鍋将軍と私
白菜、にんじん、しいたけ、春雨、白ネギ、大根、春菊、豆腐、今日は鶏肉が安いから鶏団子でも作ろうかな?
紅葉の季節を通り越し一気に冬がやってきた。
冬といえば鍋の季節。
この冬初めての鍋は、私の大好きな水炊き風野菜鍋。
秋の縁日でくじを引いて当たった縁起の良い土鍋を使う時がついにやってきたのだ。
ちゃぶ台の上にコンロと土鍋をセットして、グツグツという野菜の煮える美味しそうな音にお腹の虫も準備万端とばかりに鳴り響く。
土鍋の蓋に開いている小さな穴から湯気が立つと、さあ出来上がりだ。
私はいそいそと座布団に正座すると、勢いよく手を合わせた。
「いただきます!!」
鍋つかみがないので台拭きを代用して蓋を開け、湯気の向こうのいい具合に煮えた野菜や鳥団子に目を輝かせた瞬間…。
「えっ?」
土鍋の淵が微妙に光っている。
何の変哲もない普通の土鍋だとばかり思っていたが、LEDでも内蔵されたハイテク土鍋だったのだろうか。
土鍋をよく見ようと顔を近付けると、ゆらゆらと上がっていた湯気が勢いを増し、淵がさらに輝き出した。
「あっつい!! 何これ…何なのよっ!!」
私の鼻先を熱い蒸気が掠めたかと思うと淵の光がみるみる広がっていき、何やら奇妙な模様を作り出していく。
鍋の蓋を掴んだままその様子を茫然と見ていると、その光の模様が何かを形作り始めた。
私の対面、土鍋を置いたちゃぶ台の向こう側にだんだんとそれが現れる。
人が寝転んでいるようにも見えるそれを覆っていた光の模様が薄くなり消え始めると、私は思わず「げっ!!」と声をあげてしまった。
「げっ!!」とはかなり控えめなものであり、本当ならば「きゃあぁぁぁぁ!!」や「うわぁぁぁぁ!!」と叫ぶ方が相応しい状況であったが、私の口から出たのは「げっ!!」であるのでしょうがない。
光の模様がすっかり消え去った後に残されたそれは紛れもなく人の形をしている。
恐る恐る見てみると、それは何故かびしょびしょに濡れていて、そして血塗れな人間であった。
「う…」
「ひゃあっ!!」
血塗れの人間が呻き声をあげてちゃぶ台にすがりつこうとしている。
血液の所為でぬらぬらと光った手がガシッとちゃぶ台の上に置かれるが、力尽きたのかそのままズルズルと血糊を残しながらちゃぶ台の向こうに消えていく。
生きてる?
それとも死んじゃった?
やばいじゃないの、何なのよ!!
「だ、大丈夫ですか…ってそうじゃなくて何なのよっ!! ちょっと返事をしなさいよ、ねえっ!! 」
誰? 何? 死んじゃった? 死体? これ死体なの? 殺人事件? 私が第一発見者?
警察、救急車、やっぱり警察、警察…110番しなきゃ、私は犯人じゃないって信じてもらえるかな…って私のスマホは?!
ちゃぶ台の上に置いてた筈のスマホはそこにはなく、あるのはベトベトの血糊の跡。
では何処へいってしまったというのか。
なんで、あんたが持ってんのよ!!
倒れた血塗れの人の手に再起不能なほどに血で汚れたスマホが握られていた。
しかしこの家には、使えたとしても使いたくはない状態のスマホ以外に電話はない。
意を決してそろそろと近寄った私は、この人間がまだ生きていて小さく息をしていることに気が付いた。
「ちょっとあんた、それ…私のスマホを離しなさいよ」
「…あ、み…み、ず」
アミミズって何だろう?
じゃなくて、スマホよスマホ。
思いっきり手を伸ばしたら届くくらいの距離を保ち屈み込んで様子を伺うと、この人間が実は欧米人風の男であることが新たに判明した。
「み、水を…」
今度ははっきりと聞こえた声に私は焦る。
この男は水を欲しがっているらしいが水といってもこの状態では死に水になってしまうかもしれないし、それは勘弁願いたい。
しかし、警察や救急車を呼ぼうにもスマホは男の手の中にあり血塗れだ。
もうどうすればいいの…水? 水があれば助かるわけ?
「水を」と言い続ける男に多少パニックになっていた私はとりあえずご所望している水を飲ませれば何とかなるのではと閃いた。
まったく根拠はなかったが、もうそれしかないと本気で考えた私はキッチンに走りグラスを掴む。
とりあえずこれでいいよね。
水道水ではあんまりだと思い冷蔵庫からミネラルウォーターを出しグラスにつぐと、零さないように両手で持った。
そして男は依然倒れたままなのでこのままでは飲むことすらできないことに気が付きキッチンをキョロキョロと見回す。
どうしよう…。
と、目の端にコンビニでもらってきたストローが見えた。
これならいけるということでグラスにストローを差して慌てて男の元に戻ると、男はまだ生きていているようで荒い息をしている。
私は恐る恐る血まみれの男に近づき、口元にストローを差し出して声をかけた。
「とりあえずこれで飲んで」
「うぅ…」
男は呻きながらそのストローを口に咥えようとして微かに口を開ける。
その隙間にストローを押し込んだ私は男の口元に意識を集中させた。
「ゆっくり、ゆっくりね」
弱々しく水を吸い上げた男の口に水が含まれたのかコクンと喉仏が上下する。
よし、一口飲んだ!!
たった一口だったが確かに男は水を飲んだ。
そのことが嬉しくなり、もう一口だけでも飲まないかなと男を見つめ続けた。
するとどうしたことか、男の体が淡い光に包まれたではないか。
「またこれ? 何でいちいち光るのよーっ?!」
何が何だか分からないが巻き込まれては大変だと思い後ずさる。
その間にも男の体を包む光は強くなり、ついには部屋中に広がった。
眩しい!!
あまりの強烈な光に目を閉じた私は部屋の壁にぶつかり尻餅をつく。
あいつ一体何なのよっ!!
生まれて初めて体験する超常現象にどうすることもできない。
やがて光がおさまり、部屋の中が元の明るさに戻ると私はゆっくり目を開けた。
あいつがいなくなっていますように。
しかしその願いもむなしく、男はまだそこにいた。
しかも瀕死だったはずなのに何故か体を起こしている。
ひえぇ…これってピンチじゃん。
男の目が壁際にへたり込んだ私を見つけると、もう生きた心地はしなかった。
男はしばらく見つめ、そして何故か居住まいを正して頭を垂れる。
「高名な医術師とお見受けする。命を助けていただきありがとうございます」
命を助けたつもりはないんだけど…。
その意味がわからず意外に礼儀正しい男を見ると体から傷が消え失せ、流れ出ていた血液も跡形すらない。
「あんた誰よ、私はそんなのじゃないわ」
目の前で起こった奇跡を信じることができず、私は偶然手に取った土鍋の蓋を構えた。
男はまるでファンタジーの世界から出てきたような服装をしており、血塗れだったはずのそれは綺麗な国防色になっていてまるで軍人のようだ。
血糊の取れた髪は鬣のように無造作な赤茶色でこちらを見てみる目は琥珀色をしている。
しかも体格がいいのでかなり恐い。
「あんたいきなり何処から入ってきたのよ…家には金目の物なんて何もないわ」
強盗にしては斬新な遣り口である。
するとその言葉を理解したのか男はあわてて弁明した。
「私は物取りなんかじゃありません!!どうやら敵兵の転移攻撃を食らって飛ばされてしまったようなのです」
なにそのファンタジー…。
しかし、男が腰につけている見たこともないような大剣や微妙に光っている装飾品などは未だかつて見たことがないものばかりだ。
コスプレイヤー強盗にしては確かにおかしいことだらけだった。
「じゃあなに、どっかで戦争でもやってたってわけ?」
私の皮肉を込めた言葉にまさか男が頷くと信じられないようなことを話してくれた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。私はハルヴァスト帝国の軍人でヴォルフガング・ブライトクロイツと申します。帝国海軍の将軍として、自国領の海域に出没する海賊の討伐に向かったのですがまんまと奇襲をかけられまして…この体たらくでございます。何処に飛ばされたのかわかりませんが、貴女の元でよかった…ありがとうございます、医術師様」
ハルなんとか帝国とか聞いたこともないわ。
しかも私は医術師とかじゃないってば。
そもそも将軍などという役職にこんなに若そうな男がなれるわけがない。
「あんたが将軍?将軍って前線に出るものなの?」
疑念に満ちた私の声音にヴォルフガングと名乗った自称将軍は項垂れた。
「恥ずかしながら私は試験の成績だけで受かったような名ばかりの将軍なのです」
ハルなんとか帝国の軍人も御多分に洩れずしょうもない試験で昇任するらしい。
ああ、あれか。
頭でっかちの実力を伴わないタイプなわけね。
「それでもあんたは将軍なんでしょう?一番先に戦線離脱してどうするのよ…残った部下たちが可哀相だわ」
「面目ない…しかし私の副官は叩き上げの優秀な軍人ですので多分心配はいりません」
「で」
「は?」
「あんたはそれで悔しくないわけ?」
私のこの一言はヴォルフガングにとっても痛いところを突いてしまったようで、彼は大きな体を縮こまらせた。
「正直悔しいですよ…ですが経験もないこんな若造では歴戦の猛者たちに立ち向かうなんて到底無理なことなんです」
容貌の割には意外に小心者なヴォルフガングに私は溜め息すら出なかった。
「まあいいわ。とりあえずそれ返してよ」
私は未だに握られているスマホを指差すと、
ヴォルフガングはワタワタとしながらスマホをお手玉し、終いには床に落としてしまった。
「ちょっと、何するのよ!!」
「すみません!」
ヴォルフガングより先にスマホを拾おうとしゃがんだ私はスマホが綺麗になっていて、ちゃぶ台や床に付着した筈の血が一切痕跡を残していないことに驚いた。
幻を見たわけではなく本当に本物の超常現象だと脳が理解するとヴォルフガングのつま先から頭に目を這わす。
「ねえあんた、血だらけだった割には元気よね」
「ええ、貴女が飲ませてくれた薬湯のお陰ですっかり傷が癒えました。浄化の魔法術までかけていただき恐縮です」
「あれ水よ?」
「はい…えっ、水?」
「だってあんたが水って言ったから、水を飲ませただけなんだけど…」
まだ水が入ったままの状態のグラスを指差すとヴォルフガングがそのグラスに口をつける。
「…ね?」
「いえ、これは…ソーマ? ソーマですよね?!」
急に興奮し始めたヴォルフガングに私は何がなんだかわからない。
ソーマって化粧品か?
それとも神話の話?
目をキラキラと輝かせるヴォルフガングの前には蓋を開けっ放しにした土鍋が置いてある。
ちょっと煮え過ぎているがまだ美味しそうな湯気をあげていたので、どうしようかと考えた。
「ソーマか何か知らないけど、それあげるから帰って頂戴よ」
はやいとこ追い出して今日のことは忘れよう。
これは事故だ。
幸いヴォルフガングには悪意はないみたいなのでさっさと帰ってもらえばいい。
「あの、その…どのようにして帰っていいのか…すみません、お手数ですが帰していただけますか?」
「はあっ?」
何ですって?
あんたが勝手に来たんじゃないの?
優秀な副官にでも頼みなさいよ…。
え? 敵兵から転移攻撃を受けた際に道標を落とした?
しかも違う世界に来たみたいで帰る術がない…ですって?!
あんた本当に使えないわね!!
私にもわかるわけないじゃないの!!
…ということもあり私とヴォルフガングは今、仲良く鍋をつついている。
そもそもこっちはこの不思議な土鍋が光ったことが発端で、それを調べたら何かわかるのではないかと思った私は鍋を調べようにも中身が邪魔なことに思い至った。
それならばと手っ取り早く食べることにし、ついでにヴォルフガングにも手伝ってもらおうと考えたのだ。
ヴォルフガングは膝丈の編上靴を履いていたのできちんと脱がせて紙袋の中に入れさせる。
玄関に置こうとしたが、どうしても部屋から靴を出すことができなかったので苦肉の策だ。
まるで見えない壁があるかのようにヴォルフガングと彼の持ち物は部屋から出ることができない。
つまり追い出せないということになる。
本日三回目の超常現象に驚く気力すら失くした私は、仕方なく彼を鍋に誘ったというわけだ。
正座を知らない彼に胡座をかいてもらい、箸の代わりにフォークを持たせていざ出陣。
ひよこ柄の器に鳥団子や野菜を入れてポン酢をかけてやると彼はその匂いをクンクンと嗅いだ。
「毒なんて入ってないよ。心配なら私が食べるところを見てからにすればいいわ」
はふはふといわせながら鳥団子を食べる私にヴォルフガングがフォークに刺した鳥団子を少し齧る。
そして彼は鍋の虜になった。
「この白い『とーふ』はこのタレによく合いますね」
豆腐はフォークでは食べにくいのでスプーンを持たせてやると、私と同じようにはふはふいわせながらにっこり笑った。
ちなみに彼の言う『タレ』とはポン酢のことである。
「口に合ってよかったわ。あんたのところには鍋物はないの?」
「東の大陸の少数民族が似たような鍋を使っているようですが、ハルヴァスト帝国にはありませんね」
今度は春雨をフォークに巻いて食べている。
ヴォルフガングは箸を使う私を見て器用ですねと言ったが、私にしてみれば彼の方が器用に見える。
春雨をパスタのようにフォークに巻いて食べる奴など私は彼以外に見たことがない。
ヴォルフガングはなんでも食べた。
白菜、にんじん、しいたけ、果ては白ネギや春菊まで美味しそうに咀嚼する姿に私は感心してしまう。
「野菜好きなの? 男の人にしては珍しいわね」
「もちろん肉も好きですが、こちらの野菜は甘くて美味しいのです。向こうの野菜は青臭くて大雑把で…本当は苦手なんですよ?」
「私たちは食にうるさい民族なのよ。お陰でたくさん美味しい物が食べられるから痩せるのが大変なの」
ヴォルフガングは机上の将軍であるが、軍人なだけあって無駄に筋肉質なようだ。
これだけの体を維持するには相当な食糧が必要だろう。
最後の一個になった鳥団子を口に入れたヴォルフガングに私は久しぶりに楽しい食卓だったと思った。
得体の知れない人物ではあるが、これほどまでに料理を美味しそうに食べる人はそうそういない。
「さあ、後は締めの雑炊よ」
私は残った野菜をヴォルフガングの器に取り分け、だし汁だけになった土鍋の中にご飯を投入して火をつける。
「これが美味しいのよね〜。あんたまだ入るでしょ?」
「ええ、あと少しなら」
ヴォルフガングの為にご飯を多めにして、沸騰して来たところで醤油を足す。
さらに小葱の微塵切りを散らし、溶き卵をまんべんなく回しかけるとヴォルフガングの顔が期待に満ちたものになった。
「色んな野菜や肉の栄養が入ってるから美味しいのよ」
「鍋物とは素晴らしい料理ですね…帝国にもあればいいのに」
ここで卵にふわふわ感を持たせる為に土鍋に蓋をした。
「これを食べなきゃごちそうさまは言えないわ」
ブゥゥィン
土鍋の淵と蓋の間が微かに光る。
ヴォルフガングが来た時とは逆に、何処からともなく現れた光の模様を土鍋の中に吸い込むようにして消えてしまった光に、私は彼の方を見て固まった。
ヴォルフガングがいない。
「え? 嘘でしょ…ねえちょっと、ヴォルフガングさん?」
部屋の中には私しかいない。
ヴォルフガングのいた場所に残された座布団はまだ温かく、彼が今の今までそこにいたことを示唆している。
そして紙袋に入ったままの編上靴。
部屋の片隅に取り残されたそれは、確かに彼が履いていたものだ。
土鍋の蓋に開いた小さな穴からは湯気が立っていて雑炊が食べごろであることを知らせているが、そんなことよりヴォルフガングの行方が気になった。
「帰っちゃた?」
彼が無事に帰ったのであればそれに越したことはないが…。
「雑炊…二人分も誰が食べるのよ」
呆気なく去ったヴォルフガングに何故か気落ちしてしまった私は、ぐつぐつと音をたてる土鍋に恨めしい視線を向けた。
キャベツ、ニラ、ゴボウ、もやし、ニンニクに主役のモツ、そして締めのチャンポン玉。
毎週末に食べる鍋物、本日はもつ鍋!!
ヴォルフガングとの奇妙なやり取りから一週間。
あれから彼には会っていない。
あの時突然消えたまま、袋に入った編上靴も部屋に置いたままだ。
何故なら編上靴を部屋から出すことができないから。
超常現象は未だ続いており、このことが私を悩ませる。
あの情けない将軍は戦場に戻れたのだろうか。
何処か拗ねた感じのみてくれだけ歴戦の猛者は無事に海賊を討伐できたのだろうか。
また怪我してなければいいんだけど…。
ちゃぶ台の上の土鍋からもつ鍋の匂いが漏れてくる。
小さな穴から湯気が立ち、部屋いっぱいにニンニクの匂いが広がった。
「もつ鍋も食べさせてみたかったな」
少し癖はあるが、外部の人間に食べさせると中々好評な鍋物だ。
「よし、いただきます」
手を合わせた私はいそいそと土鍋の蓋を開ける。
いい具合にしなったキャベツが鮮やかな黄緑色になっていて、とても美味しそうだ。
そして、またもや土鍋の淵に光が灯った。
「嘘、またこれ?」
あの時と同じように土鍋の淵が光輝き、またもや光の模様が部屋に広がっていく。
そしてその模様が収縮し、一人の人物を形どっていった。
今日は寝転んでもいない、立ったままの状態だ。
私はその姿にドキドキと胸を鳴らすと光がおさまるのを待つ。
「高名な医術師様は魔法術師様であられましたか…どうやら私は貴女に呼ばれて来たようですね」
赤茶色の鬣のような髪を束ね、相変わらず軍服を着たヴォルフガングがそこに立っていた。
今度はびしょびしょでもなければ血塗れでもない。
「お怪我はありませんか、ヴォルフガング・ブライトクロイツ将軍?」
「ヴォルフとお呼びください、命の恩人よ」
「リナよ。私はリナ・ヨソハラ。今日も鍋物だけど、食べていかない?」
「ええ、喜んで」
不思議な土鍋がもたらした縁はまだまだ続きそうな予感。
これから毎週末、私とヴォルフは鍋物を囲む仲になるのだけれど、そんな私たちがとんでもないことに巻き込まれてしまうのはもう少し先の話。