【ガブリエル・ジブリール】
ガブリエルは四大天使の中でただ一人の女性的な存在とされるが、 ジブリールは完全に男性であり、態度は極めて率直である。
水の大天使を象徴する"青"を基調とした舞台の上に、リコリス・ラベルは立っていた。
(アルセン様)
今からリコはアルセンに成り代わって、降臨の術を行う。
『リコさんなら大丈夫です。
きっと水の精霊達も"アルセン・パドリックと違う"と感じたとしても、貴女に迎合をしてくれる事でしょう』
蔵の中で、いつもなら隙なく着こなしている軍服の、詰襟の釦を1つだけ外していて、雰囲気も幾分か柔らかくしたアルセンが、レクチャーしてくれた事をゆっくりと辿るように思い出す。
(儀式に入るにあたって、降臨を行なう場を浄める)
舞台の側を舞う水の精霊達は、全てを承知の上でリコを"ガブリエル"の器として認めている。
そしてそのリコを舞台の下から、見上げるライがいた。
(リコにゃんなら、きっと大丈夫にゃ〜)
口角をキュッと上げて、一番の笑顔を向けてくれる。
「ライちゃん、ありがとう。始めます!」
リコが宣言するとライが合図となる風の魔術で、ピイイイイイ――――と鳥の鳴き声に似た音を、ロブロウの渓谷に響き渡らせた。
リコは儀式の為に準備された短剣を右手に持つ。
そして舞台の床に描かれた"円"の東側に東を向いて立ち、五芒星を切った。
額に剣を握ってない左手で触れ、
「アテー」
と唱える。次にその手を胸に触れる
「マルクト」
と唱えた。次に右肩触れ――
「ヴェ・ゲブラー」
左肩に触れ
「ヴェ・ゲドラー」
胸の前で手を握り合わせ
「ル・オーラム」
と唱えた。
短剣の切っ先を上げ、東に向いたまま、剣で空中に更に五芒星型を描く。
(剣の先を五芒星型の中心へと運んで)
アルセンに言われた事を思い出しながら、周りにいる精霊達が神格化感じつつ、リコは懸命に"降臨"を行う。
「ヨド・へー・ヴァウ・へー」
と唱えた途端、短剣で描いた五芒星が生気に満ち、光輝く。
(ここまでは、大丈夫!)
次にリコは円の南側へ移動し、南の宙に短剣で五芒星型を描いた。
「アドナイ・ツァバオト」
と唱える。
(後は同じ手順で)
円の西に側に向かい五芒星を描き
「エーへーイェー」
そして北の方向に向かい
「アーグラー」
東西南北、それぞれの宙に五芒星が光輝く。
最後に円の東側へと戻り、剣の先を最初の五芒星の中心へと運ぶ。
「元素界の四天王、サラマンデル、ジルフェ、ノーム、ウンデューネ、我と挨拶を交わし、各方位に配置をねがわん」
紅、緑、黄、藍の粒子の球体が東西南北の五芒星の中央に浮いた。
リコは青い衣から白い手をだし両腕を広げて、天を仰いだ。
リコの青い瞳に未だに曇天の空が映る。
(落ち着いて、大丈夫)
『天使は"迷う"事を嫌います。
口を大きく開き、ハッキリと呼び掛けてください』
「我が前に"ラファエル"。
我が後ろに"ガブリエル"。
我が右手に"ミカエル"。
我が左手に "ウリエル"」
(―――来たっ!)
音はない。ただ空気を震わせながら、形なき大きな存在がリコの周囲を包んだ。
「リコリスは大丈夫みたいだのう」
離れた舞台で次の"出番"を待つグランドールが、リコの儀式を様子を眺めていた。
「オッサンもアルセン様とトレーニングする時、毎度あんなに沢山の精霊を降ろしているのか?」
「そうじゃな」
ルイが儀式を行うリコから目が離せない様子で、見詰めている。
「オレもいつか」
ルイがそう言った時、リコの儀式がまた進み始める。
今度はリコの頭上で、六芒星が輝き静かに浮いていた。
六芒星の交差した三角形が、リコは自分の魔力と融合するようすを思い描く。
「我が前方には五芒星が燃え上がり。
そして我が頭上には、6つの光線を放射する星が輝く」
(次は私の――"器"の形作りを)
短剣を戻して、儀式の道具と用意されている聖水が入っていた小瓶を手にして、舞台にサッと円を描くように振り撒いた。
「精霊の名において。
汝の神聖なる天使によって、我を深く審理せよ。
永遠なる大地の女神から、愛され祝福されし"旅人"の名において、願わくば汝の真理が永遠に消えぬ事を」
("復讐の天使""心理の天使""受胎告知の天使""復活の天使""黙示の天使"。
そして名前の語源は"神の人"。
"ガブリエル"と言う天使を意識しながら―――)
「おお、暖かき炎よ我が守護者であれ。
おお、大天使ミカエル は我の全ての活動に対し助力をもたらす。
他の何が存在しなくとも、我が主は確かにある。
彼の軍団である全ての者に対し、偉大にして恐れ多き唯一の者よ。
我が主なる敬愛する"旅人"と人々の間に立てられた誓い基づき、恩恵をもって我をとり保つ者よ。
主なる"旅人"よ、彼の法を我に負わせたまえ」
(私を、大天使の器のとして)
リコはそこで大きく息継ぎをする。
("迷わず、ハッキリ"と)
アルセンの言葉をまた思い出しながら、口を開く。
「おお、旅人よ、英雄となった"人"。
永遠なる栄光の王よ。
我は汝に慎ましやかに祈る。
信仰と博愛における我々の再生の基盤である汝の最も神聖なる傷によって、汝の喜ばしき。
永遠なる大地の女神によって、そして汝の全ての聖徒によって、この儀式が妨げより守られる様に。
我は死に至るまで信仰と博愛に身を尽くす、不信心な者とならない様に言う。
彼は"旅人"はここにあり。
汝の側にいる主、我が全能なる神よ、我は我が作業のために祈る。
これらの浄らかな名、そして精霊によって、 我と我の活動が満たされん事を。
汝の名のより大きな栄光と、そして我が"器"の進歩と恵みに」
聖水が入っていた小瓶を、元に戻し、胸の前で祈るように手を組んだ。
(ここからは、尚一層丁寧に)
「おお、不滅の全能なる神よ。
汝を称え敬う、全ての創造物を汝のしもべである人間へと、造り与えた者よ。
我は汝に"ガブリエル"を我がもとへと送るように、心より願う。
そしてその者の持つ力が我に教え伝えられるように。汝が意志を持って成したもう。
汝の唯一つかわせた旅人"英雄"の名に置いて」
(おいでください!水の天使"ガブリエル"!)
リコは心から祈る。
しかし、ガブリエルの"降臨"の舞台はそこから時が止まったように動かなくなった。
そしてリコも微動にせず、今一度、大きく息を吸う。
(落ち着いて、落ち着いて。心を"揺らして"は"器"が揺り動かしては、駄目)
「やっぱり、"邪魔"が入る、か。
奴さん、アルセンのガブリエル以外は認めないつもりかな?」
独り言のように小さく呟き、緑色のコートを風にはためかせ、グランドール達が立つ舞台の下ににネェツアークが腕を組んで立ってそう呟きなが佇んでいた。
「―――ゲコっ」
リコの事を"気に入っている"使い魔の金色のカエルは、主であるネェツアークの肩に乗り、喉をクツクツと鳴らしながら、横長の瞳で、止まってしまっている儀式を見詰めていた。
『天使が現れない場合は、落ち着いて、もう1度祝福の言葉を以て呼び掛けを』
優しく落ち着いた声を信じて、リコは口を再び開く。
「我は"アルセン・パドリック"。
汝ガブリエルを強く呼び出す、神の聖なる名と偉大なる力によって。
汝よ、直ちに、遅れることなく、雑音を起こす事も、我が身に害を与える事も無く、純粋な姿で我が下へと現れよ。
我が汝に命令する、その全てに応えるために。
そして我は汝に強く命じる、生ける神の偉大なる名によって」
(アルセン様も信じてくださっているから)
降臨の許可証の書類に―――"誓約書"にはアルセンの名前が記載されているのでリコはその名前で以てでしか、ガブリエルに呼び掛ける事が出来ない。
やがてリコという"器"に"ガブリエル"が中々定着しないのが、儀式の中にいる面々にも解る。
「ディンファレさん、リコリスさん、大丈夫でしょうか」
それは魔術や魔力に対して皆無のアルスにも解った。
アルスはディンファレと共に、最期の儀式、神楽舞が始まったのなら、"久延毘古"となり不動となってしまうアプリコットの警護に舞台の上でついていた。
ディンファレはアルスの問いには答えず、真っ直ぐにリコを見詰めている。
そんなディンファレを同じ舞台にいるグランドールは一瞥してから、舞台の下にいる今回の"指揮者"に尋ねる。
「ネェツアーク、どういう事だ」
グランドールは、"リコリス・ラベル"の才能を知っているし、その才能以上に努力をしている姿を"仕事"で城に訪れた際に訓練所で見てもいる。
その努力の様子は、今は親友とまでなっている、嘗ての教え子でもあったアルセンと似通うものすらあった。
リコと似通っているのは、アルセン自身も感じているのが解っていたから、彼女に"降臨"の役目託した時、グランドールは反対しなかった。
降臨は"失敗"をしたならば、命すら危うくなる術で、リコなら出来ると信じているから託した。
「とりあえず、"後2回"。
リコさんが"アルセン・パドリック"として、ガブリエルへの呼び掛ける事を見守ろう」
言い切るネェツアークが見つめる先には、同じようにリコを信じて見上げるライがいた。
「―――我は"アルセン・パドリック"。
汝ガブリエルを強く呼び出す、神の聖なる名と偉大なる力によって。
汝よ、直ちに、遅れることなく、雑音を起こす事も、我が身に害を与える事も無く、純粋な姿で我が下へと現れよ。
我が汝に命令する、その全てに応えるために。
そして我は汝に強く命じる、生ける神の偉大なる名によって」
リコが懸命に心を安定させて震わせまいとしながら、"ガブリエル"となるべく存在を変化させようとする精霊に呼び掛ける。
(後、"一回"にゃ)
ライは息苦しい思いで、その様子を見上げていた。
儀式の直前。ネェツアークにライの前を通り過ぎる瞬間に、折り畳まれたメモと羊皮紙を握らせられた。
『"恋文"。リコさんが舞台に上がる時にでも、こっそりとバレないように見てね』
言いたい事だけ言って、人の悪い笑みを浮かべ、ネェツアークは颯爽と自分の"持ち場"となる場所に行ってしまった。
リコが舞台に上がる束の間に、ライはネェツアークから渡されていたメモを読んだ。
"儀式を行い、"3回"呼び掛けてもガブリエルが駄目立った場合。
リコさんの本当の才能、いや、"天賦の才"に賭ける事になる。
その時はライさん、リコさんのサポートを全力で"命懸け"でよろしくね"
(にゃ〜、あのヒトデナシ。何が"恋文"だにゃ〜)
最初からネェツアークからの手紙が恋文などとは思ってはいなかったが、親友が命懸けで行っているに等しい代理の役目を、失敗するのをまるで予見している内容の手紙。
そんな手紙にライはチャーミングで有名な黒目を、獣のように細くする。
リコの事をどんな生き物よりも知っているつもりのライだが"天賦の才"にかけるというのが、余りに不確定な要素を含んだ才能だとも思う。
『ワシの個人の考えだが、"運"は意識して制御出来るものではない。
それに誰も人生で自分の運の量など計る事は出来ない。
運にも種類が沢山あるけれど、運を持つと言うことは、何もかも超越する生まれつきの"才能"なのかもしれないね。
リコさんの場合は、"幸福を授かる運"というよりは、"人の悪意には悩まされない運"を授かっていると考えた方がいいかもしれないねぇ』
(にゃ〜。この儀式に、誰の"悪意"があるって言うんだにゃ〜)
リコの"天賦の才"が悪意を空回りさせるというなら、ライには、儀式の何処にそれが含まれているかのわからない。
この浚渫に儀式に参加しているのは、"ロブロウの河川の氾濫を防ぎたい"と思う純粋な気持ち持った領主のアプリコット、王都からの"農業研修組"と"王都からの使者"のを含めて、リコに向けられる悪意は感じられない。
(肝心の"悪意"がないのに、どうするにゃ)
ライが掌の中で力強く手紙を握り締めた時、親友は2度の呼びかけの失敗にも、心を折らずにもう一度、教えてもらった通りに呼びかける。
「我は"アルセン・パドリック"。
汝ガブリエルを強く呼び出す、神の聖なる名と偉大なる力によって」
(お願いします、ガブリエル!)
「汝よ!直ちに、遅れることなく、雑音を起こす事も、我が身に害を与える事も無く、純粋な姿で我が下へと現れよ。
我が汝に命令する、その全てに応えるために」
(信じてくれている人の為に、応えたいんです!)
「―――そして我は汝に強く命じる、生ける神の偉大なる名に、よって」
『リコさんなら、大丈夫ですよ』
優しい人を思い出して、リコの声は最後の方になって、僅かに震えていた。
(ごめんなさい。アルセン様。
私を信じて、大切な役目を託してくださったのに!)
舞台に神格化に相応しい器を求める精霊達が集まるが、どうしても―――器に、リコに降りようとはしない。
(―――"私"では、ダメなのですか?)
リコはその場に蹲った瞬間に、ライが舞台に駆け上がった。
「"3回"とも失敗させられたんだな?」
脚を進め一番リコの居る方向に近い場所の舞台――西の端に立ち、グランドールが険しい声を出した時、ネェツアーク以外からの視線が一斉に集まる。
「ええ、お察しの通りです。ですが」
ネェツアークがパンっと柏手をならして、長い指で"印"を組む。
「ここからが、リコリス・ラベル様の"才能"の本領を発揮し処です。
―――"邪魔3回分"は、大きいですよ?"Beelzebub"」
不貞不貞しく笑った瞬間にネェツアークの肩に鎮座していた金色のカエルが姿を消し、新たに"リコが天使に呼びかける為"の浄めの言葉を口にする。
「オン・アビラ・ウン・カシャラ――」
「イちゃん、ごめんなさい。私にガブリエルの降臨は、無理みたい。
集まってくれた精霊達を収める為の処置をしなければ。
強い力が有りすぎて自然の均衡が」
降臨の失敗の挫折感に苛まれながらも、優しく怜悧な女性騎士は、為すべき事をなそうと、ライの肩をかりながらも立ち上がろうとする。
「ワチシには解らないけど、もっと凄い天使がリコにゃんは"降臨"しちゃうみたいにゃ」
そう言って、ライはネェツアークから押し付けられた羊皮紙を取り出した。
「え?」
リコが瞳を丸くした瞬間に、2人の女性騎士の前に金色のカエルが姿を現す。
そして金色のカエルは、小さな身体の中でも大きく場所を占める口を開く。
『オン・アビラ・ウン・カシャラ』
「これは―――」
「ヒトデナシの賢者の声だにゃ〜」
リコとライが続いて驚きの声を上げた次の瞬間に、リコが最初に浄めたのとは比にならない勢いで、また舞台が浄めあげられていく。
そして浄められたその舞台に、黒髪と銀色に近い金髪の美しい女性の騎士達は支え合って立ち上がる。
金色のカエルが宙に浮いたまま、2人の女性騎士に呼びかける。
『さあ、リコさん。もう一度、今度は"リコリス・ラベル"の名の元に降臨を行おう』
金色のカエルから、ネェツアークの自信に充ち溢れた声が響いた。
だがその鳶色の賢者の声に、リコは下を向き、青い布をひかれた舞台の床を見つめた。
「でも、ネェツアーク様。私はガブリエルから"器"として」
少しだけ悲哀の色を滲ませた声で言うリコの言葉を、ライが遮った。
「リコにゃん、これ、ヒトデナシから押し付けられたにゃ〜」
ライがネェツアークに押し付けられた羊皮紙を広げる。
そこに"リコリス・ラベル"という名前と助勢者として"ライヴ・ティンパニー"と記された造られて間もない"降臨"の許可証があった。
"降臨"する天使はガブリエルであって、ガブリエルではないとされる天使の名前が記載されていて、リコは頭を横に振った。
「そんな、ガブリエルにも"器"受け入れて貰えなかったのに、それより高位に値するとも言われる"ジブリール"だなんて」
"ガブリエル"と"ジブリール"。
天使として同じ存在と言われながらも、ガブリエルという天使の名前がジブリールとなっている時。
ガブリエルが優しき姿なら、ジブリールは凛々しい姿。
そして何より、"天使の長"とされているミカエルを抑えて、その"長"の立場になる事もあるとも、この世界では伝えられていた。
だから"ガブリエルさえ無理だったのに"というリコの言葉は、至極全うなものでしかないと普通なら思われる。
だが金色のカエルからは、飄々とした声が響く。
『いや大丈夫だって。
国王様も"リコとライなら、大丈夫だろ"って法王のロッツ様に頼んで超特急でジブリール版の"大天使との誓約書"を作成してくれたよ』
「法王猊下が!?どうしてですか、英雄の方々を差し置いて新しくお造りになるなんて。
しかも一介の治癒術師でしかない、私の名前で誓約書を作成なんて」
リコが信じられないと言った具合で、白い両手で口元を押さえる。
「にゃ〜、流石リコにゃんだにゃ〜。法王猊下のお墨付きもゲットしてるにゃ〜」
ライは当たり前と言わんばかりに、リコをギュッとまた抱き締め、その様子をリコの事を気に入っている"金色のカエル"が嬉しそうに見つめる。
そしてその金色のカエルの口から、またネェツアークの言葉が続く。
『それだけじゃないよ。治癒術師リコリス・ラベルが積んできた陰徳によって救われた数多くの国民の命に、国王も感謝している』
ダガーが王としての仕事をこなした後、護衛騎士の監視から逃げ出して、"見習いパン職人"に扮し、城門からも抜け出し、貧民層が集まる場所にパンを配りに行った時、無償で治癒術を行うリコを見ていた。
「それは、治癒術は傷付いた方を癒す為のものですから。
私の力は傷ついた方がいて、初めて役にたてて貰える。
そんな力でもありますから」
「にゃ〜、リコにゃん。怪我や病気しない人なんていないにゃ〜」
リコの謙遜に、ライが思わず反発するようなニュアンスで言うと、金色のカエルは自分の意志で同調するように頷いた。
『でも、休日を潰して、ついでに身分を隠して中々医者にかかれない、かかりたがらない農家を巡回してもいるでしょ。
そしてに病気や怪我がないように、前以てを防ぐ為の運動と栄養の案内もしているよね?』
「そこまで、ご存じなんですか」
ネェツアークからの言葉にリコは綺麗な顔を、驚きで満たしていた。
『見くびって貰っては困るなぁ、私は国王直轄の諜報員、鳶目兎耳のネェツアークだよ?』
「あっ、失礼しました」
声だけでも鳶色の男の不貞不貞しさが伝わってきて、リコは少しだけ怯む。
しかし、直ぐにネェツアークの声は優しいものに変わった。
『アッハッハッ、実はこれは大農家のグランドールからの情報。
農に携わる事なら、何でもグランドールに情報があがるからね。
貴女と知り合いになってから、漸く最近農家に伝わる"少し天然の入った女神"様の正体が解ったよ。
まあ、変な猫言葉を使うお姉さんとワンセットなら、うちの新人兵士君と秘書の巫女さんでも気が付くかな』
「にゃ〜、ワチシの変装は完璧のはずにゃ〜。
"女神様"の正体がバレたのは、リコにゃんの天然伝説の為に違いないにゃ〜」
「ライちゃんそうなの!?バレているの知っていたの?!」
ライが敢えてボケ倒した事に、リコは真面目に反応し、儀式の舞台は精霊達の"感情"が喜びによって優しく震えた。
『巧く、リコさんとライさんに精霊達が引きついてくれた』
金色のカエルからそんな言葉が聞こえ、2人の女性はもそちらに注目する。
『ねえ、リコさん"奇跡"とはなんだろうね』
金色のカエルから、ネェツアークの声が穏やかにリコにだけ語りかける。
「"奇跡"ですか?」
『そう、一般的に聞く奇跡は"普通では考えられない事"だなんて言われているけれど。
では、逆から考えてみようか?奇跡の反対"普通"とはなんだろう?。
最近の"普通"は、私が知っていた時の"普通"と変わってきてしまった気がしてね』
「それは」
まだ若いリコであるが、先程ネェツアークが言ったような活動をしている為、結構な人と接し、様々なものを見て来た。
城下外での普通、貧民層での普通、医者にかかりたがらないの農家での普通。
尋ねられて"普通"という、言葉のあやふやさに、きちんと言える自信はリコにはない。
ただ思う事はあるので、それを口に出にする。
「"普通"は人それぞれ。
個人の"支え"だと私は思います。
皆、自分の生きてきて培われた"普通"を基準に生きているのだと」
リコの"普通について思う事"はネェツアークの思惑以上に思慮深いもので、嬉しそうに、金色のカエルは小さく頷く。
『そうだねぇ、人は"普通はこうでしょう"と言いながら、その実は"私はこうなんです"と言っているのと同じだから。
"普通は私"、"私は普通"だと、ね。
自分の時間を自分の為に使って何が悪いという"普通"が増えてきた中で、リコリス・ラベルとライヴ・ティンパニーはまるで"奇跡"に近い』
"自分の時間を惜しむ事も悔やむ事もなく、誰かを助けるためにに使う姿をセリサンセウムの民は見て、自分の"普通"を振り返る"
『"普通"を顧みる機会を発起させたその行為。
国を守る事を司る国王ダガー・サンフラワー、法王ロッツ、賢者ネェツアーク・サクスフォーン。
この3人からの"感謝と信用"として、リコさんとライさんに"大天使の誓約書"を受け取り、使って欲しい』
「そんな大それた3方から感謝だなんて。
それに私がやった事は"奇跡"でもありません。
夢も、やりたい事も、自分では思い付けない私は、私が出来る事で、ただ人が安寧にくらせれば良いとただ」
"生きている意味を誤魔化すように、ただ"
賢者に"感謝と信頼"を告げられても、リコは半ば自分の弱い部分を吐露するような気持ちで言葉を吐いていた。
"大きな夢も、やりたい事もなかったから、せめて自分にある力で、人が助けられたならと"
名家"ラベル家"に産まれたからにはと、"名誉"の為の重責にも、逃げる事もしないでただ直向き向かいあって、"王族護衛騎士"になって。
唯一、自分で選んだ治癒術師も憧れるディンファレを何かあった時、助けられれば良いからと、選んだものだから。
「にゃ〜、リコにゃん〜。
精霊達が待っているみたいにゃ〜」
ライがリコを支えながら手に持つ誓約書を、差し出した。
国王・法王・賢者に認められた"降臨の誓約書"に水の精霊を象徴する青い粒子が螺旋を形作り舞っている。
『精霊達はリコさんを器として、ライさんの助勢なら、二人でなら"ジブリール"となる事を認めている』
「でも、私は―――」
『私の代わり、よろしくお願いします』
初めて少しだけ、ディンファレ以外の人に憧れてしまっていた。でも、
(託された"ガブリエル"すら、降臨出来なかったと言うのに。
それを越える存在の"器"に私がなるなんて)
綺麗で冷たい顔ばかりと思っていたら、稀に冗談も言ったりして、そして優しく困らないようにからかわれて。
(私は、あの人を越えたくはない。
まだ、"憧れていたい")
"越える"存在を自分の身に降ろしたのなら、もう憧れて、語りかける理由がなくなってしまうような気がして。
リコが自分の本当の気持ちに気が付き、青い瞳を伏せてしまった時。
《"ガブリエル"ガ、堕チテシマウノヲ止メテアゲテ》
(えっ?)
青い粒子、"水の精霊"がリコに囁いて、顔を上げる。
《"ガブリエル"ガ堕チテシマッタラ、モウ"ガブリエルノ器"ガ戻レナクナッテシマウカラ》
「"戻れなく"なる?」
「にゃ?どういう事にゃ?」
リコとライが疑問の言葉を繋げて尋ねるが、青い粒子の姿の精霊達は口を閉じるようにして、語らなくなった。
『どうやら、"口止め"されているみたいだね』
金色のカエル越しでも、ネェツアークの声が険しいのが、リコとライにも解る。
「ヒトデナシの賢者殿。精霊さん達を口止めって、なんだにゃ〜。
というか、"本能"でしか動けない精霊を黙らせるってどういうことにゃ?」
俄に"魔術師"の顔になったライの問いに、ネェツアークが使い魔を通して口を挟む間もなく、水の精霊達はリコにだけ訴えかけるように更に囁く。
自分達の想いは"ジブリールの器"にしか通じないといった様子で、必死に囀ずっていた。
《"ガブリエルノ器"モ、"ジブリールノ器"ト同ジダカラ》
「え?」
(アルセン様と私が同じ?)
《大好キデ、タダ憧レル、ソンナ人ノ側二居レル為二努力ヲシテイタ。
"英雄"ト"ガブリエルノ器"トイウ居場所デナイト、側二居レル理由ガナイカラ》
そして水の精霊の粒子達はある方向に、自分達の意志を持って宙を流れる。
「――――何処に」
青い粒子達と同じ色の瞳の女性の視線が辿る先には、白い装束を身に纏ってこちらを見つめる褐色の大男、グランドールがいた。
(グランドール、様)
不意にアルセンが親友に呼び掛けるように、リコの中でこちらを気遣う男の名前が浮かんだ。
《――"ガブリエルノ器"モ"ジブリールノ器"ト同ジ。
タダ、憧レル人ノ役二立チタクテ。
デモ、"ジブリールノ器"ガ、止メテアゲナイト、私達ヲ受ケ入レテクレナイト。
モウ、アノ傍二、"ガブリエルノ器"ガ居ル事ガ出来ナクナッテシマウカラ。
ソウシタラ、器ノ側二私達モ居ル事モ出来ナクナッテシマウカラ、オネガイ》
(ああ、そうか)
水の精霊達が必死に自分に訴える理由を、リコは理解する。
(それも同じなのね?)
「貴方達は"ガブリエルの器"が、アルセン様が好きなのね?」
リコが慈しみを込めた声で、精霊に語りかける。
「にゃあ、リコにゃん!?」
精霊と"会話"を始めた親友に、ライが驚きの声をあげたがそれを止めるように、金色のカエルが艶やかな癖っ毛の黒髪の頭に鎮座する。
「にゃ、"ワチシ"は黙っていた方が、いいにゃ?」
「ゲコッ」
ライが小声で尋ねるのを、ネェツアークではなく、カエルは鳴き声で答える。
まるで金色のカエルの意志で
"黙って見守ろうよ"
言われたような気がしたので、ライは口をつぐんで直ぐ側にいる、リコと精霊の語らいを素直に眺めた。
「私がライちゃんに手伝って貰って、"ジブリール"の器となって"貴方達"――水の精霊を納めれば、いいのね?そうすれば――」
(アルセン様が"憧れの人"と離れるという事態が、起こらないのね?)
最後の方は言葉に出さず、リコが精霊に語りかけると、肯定するように精霊がリコの周りを舞う。
直ぐ横で金色のカエルを頭に乗せたライが、リコを見守る。
(夢も、やりたい事もなかったけれど。
"好きな事"はある)
「にゃ〜?リコにゃん?」
大きな黒目で見つめられて、リコは微笑んだ。
「人の役に立つのも悪くはないけれど、それならまだ、好きな人達の役に立つ方が私は好きだから。
役に立って、好きな人達が"幸せ"になれるなら、それが私にとっての幸せだから。
だから、ライちゃん手伝ってくれる?」
「モチのロンでオッケーだにゃ〜♪。
ワチシだって、リコにゃんに幸せな姿が好きにゃ〜。
"笑ってて"、欲しいにゃ〜」
ディンファレの微笑。
グランドールの側でなら、困った様に笑うアルセン。
そしてウサギのぬいぐるみのような賢者を抱き締めるリリィの笑顔。
そんな風に思い出した笑顔が、リコに遠慮や謙遜という気持ちを、押し流すように"取っ払う"。
「じゃあライちゃん、魔力をサポートしてくれる?。
私、3回失敗してるから、結構消耗してしまっ――」
「ゲコッ♪」
リコの言葉の途中で金色のカエルがライの頭の上でクルッと回転すると、2人の前にマーガレットお手製の丸いガトーショコラが現れた。
「にゃあ?!」
「きゃあ!」
2人とも慌てはするが、見事にガトーショコラをキャッチした。
《"僕"から、サービスだよ。受け取って。それじゃ、頑張ってね》
誰かのものに似た、少年の声で金色のカエルが初めてリコとライに口をきいたと思ったら、シュンと僅に空間を歪ませて姿を消した。
「あれは賢者殿の声ではないわよね?」
リコは驚きながらも、金色のカエルから"プレゼント"されたガトーショコラを口に入れる。
「にゃ〜。ヒトデナシの賢者殿、王都に帰ったら、絶対"使い魔"の仕組みを擽り倒してでも聞き出してやるにゃ〜」
そう言って、ライもペロリとガトーショコラを口の中に放り込んだ。
シュンと音をたてて、金色のカエルがネェツアークの右肩に止まる。
「―――サービスが過ぎるんじゃないのか?」
ネェツアークにしては珍しく、"使い魔のカエル"に対して窘めるような言葉をかけた。
使い魔であるはずの金色のカエルは、クツクツと喉を鳴らしながら、主であるネェツアークにしか聞こえない言葉で返事をする。
《向こうだって"ガブリエル降臨"の邪魔をして、精霊達に"口止め"までしたんだ。
"僕"だって"お気に入り"の為にサービスしただけだよ。evenさ》
悪びれない"使い魔"に少しだけ危うさを感じながらも、今は局面が次に動き出したのでそちらに集中する。
(アルセンじゃあないが、帰ったら説教と調整だな。
ただでさえ、今まで均してきた均衡が戻されてしまっているのに)
【世界から魔法をなくす為にしてきた下準備】を邪魔されて、凶悪となった顔にかかる丸眼鏡を中指で押し上げる。
「マクガフィン様、クローバー君!、次の儀式の支度をっ!。
彼女達はもう失敗をしません!」
ネェツアークの怒声にも思える指示に、グランドールとアプリコット以外の人物が舞台の上や端でビクリとした―――右肩に乗るカエルも激しく瞬きをしている。
「儀式の進行に何の障りがあったか知らないが。
私達ではどうにも出来ない事で、声を荒げるのは止めて欲しいものだな」
ディンファレが小さくため息を吐くと、そのすぐ後ろにいる"護衛対象"のアプリコットが、軽く肩をトントン叩いた。
振り返ると、銀色の仮面を着けたアプリコットの人差し指が、ディンファレ滑らかな頬にめり込んだ。
「―――」
「あれ?」
「領主様!?」
アルスがアプリコットの"イタズラ"にあたふたとする前で、ディンファレはを指をめり込ませたまま、また小さく溜め息を吐く。
そして無礼にならないように、ゆっくり自分の頬に刺さるアプリコットの人差し指をディンファレは外して、苦笑した。
「"感情を隠さないのは、こちらを信用しているからだ"と、仰るつもりでしたか?」
「もしかしたら、前にも似たような事があったのかしら?」
ディンファレとアプリコットの会話に、アルスは全く入り込む余地がない。
「ええ、"鳶目兎耳"殿の奥様に。
奥様は私が緊張している時、よく同じ様な事をなさってくださいました。
"いつもの貴女なら、気がつくでしょ?"と」
ディンファレがそこまで言った時、"降臨"の舞台の方から柔らかな青い光が瞬き始めた。
("奥様"か)
水の精霊達が本格的に変容を始めたのを、仮面に覆われていない素肌で感じながら、アプリコットは腕を組む。
「ディンファレ殿、良かったら、儀式の後少し"話さない"?」
儀式の衣装を纏うアプリコットは銀色の仮面を外し、ケロイドの"素顔"を曝け出しながら、ディンファレに提案する。
「御命令なら従います」
短くそう答えて、ディンファレは顔を正面に向け、リコとライを再び見つめ始めた。
「あら、つれないねぇ」
アプリコットが些か大袈裟に残念がりながら肩を竦めるのを、アルスが少しだけ心配そうに見つめている。
少年の心配する視線に気が付いたロブロウ領主は、無意識に器用に指先で外した仮面を回転させて、口を開く。
「えっと、アルス君、喧嘩している訳ではないから大丈夫だから。
それとも、"キングス"さんに固執しているような男に、"奥様"がいたことに驚いているのかな?」
少しばかりふざけた言い方をアプリコットはしたのだが、アルスはその言葉からしっかりとある事実を把握していた。
そして少年は、思わず事実について尋ねてしまう。
「あの確かに、ネェツアークさんに奥様が"いた"って事に今は驚いてます」
「え?あ?!」
(やらかした)
アプリコットはケロイドの"仮面"をつけていた事に少しだけ安堵して、アルスから露骨に視線を逸らした。
「アルス君。リコさんとライさんが成し遂げるのを、一緒に見ようか」
銀色の仮面の回転をピタリと止め、サッと装束の懐にしまいながら、アプリコットはアルスに向かって、ケロイドの顔で思い切り作り笑顔で微笑んでから、儀式の方へ視線を向けてしまった。
「あ、はい」
アルスは"天然"であると言うことは自負しているが、"相手が困っている"という事を感じられないわけではない。
寧ろ、"そちら"の方面なら敏感な方なので、アプリコットが話を避けたのなら、深くは追及しない。
そして、話を逸らされた事よりもアプリコットの"おっちょこちょい"な加減に、イタズラ好きなウサギの賢者の思い出していた。
(アプリコット様って、ウサギの賢者殿に似ているかも)
アルスがそう思って、リコとライの方がいる舞台を見つめると―――光輝く羽が舞い、辺りを包み込み始めていた。
(この儀式が終ったなら、帰ってきてくれますよね。賢者殿)
信頼と空色で染めた瞳で、アルスは、ウサギの賢者の代理である男が"失敗しない"と断言した儀式を見つめた。
ライに手を添えられ、魔力の助勢を受けながらリコは言葉を口にする。
「おお、旅人よ、英雄となった"人"。
永遠なる栄光の王よ。
我は汝に慎ましやかに祈る」
2人で支え合うように立つ西の舞台は、青い水の精霊の粒子と、"美しい6百の翼を持つ"とされるジブリールの白い羽根が具現化した物が、視界を奪う程舞うように満ちていた。
視界を白と青の色に占められながらも、リコは自分の手に添えられている"親友"の掌の暖かさに絶対の信頼を委ねて、リコは言葉を続ける。
「信仰と博愛における我々の再生の基盤である汝の最も神聖なる傷によって、汝の喜ばしき。
永遠なる大地の女神によって、そして汝の全ての聖徒によって、この儀式が妨げより守られる様に。
我は死に至るまで信仰と博愛に身を尽くす、不信心な者とならない様に言う。
彼は"旅人"はここにあり。
汝の側にいる主、我が全能なる神よ、我は我が作業のために祈る。
これらの浄らかな名、そして精霊によって、 我と我の活動が満たされん事を。
汝の名のより大きな栄光と、そして我が"器"の進歩と恵みに」
ここでリコが大きく息を吸うと同時に、青の粒子と白い羽が互いに重なり合い、縞模様となり"器"を囲んだと見えた瞬間に、パッと散った。
「もう8割方は成功にゃ〜。
リコにゃん、もう一息にゃ。きっと大丈夫にゃ〜」
ライが小声でリコに囁いた。
「ライちゃん、本当にありがとう」
リコが震える声で、ライに感謝の言葉を述べた。
「にゃ〜、ジブリールは
"眉間には太陽が埋め込まれている"
"王冠を被り、背中に翼がはえた男性"
"手のしたに翼がある事"
ジブリールをイメージする事を忘れないでにゃ〜」
(リコにゃん、ごめんにゃ)
口では明るく言いながら、ライは心の中で、詫びる。
(ワチシは"リコリスがガブリエルの降臨を失敗する"事知っていて黙っていた、にゃ)
そうしないと、リコの"悪意を無駄にする運"を発揮させる事が出来ないから。
そして、嘗て禁術について微かに触れたライは、リコに対する悪意、"嫉妬"をする気配を僅かにではあるが今、確かに感じていた。
(リコにゃんと腹黒貴族の間に成り立ちそうな関係に"嫉妬"かにゃ?)
儀式に集中しているリコに気付かれないように、ライは愛らしく見える黒目を獣のように縦に細くして、周囲を威嚇する。
(ワチシの、私の親友の"幸"を邪魔する奴は、どんな奴でも、赦さない)
「リコにゃん。聖水は、ワチシに任せて欲しいにゃ〜」
「ありがとうライちゃん、お願いするわね」
儀式に集中している為に言葉少なになってはいるが、リコの心からの感謝をまたしっかりと感じながら、ライは"勘"を働かせる。
触れる事も見ることも聞く事も嗅ぐ事も味わう事も―――五感ではどうしても探り当てられない"相手"。
けれど自分の大事な親友を仇なすと言うのなら、例えどんな"相手"だってライは引く気はない。
(例え私の力が、相手に対して"焼け石に水"の状態だとしても、リコリス、リコにゃんの幸せを私、ワチシが邪魔させない!)
今度はライが聖水が入っている小瓶を手に取り、リコを中心にして円を描くようにして、振り撒いた。
そして、聖水がライの影に降りかかる直前。
違う次元で同じ"時"に存在する者が、ライの影の闇の中に潜み"妻"に語りかけていた。
《"妻"よ、引かないか?。
しかし、ジブリールを降ろせる"運"の持ち主には、驚いたな。
まあ、あの天使の前では、影の"闇"も濃くはなるのだが、目を覚ましたばかりのワシには些か、眩し過ぎる》
自分の"夫"が立ち去ろうと提案する本当の"理由"を解っている妻は、まだ少し虚ろな親友を優しく抱きしめながら、微笑む。
《旦那様は相変わらず"猫"が、お好きで、甘いのね。
構いません、私は"ガブリエル"の名を降ろすのが、"私の親友"以外赦せなかっただけですから。
それに古典的な聖水、不快ですし、折角のドレスが濡れてしまいますわ、旦那様》
そうして香油をつけていない為に、降りてしまう前髪親友の綺麗な金髪を優しく指で後ろに梳いてやる。
《ふふ、確かに。古典的ではあるが、覆す事が難しいやっかいな水だな。
それでは、今暫く"時"が動くのを待とう》
ライの影に聖水が降りかかる寸前の所で、"闇"は引いて一時存在を消した。
リコが今までライに支えて貰うように触れていた手を、ゆっくりと離した。
今からジブリールへの"最後祈り"が始まる。
ライに見守られながら、リコは青い衣の胸の前で、再び祈る為に自分の手を重ねる。
"8割方は上手くいっている"と親友に言われた今でも、リコの中に生き物のように不安は蠢いている
先程のガブリエルの"降臨"を行った時も、リコの中では手応えは確かにあった。
しかし、総仕上げとなる祈りの言葉にを口に出した途端に、まるで須くして、ガブリエルの内となる精霊達は"代理の器"となるリコに、降臨をする事を拒んだ。
だが今のリコには、水の精霊達が自分が拒まれた理由も気持ちも分かったような気がしていた。
『リコさんなら大丈夫です。
きっと水の精霊達も"アルセン・パドリックと違う"と感じたとしても、貴女に迎合をしてくれる事でしょう』
アルセンはそうは言ってくれたが、水の精霊達は違ったのだ。
(私はよく言われるけれど。アルセン様は、少しだけ天然なのかもしれないね)
傷付いた友達に、"失恋"をした女の子に語りかけるようにリコが心の中で語りかけると、一気に精霊達が"器"の中に、リコの内に入り込む。
(貴方達、"精霊"達はガブリエルの本当の器が、本当のアルセン様が、良かったんだよね。
ガブリエルとして成る時は、"アルセン・パドリック"でないと、受け入れたくなかったんだよね)
再びリコが語りかけると泣き声にも様子で、リコの内に入った精霊達が囁いた。
《"ガブリエルノ器"ガ、イツモ一緒二降臨スル、モウヒトリ人トスル時ノ笑顔ガ大好キナノ。
本当二幸セソウデ、私達モ心カラ、器二"ガブリエル"ガ降臨出来ル様シテアゲタクナルノ》
才能と努力で、どうにか成るものではなかった。
水の精霊達はリコリス・ラベルは受け入れはするけれど、"ガブリエル"となるなら"本当のアルセン・パドリック"でなければ、"嫌だった"から。
無理をすれば、精霊達が自分の気持ちを誤魔化せば、リコをアルセンという器だと、気づいていながらも受け入れる事は多分可能だった。
けれど、多分それはきっと互いに無理をしたような結果しか残さなかった。
《アレ、ドウシテイツモ側二イルノニ御祓ノ時ニハイナカッタノ?。
"器"ガ変ッタカト思ッテ、緊張シテシマッタジャナイ》
《イツモ器ノ側二イナサイヨ!》
《ホラ、コノ"人"ガイルカラ器ガ笑ッテイル。
ヤッパリガブリエル様ノ器ノ、人二間違イナイワ!》
精霊達は何度も、リコに遠回しに優しく、"気付いて欲しい"と訴えていた。
だけど、この儀式にいる"人"達は精霊の気持ちに気がついてあげる事が出来なくて。
《ゴメンナサイ、"ジブリールノ器"》
リコの"器"の内に納まり、降臨の為に変容しながら、精霊達は泪を流した。
大好きな"ガブリエルの器"である人、"アルセン"に、とても信頼され、代わりになると言われた器に"人"に水の精霊達は"嫉妬"を抱いていた。
でも、アルセンに余りにも"器の力"を信頼され、降臨をする時にいつも傍らにいる人、グランドールさえも器の代わりとなるリコを認めている。
だから、精霊達は"仕方ない"という感情を持ちながらも、リコを受け入れ、ガブリエルとして"器"を満たそうとした時。
"嫌なら、気にくわないなら力を貸さずとも良いだろう"
暗く凍えるような声で、当たり前のように提案される。
"嫌ならば、抗えば良い。ガブリエルとなるのは、人ならば、"アルセン・パドリック"でないと嫌なのだと、な"
地獄の宰相である存在の唆しに乗ってしまった。
そしてその側にいる、闇の精霊に殆ど充たされかけた"ガブリエルの器"を見せつけられた。
"ガブリエルの器も、よもやこんな風に水の精霊達が振る舞うと思うまいて"
復讐の女神に抱き締められて、微笑む水の精霊達が大好きな"ガブリエルの器"を見るのがつらくて、何も口が聞けなくなった。
《チガウ、私達ガ好キナノハ》
"土の精霊"の長となる大天使を降臨させて、穏やかな笑みを浮かべる人の傍らに立つ、"ガブリエルの器"が水の精霊達は大好きだから。
だけど、このままでは大好きなガブリエルの器も自分(精霊)達も駄目なのだと気がついた。
そして、この状況を打破する為に"ガブリエル"より高位となる"ジブリール"に変容する、覚悟を水の精霊達は決める。
リコの中に蠢く不安は、水の精霊達の不安でもあった。
時間の概念がない精霊達でも、"気が遠くなる"といった感覚を思える程"ジブリール"として降臨したのは昔の事だったから。
リコという"ジブリールの器"に納まりながら、精霊達は気持ちを伝える。
(なら、私はガブリエルの降臨に失敗して"成功"だった。
精霊達の大事な器への気持ちを、誤魔化させるような事をさせないで済んだのですもの)
リコの"答え"に水の精霊達はまた、泪を流す。
《アリガトウ、"優しい"器リコリス・ラベル》
大きな青と白の縞の旋風が唸り、リコを包みこんだ。
《私達ハ、自分達ノ存在ヲ揺ルガス事二ナッテモ。
"ジブリールノ器"トナル"リコリス・ラベル"二助勢スル事ヲ誓約書ノ許二誓イマショウ》
本能のままでは存在する精霊達から、心からの信頼を委ねられる声を確認してから、リコは頬に当たる暖かさと光に目を細める。
そして不意に、領主の部屋で意識を失った時に背中を押してくれた――戻る為の手助けをしてくれた"幼い少年"の姿を思い出す。
"『私の腹心の伴侶』を救ってくれるなら"
少年の正体も言葉の意味が解らないままでも、言葉と気持ちには嘘はなかった事も感じた事を思い出して、リコはしっかりと誓う。
(必ず、精霊や貴方達が救いたい"存在"を救済します!)
俄に雲の隙間から伸びる日の光と、垣間見える青空に向かってはっきりとリコは呼び掛けた。
「おお、不滅の全能なる神よ。
汝を称え敬う、全ての創造物を汝のしもべである人間へと、造り与えた者よ。
我は汝に"ジブリール"を我がもとへと送るように心より願う。
そしてその者の持つ力が我に教え伝えられるように。汝が意志を持って成したもう。
汝の唯一つかわせた旅人"英雄"の名に置いて!」
リコを包んだ青と白の旋風が、強い風と共にかき消えた。
「―――さあっ、この世界の有史以来、"旅人"だけが見たという"大天使ジブリール"のお出ましです!」
ネェツアークがまるで劇の一部のように、声高らかに宣言すると、リコのいた西の舞台が再び光輝いていた。
"眉間には太陽が埋め込まれている"
"王冠を被り、背中に翼がはえた男性"
"手のしたに翼がある事"
ライがそう例えた通り、背中から美しい羽根を生やし、長い銀色の美しい髪に王冠を被り、青い衣から延びる白い手首からも透ける美しい羽根を生やしている、天使が降臨していた。
そして、何より姿は雄々しい男性で、ライがリコリスの顔中でも特に白くて美しいと思っている額には、輝く美しい瞳があった。
「ジブリール、にゃ?」
ジブリールから与えられる圧に、ライは体中に小さな痺れを感じながら尋ねるとゆっくりとジブリールは頷き、口を開いた。
《Live.This situation does not last for a long time.
―― Let's hurry.》
「にゃあ!?急にそっちの言語で喋らないで欲しいにゃ!!。
――I understand. It cooperates.」
何やかんやと言いながらも、ライはジブリールが降臨させたリコの言語をしっかりと理解していた。
"ライちゃん、この状態は長くは保てないから、急いで"
その言葉を理解して、親友の負担のかからない言語で、
"解ったにゃ~、協力するにゃ~"
と返事をして、直ぐ様に次に使う儀式の道具である"聖杯"を、用意しておいた道具の中から手渡した。
"ジブリール"となったリコが聖杯を受け取り、凛々しい男の天使の顔でライに向かって微笑む。
"有史以来、2回目"となると言われている奇跡に近い降臨の風景を目前で眺めながらも、ライが想うのは人である親友の事だけで、"彼女"に向かって負担にならない言葉で呼び掛け、励ます。
「Liquorice,I trust you. Therefore, finish.」
"リコにゃん、ワチシ、信じてる。だから、やり遂げてにゃ~"
ライの声に、自分という器に充たされてある"ジブリール"という精霊の激流の最中にあるリコリス・ラベルという自己を留めるのを助けられるのが解る。
そして今、自分がこうやって"ジブリール"を降臨出来ているのも、ライの手助けと"信頼"があってこそだと再確認をして、ライから受け取った、聖杯を翼の生えた手で高く掲げた。
《purify(浄めよ)!》
聖杯の口から様々な"青"という色に属する表現を伴う色の粒子達が、なみなみと溢れ零れる。
それが緩やかな風に乗るように、昨夜からの豪雨で荒れ、うねりをあげて泥色となったロブロウの渓流に次々と舞い降りる。
そして聖杯から溢れた色とりどりの青い粒子達が、渓流に触れた場所から穏やかな流れに戻り、水も澄んで透明なものとなった。
「――――すっげ」
グランドールと共に、次の儀式の開始の位置につきながらも、ルイはそこから見える"奇跡"に声を上げる。
「ルイ、リコリスとライヴがやり遂げた事を無駄にせん為に、ワシ等もしっかりせんとな」
優しくも厳しくグランドールに語りかけられて、ルイはしっかりと頷いた。
「折角オッサンとこうやって"人の役に立てる"機会が来たんだから、オレが出来るだけの事、精一杯やるよ」
八重歯を見せてニッと笑うルイの肩に、グランドールは大きな逞しい手を置いた。
「頼んだぞ、ルイ。降臨が済んだのなら、すぐに始める」
グランドールがそう言って舞台の下を見ると、ネェツアークは、打ち合わせ通り"忽然"と姿を消していた。
"ジブリール"に掲げられた聖杯から溢れでる、水の精霊達の粒子によって、ロブロウの渓流は普段の穏やかで、水音のせせらぎも涼やかなものに戻りつつあった。
それを儀式の準備を手伝ったロブロウの領民達が、"安全の為"と、儀式が終了する迄入るように、アプリコットから指示された関所の中から、その光景を眺めて歓声を上げる。
領民達は口々に、奇跡や神の恩恵を感謝の言葉を口にするが、実際に儀式を行っている功労者達がいる舞台は渓谷の岩影になって、見る事が出来きていなかった。
そして荒れていた渓流を、歓声が上がるまで落ち着かせた功労者"ジブリール"を降臨したリコリスは未だに聖杯を掲げ、それを助勢する為にライは、魔力を儀式の"舞台"へと送り続けていた。
浄化が終盤に差し掛かり、手に羽が生えた凛々しい男性の天使ジブリールの姿となったリコの後ろで、ライの身体が少し揺れる。
「―――Live!?」
偉大な天使を身体に降ろしつつ、全身全霊で聖杯を掲げ、ロブロウの渓谷に流れる河川の浄化に臨みながらも、自分の為に無理をしがちな妹のような親友の不調にリコは目敏く気がつく。
「―――だ、大丈夫にゃ」
先程までは"ジブリール"を 降臨させたリコに負担がかからぬようにと"言語"を合わせていたライだが、今はもうその余裕はない。
その余裕がないにも関わらず、リコが聖杯から浄化の為に水の精霊を溢れ出させる為の魔力の助勢は、舞台に送り続けている。
水を象徴する天使のジブリールではあるが、"癒し"や"優しさ"を得意とする"ガブリエル"ではないので、"荒れた渓流"を浄化し"穏やかにする"のにはまた魔力の使い勝手も違う。
魔力もガブリエルとして治めるよりは、ジブリールは"量"を必要としていた。
(もう少し、で完璧に、浄化が終わるから……待っていてライちゃん)
そんな"量"を必要とする浄化の中でも、協力的になった水の精霊とライの助勢で、"もう一息"と言った感じでロブロウの渓流は、普段の姿に戻ろうとしていた。
(これで、戻って!)
自分も、ライも、降臨に力を貸す為に変容した水の精霊達も限界なのを感じながら、リコは"ジブリール"として声を張り上げる。
《purify!》
羽の生えた手で支え掲げる聖杯の口から、一際強く青く輝く粒子達が溢れ、薄く広大にに――ロブロウの渓谷の渓流を覆いつくすように広がった。
"ピィイイイイ"と再び鳶の鳴き声の様な音で、水の"浄化を完了"の認識したという、アプリコットからの指笛が風の精霊に乗って渓谷を響き渡った。
安堵で力が抜けて"言語"の状態が"ジブリール"から"リコリス"の時のものへと戻る。
「―――やった」
リコにしては少しばかり"やんちゃ"な達成の言葉を男性の声で口にして、やり遂げた安心感に気が抜けた瞬間に、後方で何かが揺らぐのを風が僅かに震える事で解る。
リコは儀式の支度の際、新領主邸の蔵で聴いた能楽の調べの始まりを耳にしながら、立っている事がやっとな"ジブリール"を降ろした姿で、聖杯を手にしたまま振り返る。
魔力を助勢の為に使いきったライがゆっくりと倒れるのが、リコの青い瞳に映った。
「―――ライちゃん!!」
声は何とか出せるが、リコの意識と身体は追い付かない。
"ダンダンダンダン!"
ジブリールの声でリコが呼び掛けるのと共に、舞台を駆け上がる音を響かせながら、ネェツアークが姿を現した。
「ギリでセーフ!!」
ふざけているとも思われて仕方ないような台詞を口にしながら、ネェツアークは駆け上がった勢いのまま止まらずに、ザアアッと滑り込む。
「っつう!」
間 一髪で倒れるライが舞台の床と激突するのを防いで、抱き止めた。
盛大にスライディングした状態なので、ネェツアークはライの頭を抱えながら、受け身を取るように接した手と床の摩擦熱で少しだけ顔を歪めた。
「アチチチっ」
長い指がついた手をヒラヒラとさせながらも、ライの身体をしっかりと抱き止めているのを見て、リコは改めて安堵の息を漏らす。
「リコさん、そろそろ"ジブリール"の降臨を終了しよう。
じゃないと、"アルセン3号"が出来てしまうよ。
ちなみに"アルセン2号"は只今のライさんの状態です」
相変わらずふざけているのか真面目なのか解らない、鳶色の賢者の物言いだが、それが安心を与えてくれる。
「ネェツアーク様。そんな言い方をして、アルセン様の耳に入ったらまた怒られますよ」
魔力は殆んど使い果たして、体力も殆んど残っていない状態なのに、リコは思わず笑ってしまっている。
「ああ、やっぱりリコさんとアルセンは似ている部分があるねぇ。
それにしても、もしかしたら"男"の姿になったらリコさんが一番男前なのかもしれない」
ネェツアークの目の前に映る"ジブリール"の姿のリコリスは、美丈夫と表現するのがぴったりだと思えた。
鳶色の瞳は、まるで懐かしい物を見つめるように、銀色に近い長い金髪に冠をつけ額に輝く瞳を持つ美しい天使をライを抱えたまま見上げる。
一方、誉められてはいるのだろうが、リコはあまり嬉しくはない様子だった。
「ネェツアーク様、仮にも天の御使いである天使様に、人の基準で容姿をどうこう言うのは、不敬にあたります」
美しく凛々しいとしか感じられない"ジブリール"の声で、ネェツアークにリコが意見した。
だが相変わらず"何処吹く風"の塩梅でジブリールの姿のリコを見上げたまま、ネェツアークは不貞不貞しく笑う。
「不敬に当たるのかな?。まっ、捻くれ者の私がこんな素直に美丈夫と思える降臨の天使を見たのは、2度目だから誉めさせてよ。
さて、よいしょっと」
ライを抱え直しながら、ネェツアークは丁度儀式の舞台の真ん中に座り込む形になる。
「ライちゃん、大丈夫ですか?」
寝るのが大好きな彼女ではあるが、眠りは浅いし瞼は少しばかりいつも極薄く開いているライが、リコの知っている姿。
だが今ネェツアークに抱えられているライは、深く眠り動かず、瞼は固く閉じられていてピクリともしない姿は、リコの心配を煽った。
そんな"天使"を見ながら、ネェツアークかはまた薄く笑う。
「ライさんの心配も良いけれど。
リコさん、自分の心配をしようね」
そう言って、長い指をパチリと弾いた。
その瞬間に、リコの降臨の青い衣から一斉に水の精霊が粒子となってブワっと飛び出て行く。
リコの視界がグラリと揺らぎ、身体中に貧血を起こした時のような倦怠感が溢れ、意識すら遠くなった。
「ネェツアーク様、いきなり何を」
平衡感覚を担う三半規管も狂ってしまったかのように、リコは足元が激しくふらつき、両膝に力が入らない。
「いくらライさんが心配でも、いつまでも精霊を体内に取り込んで、"降臨状態"だなんて、自滅行為に等しい。
まあ、自力じゃあ、降臨が解けないくらい魔力を使わせてしまったから仕方ないんだけどね」
リコは激しくと視界が回る中、ネェツアークはゆっくりとライの身体を舞台に横たわらせながら立ち上がり、もう一度指を弾く姿が目に入る。
「"リコリス・ラベル"、こちらへ」
いつもとは違う重々しい声で呼び掛けられ、揺らぐ思考の中でも、
"鳶色の賢者の指示に従わなければ"
そんな事を思いながら脚を前に出した瞬間、リコは意識が途切れて倒れる。
今度はジブリールとなったままのリコの体を、ネェツアークはしっかりと受け止めた。
美丈夫の端正な顔にある2つ青い瞳も、ジブリールを象徴する額にあった輝くような瞳も、閉じられているのを見て、ネェツアークは優しく、精霊が飛び散った後に冠が消えたプラチナブロンドの頭を、抱き止めてたまま撫でた。
「お疲れさま。初めて尽くしで、リコさんもライさんもよく頑張ったね」
自分でも照れ臭いのと"らしくない"とわかっていなるから聴こえていないのが分かった上で、そんな言葉をネェツアークは口にする。
ただ懸命に役割をこなしきった、自分達の国の次世代を担うであろう2人には感謝と労りを言っておきたかった。
殆んど水の浄化の為に、飛んでいった向かったように見えた水の精霊達も姿を現して、リコとライを労うように側によってきている。
リコが水の精霊達の"心"を学べた事を感じて、ネェツアークは優しく笑う。
「うーん、でも抱き止めるなら"リコさん"の姿なら高嶺の花といった具合だったんだけど。
美少年はアルセンで慣れてるしなぁ。
さて速やかに天使の退去を願いますか」
しかし、どうしても最後まで緊張感が保てない賢者は、照れ隠しを口にしながらジブリールの姿のままのリコの身体も、ゆっくりと儀式の舞台の中央へ、ライの側に横たえた。
リコとライの身体が互いの頭が爪先に向かい合い、その中央にネェツアークが立つ。
横たわる2人を見つめ、顎に手を当て、賢者は不意に浮かんだイメージを口に出す。
「リコさんとライさんで白と黒で丁度太極図みたいだなぁ。
後で、結界を貼るのに丁度いいか。
では、ジブリールに"帰還"を願おう」
もう一度だけ周囲に誰もいない事を確認してから、ネェツアークは瞳を閉じ、開くと鳶色から空色と変わっていた。
ネェツアークの張りのある声が谺する。
「汝が平和的に、静かにやって来て、そして我が請願に応えたので、我は汝をつかわせた神の名に対し礼を言う。
汝のあるべき場所へと退去せよ、そして汝よ、我が汝を呼ぶ時には常に応じるようにあれ。
我らが主、英雄である"旅人"の名において」
ネェツアークの足元に横たわりジブリールの姿を"降ろしている"リコから、また大量の水の精霊が吹き出した。
そしてリコの姿からジブリールの姿に変わった時と同じように、青と白の縞模様の旋風が大天使の姿を包みこむ。
「ある意味、気を失っている状態で良かったかな。
余計な力が入ってなくて、隅々に入り込んでい精霊達が抜き出ていき易い」
そう言って指を弾くと青と白の旋風は、ネェツアークの緑色のコートを大きくはためかせて消えた。
そして、そこには意識は失ったままだが、人の姿になったリコが儀式の青い衣を纏って横たわっている。
リコの姿が障りなく元に戻ったのをしっかりと"空色"の瞳で確認してから、ネェツアークは小さく安堵のため息をついて、瞬きを数度すると、瞳の色は鳶色に戻っていた。
「こちらはこのままで、結界を張っていれば浚渫が終わるまでは大丈夫だろう。
気を失っていてもリコさんやライさんなら、グランドールとアルス君が抱えて引き上げてくれるだろうから」
少しばかり下がった丸眼鏡を指で上げていると、グランドールが"謳う"声が渓谷の響き初めているのに漸く気がついた。
《時に大地を震動するは、いかさま下 界の竜神の出現かやと、人民一同に雷同せり》
「うーん、相変わらず良い声。
祭りの時とか、グランドールは歌えばいいのにねぇ~。
変な所で照れ屋だもんなぁ~」
ネェツアークは自分の背後で何かが動く気配がしたが、その"正体"も解っているので振り返りもしない。
「にゃあ~」
「あ、ライさん気がついた?。
そうなんだよね~、私が進めてもアルセンが
"グランドールが恥ずかしがっているんだから、やめなさい"
って、いつも結局歌わないんだよね~」
「にゃあ~」
「ああ、リコさんも歌が上手そう、というか、まず声が癒し系だよね。
ライさんは明るい歌が似合いそうだよね~」
「にゃあ~」
「へえ~、ライさん軍の楽団に入っているんだ。
あ、そうだ。もしリリィが興味を持ったら、子供向けの―――?。
ライさん、どうしたのさ、溜め息何かついて?」
"カリカリカリカリカリ!"
「ん?」
革靴を小さな物に引っ掻かかれる感触に、ネェツアークが足元をみると小さな黒い子猫がいた。
「にゃあ!」
『ヒトデナシの賢者殿、いい加減に気がつけだにゃ~!』
"ペシリッ"とネェツアークの革靴を黒い子猫が、"猫パンチ"をした。
「あらら、ライさんも戻されちゃったわけね、て、うわっ!?」
ネェツアークにしては慌てた声を出したのは、子猫が器用に爪を衣服に引っ掻けて、賢者の身体を上ったからだった。
「いきなり登らないでよ~」
魔法屋敷に引き込もっている割りに、鍛えられていて、幅のあるネェツアークの右肩に黒い子猫はチョコンと座る。
「にゃ~」
『キングス様お手製のコートには傷つけてないにゃ~。
それにヒトデナシの賢者にしても、おばあちゃんにしても魔術に達者な人達は、ワチシが猫に戻っても言葉通じるのは有り難いけれど、中々気が付いてくれないは、ちょと困りもんだにゃ~』
猫なりに呆れた様子で、小さな鼻から息をフンッと出した。
「"人間サイド"から言わせて貰えれば、それだけ"黒い子猫"の持っている魔力が凄かったって事でもあるんだけどね」
そう言ってネェツアークが振り返ると、そこには人の姿の"ライヴ・ティンパー"がリコと対象になるように横たわっている。
「まあ、どっちにしても儀式が終 わったのなら、グランドールと共に関所に避難してよね子猫さん」
「にゃ~」
『ワチシは"ライヴ"、あの寝ている"人"もライヴ。
どっちも"ワチシ"だにゃ。
精々2時間ぐらいで"分離"状態から戻るだろうから、気にしないでにゃ~。
それよりも、金色のカエルの使い魔の仕組みを教えろにゃ~』
黒い子猫、"ライ"は、ネェツアークの頬をペシペシと、肉球のついた手でパンチする。
「私からすれば、ライさんがシトロンさんとした"その魔術"の方が余程興味深いけれどね」
ネェツアークが肩を竦めても、黒い子猫となったライは危うげなくバランスを取って、また元の位置に戻った肩にちょこんと座る。
「さてと、とりあえず私は連舞の後の神楽舞いの補助に入らないといけない。
だから結界を張ったのなら、向こうの儀式の舞台に戻る。
ライさんはどうする?。結界を張っておくし、この場所の絶対の安全は、儀式の間は保証しよう」
「にゃ~」
『リコにゃんを静かに休ませたいから、ワチシはついていくにゃ~』
"付いていく"というライの言葉を聞いても、ネェツアークは然程驚く事もしないで、右肩に乗っかる黒い子猫を横目でチラリと見る。
「皆儀式に集中しているから、ライさんは私のコートのポケットにでもは入っていれば大丈夫だと思うよ。
まあ、グランドールとアプリコット殿くらいは気が付くかな。
ところでグランドールはともかく、アプリコット殿に、その姿はいいのかい?」
過去にシトロンとグランドールは面識があるのと、"仕事"の関係で何気に人脈は広い日に焼けた親友は、"ライの事情"は自分以上に把握しているかもしれないと、ネェツアークは考える。
それに加えて、ライがどことなくグランドールの事は信用している節も感じていた。
好漢グランドールに関して言えば、"シトロンが禁術すれすれ"の事をした事がバレても、"知らぬ存ぜぬ"を決め込んでくれるのは解る。
しかし、出会ってまだ数日のライにしたら、アプリコットに"もう1つの姿"を見抜かれるの込みで、見せるのは早すぎるのではないかと、勝手にネェツアークは心配をする。
もしもそれがライの"弱味"となるなら、アプリコットはそれを握る事になる。
"アプリコットはそんな事はしない "とネェツアークは思わない。
自分と"血の契約"を結べる位の相手でネェツアークは"自分"なら、弱味を見つけたならしっかり握るのが当たり前だから、多分アプリコットも同じであると確信している。
「にゃん!」
そんな暗い気持ちにまみれたネェツアークの思惑を、ライが可愛い鳴き声で吹き飛ばす。
『モチのロンにゃ!。寧ろワチシには、疲れて応援が出来ないリコにゃんの分も、"アッちゃん"を応援する役目があるにゃ!』
明朗快活にライが言い切り、ネェツアークはその様子に眩しそうな顔をする。
「ライさんは、アプリコット殿が、結構気に入っているよね」
動物好きでもあるネェツアークは堪えきれずに、黒い子猫の首の後ろを長い指で撫でた。
「にゃ~」
ライは思わずゴロゴロと喉を鳴らす。
『リコにゃんのマッサージには負けるが、ヒトデナシの賢者殿、中々の"指前"だにゃ~』
そしてゆっくりと、"アッちゃん"が気に入っている理由を口にする。
『アッちゃんお友だちや信じている人はいたのだろけれど、きっと"独り"の時間の方が長かったにゃ~。
ワチシは、そう思うにゃ~』
「そうだね」
(最も信頼していた"2人"は、はっきりと彼女に背を向けて違う"道"を選んでしまったわけだけどね)
アプリコットが信じていた"人"達が離れ行く背を仮面越しに見つめる姿が、不意にネェツアークの頭に浮かぶ。
「にゃ~」
『おばあちゃんも、ワチシを拾ってくれる前に、大好きで心開いていた人がいたみたいにゃ~。
その人と過ごせた時間はとても素敵だったけれど、短かかったみたいにゃ~。
でも時間が短くても、楽しかった時間を大切にして、オバアちゃんは独りの時間を過ごしている時があったにゃ~。
ワチシはアッちゃんも、同じような部分がある様な感じがするにゃ~』
子猫の鳴き声を耳に、リコの流れるような銀に近い金髪を視界に入れるとどうしても、自分の"師"の知己だった孤高の魔術師の言葉を思い出す。
【ネェツアーク、私は"あの子"とあんな非情な別れになってしまったんだけど、出逢えた事に後悔はしていないんだよ。
非常な別れ方で、自分がどんなに情けなくて、根性無しで、あの子がこの世界から消えないように、あんたみたいに我武者羅に動けなかった事を悔しく思ったりもするけれど。
でも、やっぱり"あの子"に会えて私は幸せ だったんだよ】
(アプリコット殿も、きっとロックさんとエリファスさんに会えた事はきっと後悔はしていない。
そして、ライさんの言うようにその時間に感謝もしているんだろうな)
『アッちゃんとヒトデナシの賢者殿は、似ているからとっても難しい血の契約の術が使えたのは解るけれどにゃ~。
ワチシには"独りの時間"は、きっとアッちゃんの方が長かったような気がするにゃ~。
だから、アッちゃんに"弱味を握らせてあげる"ぐらいの友だちが出来る時間をあげたいんだにゃ~』
自分の存在を消滅させる恐れのある"弱味"をあっさりと、出来たばかりの、だけど信頼出来る"友だち"に教えるという。
「ライさんも、ある意味"天使"かもしれないねぇ」
子猫を撫でるの止めて、結界を張るために胸の前でネェツアークは自分の掌を眺めた。
「さて、どんな種類の結界を張って、この場所をの安全を確保しておこうか」
ネェツアークはそう呟いて自分の足元に横たわるリコと、もう1つの舞台にいる方のアプリコット、肩に鎮座する子猫、そして浄められたロウブロウの渓流を眺めて、結界の種類を決める。
「――オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
長い指で複雑に見える"真言"の印を組み、その言葉を口にし、集中する為に賢者は鳶色の眼を細める。
その面相は愛嬌のある丸眼鏡がなければ、元々鋭く見られがちなネェツアークの顔を、並みの者なら思わず怯む程――一種の凶相に見えるものにしていた。
だが、ある意味それは正しい表現なのかもしれない。
この男は、自分が護りたいものの為には、異国の情け容赦ない鬼神と言われている"修羅"になろうと、自分をいくらでも貶める覚悟を抱いているから。
そして今、護る為に張ろうとしている結界を邪魔する物がいるのなら、躊躇なく捩じ伏せるだろう。
「"大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救済を為す、クシティ・ガルバ。
善男善女のための二十八種利益と天龍鬼神のための七種利益の内、天龍護念(天龍が保護してくれる)の力を以て、この青き場を暫し護らん"」
ネェツアークが文言を言い終えると同時に、グランドールが"謳う"声がまるで計ったように、渓谷を渡る風に乗って聴こえてきた。
《竜女が立ち舞うは波乱の袖。
竜女が立ち舞うは波乱の 袖。
白妙なれや、和田の原の、波浪の白玉。
立つは緑の空色も映える海原や。
沖行くばかりに、月の御船の、佐保の川面に、浮かみ出ずれば、八大竜王》
リコの"降臨"によって浄められた渓流に引き寄せられるように、8つの光の球が空の彼方からロブロウの曇天をすり抜けて、グランドール達がいる舞台の側の川面に留まる。
「にゃ~!」
「ああそうだよ。あれが東の国の"竜神"様水の神様。
それにしてもさすが親友、タイミングが抜群だね!」
瞳を閉じたまま口角を上げてライに説明、グランドールに感謝して、ネェツアークは閉じていた瞳をカッと開く。
鳶色の男を中心に横たわる、白と黒の女性を囲うように光の線で円が青い儀式の床に浮かびあがった。
「少し此方に"1柱"貸して貰うよ、アプリコット殿」
そう言って長い指で結んでいた印を解き、何時もの要領で指をパチンと弾く。
すると、8つの光の球体の内の1つが渓流の水面の滑るようにして、ネェツアーク達の方へやってくる。
「にゃあ!?」
ライの驚きの鳴き声の次の瞬間には、結界を張る為に力を貸りた異国の神、"クシティ・ガルバを象徴する種字"カ"が円の中に現れて、円柱状に光が天に伸びた。
「よし、これでここは儀式が終わるまでは大丈夫」
初めて扱う"クシティ・ガルバ"と"竜神"に軽く緊張して額に汗をかいたネェツアークは手の甲でそれを軽く拭い、結界の円から天に登り上がる光を見上げた。
天に上る光は、一定の照度を保ちながら絶えることなく輝き続けていて、それは丁度天に向かって伸びる"柱"のように見える。
「にゃ~」
『ところで、ヒトデナシの賢者殿。
いったいどんな神様の力を借りたにゃ?。
ワチシは"クシティ・ガルバ"なんて神様を東の国の魔術でも聴いた事ないにゃ?。でも、感じるベースの術は精霊術にゃ~』
ライもネェツアークの右肩から光が伸びる天を仰ぎ、子猫の姿ながら"魔術師"らしい質問をする。
「そうだね、精霊術といえば精霊術なんだけど、正確に細かくいうならば、少しだけニュアンスを"変えられて"しまっているかな」
肩に乗る賢い子猫の顎をまたしても我慢できずに、長い指で撫でながら賢者は答える。
「あちら、東の国は、こちらの近隣諸国の伝承やを柔軟に吸収しながらも、自分達のベースをしっかり持って術を再構築するのがとても上手いんだ。
あちらに術を1つ教えたなのなら、こちらの技術を見事に吸収していながらも、欠点はしっかり無くした上で、創り直してしまっていたりする。
だから、"知っている精霊術"のはずなのに、あちらで改良された術に初めて取り組む時は、未知の術をするような感覚で偉く緊張させられるよ」
いつも飄々としている賢者にしては、口調が固いので、それは"真実"なのだろうとライは受け止める。
「にゃ~」
『成程にゃ。ちなみに、この結界の中に浮かぶ"種字"の神様は、どんな神様にゃ?。
結界の中の身体の治癒の速度が早まっているにゃ。
癒しの術まで発動する神様かにゃ?』
「いいや、ただ"護って"いるだけのはずなんだけどね。
クシティ・ガルバは"地蔵菩薩"という名前の方が、世間に知られているかな。
子どもを護ってくれる事で、東の国の方では大変有難い神様だと文献には記されている」
そう言って、ライの顎を撫でるのを止め、眼下に流れる今は穏やかに浄められて流れる渓流を眺めた。
「東の国の死後の世界では、子供が親より先に死んでしまった事で、必ず行くことになる悲しい場所があるという昔話がある」
緑のコートの右肩に乗る子猫は、ネェツアークにつられて浄らかに流れる渓流を眺めながら、その話に小さな三角の耳を話に傾け、尋ねる。
『どうして親より先に亡くなった子ども達が、悲しい場所になんて行かなければならないにゃ?。
亡くなった子ども達は、何か悪い事をしたのかにゃ?』
複雑な形の"印"を再び結びながら、ネェツアークは首を軽く横に振るった。
「私の感性から言わせてもらえば、大概の子ども達は何も悪い事はしてない。
不運な事故や、流行り病で亡くなるのは、いつの時代や場所にでもある事だからね」
自分の子どもを持った事がないネェツアークだが、子どもと同じように思っている少女を思いだしその子が"生きている"という幸せを噛み締めながら、ライに説明を続ける。
「ただ、自分をこの世に産んでくれた親より、運悪く早く亡くなってしまっただけ。
でも、人に悲しみを与える事が罪になるとういう観念を、東の国の人達はもっているんだね。
そこでは、親より先に亡くなって、親に"子どもを亡くした"という、 悲しみを与えてしまうのは、大きな罪で、それ相応の罰を受けなければいけなくなるんだ」
『にゃぁ?!どうしてにゃ!?子ども達、悪くないにゃ?!仕方ない事にゃあ~。
大好きな人と離れただけでも悲しいのに、どうしてまた悲しい場所にいかされるにゃぁ~?!』
耳元で興奮する声を出すライの言葉を、最もだと感じるネェツアークは小さく頷いてやる。
「子ども達は確かに悲しいだろうね。
だけど、残された親たちの悲しみは、多分それ以上に大きい。
そんな、互いにやりきれない悲しみ救う為にいるのが、クシティ・ガルバというわけさ。
そして、子ども達はその罰を受ける場所は――悲しい場所は川原なんだそうだ。
丁度、このロブロウの渓流の河原みたいな場所」
そこで一旦説明を切り、ネェツアークは大きく息を吸う。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
ネェツアークは再び地蔵菩薩、"クシティ・ガルバ"の真言を唱えると、優しく輝く丸い光の球体が、印を結んだ両手の前に出てくる。
「さ、アプリコット殿とグランドールの処に戻ってくれ。
力を貸してくれて、本当にありがとう」
精霊術の基礎である"感謝の言葉"を述べて、ネェツアークは複雑に結んでいた"印"の指をほどいて、パチリと弾いた。
光の球体はネェツアークの周りをクルリと一回転してから、ライの小さな鼻先で一度止まる。
《ジャアネ、優シイ子猫サン》
「にゃあ~」
精霊の言葉はネェツアークには聴こえたが、ライの言葉は本当に猫の鳴き声にしか聞こえなかった。
どうやら子猫と呼ばれたから、その通りに挨拶をしたらしい。
(精霊に合わせるんだから、中々律儀もんだねぇ)
ネェツアークがそんな事を考えている内に、光の球体はフッと舞台の下に降りて行く。
そしてこちらに飛んで来た時と同じように、渓流の水面スレスレを飛んで行き、アプリコットがいる方の舞台の方へ戻って行った。
「私はね、ある意味悲しい場所にいる間は"考える為の時間"と思うんだ」
『何を、考えるにゃ?』
パチパチと黒い瞳を瞬きさせる可愛い子猫の姿が、自分の大切な少女と重なり、優しく言葉を選んで、丁寧に賢者は話す。
「それこそ、本当なら生きて学べるはずだった事を自分で考えて、成長のする為の時間じゃないかと、私は考えている。
本当なら、
"泣いても誰も助けてくれない 時もある"
"どうしようもない時にも、1人で向かい会わなければならない問題がある"
そんな事は成長して行く内にルイ君くらいの年頃に学ぶ事なんだろうけれど、幼い"子ども"の内に、学ぶ事はあまりないからね」
『にゃ~、それって、その場所にいて子ども1人で気がつける事かにゃ?。
ワチシには、小さな子どもがそんな"1人で気づけるまでの時間"ってだけでも随分長く感じるし可哀想にゃ~』
「ありがとう、優しいライさん」
光の球体、クシティ・ガルバの力を宿した"物"と同じ言葉をネェツアークは口にした。
「でも、それを含んだ上での、"罰"のなのかもしれない」
少しばかり遠い目をして、ネェツアークはまた浄められた、穏やかな渓流を眺める。
『罰にゃ?』
「そう、普通に生きていればもっと短い時間で学べていたチャンスを、事故にしろ病気にしろ、逃してしまった。
"悲しい場所"で自分1人で気がつけるまで、途方もない時間をかけてしまった。
だから、今度産まれたのなら子どもの内に死ぬことなく、"普通に生きて"当たり前の幸せを掴む決意する時間までが、"罰"。
そして決意をした時、クシティ・ガルバが河原に現れる」
悲しみ以上に"また生きたい"という気持ちが強く抱けたのなら、"クシティ・ガルバ"が河原にその子どもを迎えにきて、新たな"生"を与えてくれるという。
ネェツアークの語った東の国の神様の話と、大好きな"おばあちゃん"の話、そして先程友達になったばかりの"アッちゃん"の話がライの中で縁付いた。
『にゃあ~。何だかヒトデナシの賢者殿の話を聞いていると、おばあちゃんとアッちゃんは、死んでもいないのに悲しい河原にいたみたいに感じるにゃ~』
「鋭いね、ライさん」
ネェツアークはどこか嬉しそうに子猫に答える。
「そう、ライさんが感じた通り。
あの2人は"死"憧れている時期があった。
ああ、そうなると丁度死に憧れて考える事が"罰"という事も符合するかもしれない」
そんな事をいうネェツアークの顔は、新たな見解を見つけた学者のようにも見えた。
シトロン・ラベルは娘のようにも思っていた彼女を失った時。
アプリコット・ビネガーは自分が、母を苦しめると知った時。
"死んだのなら、このやり場のない悲しみや憎しみから解放されるのでしょうか?"
1人きりの時、涙を流しながら自問自答を繰り返して、考えていた。
そして、楽になりたいからと死んでしまったのなら、本当に許されない罪をまた産み出し、今度こそ解放されず、贖いきれない罰が下ると気がつくことが出来た。
『おばあちゃんもアッちゃんもにゃ?』
「ああ。でもそんな気持ちを乗り越えたから、"クシティ・ガルバ"が新しい命を与えられたみたいに、過去という後ろを受け入れてしっかりと前を見据えられる」
シトロン・ラベルは改めて大切な物の為に生き、与えられた天命を全うした。
アプリコットは、不幸とばかりに言われるだろう過去に酔わず惑わされずに"護りたいモノを護る"と決意した。
そこにまた朗々としたグランドールの"謳声"が響き渡る。
《所は呂奉楼。月の三笠の雲に上がり。
飛火の野守りも出でて見よや。留まるべし、渡天は如何に。
渡るまじ。尋すぬまじや。
尋ねても尋ねても、この上嵐の雲にのりて、竜めは南方に飛び去り行けば。
竜神は猿沢の池の青波、蹴立て蹴たててその丈、千尋の大蛇となって。
天に群がり。地にわだかまり、池水に返して、失せにけり》
能楽の歌が終わりに近づいたのが分かり、賢者は右肩に乗る子猫に声をかける。
「さあ、そろそろ戻ろうか。
少しばかり狭いかもしれないが、私のコートのポケットに入ってもらっても構わないかな?」
ネェツアークが子猫に向かって大きな掌を差し出すと、身軽に右肩からその上に飛び移ったと思ったら、そのまま青い舞台の床へと、降りてしまっていた。
「ん?やっぱりリコさんが心配だから、ここに残るかい?。
それでも構わないけれど」
ネェツアークの言葉に、ライは尻尾をピンとたてて、器用に先端だけを横に振って、"残る訳ではない"という意思表示をする。
『それなら向こうに行く前に1つ良いものあげるにゃ~。
ヒトデナシの賢者殿の助けになりそうなものがあるから、使って欲しいにゃ~』
そう"鳴いて"黒い子猫は、結界の中で横たわる"ライヴ・ティンパニー"の方へと歩いて行った。
そして軽装の王族護衛騎士の鎧を身に付けた、彼女の比較的平らな胸元に、子猫は頭から上半身を突っ込んだ。
暫くモゾモゾとしてから身をさげ、前足までは出たが小さな黒い頭が出てこない。
それから、4本の可愛らしい四肢を突っ張る。
「んにゃ~!!」
『ヒトデナシの賢者殿!ワチシの身体を引っ張るんだにゃ~!
なんか引っ掛かってだせないにゃ~』
「"引っ掛かっる所"、あるのかい?」
賢者の至極真面目な発言に、黒猫はとりあえず"ライヴ・ティンパニー"の胸元からヒョッコリと頭を出した。
それからトコトコとネェツアークの足元に行き、革靴に爪をバリッとたてる。
『ワチシは"発展途上"にゃ~。いいから、とっとと手伝えにゃ~』
「うん、分かったから毛を逆立てるのを止めよう」
そんなこんなで、ライヴ・ティンパニーの胸元から、一冊の紐で綴じられた、"和書"が黒猫の小さな口に啣えられて取り出された。
早速手に取り、流し読む。
『アッちゃんのお祖父ちゃんが集めた東の国の魔術の蔵書から、蔵の中にあるのをワチシが勉強したいって言ったら貸してくれたにゃ~。
もしかしたら、ヒトデナシの賢者殿の役にたつかもしれないから、読んどけにゃ~』
「確かに役にたちそうだ」
ネェツアークは流し読みしていたのを、あるページで止めて、小さく頷く。
「よし、じゃあ行こうか」
胸元に和綴じの本を仕舞い、ネェツアークのコートのポケットを広げると、黒い子猫は身軽に入った。