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【最後の幕間】

わたしが夢見て捜すのは、貴方だけ


真っ暗な闇の中。

少女はここ数日身に付けていない、巫女の衣装を纏い、素足で立っていた。

少女の小さな耳は微かな音を捉えて、発信源の元に歩み始める。


(これは、"泣き声"?)


アハハハハ

(ああ、やっぱり"泣いて"いるのね)

どうしてだか解らないが、少女には、"彼女"の笑い声が、涙に濡れた声にしか聞こえない。


ペタペタと素足で進む内に足の裏は、大地が濡れている事をしっかりて感じていた。


―――パシャリ

やがてに、大地では受け止めきれなく水分は水となり少女の足許は水辺のようになっていた。


それでも少女は―――リリィは、気にしないで進める。

―――パシャパシャ

派手に足音と水の音を響かせながら、リリィはやっと声の主の姿を見つけた。


"彼女"はまだ随分先にいて、水は膝ぐらいの位置まであった。

(でも、いかないと―――行ってあげないと)


パシャパシャとしていた水音は、ザブザブに変わっていた。

―――アハハハハ

"泣き声"をあげる"彼女"は、あかつち色にも似た紅色の豊かな長い髪と、何かしらの儀式で着るような白い衣装を纏い、リリィに背中を見せていた。



やっとの思いで"彼女"がいる場所に辿り着いたとき、水はリリィの腿にまでかさを増していた。



アハハハハと"泣き声"をあげる彼女の涙が、水嵩を上げていたのだ。


"ねぇ、どうして貴女はそんなに泣いているの?"

リリィが尋ねると、彼女は漸く"アハハハハ"と泣く事を止めた。


音もなく、水面だけを揺らして、"彼女"が振り替えり、答えてくれる。


"あの人に、逢いたいのに逢えないの"

先程まで"泣いて"いたはずなのに、彼女の声は随分と落ち着いていた。


"その人に逢えたら、貴女の涙は止まりますか?。だったら私、手伝います!"


どうしてだか、リリィはこの"彼女"の力になってあげたかった。

"彼女"が何か"一所懸命"になってくれている事で、世界に訪れるはずの、大きな哀しみを止めているような気がしたから。


彼女は自身の涙で創られた湖の中で、小さく驚いたように口を開く。


"本当に、私、手伝いますから!"

リリィは両手を握りこぶしにして、紅い髪の女性に助勢する事を懇願する。


"どうして、貴女だけが苦しまなければならないんだっ!"

リリィのその様子は、嘗て女性の為だけに涙を流した、空色の瞳と鳶色の髪を持った"旅人"にそっくりで。

紅色の髪の女性は思わず、水面に浸かる手をあげようとする。


助けを求めて手を上げて、水面より上に出しかけて。

涙を止めた女性は、気が付いた。


このまま"私"が助けを求めたのなら。


遠い昔、空色の瞳と、黄金色の髪を持った誇り高き羽根をもった少年と同じ末路を、少女が兄のように慕う少年に降りかかる。


そして自分と同じ運命さだめを、目の前にいるこの少女に与えてしまう。

それを思い出して、助けを求める手を出すのを止めた。


"ありがとう。でも、今の私は、その言葉だけで、涙を止められるから"

それにいくらか、少女の言葉で、紅色の髪の女性の心が救われたのは事実だから。


彼女は感謝を込めて、改めてリリィの頭を撫でる為に手を水面から出した。


"あの人も、ちゃんと分かってくれているのに。私がしっかりしないとね。


例え、つまずき転んでも、泥にまみれても、

あの口癖を口にして、大切な人達を守っていかなければ、きっと私達は後悔をしてしまうから"


"とりあえず誰も困らない、迷惑かけないズルはしちゃうよ、ワシ"


懐かしい、リリィも知っている口癖が水面を震わせ広がった。


"はい!"あの人"は、ちゃんと分かっていますよ!"

"あの人"の事を全く知らないのに、リリィは何故か力強く言い切った。


"私の前では"人"ではない姿での"あの人"を 、確かに知っているから"


"あれ?私、何言ってるんだろ?"

何かを元気いっぱいに叫んだ気がしたが、リリィは思い出せない。


だが、紅色の髪の女性にはそれで充分だったらしい。


"ありがとう、リリィ。私とあの人の……"



ガシャン!

何かの音で、リリィは目を覚ました。


ぼやける視界に入るのは、この世界ではお馴染みの宗教画。

この世界を旅する旅人と、それを見守る天使と大地の女神。


「そうか、まだロブロウだ」

寝惚けた声を出して当たり前の事をと言ってから、リリィはすぐ側で聞こえる寝息に驚く。


(そう言えば、ディンファレさんと一緒に寝たんだ)

肩までの栗色の髪が少し乱し、ディンファレが寝息をたてている。


(ディンファレさんて、綺麗だなぁ)

起きたてで余り回らない頭で、リリィは美しい大人の女性の寝顔を見惚れていた。

そして目がしっかり覚めるにつれて、感じていた違和感が、徐々にしっかりとした輪郭をもって疑問となり、リリィの心に浮かんできた。


(ディンファレさんなら、私より先に起きてシャキッっとしてそうなのに、少し意外かなぁ)

そして改めて、ディンファレを見つめて見れば―――僅かに目元が赤くなって腫れていた。


(ディンファレさんが、泣いた?!)

かなり驚いたリリィは声を出しそうにそうになるのを、何とか堪える。

目元の腫れている感じで泣いたとわかるのは、リリィも昨日散々泣いて目元を腫らし、周りに心配と迷惑をかけてしまったから。


(ディンファレさんが)

何度も目元を腫らしているディンファレを見詰めても、リリィには彼女が涙を流す理由が分からない。


そっと頭を上げて、リリィは起き上がってみるがディンファレが起きる様子はない。


(ディンファレさん。本当に、疲れているんだな)

そして頭を上げる事で、ディンファレの綺麗な白い首筋の右側に赤い線が―――傷痕が入っていた。


(昨日、寝る時はなかったのに)

リリィが思わず手をディンファレの首筋に小さな手を伸ばし、触れようとした時にディンファレの形の良い唇が動いた。


「―――イプル様、―――ュゲ様」

そして眠りながら、ディンファレは涙を流す。

(起こしちゃ、いけないよね)

リリィはそっと、豪華な寝台から静かに抜け出す。


(きっとディンファレさんだって、年下に泣いてる所を見られたら恥ずかしいもん)

リリィはディンファレの立場を自分とに置き換えて、足音をたてないように洗面所に向かった。


 音を立てない事に集中していた少女は、気がつかない。

少女の寝ていた頭の側のシーツには、数多くの女性騎士による涙のシミが出来ていた事を。



"リリィを守る"と、少女の母親と伯母に誓ったのに、その母親と伯母の命を奪った相手に―――"ネェツアーク"に軽く翻弄された。

その悔しさと情けなさで、ディンファレが涙を流した事に、リリィはまだ気がつけない。



(よし、ちょっと冒険してみようかな)

今朝見た夢の内容を覚えてはいないけれど、何故だかウサギの賢者がいない不安が払拭されているような、そんな気がリリィには溢れていた。


幸いというべきか、ディンファレは本当に疲れているようで、深く眠りについている。

リリィは洗面所で身なりを簡単に整えて、細心の注意を払い部屋の扉に手をかけた。

整備が行き届いているお陰で、扉は音もなく開いてくれる。


それをまた慎重にリリィは閉めて、一息をついた。

リリィは先ずは廊下を挟んで直ぐにある、窓辺に駆け寄る。

しげしげと緑色の瞳で空を見上げると、雨を降らせてはいないが黒い雲が強風にのって流れていた。


(日は昇っているけれど、曇っていて暗いなぁ。でも、雷や雨がないだけ、いいよね)

そして足元の感触が、少しだけ違う事にも気がついた。


(あれ、ここの絨毯少し湿っているし―――シミがある?)

リリィは少しだけ首を傾げるも、深くは考えずに気を取り直して中庭に向かってみる事にする。

少しだけ胸をドキドキさせながら、リリィは中庭に向かう。


そして中庭に向かうまで途中、正座をさせられている兄と偽っているアルスと、グランドールの弟子であるルイがいる以外、何も変哲のない道程だった。


「――――」

「――――」

「リリィ、おはよ♪今日も可愛いなぁ」


思わず指を指しながら、兄とルイを見るリリィ。

面目無さそうに頭を下げるアルス。

ルイだけがご機嫌にリリィに朝の挨拶をしていた。


「ちょっ、ルイはともかく!アルス、お兄ちゃんまで何をしているの?」

取り敢えず行儀が悪いと指を下ろして、正座をしているアルスとルイの側に寄ってリリィは小声で話しかけた。


「これこれ」

ルイが上着の胸元に貼られている紙切れを、正座したままリリィに主張する。

よくよく見れば、正座しているアルスの胸元にも何か紙切れが貼られてれていた。


アルスもルイも、紙切れに書かれている内容はどうやら同じ様子。

リリィは面目無さそうにしているアルスはそっとしてあげたいので、ルイの方の紙切れを手にとり、書かれている文字を黙読した。


"ぼくたちは、調子に乗って日が昇る前に中庭で遊びました。

そして代理領主アプリコット・ビネガー様の安眠を妨害した為、反省の正座をしています。

朝食まで、そっとしてあげてください"


「そのルイは―――ともかく―――」

リリィが再び同じ言葉を口にする。


「―――申し訳ない」

アルスは心底申し訳なさそうにしているので、リリィは許してやって欲しいとは思うのだが。


「アルスさん、真面目だから叱られなれてないもんなぁ。少しは、打たれ強くならなきゃ」

あっけらかんとしているルイを見ると、正座している上に石でも抱かせてやりたくなるリリィである。


「そんな打たれ強さを、当たり前のように、お兄ちゃんに求めないで!」

リリィが上着に貼られて紙切れを引っ張りながら、生傷の絶えない少年の顔に小さな顔を近づけて言ってやると、それにはルイは驚いた顔をして、赤くなって黙ってしまう。


「なっ、何で赤くなるの!」

「えっ、いや、その、可愛いから」

「―――っ、あ、あのねぇ!」

そのリリィとルイのやり取りを見て、アルスが思わず噴き出していた。


「もうっ、アルスくん!」

思わずリリィがロブロウでの設定を忘れて、アルスをなじり、ルイの上着に貼られたれた紙を軽く引っ張る形になって。


「あれ、紙が2枚?」

笑っていたアルスが、リリィが掴んだ注意書の下からもう1枚の紙があるのを発見した。


「もう1枚あるなんて気が付かなかった。なんだろうね、その紙」


アルスの言葉で、リリィは2枚目の紙に触れた。どうやら紙質も違うらしく、何だか上等な印象を少女は受ける。


「取り敢えず、何が書いてあるから見てみようぜ。リリィ見てくれよ、オレとアルスさんは反省中だからさ」

さっきまで照れていたのが、嘘のようにルイはまた軽口を叩く。


リリィは自分も若干照れてしまった事を後悔しながら、ルイに貼られた2枚目の紙を見るために捲って見た。


「私には、読めません。賢者さまなら読めちゃうのに」

「自分も読めないや。アルセン様なら解読してくださるんだろうけれど」

「あ~、オレは最初から難しい字なんて興味ないや。でも、グランドールのオッサンなら、読んだうえで解説までしてくれて、具体例までだすんだろうなぁ」


少年少女は敬愛する人物の名前をそれぞれ口にだしながら、ルイに貼られている2枚目の紙を眺めた。


【封 奉 少名毘古那神  僮 解 伴 金色 乃 多邇具久】

上等な白い半紙一杯に朱色で五芒星が画かれており、その中にリリィ、アルス、ルイは見たことがない異国の文字が、黒いインクでしたためられていた。


「でも、多分勝手に剥がしてはいけないのは、分かるね」

アルスが代表していうと、リリィとルイは素直にこっくりと頷いた。

それから3人でルイに貼り付けられた紙を見て、確証がない適当な事を話したが、埒があかないので止める。


「私、どうしようかな。勝手に散歩したらいけないら、部屋に戻ろうかしら」

「散歩するのはいいんじゃねえの?。オレとアルスさんは、息抜きしていたら、大きな音を出してしまって、それで―――これだからさ」

ルイは自分とアルスが正座している姿を指差した。


「自分も屋敷の外とか、迷惑がかからない―――やっぱり中庭とかの散歩なら構わないと思うよ」

アルスにもそう言われて、リリィは中庭への散歩を続ける決心をする。


「中庭って今誰かいるの?」

向かう前に、リリィは人がいるかどうか、先に中庭に行っていた正座をする2人に尋ねる。

するとアルスとルイ、リリィの間に不思議な"間"が出来た。


アルスは少し目を瞑り、ルイは何処かが痛そうに顔をしかめた。


「―――いや、オレらが騒いでそれをアプリコット様が諫めたみたいな感じだったから、いたとしても、アプリコット様だけじゃないかな?」

ルイが確認するようにアルスを見ると、彼は何か腑に落ちないといった感じだったが、頷いた。


「何か、お兄ちゃんにしてもルイにしてもはっきりしない感じだね。どうかしたの?実はもっとなんか悪い事をしているとか?」

「オッサンにこれ以上迷惑かけるような事、してねえよ!」

ルイが珍しくリリィに対して強気に言い返すが、"息抜き"での騒音がグランドールには迷惑をかけていないという思考回路は、如何ものかと思われる。


「リリィ。実は少しばかり、記憶がないんだ自分も、ルイ君も」

「"記憶"がない―――って?」

少し表情を暗くして言うアルスの言葉に、リリィが緑色の瞳を丸くした。


「オレとアルスさんが、遊ぶ―――つうか、息抜きで中庭で模擬試合をして、アルスさんが力余って、確かオレが吹っ飛ばされてさ。

中庭にある調度品の椅子やらテーブルにぶつかって、壊しちまって」


「ルイ、あんた十分にグランドールさまに迷惑かけてるじゃない」


「オレはちゃんと貯金してるから、オレの金で弁償するもんね」

「自分も積み立てから出すよ」

ルイが意外としっかりとした、アルスはやっぱりコツコツと貯蓄の話をして、更に話を続ける。


「で、壊してやべえ!と思っていたらオレはもう、意識を失って――――」

「それで、自分も壊して"しまった!"って感じた瞬間に意識を失ってたんだ」

そう言って、アルスとルイが顔を見合わせた。


「それは、お兄ちゃんとルイが同時に気を失ったって事?」

リリィが腕を組んで、考えながら言う。

「でもそれじゃ、気がついた後で、ちょっと変な具合な話になるんだよ」

アルスが苦笑しながら説明を始める。



気がついた時、アルスもルイも中庭の石畳の上に寝かされていたらしい。

先に目を覚ましたアルスの方だった。

仰向けに寝かされた状態から、バッと身を起こすと貴族用の軍服を身に付けたアプリコットが、お馴染みとなった仮面を身につけ悠然て立っている。


『悪いけど、早朝から騒ぐお客様には、代理領主さんが直々にお仕置きさせて貰ったからね』

右手に愛用の短剣と古びた皮手袋を、左手は腰に当てて口元をニッとさせてそう告げた。


『すみません、あっ、ルイ君!』

アルスの横に、こちらはうつ伏せで縄に拘束された状態で、ルイが石畳の上に転がっていた。

『―――んっ』

ルイはアルスが名前を呼ぶと、漸く声を出して反応した。

うつ伏せのままの状態から、顔をだけをアルスの方に器用に向けルイは口を開いた。


『―――アルスさん?何か、オレ、身体中のあちこち痛いんすけど』

『それは、あちこちお仕置きでシバきましたから、ね』

アプリコットがしゃがみ、ルイを拘束していた縄を短剣でザクリと斬って、解放する。


『アプリコット様が、オレとアルスさんを?』

縄から自由になったルイは、腕立て伏せをするように石畳を押し、身を起こした。

そしてその上に胡座をかいて座り、癖っ毛の頭をガリガリと掻く。


『―――そうだけど?』

アプリコットは口元だけを動かして、ルイを仮面から覗く瞳で見つめる。

ルイはアプリコットが強い事を知っている。

旧領主邸で、軽く自分が往なされたのも記憶に新しい。


『アプリコット様が、その、アルスさんを倒せたんすか?』

強い事は知っているが、果たしてこの女性がアルスのような"戦い"をする人に勝てるのか?。

ルイには大きな疑問を抱いた。


『―――倒せたからこその、この状況だと思うんだけれど?』

あっさりと仮面の貴族は断言する。

そしてアプリコットはまだ口元にニッと笑みを刻んだまま、皮手袋を嵌めた左手を拳にしてルイの額をコンっと小突いた。


『私はあの"ウサギの賢者"と同じ位、強いわよ?』


「そっからはさ、強制連行というか有無云わさぬ迫力をアプリコット様から出されたから。

アルスさんと2人襟首をネコみたいに捕まれて、ここで大人しく正座しているわけ」

ルイが肩を竦めて、"記憶がない"詳細をリリィに説明した。


「話を聞きたくても、領主殿は自分達にこの紙を貼って、中庭の方に戻って行かれたし」

「私は、アプリコット様がアルスくんに勝っても、ちっともおかしくはないと思うけれど」

リリィはアプリコットが女性ながらも、勇猛果敢に炎の猪・グリンブルスティと戦った姿を見ているし、異国の魔術を使いこなすのを知っている。


アルスも確かに強いが、術をウサギの賢者並みに使いこなすアプリコットなら、アルスとルイをそれこそ"一網打尽"にしても何ら不思議はないと、リリィは考える事が出来た。


「まあ、いいや。アプリコット様はリリィを気に入ってるから、寧ろ歓迎されるかもな。

オレとアルスさんも、動けないから行ってこいよ。

時間も、もったいないからさ。

で、序でにオレとアルスさんの反省タイムが早めに終了させて貰える事を、リリィの可愛い顔でお願いするんだ!」

どうやらルイは足が痺れてきているらしい、少しだけ涙目で正座している腿がプルプルしていた。


「お願いしてあげるから、ルイ、脚を触ってみても良い?」

リリィがパアアアッとよい笑顔("アルセン様が何か考えている時の顏に、不思議とよく似ていました"とアルスが後に語る)で、 少しだけふざけた後、中庭に向かった。


屋敷の廊下を歩いていくと、中庭に繋がる扉が見えた。


(あった♪)

小走りに近づきリリィが、結構重い扉を開けようとした時、僅かに声が漏れて聞こえる。


「アプリコット殿、何で請求書が私宛なのさ―――」

(聞いた事がない人の声だ)


リリィは開けるのを止めて、重い扉の僅な隙間から中庭を覗く。


「いいじゃないの。貴方何かと研究費を使わないから、他の連中から煙たがれるんでしょう?。こういうので使わないと、また変な魔獣を空輸してくるんじゃない?」

「それしても、ボってない?この値段は?」

リリィが緑色の瞳で覗き込む先に、アルスやルイが言っていたように、貴族用の軍服を身に付けたアプリコットが、瓦礫の前に立っていた。


そしてその横に――――


(この声はアプリコット様で、さっきのは?。あの背の高い紅黒いコートを着ている"人"は誰だろ?)

アプリコットより頭2つ位背が高い、紅黒いコートを纏った鳶色の髪をした男性が立っていた。


後ろ姿なので顔は見えないが、アプリコットと随分親しそうに話している。


(もしかしたら、アプリコット様の恋人?!)

エリファスとグランドールが元恋人同士と知ってから、大人の男女が親しく話しているのを見ると、どうしてもそっちの方面に意識をしてしまうリリィである。


とはいっても、それはウサギの賢者が"リリィは恋愛に関しては鈍いかもしれないねぇ"と言われたからであって、少女としては頑張って"恋愛"に結びつけて考えているのである。


「やっぱり高いよ~。あの子達の師匠に請求書をあげるべきだと、私は思うんだけれど。

それこそ独身貴族2名、しっかり貯め込んでいて、金を使わせた方がセリサンセウム王国の経済が回る!。

私には育ち盛りの超可愛い子どもと、使い魔と、天然騎士ナチュラルナイトを養う義務が!」

鳶色の男が多少大袈裟に瓦礫を目の前にして、そんな事を言っている。


「オッホッホッホッ、ルイ君が"決定的に壊したのはあんただろっ!"って言った言質げんち記録メモリーした精霊石の声と、調度品を粉砕した時の音聞く?。

あと、あれは一応私の敬愛するお祖父様からの代から受け継がれた、とーっても価値があるものなのよ」

アルセンの母親のバルサムがするような高笑いをした後に、アプリコットは声を低くして鳶色の男を見上げていた。


「形あるものはいつか壊れる。アプリコット殿のお祖父様が贔屓にしている東の国も、盛者必衰という言葉があるじゃないか。

この世は無常であるから、栄華を極めている者も必ず衰える時が―――」

鳶色の男がこれまた芝居かかった物言いで言うが、アプリコットは突っぱねていた。


("恋人"じゃ、ないわね、こりゃ)

喜劇を演じているようにしか聞こえないアプリコットと、鳶色の男の会話にリリィは、恋を結びつける努力をあっさりと放棄した。


「―――まあ請求書の話は観念するとして」

「観念するほどの話ではないでしょうに」

そこで鳶色の男とアプリコットが笑ってから、2人を包む雰囲気がキリッと変わった。


(何か、ちょっとだけピリピリする)

精霊に敏感なリリィは既に、アプリコットの周りや鳶色の男の周りに"強さ"を好む小さな精霊達――小さな火のトカゲや、炎の蝶――が集まり始めているのに気が付いた。


「やれやれ、まだ戦いを始める訳でもないのに」

「仕方ないでしょう、私と貴方の雰囲気に引き寄せられているんでしょうよ」

鳶色の男は肩に登って来ていた火のトカゲを指先で摘まんで、石畳の上に下ろしてやっていた。

アプリコットは自分の周りを舞う、炎の蝶を口元に苦笑を浮かべて眺める。


「ロブロウ領主殿、策の変更を願ってもいいかな?」

「如何様に?」

アプリコットの返事を聞いて、鳶色の男は紅黒いコートを纏った腕を組んで話し出す。


「午前の内に、豪雨のお陰で河川が氾濫しそうなのを、領主殿がグランドールに頼んで、浚渫しゅんせつする予定でしたよね?」

アプリコットはゆっくりと頷いた。


「雨はやんだけれど、河川が本当に氾濫一歩手前だと先程また連絡があった。

だから、仲良く就寝中の大農家殿に申し訳ないけれどお願いして、私が補助をして、不動明王を降臨させ、浚渫しゅんせつを共にしようと考えている」

「―――仲良く、知っているんだ?」

リリィには理由が分からないが、アプリコットの言葉に鳶色の男は驚きの声を上げていた。


「代理でも、領主ですからねぇ。で、浚渫の方法でも変更したいのかしら」

「Bingo」

そう言って鳶色の男は、指を慣れた様子で弾いた。


(あっ、賢者さまと同じ魔法の使い方だ)

鳶色の男が何らかの魔法を使ったのもわかるが、使う仕草はリリィが敬愛するウサギの賢者と同じモーションだった。


ウサギの賢者を思い出し、寂しさが波のように心にやってくる―――リリィはそう覚悟したが、"波"は全くこなかった。


(あれれ?)

寧ろ、凄く安心をしている自分がいる事にリリィは驚いていた。


(どうしてだろう?)

リリィが考えている間も鳶色の男と、アプリコットの会話は続く。


「正直いって、私が大農家殿の補助をするのは不安がある。

術者として相性は決して悪くはないけれど、良くもないのは私でもわかってる。

何より、彼はエリファス―――」

「まあ、今は浚渫のを行うにあたって私が考えた策で進める話をしましょう。"領主"殿―――」

鳶色の男が、エリファスの話をしようとするアプリコットの言葉を遮った。


(エリファスさんの話、聞きたかったな)

思えばここ2日ぐらい、執事のロックが体調を崩して以来、リリィはエリファスと会っていない。


それと入れ替わるように、アプリコットがリリィとアトの相手―――世話を焼いてくれていたので、寂しいといった気持ちには全くならなかった。

けれど、姿を見せなくなった彼女の事を、心の何処かで気にしていた。


(エリファスさん、執事さんの代わりが忙しいんだろうな)

初日に空腹のリリィの為に急いでライスボールを持ってきてくれた、世話焼きの胸の大きなお姉さん。


『リリィちゃん、簡単な物だけど持ってきたわ!』

あの時、お腹が空き過ぎて参っていたが、弱っているリリィを見る事で、あの世話焼きな、優しい胸の豊かな女性は心を痛めてくれていた。


(エリファスさんて、本当に優しい人なんだろうな)


「領主殿は、全体の補助をするという事にして―――折角納めた土地神様、スクナビコを使ってみるのはどうだろうと思っていてね」

「スクナビコを使うの?いきなり過ぎない?」


(スクナ、ビコ?)

リリィには鳶色の男とアプリコットがしている話の内容が、よく分からない。


(雨で川がどうにかなっているから、グランドール様を使ってどうにかってのは分かるんだけど、アプリコット様もあの男の人も、使っている言葉が難しすぎるよ~)


とりあえずフドウミョウオウ、コウリン、シュンセツ、スクナビコ、は分からないリリィである。

そんなのお構い無しに、鳶色の男は再び口を開いて話を続ける。


「調整したい部分を確かめたいのも、あるんだよ。だからアプリコット殿か私かが動けなくなるが、クエグクを―――」

(まっ、また分からない)


リリィが思わず頭をガックリと落とした時、小さな頭に何かが"ボテリ"と落下してきた。


(?!この重さと感触は!)

「ゲコッ♪」

ウサギの賢者の使い魔である、金色のカエルが鳴き声をあげた。


「賢者さまのカエルさん!」

「カエル、タニグクの調整は上手くいったかい?」

リリィと鳶色の男は、中庭の扉を挟んで同時に声を出していた。


何とも言えない"間"が産まれ流れる。

(ど、どうしよう~)


まず、頭の上に何やらご機嫌に喉をクツクツと鳴らす金色のカエルを乗せ、リリィは両手を小さな口に当てて、アワアワとなって動けない。

一方の中庭にいる鳶色の男、人の姿に戻った"ウサギの賢者"で、今は鳶目兎耳のネェツアーク・サクスフォーンも同じように固まっていた。


(――――ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい!)

アプリコットが思わず感心する程、不貞不貞しさばかりを表現する顔が、動揺で満たされている。

中庭の入り口から聞こえた声から察するに、リリィなのだろう。


ネェツアークにしろ、リリィにしろ、どちらも動く様子がないので、アプリコットは小さく、フム、と声をだした。


そして、スタスタスタスタと中庭の入り口の扉の方に向かう。

途中で、"待って!"と言うような男の声が聞こえたような気がしたが、アプリコットは無視して、中庭の扉を開いた。


「おはよう、リリィちゃん」

扉を開いた同時に、アプリコットは仮面から見える口元をだけでも分かるような笑顔を浮かべて、リリィに朝の挨拶をする。


「おっ、おはようございます。アプリコットさま」

頭に金色のカエルを乗せたリリィも、アプリコットに挨拶を辿々しく返す。

アプリコットは満足そうに微笑んで、少女の手を取って中庭の中央に連れて行く。


「リリィちゃんも、早く目が覚めてしまったの?。

それとも、お兄さんとルイ君のおふざけで強制的に?」

「えっと、何かの音で目が覚めました!確か、"ガシャンっ"て音で」

「そうなんだね」

リリィの返事を聞いて、中庭に動揺したまま佇むネェツアークに向かって、アプリコットは微笑み、テレパシーを飛ばす。


《"起こした責任"を取らないとね~♪》

完璧にこの状況をアプリコットは楽しんでいる。

そして鳶色の男と、桃色の髪を持った少女は対面する。


「リリィちゃんはこの"人"は、初めてだよね」

アプリコットがリリィの肩に手を当てて、若干意味ありげに優しく尋ねた。


ただ、余裕のない少女は頭に金色のカエルを乗せたまま、小さく頷くだけだった。


(あら、リリィちゃんて大人の男の人に対して、人見知りが激しいのかしら?)

アプリコットは意外に感じながら、リリィの向かい側に立つ、こちらも絶賛緊張しているネェツアークを見た。


しかし、アプリコットはリリィとは違って遠慮も配慮もお構い無しに、今の立場で"彼"を紹介する。


「彼はネェツアーク・サクスフォーン」

紹介をされてしまった、ネェツアークが拳をギュッと握り、リリィに向かって小さく頭を下げる。

リリィも慌てて、金色のカエルを頭に乗せたままお辞儀をした。


「セリサンセウム国のダガー国王陛下直々の命令を受けるの仕事とする、まあまあ凄い人でもあるんだけど」

ネェツアークもリリィも、未だに互いに緊張して頭を下げたままなのを眺めながら、ネェツアークを説明をした。

そして説明を終えても、ネェツアークもリリィも頭を上げない。


「え~と、リリィちゃん。頭を上げていいから」

《どんだけ緊張しているのよ》


リリィには優しく、ネェツアークには呆れた様子でテレパシーを送って、アプリコットは両者の頭を上げる事に成功した。


「ネェツアーク殿、こちらはリリィ・トラッド。リリィさん」

鳶色の紅黒いコートを着た男は明らかに緊張感が、身体中から溢れていた。

だからは、リリィは彼が"怒って"いるのだと勘違いする。


「あの、ネェツアークさま。お仕事の邪魔して、ごめんなさい」

そうして、リリィが身体を折り曲げる程の謝罪をした時、頭に乗っていた金色のカエルがズルッと落ちそうになる。


「カエルさんっ!」

落ちそうになったカエルを受け止めようと、リリィは前に足を出したが、濡れた石畳で脚が滑る。

「――――あぶない!」

ネェツアークはそれこそ跳ね飛ぶウサギの如く動く。

それなりに距離のあるリリィとの間を一気に詰めて、最後には石畳に片膝を着けながら、大きな手を少女両脇に入れて、転ぶのを防いでいた。


それは丁度"高い高い"と、大人が、幼児あやす形に似ていた。

少女の視線の直ぐ下に、鳶色の髪と瞳を持った、よくよく見ればウサギの賢者とそっくりな眼鏡をかけた男が、転ばなかった自分を見て"ホッ"とした顔がある。


そして、いつもは違う表情ばかり刻んでいる口元が、優しさに満ちているのを見て、リリィは何かを"思い出す"。



(あれ?私、ネェツアークさまと会った事、ないよね?)

でも、リリィの身体はしっかりと覚えている。


――――まだ産まれてリリィが間もない頃。

義妹に姪を託された男は、幼い姪が喜ぶからと、周りが呆れる程、身体をあまり揺さぶらないように気を付けながら"高い高い"をする。


幼過ぎる姪は言葉すら喋れないが、伯父となるネェツアークの側にチョコチョコとやってきては、"バンザイ"をする。


ネェツアークは何度でも、いくらでも姪の為に"高い高い"をしてあげた。


本当なら、一番リリィに"高い高い"とあやしてあげたかっただろう、義妹の分まで、何度でも。


そして、貴族と血縁のしがらみに囚われ、姪を手離す最後の時、涙を鳶色の瞳に貯めながら、姪が喜ぶ"高い高い"をしていた。


「"リリィ"、大丈夫かい?」

よく通る澄んだ声で、ネェツアークにリリィは尋ねられた。

リリィはハッとして、ネェツアークに支えられてる状態で頷いた。


そして直ぐ横に、金色のカエルがフヨフヨと宙に浮いている。


「そうだ、カエルさん、空を飛べるんだった」

リリィがそう呟くと、ネェツアークがクッと少女を支えたまま笑い声を漏らす。


「相当、慌てていたみたいですね、御嬢さん」

先程は名前を呼び捨てしていたのを、今は違う呼び方になってリリィは緑色の瞳を瞬いた。


「私には、ネェツアーク殿も充分慌てているように見えるけれど。

片膝ついて衣服濡らしてまで助けるなんて、とっても紳士らしいとは思いますけれどね」

アプリコットがリリィを援護するように、ネェツアークを茶化した。


 「―――嫁入り前のお嬢さんを、泥で汚すわけにはいきません。

紳士として、当たり前ですよロブロウ領主殿」


"雨降って地固まる"

どうやらそれを地でいったらしい、そのお陰でネェツアークの緊張は結構ほどけていた。

リリィを支えたまま、アプリコットに軽口を叩けるぐらいにはなっている。


「で、いつまで支えているの?。まあ、ネェツアーク殿も、リリィちゃんも互いにいいならそれで、私はず―――っとして貰っていても、ちぃ―――っとも、構わないけれど」


"血の契約"で、ロブロウ領主の記憶がネェツアークに流通するように、覇王ネェツアークの記憶も契約者のアプリコットに流れていた。


そして、"人"としてのウサギの賢者の記憶が、リリィとネェツアークが接することで、波のようにアプリコットの内にやってくる。


このウサギの姿に"逃げた"男が、どんな思いで少女を見守ってきたか知った時、不覚にも仮面の下でアプリコットは涙を流しそうになっていた。


"世界を敵に回してでも、大切な人を護らなかった男の戯れ言です"

("護らなかった"じゃなくて、"護らせてもらえなかった"でしょうに、ネェツアーク殿)


鳶色の男の"大切な人達 "は、皆一様に凛としていた。


そして、ネェツアークから"護る"という選択を奪いとり、彼を信じて、ある者は妹を、ある者は娘、リリィを託してこの世界から姿を消していた。


(こんな時じゃなかったら、"2人で散歩にでも行ってきたら"と進めたいのだけれどね)

ロブロウを護る領主としての、"最後の時間"がアプリコットに差し迫っている。


アプリコットの気持ちを汲み取ったネェツアークが、静かにリリィから手を離した。

それから、少女の顔を眩しそうに見つめながら、口を開く。


「それでは、先程の話の続きをしましょうか。領主殿」

まだまだ続けたい邂逅の時間に、ネェツアークは自分で幕を引く。


ゆっくりと立ち上がり、ネェツアークはリリィに躊躇う事なく、紅黒いコートの背を向ける。


「ゲコッ?」

《このままで、いいの?》


カエルの声はリリィに、少年の声はネェツアークに届いていた。

ネェツアークは何も答えず、リリィは―――


「ネェツアークさま、転ぶのを助けて下さって本当にありがとうございました!」

逞しい紅黒いコートの背中に、彼の"大切な人達"に似てきた声で感謝の言葉を伝えた。

ネェツアークは振り返らず、ヒラヒラと大きな手を振る。


「私としては、別にリリィちゃんがいても、話さえ済めばそれでいいのだけれど?」

アプリコットが、背を向ける男とそれを見つめる少女に向かって、そんな事を言う。


そしてアプリコットは、ネェツアークが困った時にする仕草を、共有する記憶の中から見つけて―――緑色に近い黒髪をガシガシと掻く。

ネェツアークがアプリコットと同じ状況になったのなら、きっとかけるだろう言葉を口にする。


「Stop, pretend to be tough.」

(強がるのは、止めなさい)


リリィには分からない言葉で、アプリコットはネェツアークに告げる。


「ゲコッ」

今度はカエルの声だけで鳴く。

そしてリリィが、小さな手をギュッと拳にして、意を決したように口を開いた。


「お仕事の邪魔をしませんから、私にもアプリコットさまとネェツアークさまのお話を聞かせてくださいませんか?」

鳶色の男は、紅黒いコートを翻して振り向き、困惑した表情を浮かべてリリィを見つめる。


《この"人"との縁に触れたのら、掴まなければならない》

何かが頭の中で、少年の声でリリィに囁く。

《じゃないと、君も彼も1人になる》


鳶色の男は、背を向けたまま、ガシガシと頭を掻いた。


「―――御嬢さん、では領主殿との話を聴くのは構いません」

リリィの顔がパッと明るくなり、アプリコットを見あげた。

仮面を着けた年上の"友だち"は、グッと口角をあげて、リリィに親指をたてて、グッドサインを向ける。


「ただし」

そう言ってから、くるりとは綺麗にターンをして、ネェツアークは振り返る。


「今回は、話が全て終わるまで口を挟まないでください。

打ち合わせの話さえ終われば、策を実行するまで時間が出来ます」

少しだけ動いた丸眼鏡を、長い指で上げながら"注意"をした。

そして確認の為に、言葉を切ってネェツアークはリリィを見つめる。


「はい、ネェツアークさま!」

背が高いネェツアークを見上げる形になりながら、リリィはしっかりと頷く。


(リリィから見上げられるのは、どうも、昔を思い出していけないなぁ)


"んっ!"

声も出さずに、バンザイをして、自分に笑顔を向ける、ヨチヨチ歩きのリリィを高い視線から見下ろしていたのを思い出す。


何度、微笑ませてもらって、枯渇しかけた心に潤いを与えて貰っただろう。


今となっては、何より大切なネェツアークの記憶たからもの


(本当に、ありがとう、リリィ)

そして、今もこの子がいてくれたから、自分はこうやって生きていられるのを改めて実感する。



顔が微笑みそうになるのを何とか堪えながら、話を続けた。

「その策を実行するまで間に、打ち合わせの間に使った分からない言葉に、御嬢さんが興味があるのなら」

そこで込み上げる笑み抑える為に、鳶色の男は小さく咳をする。


「私が出来る範囲で、御嬢さんに教えてさしあげます」

「―――はい、ありがとうございま」

リリィが満面の笑顔を浮かべて、礼を言いながらネェツアークを見上げた時。


バンッと激しく中庭の扉を開く音がする。

驚いて、リリィが振り返った時には、キィイイインと金属と金属がぶつかる音を中庭に響かせて、2人の女性が剣を交えていた。



「私の客人に非礼は許さなくてよ?」

「その男とリリィさんを近づけないで頂きたい!」

アプリコットが、鳶色の男と少女の邂逅を守るように、ディンファレの剣を受け止めていた。


「ディンファレさん?!」

金属がぶつかった音で、振り返っていたリリィは、武器と武器が奏でる音だと分かると怯え―――無意識に鳶色の男の側によっていた。


そして鳶色の男ネェツアークも、ディンファレから溢れる闘志から無意識にリリィを庇うように側に立った。

少女が鳶色の男を信頼し、寄り添う姿を見てしまったディンファレの顔が、哀しみで歪む。


(―――駄目です、リリィさん。その男は貴女から、大切な人を)

ディンファレの大地のようなブラウンの瞳に、うっすらと涙が膜を貼っているのに、鍔迫り合いを続けるアプリコットは気がつく。


《こちらの騎士の御嬢さんには、"人"の姿では随分と色んな恨みを買っているようねぇ》

アプリコットが振り返りもしないで、ネェツアークにテレパシーを飛ばす。


《否定は出来ないな》

鍔迫り合いをしながらも、ディンファレは真っ直ぐにネェツアークを―――憎しみを持って見詰めていた。


―――ディンファレが敬愛するリリィの母の命を"奪った日"のような、真っ直ぐな憎しみの瞳を、ネェツアークは彼女に向けられた。


「おい、騎士のねーさんが!」

「リリィ!ディンファレさん!」

そこに足を引き摺るようにして、ルイとアルスが武器と胸元に"反省"の紙切れ貼り付けたままやって来た。


「あらあ、一気に"観客"が増えたわねぇ。少々脚が痺れて情けない姿だけど」

そこから一気に声を落として、ディンファレにだけ聴こえるようにアプリコットは囁く。


「―――落ち着きなさい、"デンドロビウム・ファレノシプス"。彼は貴女との約束は違えていない」

自分の本名をスラスラと述べる女性領主にも、ディンファレは視線の鋭さを抑えなかった。


「―――」

ディンファレは今度は、鋭い視線をネェツアークからアプリコットへと移す。

そして察する。


この人は、あの鳶色の人と"同じたぐい"だと。


「彼は、賢者としてリリィさんの前には姿を表しているわけではない。今は"鳶目兎耳えんもくとじ"として」


人を傷つけない為の嘘を、躊躇いなく吐き出せるそんな人。


「―――詭弁です」

ディンファレはアプリコットによる"詭弁"を一刀両断する。

「ごもっとも」

アプリコットは苦笑いをして―――指を弾いた。


 アプリコットが指を弾いたと同時に、何かの影がディンファレの頭上に翳る。


「―――っ!」

自分にかかる翳りに気がついたディンファレは、アプリコットとの鍔迫り合いを止め、脚に力を入れて地を蹴った。


「さあ、私が"動けない"分、動いて―――少名毘古那神すくなびこ!」

アプリコットがそう言った時、影からの攻撃を避ける為にディンファレは既に後ろに飛び下がっていた。


そしてディンファレがいた場所に着地するのは、―――ルイだった。


「ルイ!?」 

「ルイ君!?」

リリィとアルスが同時に声を上げた時、ルイは両手に握る曲刀の短剣で、次々とディンファレに斬りかかる。


「ルイ君、さっきの動きより速くなってる!―――ててっ」

アルスが未だに抜けない脚の痺れを堪えながら、驚きの声を中庭の扉に寄り掛かりながら出した。


「ルイ、一体どうしちゃったの?!」

リリィが悲鳴にも近い声をだして、ネェツアークの紅黒いコートをギュッと握りしめる。

ネェツアークは守るようにリリィの背中に手を添えたが、余り効果はないようだった。


(―――まだ、無理か)

励ますのを諦めたネェツアークが、ディンファレとルイに視線を向けると、両者は俄に激しい攻防を中庭で始める。


アルスには信じられないが、ルイはディンファレと全く対等に戦っている。


(さっきは荒削りで、癖と隙だらけだった動きだったのに)

僅かにアルスの記憶にある、"息抜き"でのルイの剣の捌きとは全く違うもの―――格段に上達している。

アルセンから基本を重点的に学ばされたアルスには、今ルイがディンファレに与えている攻撃は全て基本を究めた物だとわかる。


アルスがそうやって、"ルイ"の変貌に驚き感心する一方で、リリィは―――怯えていた。

急な変貌を遂げたルイに、哀しみと憎しみを込めた瞳で剣を握りしめ、応戦するディンファレに、怯えているわけではなかった。


ただ、親しい人達が戦う姿"喧嘩する"姿が、リリィを心の底から怯えさせていた。


(駄目だよ、喧嘩は、駄目だよ)

心の底から湧く哀しみに、リリィの胸は締めつけられ苦しくなる。

やがて、リリィの緑色の瞳が涙に濡れた時、ルイの動きが鈍った。


「―――っ!」

アプリコットは、先程の場所から一歩も動いていない―――そんな状態で、少しだけ痛みを受けたような声を出した。


先程までルイとディンファレ、どちらも対等な攻防戦を繰り広げていたが、アプリコットが痛みの声をあげてからは、ルイの防戦が目立ち始める。


(嫌だよ、怖いよ、喧嘩は駄目だよ)

リリィはどうして自分でもこんなに怯えるのか、分からない。

ネェツアークの紅黒いコートに小さな額を擦りつけ、リリィはとうとう涙を流し、嘆きの言葉を溢した。


「―――賢者さま、助けて、怖いよ」

「―――とりあえず、一度止めてくれ。アプリコット殿、頼む」

ネェツアークはアプリコットの返事も聴かずに、指を弾いた。

鳶色の男と少女の側で宙に浮いていた金色のカエルが、シュッと姿を消してアプリコットの肩に停まる。


「やっぱり多邇具久たにぐくの制御の力を借りないと、少名毘古那神の力を上手く使ってあげられないし、ルイ君の中にある"血"を治める事は難しいか」

アプリコットが小さな声で言った瞬間に、ルイの動きに当初のような機敏さが戻って。


「くっ!!」

ディンファレが痛みを伴った声をあげて、彼女の剣がルイによって弾き跳ばされ宙に舞って、音をたてて石畳に落ちる。

そしてルイはディンファレに向かって、曲刀の短剣を構えたままで制止する。


「―――神の依りじげん示現じげんした存在相手に見事でした。

デンドロビウム・ファレノシプス殿、"策"の為の協力を感謝いたします」

仮面の領主はそう"礼"を述べて、指を弾くと曲刀の短剣を構えた少年は、ディンファレの前に膝から崩れ落ちるようにして倒れ始める。


「ルイ君!!」

漸く脚の痺れから解放されたアルスが駆け出した頃、ルイは戦っていた相手に―――ディンファレに支えられていた。


「―――そうやって傷にならないような嘘をついて、また」

側にきたアルスに、一切視線を向けず倒れたルイをディンファレは投げるようにして渡して、アプリコットに詰め寄った。

仮面をつけたロブロウ領主は、自分の前に立ちはだかる背が高い女性騎士に向かって小さく頭を横に振る。


そして領主の背後にいる鳶色の男と、涙を流す少女を見るように、視線で促した。


「―――御嬢さん。これは喧嘩ではないから、安心してください」

ネェツアークが励ましても尚、リリィは紅黒いコートに顔を押し付けて泣いている。

それを見たディンファレは、今度は恥じ入った表情を浮かべながらも、やはり哀しみも浮かべていた。


女性の騎士からの闘志が消えたのを確信してから、アプリコットは慣れた仕草で腕の中に愛用の短剣を納めて、ディンファレに語りかける。


「ディンファレ殿、貴女の仕事熱心で、思いやりのある騎士の精神には感服いたします。

本来の護衛対象は王族の方だけなのに、農業研修を補助するためについてきた兵士の家族までに気を配るなんて、中々出来ることではありません」

アプリコットは自身でも白々しいと思いながらも、記憶を失っている少年達にも辻褄が合うようにネェツアークと合わせておいた口裏を、スラスラと言ってのけた。


「まず、こちらの殿方は結構な"悪人顔"をしていらっしゃいますが、怪しい人物ではありません」

白々しいついでに、仮面を身に付けた貴族はふざけてもみせる。


「おい!」

アプリコットの発言に、間を置かずに、ネェツアークが泣いているリリィに向けていた視線をあげてまで、反応した。

だがネェツアークのその声に、リリィの泣き声が止まった。

アプリコット以外の一同が驚いて、額をまだ紅黒いコートに押し付けたままのリリィに注目が集まる。

リリィがゆっくりと紅黒いコートから顔をあげて、腫らした目許になりながら、ネェツアークに向かって口を開いた。


「ネェツアークさまは、悪人顔なんですか?」

「違います。―――アプリコット殿」

ネェツアークにしてみれば、珍しくヒクヒクとした顔をしてアプリコットを見返す。


「―――まあ、こう言った具合に軽口が叩ける程度の昔からの"友人"でもありますから、ご心配なく。

なにより、こちらの方はセリサンセウム王国・国王陛下直轄の部門におられる方です」

これ以上リリィに誤解与える紹介をされては敵わないと、ネェツアークは自分から口を開いた。


「"鳶目兎耳"の称号を国より賜っております、ネェツアーク・サクスフォーンと申します、以後、お見知り置きを」

ネェツアークは、不思議そうに自分を見上げるリリィの頭を撫でながら、鳶色の頭を下げた。 


「あの、そのどうして、陛下直轄の部門の方がこちら―――ロブロウに?しかも、この時期に?」

意識が戻らないルイを抱えながら、アルスが表情に複雑さ隠さないでネェツアークに尋ねた。

ネェツアークはまだ自分を見上げるリリィの頭を優しく撫でながら、冷たくも感じられる笑みを浮かべて口を開く。


「―――貴方は、今年の春に軍の教育課程を終えたばかりの新人兵士のアルス・トラッド君ですね。

そして、こちらのリリィさんのお兄さんで、間違いありませんね?。

私は陛下から、そう伺っていますが?」

「ええ、そうですが」

アルスは少しだけ不快になる。


それはウサギの賢者から、"質問に質問で返す事は失礼である"と指導された事もあるし、妹―――リリィが初見である筈の男に、大層心を開いているように見えたからだ。

ネェツアークはアルスが目に見えて不機嫌になるのを察して―――更に、微笑んだ。

そんなネェツアークを見て、仮面の下で盛大に呆れた表情をつくりながら、アプリコットがテレパシーを飛ばした。


《辻褄あわせの誤魔化しの為とはいえ、余りからかうのは止めておいたら?。怒らせて、思考を纏めさせないようにしたい気持ちはわかるけれど》

すると少しだけ、気を落とした様子で、"賢者"から返事がアプリコットに届く。


《シュト君には、通用しなかったけどね》

それだけをアプリコットに伝えて、ネェツアークはまたアルスに質問を口にしていた。


「―――そして、トラッド君の護衛する方は隠棲を好む賢者殿なので、私は名前を伺っておりませんが、その護衛部隊に配属されている」

「そうですが」

アルスはそこでルイの身体を一度抱え直し、先程信じられない動きを見せた少年は意識を取り戻した。


「あれ、なんでオレ、アルスさんに、抱えられ」

数度瞬きを繰り返して、ルイの視界に入ってくるのは、女性騎士の後ろ姿、仮面の領主に、大好きな女の子―――が何かにべったりくっついている姿。


「なっ、リリィ!?おい!悪人面のオッサン、何そんなにリリィにくっついてんだよ!!」

「ネェツアークさま、やっぱり悪人顔なの?」

「違います」

ルイの言葉でリリィは2度目の質問をしたが、ネェツアークは素早く否定した。


「クローバー君、あんまりですねぇ。"一度"私と会っているではないですか」 

ネェツアークにしてみれば、ルイが気を取り戻してくれたのは大層有難い事だった。


(まあ"悪人面"発言は、後に何らかの方法で報復するとして。

ルイ君がいる事で鋭いアルス君の考察力を、結構鈍く出来るとも思うんだけれども)


「ああ!!確かにそう言えばあんた、オレに通信機を持ってきた召使い、じゃあ、ないんだよな」

ルイはアルスに支えられた状態で、癖っ毛の頭を捻る。


「えっ、あの時ウサ、賢者殿から頼まれた通信機を客室に持って来てくれた人って、この人なのかい?」

ルイの言葉に驚き、アルスは"ウサギの賢者"と言いそうになるのを、何とか堪えて、改めて空色の瞳でネェツアークを見つめる。


(記憶の吸いとり具合は、丁度よかったみたいだな)

先程まで"死闘"までやっていた少年達が、今は互いに助け合って支える姿を見て、鳶色の男は笑みの種類を優しいものに変えて浮かべていた。


ネェツアークが"高所の神の王様"の絵本に、アルスとルイの記憶を吸わせた(手元におくうちに、賢者は使い方を把握したらしい)のは、"息抜き"が"死闘"へと向かい始めた場面からだ。


先程、反省の為に正座するルイが言った通り

"息抜きで中庭で模擬試合をして、アルスさんが力余って、確かオレが吹っ飛ばされて"

からの場面で、そこからアプリコットから"お仕置き"をアルスとルイは受けて正座をさせていた。


(何より、あの記憶を取り戻しても、今はアルス君もルイ君もどうしようも出来ないし、互いの心に傷をつけてしまうに違いない)


絵本に吸い取らせた苛烈な感情は、"アルスが本気でルイに殺意を抱き殺しかけた事や、ルイが自分の命を賭してまでリリィの為に戦おう"とした事―――。


(子どもに自分や他人の"命"を軽々しく扱わせないようにするのも、大人の役目だからなぁ~)

だから、少年2人には本当に"息抜きの試合をしていた記憶"しかない。

そして、意識を失っている間にルイの身体にある"仕掛け"もネェツアークは施していた。


「シュトさんが、確か男の召し使いアトさんを含めてそれぐらいしか居ないって言ってたし。あっ、アルスさん!もうイイッスよ」

ルイがアルスに支えられているのから離れようとすると、先程まであれほど機敏に動いていた身体が、支えを失った途端に石畳に両膝をつけてしまっていた。


「―――あれっ」

ルイの随分と気が抜けた声が、中庭に響き渡る。

「ルイ君!?」

アルスも慌てて屈んで、両膝をついたルイの身体を覗き込む。


「ルイ!大丈夫?」

掴んでいた紅黒いコートを手放し、リリィがネェツアークを見上げた。


「お兄さんとクローバー君の側にいってあげてください」

小さくネェツアークが言うの聞いて、リリィはしっかり頷き頭を下げ、ルイの元に走る。

仮面の口元を引き締めたアプリコット、まだ悲しそうな顔のディンファレの前を、走り抜けてルイの元に駆け寄った。


「ルイ?!大丈夫?!どこか身体、痛いの?」

リリィはアルスが支えるルイの身体に手を添えて、心配そうに声をかける。

ルイは膝をついて、癖っ毛の頭を俯せたまま口を開かない。

そんな中、アプリコットがスッとネェツアークの横に佇み、怪訝な顔で話し掛けていた。


「"少名毘古那神"と、"ルイ"君の相性が悪かったのかしら」

アプリコットの表情に比べたら、ネェツアークの顔は"どこ吹く風"と言った様子で軽い感じであった。


「―――ルイ君の中に奉った少名毘古那神に、そんな感じはなかっただろ?」

"クローバー君"とは呼ばず、ルイという名前を出して、ネェツアークはアプリコットに確認をするように口を開いた。


「ええ、調子と言うか波長はルイ君と少名毘古那神とは格別に合っていたと思う。

もしかしたらその反動?。

それとも、多邇具久を使って抑えていたルイ君の"血"の暴走――?」

アプリコットが真面目に考え、仮説を立て言葉にしていると―――仮面越しに紅黒いコートを纏った肩が震えるのが見えた。


「ネェツアーク殿。貴方、原因が分かっていて、黙っているわね?」

アプリコットがそう言って、ネェツアークに詰め寄ると、リリィの声をが耳に入る。


「―――えっ、ルイ?"減った"?」

そのリリィの言葉を耳にした途端、ネェツアークは中庭にいる全員に、紅黒いコートの背を向けた。

口元は大きな手で押さえている。


「腹が―――"お腹が空いただけ"ですってええ?!」

リリィの怒りが混じった声が響いたあと、グウウウウ~と腹の虫の鳴き声をルイは盛大に轟かせた。


「貴方、予想以上に相当いい性格しているわね」

アプリコットが口元をヒクヒクとさせて、震えるネェツアークの鳶色の頭をを仮面越しに睨んだ。


「まあ、あれだけの動きをすれば、確かにお腹を空かせても仕方ないか」

アルスの至極真面目な発言と言葉に、ネェツアークは背の高い身体を少し曲げて、懸命に笑い声を出すまいと細かく震えている。

先程のルイとディンファレの、神懸かった攻防を見て、"それならお腹が空いても仕方ない"といった感じのアルスの言葉に、アプリコットは空いた口が閉じなくなっていた。


「アルス君は"あらゆる意味"で、"てん"に"しか"るべく愛されているからね」

何とか大いに笑いたい衝動を堪え抑えて、ネェツアークは振り返った。


口を開いたまま、未だに呆れているアプリコットの肩をトンと叩いて、ネェツアークは子ども達の元へと歩みを進める。

目的地、リリィとアルスとルイがいる場所に着く為には避けられない人がいた。

全身全霊で人の姿であるウサギの賢者、"賢者ネェツアーク・サクスフォーン"を憎む女性がいる。


『ウサギのオッサン、ディンファレはきっと優秀な女性騎士になるから、私が消えた後、宜しくね 』

妻と同じ紅色の髪に強気な瞳を持つ、義妹にディンファレの事を頼まれていた。


彼女の"最期のお願い"の内の1つとして、"じゃじゃ馬の私を姉のように慕ってくれた、ディンファレを頼む"と言われた。


『ウサギのオッサンは、義兄さんは何気に不器用だから、難しい事は言わないけれど』

苦笑いしながら、膨らむ腹を愛おしそうに撫でながら、義理妹はウサギの姿から鳶色の男となった"義兄ネェツアーク"に懇願する。

『私が消える事でディンファレが、私の後を追いそうな時があったのならどんな形でも、いいから止めてあげて』


出逢った頃―――保護した頃には、最愛の妻の妹とは髪と瞳の色ぐらいで、姉妹とは信じられなかった。

義妹は、妻の様に賢くも強くもなく、"慈愛"なんて最も遠い場所にいるように見えた。


(けど、やっぱり根幹は同メイプルと同じだったね、"ミュゲ"。

愛した物の為なら、恐怖も悲しみも抱くけれど、結局は"助けなかった後悔をしたくないから"と、自分の命を差し出すのだから)

 

「今の私は"鳶目兎耳のネェツアーク"。"賢者ネェツアーク・サクスフォーン"で姿を現したわけではないから、君との約束は違えていない」

ディンファレの前で一度脚を止めて、冷たく且つ嘲笑ってネェツアークは言う。


「―――詭弁です」

ディンファレは絞り出すように言って、今は武器は握られていない掌を拳にする。


「ああ、こうやって詭弁でも使って、この"ヒトデナシ"の姿を晒さなければ、あの子―――リリィを護れない状況なんでね。

私を嘘つきだと言いたければ、私や私を庇う"英雄"や友人達を倒せるようになってからおいで」

ネェツアークはそう言って、未だに色んな意味で呆れているアプリコットの方を親指で示し、次に英雄である親友達が休んでいる客室の方に視線を投げ掛けていた。


そして更なる憎しみを煽る為に呟く。

「―――ミュゲの事を大切に思うなら、ディンファレさん。

貴女がミュゲが造り上げたかった幸せを、結婚して家庭を―――」

次の瞬間に物凄い速さで、ディンファレの右の拳がネェツアークの顔面に振り上げられた。


――――バシン!!!

リリィ、アルス、アプリコットに腹が空き過ぎのルイすらこの音の発生源に向かって頭を上げて視線を飛ばす。ディンファレの拳を、ネェツアークが自分の顔面前で、自分の大きな掌で受け止めていた。


「私はミュゲが一番喜びそうな事を言ったつもりだ」

今まで、彼女の腹心の部下である、ライヴやリコリスの哀しみや怒りの平手打ちを受け止めてやった男は、ディンファレの拳だけは受け止めてはやらない。ディンファレに、ネェツアークを傷つけさせる事が出来るだなんて、考えさせてはやらない。


(全身全霊で、大切な人を"殺した"、私を、ネェツアーク・サクスフォーンを憎め。

それがデンドロビウム・ファレノシプスを強い女性騎士とする為のかてとなるなら、私は喜んで憎まれよう)


「ディンファレさん、ネェツアークさま!。いったい何があったんですか?!」

リリィがルイに付き合って屈めていた姿勢から立ち上がり、ディンファレの拳を顔面前で掌で受け止めるネェツアークに心配そうに尋ねた。

少女の緑色の瞳が、再び不安で揺れる。


「―――リリィをこれ以上泣かせない為に、"詭弁"に付き合って貰う」

静かに重い、ディンファレにしか聞こえない声量でネェツアークが異論は受け付けない,"覇王"の声で言った。

 

「"詭弁"に付き合いたくなければ、さっきいった通り。

強くなりなさい"ディン"」

ディンファレは顔を赤くして、ネェツアークが受け止めていた掌を振り払うように、ブンッと音がするほどの勢いで拳を降ろした。


何とか涙を堪える義妹の"妹分"だった女性を確認してから、ネェツアークは脚を進めて目的地―――子ども達の前に辿り着くことが出来た。

アルスは僅かな不信感、リリィは大きな不安、ルイは空腹で力が入らない顔を。

それぞれの面差しで紅黒いコートを纏い、胸元に銀色の勲章を飾るネェツアークを見詰めていた。


「皆さんの同行者のディンファレさんに、不興を与えてしまった事をまず謝罪させて頂きます。スミマセンでした」

見習い執事のシュトを余裕に越える所作で、謝罪の礼をネェツアークはこなす。

それを見る限り、ルイがネェツアークを領主邸の召使いと思い込んでも仕方がないものだった。


「リリィさんの側にいた理由を話して、私の職業と仕事の内容を話したら、ディンファレさん――いいや、社会に出て働く女性の皆さんにとって、大変不興を与える内容となっていました」

申し訳無さそうにネェツアークは眉を下げる―――自分でも内心ではわざとらしく感じる仕草である。


「仕事で申し訳ない?」

ディンファレに少しだけ惹かれているアルスは、ネェツアークが彼女に不興を与えたと知って、僅かだった不信を、大きく膨らませている。


「そう言えばネェツアークさまのお仕事って何なんですか?。

国王さまが、直々にとかアプリコットさまが」

リリィはそんなアルスの様子には気が付かないが、ディンファレが落ち込んでいるのは分かっていたので、何とか場を盛り上げようと明るい声をだす。


少女はディンファレを悲しませた筈の、ネェツアークに対して怒りの気持ちが抱けないでいる。


(何か理由があるんですよね、ネェツアークさま)

そんな気持ちで、ネェツアークをリリィは緑色の瞳で見上げていた。


もしも、出来る事ならネェツアークと大好きなディンファレに"仲良よし"になって欲しいと、そんな幼い希望すら持っている。

そのリリィの"幼い希望"を感じ取る事が出来たのは、やはりネェツアークだけで。

今度は本心から申し訳無さそうな表情を浮かべ、気がつけばリリィの頭を優しく撫でていた。


(すまない、そのリリィの"願い"は叶えられる保障が私には出来ない) 

願いを叶えられないかわりに、リリィの質問にネェツアークは答える。


先程、アプリコットから簡単な説明は聞いていたが、正式な仕事の名前をリリィは聞いていない。

アルスとルイは、ネェツアークと中庭で往なされた記憶を無くしている。


(アルス君とルイ君に関しては面倒臭いけれど、リリィもいるから、もう一度説明しないとね)

リリィの頭から手を外し、靴の踵をカッと鳴らし合わせて、ネェツアークは3人の子ども達に頭を下げた。


「改めまして、自己紹介を。先程も言いましたが、私はセリサンセウム王国、国王陛下直轄諜報部隊に所属するネェツアークと申すものです」


「あの、ネェツアークさま、"えんもくとじ"ってどういう意味なんですか?」

本当なら"アプリコットとネェツアーク話し合いの後"にリリィは尋ねたかったが、どうやらその機会がなくなってしまったと考えて、少女は質問した。

軍の知識があるアルスは、諜報活動という言葉にまた表情を険しくしている。


「御嬢さん、鳶目兎耳は"鳶の目に、ウサギの耳"、よく見える目と、よく聴こえる耳を表す言葉です。

私は、国王陛下に頼まれて情報を集めるのを仕事にしています」

リリィと十中八九意味を知らないだろう今は空腹の為に無言のルイの為、ネェツアークは優しい言葉で説明をする。

親切な大人―――そんな雰囲気を醸し出してネェツアークは答えたが、アルスはそれを誤魔化しと受け取っていた。


「単独任務の諜報員を、国王陛下はどうしてロブロウに派遣されていたんですか?」

それから今度は訝しげな視線を、仮面の領主にすらアルスは向ける。


(アプリコット様はこの紅黒いコートの人物をご存知で友人だというなら、"農業研修"の自分達の意味は何なんだ?)

アルスは自分が大勢の中の一人として、下積みの任務に励む一兵卒に過ぎない事ぐらいの分別はわきまえている。

だが、自分の主となるウサギの賢者は国最高峰の知恵を持ち、グランドールなどは国にとっては掛け換えなどいない"英雄"。

国にとって大事な存在に黙って、諜報活動のプロをロブロウに潜入させておくのは、馬鹿にしているのではないか?、そんな気持ちがアルスの中に燻る。


「誤解がないように言っておきます。

私がロブロウが訪れる理由は、農業研修とは全く関係ないものです。ですが、途中から"巻き込まれた"のですよ」

アルスの表情から疑問や不信を丁寧に"拾い上げて"、ネェツアークは不貞不貞ふてぶてしく笑う。


「本来、私の鳶目兎耳としての主な任務は、異国の魔術の調査なんですよ。そしてロブロウの初代領主殿ピーン・ビネガー様が、東の国で使われている術に詳しいと、情報を得てからはそれを調査していました。

それこそ、年単位の仕事ですよ?。トラッド君」

国の諜報員は多くは言わないが、言わんとする事はアルスには分かった。


"どっちが、後からやってきて、仕事の邪魔になっているか、わかりますよね?"

直接的には言わないが、"少しは腹をたてている"というニュアンスを含ませてネェツアークは喋り続ける。


「ロブロウは閉鎖的な土地柄ですから、調査が難航しました。

あまり友人を利用する形を取りたくありませんでしたが、結局アプリコット殿に頼みました」

ネェツアークが振り返ると、アプリコットは全てを認めるように頷いてアルスに向かって口元だけで微笑んだ。


「異国の術については、お祖父様は特に隠していたわけではないから、ネェツアークを招いて自由に調べさせていたのよ。

ただ、私も一応独身の女性の上に、男女の事については煩いロブロウだからね」

そこで女性領主は、道化師のように肩を竦めた。


「私が領主になった事に煩い親戚"まだ"いたし、男性の客人として扱うにも、変な勘繰りが起きそうだから。

敢えて私とは接触せずに、風来坊が日銭稼ぎにロブロウに留まっているみたいな事を、数ヶ月前からネェツアーク殿はしていたのよ」

―――辻褄あわせに用意していた設定を、ネェツアークもアプリコットもスラスラと口に出していた。


「そんなに前から、ネェツアーク、さんは、ロブロウにいらしていたのですか?」

アルスは驚きで目を丸くして、ネェツアークがいる経緯を話すアプリコットを見詰めた。ネェツアークが苦笑いをして、辻褄会わせを引き継いだ。


「そして私がロブロウに滞在中に、"人拐い"事件の頻発が始まりました」

リリィが少しだけ、ビクリと"人拐い"の言葉に反応するのを、アルスとネェツアークも見逃さなかった。


("人攫い"は避けた方がいいな)

アルスが心配してリリィを見つめるのを見て、ネェツアークは言葉を選んで話を続ける。


「私は王都にいなかったので詳しくは知りません。

けれど、事件は1ヶ月前に結構スムーズに解決した報告は受けています」

ネェツアークは敢えて、事件の片を付ける当事者の1人となったアルスにその事を確認する。


「はい、それに合わせて国の法も、少しばかり改定―――というよりは、柔軟な対応が出来る物に編纂しなおしている途中だと、国の掲示板で読みました。

今は国の重鎮の方々が、決める為の会議が毎日のように行われているようです」

アルスはやはり当事者になったせいもあるが、そこについては無意識に多弁となり答える。

別に口止めをされたわけでもないのだが、余計に口を開いたとアルスは自覚して、少しだけ顔を赤くして口を閉じた。


ただアルスは話しているうちに、ウサギの賢者がロブロウに派遣される事が決まる直前まで、書類の確認に追われていた事を思い出していた。

リリィに書斎の入り口に座り込まれて、アルセンから届けられた書類の山のチェックと直筆のサインが終了するまで、出して貰えず嘆いていた声も数日前の事の筈なのだが、アルスには何だが凄く懐かしく感じられる。


「法律の賛同、確認、疑問に関する書類の似たような事ばっかりを何度も何度も―――本当に大変―――そうですからねえ」

不意に目の前に立つ、紅黒いコートを纏ったネェツアークが腕を組み、やけに 実感のこもった声を出した時には、一瞬ウサギの賢者が喋っていたのかと軽く錯覚してしまう。

それはどうやらリリィも同じだったらしく―――アルスとリリィはまじまじと、背の高い鳶色の男を見上げていた。

(やれやれ、ネェツアーク殿は真面目な場面が根っから苦手のようね)


―――ザッ

アプリコットがわざと足音を出して、ネェツアーク達の方に向かって歩きだす。


「―――そんなこんなで、約1ヶ月前に、法改正の前に各領地の領主宛てに、国王陛下から勅書が届けられたの。

勿論、このロブロウにも届きました」

ネェツアーク達の側に歩みを進めながら、服の胸元から、アプリコットは折り畳まれた上等な洋紙を取り出した。

歩きながら、仮面の領主は洋紙を読み上げる。


「"今回の改正を行う前に、改正のきっかけとなった犯罪に"貴族"が関わったという話が出ている。

各領地の領主は、縁戚に当たる貴族に万が一加担しているものがいないか調査する旨を命ずる"ってね」

少しだけ和やかになりかけた空気を、アプリコットは引き締め直すように―――今は無言のディンファレの横に立った。

中庭にいる人物の視線がアプリコットと、黙ったままのディンファレに向いたの確認してから、仮面の領主は言葉を続ける。


「私は領主として、勅書に従い調査を行った。丁度、そういった事が"大"得意な友人が、貸しを返したいと言ってくれていたからね。有り難く、働いて貰ったわ。

そして、叔母様方の"人拐い"の関与したという、確固たる証拠を、仕入れてきてくれた」


更にもう一枚、胸元からアプリコットは紙を取り出して、それをディンファレに差し出す。

ディンファレは僅かに驚いた顔をしてから、差し出された紙を手に取ると、アプリコットは口元に優しい笑みを刻む。

それからアプリコットは、"働いて貰った友人"にあたるネェツアークを見た。

今はネェツアークと言っているが、本当にアプリコットに証拠を持ってきてくれたのは、エリファスだった。

だが、ネェツアークが小さく頷く事で、"子ども"達は、"鳶目兎耳"が持ってきたのが真実なのだと信じこむ。

確固たる証拠をとなる、"契約書"の内容に目を通しているディンファレの眉間に、深いシワが刻まれる。


「ディンファレさん、貴女が子ども達に聴かせても(さわ)りがないと考えられる程度で読んでくださる?」

アプリコットに言われて、ディンファレは溜め息を吐いた。


「―――承ります」

そう答えた後、ディンファレが先に目を通した内容を子ども達に考慮して、但し、偽りの無い内容で読み上げる。


契約書の概ねの内容は

『人拐い活動を支援する』

『ロブロウにおける"人拐い事件"が起き、表沙汰になるようになった場合、全てのとがを代理ではあるが領主であるアプリコットに向かうように、叔母4人で口裏を合わせる旨』

『もしも、アプリコットが領主の座を外されたのなら、留学している兄2人にはしらせずに、叔母4人の子どもの内の誰かが領主の座につかせる事』

という物。


ディンファレが良く通る声で、"契約書"読み上げるのを聞くだけでも、アプリコットの中に最初に読んだ時の鈍い感覚が甦っていた。


(いや、あの時は私は禁術に―――エリファスやロックやお祖父様に"守られて"いたんだ)


―――1ヶ月程前の漸く季節が春になったばかりと感じられる、まだ風の冷たい夜。

領主の部屋でアプリコットとロックは、祖父が編纂した異国の術に関して、2人で論議していた。

ロックがアプリコットの喋り方が祖父に似ているのを楽しみたいからと、目を閉じて話すのが不思議に印象的に残っている。

そこにノックを響かせて姿を現したのは―――涙を流すエリファスだった。

慈愛に満ちた、世話焼き優しい傭兵の女性は、親友の身辺に迫る寸前となっていた、悪意の塊の証拠に、涙を止められずに駆け込むように、領主の部屋に入る。


『アプリコット、これ』

調査をして入手した"契約書"を、胸の豊かな親友は、涙を止められないままアプリコットに渡す。

今となれば心を守る為にかけられていた"禁術"のお陰で、心に深い傷を負わなかったと分かるのだが、それでも軽くショックをアプリコットは受けていた。


―――見に覚えのない罪をきせられ、何とか懸命にこなしている"仕事"と居場所を奪われる。

(私、ここまで憎まれるような事をしたのかなぁ)


『―――どうして、ここまで、今まで散々我慢させてきたじゃない。

ロブロウで、身分まで奪って、あの"人"達は、アプリコットの人生を何だと思っているの』


鈍いアプリコットの心の中でも、エリファスが自分の気持ちを代弁してくれているのが、何となくあの時は分かっていた。

涙を流すエリファスも心配しながら、契約書を眺める横で、胸騒ぎがして不躾ながらも内容を読んでしまった老執事も、悲哀の声を漏らしていた。


『何という、ピーン様の、旦那様の気持ちを、まるで』

辛抱強いロックまでもが、老いて尚叡知を含んだ瞳に、涙を貯めていた。

契約書の内容にアプリコットは軽くショックを受けてはいたが、自分の為に目に涙を浮かべるエリファスとロックを見る方が、まだ辛く感じた。


『これでは、旦那様が懸命に守った家を乗っ取っているのと変わりないではありませんか!』


「―――殆ど、家を乗っ取っているのと変わらないじゃないですか!」

ロックの怒りと悲痛に震える声を思い出した時、中庭でも1人の少年が―――アルスが怒りの声をあげていた。

丁度ディンファレが、契約書の"アプリコットが領主の座を外されたのなら、留学している兄2人にはしらせずに、叔母4人の子どもの内の誰かが領主の座につかせる事"を読み上げた終えた所だった。


アルスは自分でもどうしてあんなに怒りの感情を抱いて、声に出したのか分からず、顔を赤くしている。

少年は気がつかないが、"血の契約"にあたり、アプリコットと記憶と記録を共有する、鳶色の賢者だけはある共通点に気がついていた。


(ロック、エリファス、アルス君。

いやいや、地獄の宰相ベルゼブブ、復讐の女神エリニュエス。そして)


因果や縁などに囚われるつもりはないが、自分の"ウサギの賢者"の元にやってきた少年が、背負うかもしれない名前をネェツアークは一瞬だけ頭に浮かべて、直ぐに打ち消した。


(どんな存在だって、理由なく"居場所"を奪われる事を、怒らないものなんぞいないさ。

アルス君が、アプリコット殿の為に怒ったのは必然に過ぎない)

ネェツアークが少しだけ頭を振っている間に、自分の考えを筒抜けに共有する女性が口を開く。


「―――アルス君。怒ってくれてありがとうね」

距離のある新人兵士の少年に向かって、仮面の領主は顔を綻ばせ、自然に口からは礼の言葉を出していた。

そして今、もうこうやって礼を言うことが、出来なくなってしまった2つの存在の事を思い、心を痛めてもいた。


(私は、涙や怒りを抱くエリファスや、ロックを見るのが辛かったんじゃない。

"自分の為に怒り、泣いてくれる存在"の有り難さに気がつかずに、お礼を言えないことが歯痒かったんだ)

ロックもエリファスも、もう多分アプリコットの側には戻ってはこない。

気持ちに"ケジメ"をつけて、"領主"としてアプリコットは口を開く。


「ただ、結果的には家を乗っ取っりは防げたし―――ネェツアークの証拠のお陰で、私は領主として"人拐いに関わった貴族"を処断する事が出来た」

そしてアプリコットは――ディンファレの肩を軽く叩き、彼女の耳元で囁く。


「私が濡れ衣を着せられる前に動けて、"親友"が情報をいち速く得て動けたのは貴女のお陰でもある。

―――ありがとう、ディンファレ」

ディンファレは予想だにしなかった感謝の言葉に、少しだけ顔を赤くした。

その様子を安心したようにアプリコットは見て、ゆっくりまた大きく口を開く。


「そして私は国王陛下に、直ぐに"勅書"の返事を出した」

様々なスイッチとなる、"訝しげな報告書"は、こうして創られた。


┌─────────────┐

│             │

│    †報告書†    │

│             │

│             │

│ 先日、連絡を頂いた人攫 │

│ いに関する件。     │

│             │

│ 本領地におきましては、 │

│ 人攫いに関与した貴族、 │

│ 4名を処断の上、処刑を │

│ 行った事を報告致します。│

│             │

│             │

│      ロブロウ領主 │

│             │

│  アプリコット・ビネガー│

│             │

└─────────────┘


この報告書を読むことで、国の王はかつて救う事が出来ず、片時も忘れる事も出来なかった少女の為に動く事を始めた。処断された4名が直ぐに誰なのか、国王は気がつく。


『アプリコット!領主の孫娘とあろうものが、供も連れずに殿方と逢っているとは何事です!』

『キンキンと不快に響く声で、少女を責め立てる4人の叔母』

『訝しむよう面白がるよう、好奇の視線をまだ幼すぎる姪に注ぐ4人』

その4人を、あの時の少女が"土地 の主"となり、"本当に正しい理由"で領主という権力を持って処断したのかが、気がかりだった。


突如に手に入った大きな"権力"に飲み込まれ、私利私欲の―――私怨の為に使われたのでないかと、それが不安で仕方なかった。

だから国王は、わざと最も信頼出来る部下と親友達を唆すように、話を向ける。

そして、"彼"を表舞台に引き摺りだした。


『生臭くさそうなの、平気そうな奴』

『ええ、生臭くて面倒くさいものには、喰えなくて厄介なモノを会わせてみようと思いつきまして』

そんな風に評される彼なら、どんなに腐臭や汚泥に塗れた噂の中からでも、小さな種のような"希望"の真実を拾い上げる事が出来ると信じて、国王は"仕組まれた命令書"を書き上げ、彼女の事を彼に託す。

 

┌─────────────┐

│             │

│    †命令書†    │

│             │

│             │

│             │

│             │

│ ロブロウの内部調査補助 │

│ 兼大農家グランドール・ │

│ マクガフィンの補助を  │

│ する事を『ウサギの賢者』│

│ に命ずる。       │

│             │

│             │

│             │

│  セリサンセウム国   │

│             │

│国王 ダガー・サンフラワー│

│             │

│             │

│※決定事項だから、変更は │

│ 不可能です。      │

│             │

│  指令書・企画責任者  │

│             │

│ アルセン・パドリック中将│

│             │

└─────────────┘


そして、話は想像もしていなかった方向に進み初め、それを止めるには不可能の地点まできていた。

ただの内部調査になるはずだけのものは、様々な人の縁を取り込み巻き込んで、その絡まりを紐解く為に、それぞれが動き始めなければならなくなっていた。


「正直に言って"大農家グランドール・マクガフィン"殿が農業研修にロブロウに訪れると、王都から書簡が届いた時には、"ああ、やっぱりね"と思ったわ」

ディンファレの側から離れて歩き、アプリコットはネェツアークの隣に立った。


「数十年音沙汰無しだったのに、いきなりすぎる農業研修の依頼。

直ぐに本当の目的、私が行った"処断"に対する調査だと察する事は出来た、けれども」

そこでアプリコットは銀色の仮面を暑苦しそうに外し、もう一枚の"ケロイドの仮面"を晒して、苦笑をする。


「もっとも、ある意味遠回しに"親族の貴族を処断した事の調査をするぞっ"って、優しく言われているような気もしたわ。

ネェツアークにも友人のよしみで、内緒で調査の事は前もって教えて貰っていたけれど、私からすれば後ろ暗い事は全くありませんからね」

先程"調査を前もって知っていた"事に憤慨していたアルスに向かって、アプリコットが笑う。

アルスは―――何とも複雑な顔になっていた。


 (もしも、アプリコットさんが言ったことが全て真実だったなら、自分達がした事は、無実の人を散々怪しんで、難癖をつけていただけじゃないのか?)

アルスは複雑な表情から、自分の考えの足らなさを恥じる顔をしていた。


「―――トラッド君、気にしない事です。

アプリコット殿、ロブロウ領主殿は、確かに法に乗っ取り、罪状に見あった罰を罪人となった貴族に与え、処断した」

アプリコットの後をネェツアークが引き継ぐ。


これ以上ロブロウ領主――疑われた当人が言葉を続けたとしても、"無用な疑いをかけた"と反省している少年を、追い詰める事にしかならないと、アプリコットが視線でネェツアークに訴えたからだった。

紅黒いコートの男は、今まで醸し出していた不貞不貞しい雰囲気を消し、穏やかにアルスに向かって語り始める。


「ただ、それは今の世間、平和なダガー・サンフラワー陛下の御代(みよ)では、アプリコット殿がやった事は過激に感じられる事、一概には信じられないものだった。人は一目見て信じられない物を見ると、思わず確認する、それと同じ事です」

ネェツアークは少しだけ意識して、アルスが尊敬するアルセンの言い方を真似をしていた。

アルスが素直に言葉を受け入れ、必要以上に落ち込む事がないように。

落ち度があったにしても、必要な分だけ反省をして、無駄にエネルギーをつかって鬱ぐ事がないよう。


「それに大農家殿はロブロウに訪れて、しっかりと農業研修を行ってもいる。

私も仕事の癖で、農業研修の方を少しばかり拝見させて貰いましたが、王都にとってもロブロウにとっても、しっかりと有意義な結果を得たようですし。

決して無駄にはならない経験になったと、そう考えてみたら如何です」


(アルセンなら、こんな感じかな?)

そう考えてネェツアークの浮かべた笑顔は、少しだけ困ったような笑顔で、アルスに十分アルセンを思い起こさせるものだった。


「ネェツアーク殿、早とちりをして、失礼な態度、申し訳ありませんでした」

元来、実直な少年は不信感を抱いていたネェツアークにも、素直に頭をげる事が出来た。


「トラッド君、"殿"なんて堅苦しいから、どうぞ"さん"ぐらいで」

(やれやれ、こんなもんだね)


「―――あれ?じゃあ」

頭を下げたまま、少々間の抜けた声をアルスは出した。

 

「どうしたの?お兄ちゃん?」

アルスが妙な姿勢なまま、変わった声を出したのでリリィが思わず尋ねる。

アルスは謝罪の為に下げていた姿勢から、頭を上げてネェツアーク、アプリコットそして、表情が大分優しい感じになってディンファレの順に眺めていった。

その視線を向けられたネェツアーク、アプリコット、ディンファレとそれぞれで少々驚いた様子だったが最も興味を持った、女性騎士が口を開いていた。


「私の方も見ていたみたいだが、私にも、何か関係あるのか?」

ディンファレが落ち着いた声で、かつて剣を交えた事もあるアルスに尋ねた。

少しだけ、ディンファレに対し、淡い気持ちを持っている少年は俄かに顔を紅くして、照れながら、大人達の顔を見比べた理由を口にする。


「先程、どうしてディンファレ殿が、ネェツアーク殿…さんに対してあそこまで怒ったのかが、急に不思議に感じられてしまって」

今まで国の諜報員だと、ネェツアーク自身が不貞不貞しい雰囲気で名乗った事で、それなりに軍に詳しいアルスは、紅黒いコートの男を訝っていた。

だが先程の説明で、すっかりとアルスは毒気を抜かれてしまっている。

不貞 不貞しいままのネェツアークなら、ディンファレに拳を振り上げる事態にもアルスは納得出来たが、今は不思議で仕方がなかった。


「ネェツアークさん、良かったらなんですが。

殿が、何をそんなに不興に買われてしまったのか、教えて貰えませんか?。

確か"私の職業と仕事の内容を話したら、ディンファレさん―――いいや、社会に出て働く女性の皆さんにとって、大変不興を与える内容となっていました"みたいな事を仰っていましたよね?」

ネェツアークが言っていた言葉を、一字一句間違わずにアルスが言ってみせて、周りいる一同は目を丸くする。

腹が空き過ぎて、目が回りそうなルイですら思わず"スゲエ"と声をだした程だった。


「―――よく、マルッとそんなに私が言った事を暗記出来ていましたね、トラッド君」

アルスの見事な暗唱ぶりは、そういった事が得意なん綺麗な顔の親友をネェツアークに思い出させて、空色の瞳の少年が、その人物の名前を出した。


「はい、アルセン様から"たまに言い出しっぺの癖に、言い逃れて逃げようとする輩もいますから"と。

魔法の素養がない自分の為に、簡単な暗記のコツを教えていただいたので、暗記は得意なんです」

 ニコニコと、上機嫌に敬愛する上司について語るアルスの後ろに、綺麗な笑顔ながらも、黒い雰囲気な金髪で美人な親友を垣間見たような気がしたのは、ネェツアークの気のせいだろうか。


(さてさて、どうやって誤魔化そうか)

有難い事に、アルスも"鳶目兎耳のネェツアーク"については、"ウサギの賢者"の時ほどではないが、大分信頼をおいてくれている状態になった。


信頼を置いてくれるのは有難いが、ディンファレがネェツアークに拳をあげた理由を簡単に教えると言うわけにもいかない。

それこそ本当にデリケートな問題。

だが実直過ぎる故の心配も、ネェツアークには浮かんできた。


("社会に出て働く女性の皆さんにとって、大変不興を与える内容"、ある意味ここで教えておいた方が、ひょっとしたらアルス君の為になるかな)

鳶色の瞳をディンファレに向けると、潔すぎる女性騎士は"如何様にも"と言った様子で、目を伏せた。


「ネェツアークさま、私も知りたいです!」

そこでリリィも声をあげたので、ネェツアークは激しく瞬きを繰り返してしまう。


(アルス君にしても、リリィにしても本当の兄妹けいまいではないのに、こういったデリケートやデリカシーに関する話には、疎い所がそっくりなんだよねぇ)


「―――では」

ネェツアークはディンファレには優しい笑みを、アプリコットには――不貞不貞しい笑顔を向けた。


(何、私を何か巻き込むつもり?!)

思いきりアプリコットからテレパシーを飛ばされたが、ネェツアークは受け流す。


「ディンファレさんは、私がもう1つしていた仕事に関して、怒ってくれていたんですよ。

後は、私も多少無神経な所があるので、それも不興を買われる原因となられた様子です」

ネェツアークがそこまで言った時には、アプリコットは再び銀色の仮面を身に付けていた。

鳶色の男が何かとんでもない発言をしても、狼狽えたりしない自信はあるが、絶対狼狽えたえないという根拠にはならない、いざという時の為、表情を隠す為の仮面装着である。

そして、慎重派のロブロウ領主の判断は正解だったと数分後に判明する。


「トラッド君もリリィさんも、国王陛下が未だに"独身"なのはご存知ですよね?」

「あっ、はい。知ってます!パン屋のバロータお爺ちゃんが、王様が結婚をしない事を嘆いていました!」

ネェツアークの質問に、リリィが強烈な言葉を使って答えた。

「はい、自分も知っています」

アルスは短く答えた。それを聞いて、ネェツアークは言葉を続ける。


「では、国王陛下かがどうして結婚をなされないかは、ご存知ですか?」

これには"トラッド兄妹"は、いまいちピンとこない様子である。

そして意外な所から、声が上がった。


「そりゃ、好きな人がいるからじゃないっす?」

空腹過ぎて、途切れ途切れな声となっていたがルイが言う。


「クローバー君、概ね正解です」

「ルイ、すごーい」

「ルイ君、鋭いね!」

ネェツアークの"正解"という言葉にアルスもリリィも、空腹でへばったルイに拍手をする。


(ここらへんは、アルスさんとリリィは本当に兄と妹みたいなんだよなぁ)

空腹過ぎて頭は余り回らないが、苦笑しながらそんな事を感じる事は、ルイは出来ていた。

そしてネェツアークが"概ね"と言葉をつけたのを、ルイはしっかり聞いていたので、紅黒いコートの男を見上げて尋ねる。


「で、"概ね"ってどういう意味っすか?」

元気はないが、芯はしっかり通っているルイの声にネェツアークは楽しそうに笑う。

「そうやって何気に細かい所に気が付くのは、流石マクガフィン殿の弟子って所ですかねぇ。

陛下にはね、好きな人というより、これだけは譲れない"タイプ"があるんですよ」


「譲れない、タイプ?ですか?」

リリィにはネェツアークがいう言葉のニュアンスを、まだ漠然とも掴めていない。

そこでリリィの為に、紅黒いコートを纏った、"国王の情報屋"は言葉をもっと分かりやすくするために言い換える。


「タイプというのは、陛下が"ダガー・サンフラワー"という1人の人間として、関係を持ちたい人に一番求めているものでしてね。陛下が関係を持ちたくなるために必要な、"条件"みたいなものです。

その条件に当てはまらなければ、どんなに容姿が優れていようとも、陛下は相手をする事はありません」

「その今まで誰も、国王陛下のタイプに―――条件にあてはまらなかったんですか?」

元々は、"ディンファレの不興の話"だったはずとアルスにもわかるのだが、どうもこの話は気になってしまい、思わず言葉を出してしまっていた。


「―――それなりに条件にあて填まった方は、いる事はいたんですがね」

そう言ってネェツアークはまず、ディンファレを見つめた。ルイはネェツアークが見つめた先にいる、リリィ一筋である彼にも"美人"と認識出来るディンファレ見て、溜め息を吐いた。


「何だ、結局美人って話なんすか?」

ルイがへたばったまま、つまらなそうに言った。


「クローバー君~♪」

不意にネェツアークがしゃがみ込んだ。

空腹で中庭に座り込むやんちゃな少年は、いきなり眼前に現れた鳶色の男に驚いてから、間もなく額にビシリと激しい指弾き"デコピン"を喰らわせられる。


「あいたっ!!なっ、なんなんすか?!」

ネェツアークの指はパッと見ただけでも長く筋も通っていて、かなり強力なデコピンを食らった事が、側にで見ていたアルスとリリィにもわかった。


「アッハッハッハッハッハ。

せっかく良い所に気がついたのに、よくよく考えもしないで短絡的な言葉を吐いたから、鳶目兎耳のネェツアークさんから教育的指導♪」

わざとらしく長たらしい説教を笑顔で述べた後、ネェツアークは丸眼鏡のレンズの向こうにある、鳶色の瞳を鋭く光らせルイに向かって口を開く。


「そんなんじゃ、"また"マクガフィン殿に迷惑をかける。

"空腹だった"、"疲れていた"、"子どもだったから"、そんな言葉で君は大切なも のを、また危険な目に合わせてしまうかもしれん。

グランドール・マクガフィンの弟子、ルイ・クローバーがまだ"ガキ"扱いされてもいいなら、私はもう何も言わないが」

ネェツアークの言葉に、ルイは唇を噛んで、今度は反省の為に俯いた。

「―――スンマセン」

謝り、反省しながらも本能で生きてきたルイに、1つだけ疑問が浮かぶ。


普段、初対面の人物でもルイはその相手の強さを見抜けていた―――まず、自分より強いかどうかが。

今回の農業研修の一行の中でも、ルイはダントツに"弱い方"になるけれども、それでも町にいる大人のゴロツキや、一般の兵士なら、多分、勝つ事は出来る自信はある。


そして"鳶目兎耳のネェツアーク"と名乗る男に対して沸いてきた感情は―――"戦ってはいけない"、そんな気持ちだった。

勝てる負けるではなく、"戦ってはいけない"と全身に血が回るように、意識が回る。

なお不思議なのが、"この男と会うのは3回目"だと"戦ってはいけない意識"と一緒に巡るのだ。


記憶は"この鳶色の男と会うのは通信器を貰ったのと、今を合わせて2回目の筈だと"と言っている。

(ダメだ、腹が減りすぎて、記憶と感覚がごちゃ混ぜになっちまう)


「クローバー君、空腹で頭が回らないかもしれませんが、それこそ頭を使わなくていい問題です」

まるで心を読まれたように、ネェツアークに言葉を挟まれた。


「デンファレさんを形容する言葉が、"美しい"以外にもある筈です。

そして、その言葉に当てはまる人が、国王陛下が求める女性(ひと)なんですよ」


「美人以外で、ディンファレさんを表す言葉、すか」

ルイとネェツアークが向かい合って話す中、一番に"言葉"に気がついたのは―――リリィだった。


リリィは思い付いた言葉に緑色の目を丸くして頬を紅くして、ディンファレを見てから、次に彼女以上に言葉が似合いそうな、アプリコットを眺めた。

少女の視線と頬の紅で、アプリコットは自分が"捲き込まれる事態"の察しがついてしまう。

そしてアプリコットの中にあった"狼狽えたりしない自信"は見事に打ち砕かれ、ついでに"絶対狼狽えたえないという根拠"も、見事に掻き消えていた。

ただ仮面をしていて、本当に良かったとアプリコットは考える。

その内側で真っ赤になっているのが、自分でも分かったから。


「―――えっと、じゃあ、アプリコットさまが」

リリィがそこまで言うと――ネェツアークからの視線に、気がついた。

鳶色の男はイタズラ好きな笑顔をリリィにむけて浮かべて、長い人指し指を口に当てて『内緒』の仕草を示す。


(あの女性騎士さんが、美人以外でいったら、"べらぼうに強い事"ぐらいしかないよなぁ)

ルイには、それぐらいしか思い付かない。


"パチンっ"

指が弾かれる音が、ルイの耳元でする。

まるで"ストップ"と呼び掛けるように、弾かれた指弾きの音だった。

そして鳴らした本人は、内緒と口に当てていた人指し指を降ろして、ニッと笑いながら口を開いた。


「はい、クローバー君。今感じた事を口に出してみてください」

「えっ、女性騎士さんが"べらぼうに強い"って事?」

ルイは思わず周囲を見ると、リリィは少し顔を紅くしながらも同調するように頷いた。

アルスはどうやらルイの言葉で解った様子で、"強い"という言葉を聞いた途端、リリィが気がついた時と同じように空色の瞳を丸くしていた。

 

「そうです、ダガー国王陛下は何よりも"強い"方が好きなんですよ。だから――」

ネェツアークはルイの前に屈んでいた姿勢から立ち上がり、少し離れた場所に佇む女性騎士を振り返って見た。


「一度はディンファレさんを"王妃候補"みたいな話もあったんですよ。

ね、ディンファレさん?」

ネェツアークにそう言われると、美しくて強い女性騎士は、躊躇いがちにではあるが頷いた。


(如何様にもと、賢者殿の"詭弁"に付き合う事を承諾はしたが、まさか先程の振り上げた拳の意味が、こんな風に使われるとはな)

ディンファレは―――呆れていた。


確かにあの場で"結婚すれば良い"と言われた事には、心底腹をたてていた。

だが、多分今からネェツアークが語るであろう、"結婚"の言葉の意味は、ディンファレの向かって言った"もの"と、子ども達に対する辻褄あわせの"もの"とは全くの別な物になってしまう。


(表現する言葉は"結婚"としか表せないのに、意味は全く別なものにされてしまうわけか)

そこでディンファレは、多少悩ましげに見える溜め息をついた。

この時、ディンファレからだされた溜め息は、ネェツアークの"強さと賢さ"に、まだ自分は及 ばない、これからも精進を続けて法王やをリリィを護れるように強くならなければ―――そんなものだったのだが。


"ディンファレが妃候補"という言葉を知った子ども達にしてみれば、ばっちりと

"騎士の仕事と、結婚の間で悩んでいるんですね"

と違う意味で受け止めてくれていた。

だが、ディンファレは子ども達の視線に未だに気が付かずに、少し考える。


(一部の貴族議員から勝手に進められた結婚話、真実ではあるけれど一般的には伏せられていた話。

賢者殿は一応"諜報員"である立場の人物だから、下世話な話も知っているわけか。

いや、陛下自身から聞いたかもしれない、一応"友人"でもあるわけだから。

―――ん?)


そこで、ディンファレはまた小さく息を吐いて―――漸く"子ども達からの視線"に気がついた。


アルスは少々複雑そうな顔で、リリィは可愛らしい顔を紅く染めディンファレとアプリコットを相変わらず見比べ、空腹であるルイですら興味津々に目を輝かせている。


(何かを力一杯に"誤解"されている)

ディンファレが動揺していると、子ども達には、後ろ姿し見せない状態の鳶目兎耳は、思いっきり笑いながら、ある方向を指差していた。

 

「ディンファレさんは、護衛騎士の仕事に、誇りをもっていらっしゃる。

それなのに、私が"そんな多忙な騎士の仕事などなさらず、楽で優雅な王の妃になっては如何ですか?"という不躾な言葉をかけられたのに、不興をかって拳を振るわれてしまった。

トラッド君、これで分かりましたか?」


ネェツアークのそんな事を言いながら、ディンファレにだけ見えるように引き続き長い指が、ある方向を指している。

指している先には、腕を組んで仮面をつけているアプリコットがいた。

ディンファレがアプリコットの方に視線を向けると、ディンファレを見ていたアルスやルイ、リリィもアプリコットに視線を向ける事となる。


「はっ、はあ」

次々と視線を移しながら、ネェツアークの"不興の話"を聞いてはいたが、アルスにとって"結婚を進める"という事が、悪い事には思えなかったので返事の切れが良くない。


(確かにネェツアークさんの言い方は、少し不躾だけれどもそんなに失礼になるのかな?)

そんなアルスの心の内は顔に如実に出ていて、ネェツアークが"ウサギの賢者の実直で素直な部下"に対しても、危惧していた事にも合致するものだった。


(これからの平和な御代 《みよ》には、言葉に気を付けないと、"丁寧に"突っかかってくる奴もいるからねぇ。

ちょっと、説明してあげないといけないかな?)

ネェツアークは顔には出さないが"上司"としての責任を考え、説明する機会を作るのに"協力"をして貰ったディンファレに、唇だけをゆっくりと動かした。


(あ り が と う)

ディンファレの顔に、少しだけまた朱が入る。

パチリとネェツアークが指を鳴らし、注目がそちらに集まった。


「ところで、私は異国の魔術を調べるのが仕事といいましたが―――実は、最近、もう1つ仕事を国王陛下から預かったんですよ」

アルスとルイは顔を見合せ、アプリコットは腕を組んだまま下を向き、ディンファレは何とか平静を装った。


「ネェツアークさま、もしかして―――強い女の子、王様のお嫁さんを探す事ですか?!」

一番最初に国王陛下(実は血の繋がった伯父さん)が、好きになるタイプ―――条件に気が付いたリリィが、元気よく声を出した。

 

「その通り、リリィさん。

国王陛下も、もう王としての仕事もしっかりこなされています。

しかし、王という立場から、王都を離れて動く事は出来ません。

なので、比較的自由に動ける私に出来れば"好きなタイプ"―――"強い方"とのご縁を捜して欲しい、と頼まれました」

ネェツアークはリリィに優しい笑顔で答る。


《"悪人面"の事はこれでドローにしときます》

と、テレパシーをアプリコットに送りつけながら。


アルス、ルイ、ディンファレが一斉にアプリコットの方に再び視線を向けるが、仮面の領主は俯いたままで微動だにしない。

殺伐とした雰囲気を仮面をつけた女性から感じるが、鳶色の男は"答え"が当たって喜ぶ少女との会話を優先させる。


「リリィさんはアプリコット殿がディンファレさん以上に強いと、いつ頃気がつかれたんですか?」

ネェツアークが、僅かに気になっていた事を、序でにといった様子でリリィに尋ねた。


「それは、"何となくとしか"言えません。

あ、魔獣のイノシシを倒す所を見たからも」

リリィは細い首を曲げて、思い出したように言う。


「そうですか、ありがとうございます。

成る程、確かお嬢さんは、昨晩夕食で頂いたイノシシを、アプリコットが倒された所を拝見されていたのですね。

それなら、ディンファレさんより強いと思われても仕方ないでしょう。

アプリコット殿は、領民の為に、懸命に領主の仕事をなさっているわけですね」

すっかり定着した"リリィ専用"の優しい笑顔浮かべて、ネェツアークは話を戻す事にする。


(本当の"お祖父ちゃん"の血がリリィには備わっているか、確かめたかったが、そこまで上手くはいかないか)

リリィに流れる"血"が、彼女を助ける物であって欲しいと願いながら、今度はアルスの為に言葉を紡ぐ。


「トラッド君は、こうやってアプリコット殿やディンファレさんのように、"仕事が大好きで誇りを持つ一生懸命な女性"をどう思いますか?」


「え?頑張っている事はとても素敵な事だと思いますけれど?」

アルスは実直な少年そのもので、真っ直ぐな返答をネェツアークした。


「では、そんな仕事に一生懸命な女性でも、誰もが羨む良縁の結婚を進められたのなら、喜び受け入れた方がよいと思いますか?」

ネェツアークは少しばかり裏がありそうな笑顔で、長い中指で少し下がった丸眼鏡をあげながら、少年に尋ねた。


「―――」

ここでアルスは黙って、俯いてしまう。

確かに"女性なら誰もが羨む良縁で結婚を進められたのなら、喜ぶもの"という考え方を確かに、アルス・トラッドは持っている。

ただ、それをそのまま肯定したら、自分の考え方の狭さが露見してしまうのも、ネェツアークの言葉のおかげで気付かされた。


(自分が気がつくように、"自分で気がつけるように"、あんな言い方をしてくれたんだな)

社会に出たばかりの、余り世間を知らない、何よりも家族を知らない17才少年からすれば"結婚をして家庭を持つ"というのは"夢"でもある。


それはとても魅力的な"夢"で、アルスもいつかは叶えたいとも思っている。

でも、それは"今"ではなかった。

やり甲斐のある、懸命にこなしている仕事の前に"夢"としてさしだされても―――アルスはその"夢"がとても魅力的には感じられないと、自分の身に置き換えて初めて気がつく。


「自分は結婚は良いものだと、考えています。

でも、それは強要をするものでも、そのタイミングも押し付けるように言うものではないん ですよね」

アルスが顔をあげながらゆっくりと言うと、鳶色の男はゆったりと笑う。


「―――トラッド君は、私より考えが柔軟ですね」

不意の誉め言葉に、アルスはまた言葉を止めたが、今度はネェツアークが続けて喋り続けた。


「トラッド君は、一度も"男だから""女だから"って言葉を使わなかった。

私がディンファレさんが拳を振り上げる程、不興を買ったのは、結婚の押し付けではなく"女なのだから結婚するべき"――そんな言い方だったせいかもしれません」

そしてその中にはやはり"義妹が得たくて仕方がなかった幸せを、ディンファレには掴んで欲しい"、ネェツアークのそんな気持ちが含まれていた。


「加えて、今はまだ男性は、法を犯さずどんな時でも仕事さえしっかりこなしていれば、余り世間に何も言われはない。

女性は働くならば、仕事をこなして家事も強いられるのが、主流になっていますからね。

ダガー陛下は、そういった面も出来れば一緒に考えてくれるような方が良いみたいです」

当たり障りのない事を言って、話を閉じようとした時―――リリィが口を開いた。


「私もいつか、結婚したいって思うのかなぁ」


リリィの少し憧れを含んだような"結婚"という言葉にネェツアークの動きが、ピタリと止まる。


それに気がついたのは、アルスとアプリコットとディンファレであった。

ルイは惚れ込んでいるリリィがそんな事を言うので、お嫁さんにしたい少女を見上げ、空腹ながら笑顔で胸をトンと叩いて口を開いた。


「オレだったら、リリィが働きたいなら働いてもいいし、そんときゃ、家事だって手伝うぜ。

こうみえても、オッサンから家事を―――っておわっ?!」

少年と少女の間に紅黒いコートの男が、ずいっと割り込む。

そしてネェツアークは、これ以上のルイの発言を遮るように、ヒョイと荷物のよう肩に抱え上げた。


「おいっ、こら、"えんもじ"のオッサン!?」

鳶目兎耳えんもくとじです」

丁度ネェツアークはリリィには背を向けて、ルイは腹這いに頭が見える方向で抱えられていた。

アルスから見えるネェツアークの顔は、えらくハッキリとした笑顔を浮かべている。


「ちょっと先程激しい行動為の検査と、年上に対して"悪人面"と言った事に対して、報復、指導してあげますよ~♪」

「今、ハッキリと報復って言ってから、指導とか言い直しただろっ?!」

ネェツアークの肩の上でガッチリとホールドされたルイがギャアギャアと、言うのを周りはあっけに取られて眺めている。

それからルイを抱えながらも軽くターンをして、リリィに優しいながらも少しだけ"圧"のある笑顔を浮かべた。

挿絵(By みてみん)


「リリィさんは、当分まだ暫く―――結構な間は"結婚"なんて、言葉すら考えなくていい事をだと思いますよ、ええ。

とりあえずは、お世話になっているらしいトラッド君の上司の賢者様にしっかりとっても、甘えて子どもをしていれば良いと、私は絶対思います」

「わっ、わかりました。賢者さまにも、お話を聞いてから考えます、ネェツアークさま」

"賢者さまにも、お話を聞いてから"という言葉に、紅黒いコートを着た男は物凄く良い笑顔を浮かべた。


「ええ、賢者様に是非聞いてください。―――それでは」

未だにギャアギャアと騒ぐ、ルイを抱えてネェツアークは振り返らずに中庭の扉の方に向かって行ってしまった。


"大人気ない"

ディンファレ、アルス―――そして勝手に妃候補にされてしまったアプリコットすら、そう感じていた。

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