言葉。促されるように落ちて壊れてしまっている馬車を、シュオウは見た。

 「あんな状況で――」

 助かっているわけがない、と言いたかったが、それでも一心にこちらを見つめるカナリアに負け、急ぎ状況を確かめに向かう。


 車体がへしゃげてしまった馬車の中を隙間から覗くが、暗くてどうなっているのか外からの確認は難しかった。全体が歪んでしまったせいで役目をはたせなくなった扉をどうにかこじ開けると、そこにはまるで傷を負っていないように見えるサーサリア王女が横たわっていた。


 「うそだろ……」

 サーサリアは本当に傷一つ負った様子がなかった。馬車の中はぶかぶかした緩衝布のようなもので覆われている。考えるまでもなく王女の身を守るための工夫なのだろうが、これを設計した人間はその腕を誇るべきだろう。


 元々生気を感じさせない陶磁器のような顔は、意識がないと尚更生きているようには見えなかった。

 頬を軽く叩くが、反応はない。

 こうしている間にも頭上から届く羽音は大きくなっていく。もうあまり時間がない。


 サーサリアの上半身を起こして、シュオウは耳元で大きく声をかけた。同時に肩をつかんでグンッと揺さぶる。


 「あ……」

 ぼんやり開かれた蒼い双眸がシュオウの視線と重なると、サーサリアは驚きに眼を見開いて口を大きく開いた。

 咄嗟に、シュオウは彼女の口を塞ぐ。

 「聞いてくれ。ここから逃げる必要がある。叫ばれると状況が悪くなる、だから静かにしていてほしい。わかったら頷いて」

 余計な言葉は省き、今必要な情報だけを伝える。サーサリアは未だ混乱が晴れないようだったが、こちらを見つめたまま小さく二度頷いた。


 手を引いてサーサリアを外へと連れ出す。彼女は、そこに広がる光景を前に小さく引き攣った悲鳴をあげた。

 シュオウはサーサリアから手を離し、半死半生のカナリアの下へ戻った。

 「王女は無事です。今からあなたを背負ってここを離れます。しばらく我慢してください」

 カナリアからの答えはなく、ただこちらを見上げて頷いた。




 重傷を負ったカナリアは、シュオウの背に体を預けた状態で、歩く時の震動が伝わる度に押し殺したようなうめき声を漏らした。

 すぐ後ろからは、サーサリアが慣れない足取りで後を付いてきている。

 崖底から少し歩いた先から伸びていた緩やかな坂を上り、先に広がる森林地帯を目指した。


 木々の密集度の薄い森の中は幸いな事に積雪は少なく、歩く事にそれほど難儀はしなかったが、それでもわずかに足をとられた。

 シュオウ自身、肩や背中を痛めた状態で人一人を担いでの移動は楽ではない。


 「ねえ……ちょっと、待ちなさい」

 息を切らせながら、サーサリアが立ち止まった。

 「待たない。少しでもあそこから離れておきたいんだ」

 「だけど、もう……歩けない!」

 そう投げやりに言うと、どっと膝を落としてしゃがみ込んでしまった。


 ――こいつ。

 沸きかけた血が頭に昇る。誰のせいで、と言いかけた言葉を飲み込み、シュオウは冷静さを維持するよう強く自戒した。

 「どのみち、怪我人をこんなところで休ませるわけにはいかない。落ち着ける場所を見つけるまで、もう少しがんばってくれ――いや、ください……」


 ほとんど懇願するようなシュオウの言葉に、サーサリアは不満な気持ちを隠そうともせず、こちらを威圧するように眉をひそめて唇を結んだ。

 彼女は黙って立ち上がると、一歩ずつ足を前へと出し始める。とりあえず了承はしてくれたらしい。


 とにかく雨風を凌げる所が必要だった。小さな洞穴のような場所があれば理想だが、まったく不慣れな土地で望んだからといって簡単に見つかるものではない。そんな事を考えているうち、無音の山中に、空気を奮わせるアノ音が轟いた。


 「あれって」

 耳の後ろに手を当てたシュオウの様子から、サーサリアもすぐに音に気づいた。

 「アカバチの羽音。近づいてくる……どうして?」


 どこへ居ても付いてくる虫の羽音。こちらを追ってきているのは間違いないのだろうが、違和感が拭えない。捕食が目的であったにしては、彼らは十分な食料を得たはずだ。崖の上に取り残された輝士達に、底に落ちて絶命してしまった者達。このうえ、逃げたわずか三人の命を求めるというのは、どういった意味があってのことなのか。

 アカバチという狂鬼の生態をろくに知らないとはいえ、野生の生き物のとる行動にしてはやはり不可解だ。


 不安げにこちらを見るサーサリアと視線が重なる。

 ムラクモという大国に残された唯一の王族。この女の価値はいかばかりだろうか。

 ――まさか、な。

 突拍子もない発想を振り払う。人の世界の事情等知りようがない狂鬼が、高貴な生まれの人間だという理由で執拗に追いかけてくるとも思えない。


 「急ごう」

 促すが、しかしサーサリアは立ち止まって固まったまま動かなくなってしまった。視線は一点を見つめ口をぱくぱくと動かし、しだいに呼吸が浅く激しくなっていく。

 彼女の視線の先には、朽ちかけた大木があった。ぼろぼろになった幹の隙間から、ぞわぞわと小さな無数の虫が這い出ている。おそらくアカバチの羽音に怯えて半狂乱に陥っているのだろう。


 だが、正気を失ったのは虫達だけではなかった。

 サーサリアがのけぞるように尻餅をつき、大声で悲鳴をあげたのだ。

 「おい!」

 急いで止めようとするも、カナリアを背負っているため間に合わず、辺り一帯にサーサリアの甲高い悲鳴が盛大に広がり、山彦となって反響した。


 途端、微かに耳に届く程度だった羽音が一気にその大きさを増していく。

 「見つかった」

 そう判断したシュオウは強引にサーサリアの手を掴んで立ち上がらせ、駆けた。が、すでに位置を把握された時点で、天空を自在に飛び回るアカバチに人の足がかなうはずがない。


 道を塞ぐように、空から二匹の狂鬼が降り立った。

 カチカチ、カチカチと歯を鳴らし、顔を左右に振りながら、こちらの様子を窺っている。その姿を見たサーサリアは、もはや悲鳴すらあげられない様子で蒼白となった顔面でガタガタと震えていた。


 雪で覆われた白を背景に、真紅の狂鬼が暴力的なまでに圧倒的な威圧感を放つ。

 二体の狂鬼は動き出した。

 一体は空から、もう一体は複数の足を駆使して高速で大地を蹴って迫り来る。その狙いは、サーサリアだった。


 地面を這いずるアカバチの針がサーサリアを襲う瞬間、シュオウは彼女の肩を蹴って強引に守った。

 突然蹴り飛ばされ、体勢を崩したサーサリアを拾いあげるようにして服を掴んで引き起こし、走れ、と叫ぶ。

 生き残りを賭けた事態であることをようやく理解したのか、サーサリアはこれまでとは別人のような健脚で大地を蹴った。


 シュオウもカナリアを背負ったまま、できるかぎりの力で走った。

 上空で待機していたアカバチの様子を窺おうと空を見上げた時だった。突然ふわりと足元が軽くなり、視界がぐらりと揺れ、前を走っていたサーサリアと共に、シュオウは急な斜面となっていた坂道を転がり落ちた。

 三人分の体重により崩された斜面の雪は、小さな雪崩を起こし、氾濫した川のような猛烈さでシュオウ達を押し流した。




          *




 サーサリア王女がいなくなった、という知らせをアミュが受け取ったのは、目を覚まして身支度を始めてすぐの事だった。

 その直後、アデュレリア領主邸は粛々と厳戒態勢を迎えた。


 「なぜ誰も言わなんだ。あの姫がここまでの愚か者であったと」

 小さな頭を抱えてうずくまってしまいたい気持ちを堪え、アミュはさして意味のない愚痴をこぼした。


 執務室の中、正座でじっとこちらを凝視する者達を見回す。

 「……あらためて皆で現状を確認する。報告をせい」

 クネカキを筆頭とする信頼のおける家臣達、それに副官のカザヒナがいる。彼女と目が合うと硬い声で報告をあげた。


 「昨夜遅く、サーサリア王女は親衛隊を連れ立って山中奥に向かったものと思われます。今朝早く、献立の相談に向かった者が別邸に誰もいない事に気づき、事態を把握するに至りました」

 「目的はわからぬのか」

 カザヒナは首を振る。

 「いいえ。ただ庭のぬかるみについた馬蹄や車輪の跡から、おおよその向かった方向が推測できるのみです」


 それだけの人間がごっそりと移動をしたにもかかわらず、別邸の持ち主である自分達がそれを知ったのがあまりにも遅すぎた。

 アミュは苛立ちにまかせ声をあげた。


 「ええいッ、クネカキ!」

 強面の輝士、クネカキ・オウガが膝をついたまま前へ進みでる。

 「はッ」

 「関所を通り、王都に戻った可能性はないのじゃな」

 「南門はもとより、北門、裏門を含めた領内の大小各門を通過したという報告はあがっておりません」


 「であればじゃ、あの大馬鹿姫はいまだ領内にいるとみて間違いはないということじゃ。山奥に入ったという見立ては的外れではない」

 ここには極一部の一族の者と、アデュレリアに忠誠を誓う古参の家臣しかいない。王族を大馬鹿と呼んだ事を咎める者は誰一人いなかった。


 「王女には親衛隊がついておりましょう。待っていればいずれか戻ってくると思いまするが。あまり過敏になるのもいかがなものかと」

 家臣の一人がそうこぼす。

 「大規模な捜索隊を組織し大々的に山を探せばよろしい」

 また、ある老いた家臣はそう提案した。


 彼らの意見を、アミュは一蹴する。

 「ならん!」

 ドン、と机を拳で叩くと、意見を述べた二人は肩をびくんと奮わせた。

 「まず戻ってくるかどうかを問題にはしておらん。こちら側の誰一人として今現在の王女の居場所を把握しておらんという事が問題じゃ。それに、各地の諸侯らが領内に滞在している今、王女の身を預かっている我々がその所在を探すために右往左往する姿など見せれば、アデュレリアの名は地に落ちる事になろう。今はまだこのことを誰にも知られるわけにはいかぬ」


 アミュはすっと立ち上がり、矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 「まず客人らに予定変更を告げる。王女の体調不良を理由にし、代わりに当家の主催による宴に招待する。極上の酒と食い物で連中の機嫌をとれ。うまい商談をちらつかせてもよい」

 年輩の家臣らを睨みつけて言うと、彼らは神妙に頷いた。


 「クネカキは各門の出入りを厳重管理せよ。人と物、すべてを事細かに記録し、情報をすべて迅速によこせ」

 「はッ」

 クネカキは強く頷いた。


 「カザヒナ」

 信頼に足る副官は立ち上がって敬礼した。

 「閣下、ご命令を」

 「この件を見知った者らを穏便に軟禁せよ。個々に部屋を与え、他との接触をすべて断て」

 「かしこまりました」


 「影狼の中からできるだけ山に詳しい者を集め、王女一行の足取りを探らせる。言うまでもないが、隠密にじゃ」

 カザヒナが了解したことを確認し、アミュは集まった者達に指示を実行するよう促した。


 皆が急ぎ退室していくなか、副官にだけ残るよう告げた。

 「昨夜、王女付きの役を受けていたのは誰か」

 カザヒナは言葉を詰まらせた。

 「……ユウヒナです」

 アミュは眉間を指で押さえた。

 「あやつは一族の者が王女の近くに置かれていた理由をわかっておらんかったようじゃな」

 「申し訳ありません!」


 カザヒナはユウヒナの姉だ。もっとも近い位置にいる身内の失態に、自分の事のように頭を下げた。

 ユウヒナは幼いとはいっても馬鹿な娘ではない。自分に王女につけられた鈴としての役割があったことはもちろん承知していたはずだ。

 どこかでムラクモ王国の王女を神聖視していたきらいがあったのかもしれない。そうした心根が、家から与えられた役目よりも、王女の言葉に高い優先順位を付けてしまったのだろう。


 アミュとしても複雑な心地を抱えていた。あたりまえの事をきちんとこなす事ができなかった者への怒り。非常識な、わがままという名の命令をまきちらし周囲をふりまわす王女。そしてまた、一族の若き少女の無事も気がかりだった。

 「もうよい。すみやかにすべき事をなせ」

 カザヒナは顔をあげないまま、部屋を後にした。




          *




 天井の隙間から差す、ほんのりと温かい陽光がシュオウの顔を照らしていた。

 慌てて体を起こすと、両手に冷たい雪の感触があった。

 周囲を見回すと、そこは薄暗い洞窟のような空間だった。


 一滴ずつ水がしたたる音。じめじめとした湿気と澱んだ冷気。頭上から降りてくるわずかな明かりがなければ、真っ暗でなにも見えなかっただろう。

 天井はぽっかりと中身をくり抜いた栗の皮のようにガランとしている。


 眼が慣れてくるにつれ、周囲の詳細な様子と共に、横たわる二人の女の姿が見えた。

 雪のうえで気を失っているサーサリアと、離れた所でごつごつとした地面の上に転がるカナリア。シュオウは即座に重傷を負っているカナリアの下へと駆け寄った。


 彼女の怪我は一層酷さを増していた。無防備な状態で放り出されたせいで、傷口からはさらに血が噴き出し、分厚い服を生暖い血液で濡らしている。

 触れるのもためらうほど痛々しい姿となったカナリアを抱きかかえ、なるべく平らになっている床の上に移動させた。


 サーサリアは軽く気を失っていただけで、今回も擦り傷を負った程度ですんでいた。だが、その強運を喜ぶ者はここにはいない。

 シュオウは命に関わる怪我を負ったカナリアの様態を心配しつつ、現状把握に努めた。


 自分達を押し流した雪崩は、そのまま壁となって入口を塞ぎ、この空間に蓋をしていた。

 この辺りの雪が溶けかけていたせいか、雪壁は適度な水分を繋ぎにして押し固められ、鋼鉄のようにその強度を増していた。もはや雪の壁というより、重たい氷の壁と言ったほうが適切な状態だろう。


 シュオウは腰に履いていた針という武器を取り出した。その名の通り大きな針のような形状をしたそれは、狂鬼の歯を元に作り出された強力な刺突武器である。

 針を思い切り氷壁に差し込むと、ざくりという小気味良い音とともに、先が壁の中へと食い込んだ。


 相当な時間と体力を消耗するが、その気になれば穴を穿って外へ出る事ができるかもしれない。

 突如、頭上からブブブ――と鈍い音が轟いた。その音が洞窟内で反響を繰り返して空気を奮わせる。

 恐怖による目覚めだろうか。気を失っていたサーサリアがガバッと体を起こし、おろおろとしながら口を大きく開いた。


 シュオウは、彼女の口の動きを凝視した。横に大きく開いて、そのまま縦に広がっていく唇。綺麗な白い歯がわずかに覗いた瞬間、手を伸ばしてサーサリアの口を塞ぐ。

 「ふぐううううう!」

 塞がれて押し殺された叫び声が、生温かい息と共に指の隙間から漏れていった。


 人差し指を立てて静かにしろと意思を伝える。

 サーサリアの蒼い双眸は、怯えと混乱を抱いたままこちらをじっと見つめていた。

 やがて、上空から聞こえていたアカバチの羽音は、しだいに遠ざかっていき、洞窟内には水のしたたる音だけが残された。


 「行ったな」

 シュオウはサーサリアの口を覆っていた手を離した。

 「ぶれいものッ!」

 直後、サーサリアは怒りにまかせた怒鳴り声をあげた。

 キンキンとした女の声が、洞窟内に響く。


 「静かにしろ。またアレが戻ってくるかもしれない」

 上を指さしてシュオウが言うと、サーサリアは慌てて口元を自分で塞いだ。

 ――ずっとそうしていてくれ。

 この期に及んで責めるように睨むサーサリアを見て、そんな不遜な言葉が浮かんだ。


 王女である彼女は酷く世間知らずらしい。現状がどれほど危険な状況かまったく理解できていない。

 いずれにせよ、これ以上相手にしてはいられない。


 シュオウは横に寝かせていたカナリアの下まで行き、様子を窺う。その時背後から小さくサーサリアの悲鳴が聞こえた。

 「カナ、リア?」


 太陽は刻一刻と傾き、今は丁度、温かな毛布のように差し込む陽光がカナリアの体を優しく包み込んでいた。

 深い傷をあちこちに抱え、複数箇所の骨折も負っている。華やかで、美しい輝士だった頃が嘘のように。その姿は、まるで踏みにじられた一輪の薔薇のように哀れで、醜かった。


 サーサリアを無視し、シュオウはカナリアの服のボタンをそっとはずして中の様子を窺った。

 きめ細かい美しい肌があったはずのそこには、内出血で紫色の染みがあちこちに見受けられる。外だけではなく、内にもかなりの傷を負っていた。


 満身創痍とはまさに今のカナリアを指す言葉だ。一目見ただけで、彼女が息をしているだけで奇跡であるような状態なのがわかった。

 出来る事は少ないが、手持ちの荷物の中から痛みを止める塗り薬を取り出し、傷を負った場所に塗り込んでいく。


 出来るだけ丁寧に優しく肌に触れるよう努めたが、薬を塗った指でなぞる度、カナリアは苦しげにうめき、顔を歪めて呼吸を荒らげた。

 折れてしまっている腕に薬を塗ろうとした時だった。カナリアの細い手が、シュオウの腕を力なく掴んだ。


 「ここ、は……? じょう、きょうを……」

 すきま風のような頼りなさで、カナリアは断片的に言葉を吐いた。

 「狂鬼に追われる途中、偶然入り込んでしまった洞窟の中です。入口を塞がれた状況で逃げ道も確保できてません」


 不安か、それとも痛みからか、カナリアの瞳が涙を溜めた。

 「ひめ……さまは?」

 シュオウはそっと背後に視線を送った。

 肩を抱き寄せ、怯えた様子でこちらを窺うサーサリアの無事な姿を見て、カナリアは涙をこぼした。


 「ありが、とう。ありがとう……ありがとう」

 カナリアは何度もそう呟いた。

 一心に見つめられ、感謝を述べられたシュオウとしては、複雑な思いである。一国の王族の命は、若く洗練された人物が、自身の命を心配するのも忘れるほどの価値があるというのだろうか。

 嘘偽りなく、心から感謝を述べるカナリアに、シュオウは一言、

 「いえ」

 としか返す事ができなかった。




 救世主のように差し込んでいた太陽光は、時を追う事に赤みをましていき、やがて夜が訪れた。

 カナリアに言われ、彼女が携帯していた夜光石と、それを入れるためのガラスの容器を使って一応の明かりは確保できた。

 だが、夜光石は元々小さかった物が、落下の衝撃でさらに砕けて細かくなっていて、あまり長時間の使用には耐えられそうもない。水を溜める事ができる小さなガラス瓶が無事であった事を、いまは幸運だったと思うべきだろう。

 むしろ、焦っていたとはいえ、この程度の支度を怠っていた自分を恥じた。


 洞窟内にはいたるところに天井からしみ出してきた水が溜まっている。汚れもなく、害を心配する事なく飲み水が確保できることは救いだった。

 だが、食料問題は切実だ。


 実際のところ、生き残ったシュオウ達三名の手元には、一切の食べ物がなかったのだ。

 シュオウは師のアマネに極限状態で、深界に幾度となく放り出された経験がある。自分一人でならどうにか生き残りを賭けて逃げる手段を模索できるが、怪我人と役にたたないお姫様を連れた状態では、身動きもとれない。


 だが、この問題はおもわぬ所から救いを得る。

 カナリアにかけるために用意した、ハリオから借りた外套の中から、塩をたっぷりとまぶした木の実の袋詰めがでてきたのだ。

 思い起こせば、ハリオはよくこの塩漬けの木の実をガリガリと頬張っていた。彼の好物なのだろう。もちろんシュオウ達がこうした状況に陥る事を予想して入れていたわけではなく、たんなる取り忘れなのだろうが、今はこの幸運にただ感謝するのみである。


 真っ先にカナリアに食するよう勧めたが、彼女の体調は刻一刻と悪化していて、とても食べ物が喉を通る状態ではなかった。

 側仕えである臣下がこれほどの大怪我を負っていても、心配する様子もなくただ怯えて震えるサーサリアにも、シュオウは木の実を差し出した。しかし、温室育ちの王女様にとって、塩漬けの木の実などというものは食べ物として認識すらされなかったらしく、サーサリアはシュオウの手の平の上の木の実を思い切り払い捨て、なにかわけのわからない事をしきりに怒鳴っていた。


 あまりに自分勝手な態度に、顔が引きつるほどの苛立ちを感じたが、シュオウはぐっと我慢をして、落ちた木の実を今日の食料として頬張った。




 夜間、少ない夜光石を節約し、明かりを落とす。

 天井の隙間から零れる月明かりの助けを借り、時間が経つほどに真っ暗だった洞窟内の光景も、うっすらと形を把握できる程度にはなっていた。


 「で、殿下は――」

 痛みに悶えながら、サーサリアを心配するカナリアの様態は眼に見えて悪くなっている。

 「大丈夫、寝息が聞こえてきます」

 サーサリアは抱え込んだ膝に頭を乗せて眠り込んでいた。普段大勢の人間達に守られ、大切に扱われてきた王女にとって、硬い岩肌の上で座る不快感よりも、疲れのほうが勝ったようだ。


 近頃暖かくなってきたとはいえ、まだ冬を抜けてない時期だ。夜の寒さは生半可ではないが、風の直撃を避けられるぶん、それぞれが手持ちの外套にくるまっているだけで、どうにか夜は越せそうだった。


 「ごめんなさい、巻き込んで……」

 この期に及んで、他者を気遣うカナリアを、シュオウは痛々しい思いで見つめた。

 「……あなたのせいじゃ」

 薄暗くてはっきりとしなかったが、カナリアが微かに首を振ったように見えた。


 「主の無理な要求を諫める勇気が、私にはなかった。そのせいで多くの部下を死なせ、守るべき人の命も危険にさらしている。アデュレリア公爵にも、どれほどの迷惑をかけることになるか……私の家、フェースの一族にも……」

 カナリアの声がくしゃくしゃと歪んでいく。暗闇の中にいるおかげで、気高く美しい輝士であった彼女の泣き顔を見ずにすんだ事に安堵を覚え、自己嫌悪する。


 「姫様さえ……殿下さえご無事なら……」

 まるで念仏のように、カナリアは何度もそう呟いていた。

 「眠ってください。 明日は、ここから脱出する方法を考えます」

 シュオウの言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。


 重傷を負ったカナリアを抱え、まったく協力的ではない王女を連れて、洞窟から脱出して山下りをする。

 ――簡単にはいきそうもないな。

 シュオウは、思わず逃げ出したい気持ちに駆られた。が、それも無理はない。すべて淀みなく最高の結果を望もうとするのなら、そのために乗り越えなければならない問題は山のようにある。


 いつのまにか静かになったカナリアの横で、シュオウは眼を閉じた。

 ――体が痛い。

 ふかふかで、暖かく、包み込まれるような感触のアデュレリア公爵邸の寝台が恋しかった。好きなだけ使える上等な夜光石と、好奇心と暇を満たしてくれる本も欲しい。

 ――弱くなった。

 ほんの束の間味わった贅沢な日々。シュオウの心と体は深界で鍛えられた過酷な毎日を忘れてしまっていたようだ。

 ――思い出せ。

 強く自分に言い聞かせる。

 今、この状況で必要とされているのは、あの頃の自分なのだ。







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