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甘い嘘
作:木立久美子


 いつも。
「大好きだよ」
 そうやって、壊れた人形みたいに繰り返す。
「本当に好きだ。世界で一番、君が好きだよ」
 ああ、なんて、ずるいひと。
 彼はきっと、逃げようとしていたんだと思う。
 絡みつくような私の視線から。
 そして、それに応えられない自分自身の思いから。
「ありがとう。私も、大好き」
 壊れていたのは私も同じ。彼と同じように、笑顔で「大好き」を繰り返す。
 彼が必死で隠そうとしている全てを、私は不本意ながら、全て理解してしまった。
 私じゃない、他の誰かを見ている。
 叶わない恋だということは、最初から解っていたのだ。
「大好きだよ」
 そう言って抱きしめながら、いつだって彼は私の顔を見なかったから。

 でも私は。
 出逢ったときから、彼のことが好きだった。
 無邪気で明るくて、友達の中でも人気者で、こちらが恥ずかしくなってしまうようなセリフを何の躊躇いもなく口にした。彼のその屈託のなさが、私にはどうしようもなく魅力的に見えたのだ。
「…だめ」
 駄目。
 駄目。
 絶対にこれ以上進んでは駄目。
 彼を好きになっては、駄目。
「彼は私のものにはならない」
 そんなふうに、漠然と予感はしていた。最後は泣いてしまうことになるだろう、と。
 でも私は気づかないふりをした。
 気づいたところで、今さら後戻りなど出来なかったのだ。

「ねぇ。このまえ見たいって言ってた映画、これのこと?」
「わっ、すごい。どうしたの? そのチケット」
「試写会に当たったんだ。一緒に行かない?」
「もち!」
 ありがとう。そう言いながら私を見る、彼の目が好きだった。とても優しく細められて、まるで、ふわっと降りてくる羽根のようにやわらかで。
 どっかのロマンチストじゃあるまいし、そんなことは絶対に口にはしなかったけれど。
 でも、いつも思った。
 この笑顔が、私だけのものだったなら。
 彼が友達と談笑しているだけで、私は気になって仕方がない。いつもいつも、彼は何の惜しみもなく、その至宝の笑顔を振りまいていた。
 ああ、なんて妬ましい。あの笑顔は私だけのものなのに。
 そんなふうに思いながら、いつも彼を目で追っていた。
 誰にも渡したくない。
 彼の男友達にですら嫉妬した。ましてや、他の女になんて。考えただけで気が狂う。
 だから。
「あなたが好きよ」
 初めて、2人きりで見に行った映画。
 その帰り道、私は彼に無理矢理キスをした。
 誰かに取られるぐらいなら。
 たとえ、このまま彼を失うことになったとしても、自分の気持ちを相手にぶつけてしまいたかった。
 膨れあがった思いは、自分自身ですら制御できないほど大きくて。その存在感を、私は無視することすら出来なくなっていたのだ。
 彼が好きで。
 どうしようもなく、彼が好きで。
「大好きなの」
 もう一度、繰り返す。
 届きますように、と。
 ありったけの願いを込めて。
「…ありがとう」
 彼は、静かに微笑んだ。
 その顔が何だか寂しそうに見えたけれど、確かめることは出来なかった。
 次の瞬間、私は彼の腕の中にいたのだから。
「僕も、大好きだよ」
 それが、彼が初めて私に吐いた甘い嘘。
 逃れられるはずもなかった。

 彼が好きで。
 どうしようもなく彼が好きで。
 この思いがどこへ向かうかなんて、考えたくもなかった。
 彼だけだ。
 この思いをぶつけられるのは、彼だけだ。
 私は、彼だけを見ていればいい。
「信じよう。きっと何もかも上手くいく」
 そんなふうに自分を誤魔化した。
 彼と出逢えた幸運に感謝して、たとえその一時だけでも、彼の笑顔を独占できる喜びに浸った。
 デートをして、キスをして、そんな当たり前の付き合いの中、徐々に麻痺していく感覚を切り捨てて。
 信じたくない現実から目をそらし続けて、必死で気づかないふりをして。
 「ずっと一緒にいようね」と、子どもみたいに彼にまとわりついたりもした。
 やめられなかった。
 彼を私だけのものにしたかった。
 いつか終わりが来ることを知っていながら。

「…とんだピエロだわ」
 彼が他の女と一緒にいるのを見たのは、付き合い始めて半年経った、秋の終わり。
 薄々、感づいてはいた。
 そろそろ、自分が特別じゃないって事を認めた方がいいな、と。
 かといって、それを自分自身に言い聞かせるのは、口にするほど容易なことではなかったけれど。
「あなたも、私も、とんだピエロだわ」
 ある意味では、彼も私と同類だった。
 彼が好きなのは、私の親友で。でも親友には、別の恋人がいて。
 何て言うんだっけ、こういうの。…四角関係?
 ああ、ばかみたい。
 どっかの三流ドラマみたいな筋書きだ。
「よくも私に嘘をついて」
 呆れるようなセリフが自分の口からこぼれ落ちた。
 何を言っているんだろう、私は。
 彼の嘘なんて、最初から見抜いていたではないか。
 哀しい嘘だと解っていながら、それでも信じるふりを続けていたのは、私自身の意思だというのに。
 なぜ、こんなにも彼を責めているのだろう、私は。
 頭の奧で警鐘が鳴った。やめろ、やめろ、引き返せ。今ならまだ、傷も浅くてすむから、と。
 けれど、私の中に蓄積された激情は、一度流れ出すともう止まらなかった。
 彼を罵りながら、自分自身が切り刻まれていくような感覚が、生々しく襲いかかる。
 ああ、ばかだ、私は。
 もう止まらない。
 もう戻れない。
「ねえ。はっきりしてよ。私の事なんて、最初から好きじゃなかったんでしょう」
 彼は何も言わない。
「好きと言ったのも、同情だったんでしょう」
 誰か。誰か止めて。もういいと言って。
「ねえ、私が気づかないとでも思ってたの」
 私を止めて。溢れ出すこの言葉を、誰か、誰でもいいから遮って。
「私を通して、誰を見てたの」
 どうして彼は何も言わないのだろう。何を思っているのだろう。
「私を抱きしめて、愛しているようなふりをして」
 ああ。どうして。どうして。
「心の中では一体誰のことを思っていたの」
 私は、もう。
「私が気づいていないなんて、本気で思ってたの?」
 私はもう、傷つきたくなどなかったのに!
 
 その叫びは声にならなかった。あふれる言葉は涙にかわり、私は崩れ落ちるように膝をつく。
 ああ、どうして、どうして。
 どうして、途中で引き返さなかったのだろう。
 こんな思いをするために、彼と出逢ったんじゃないのに。
 どんな関係でも良いから、傍にいたかっただけなのに。
 私はいつからこんなにわがままになったのだろう。
 友達のままでいれば、もしかしたら、彼を失わずに済んだかも知れないのに。
 どうして。

「…大好きだったよ」

 ひどく優しい声。
「ごめんね、本当に好きだった」
 また、甘い嘘。甘いだけの悲しい嘘。言いながら、彼は私の背にそっと手を置いた。
 その腕を乱暴に掴み、私は彼にしがみつく。
 行かないで。行かないで。
 私を愛さなくてもいいから、どんなに傷つけても構わないから。
 どうか、お願いだから、行かないで。
「…っ…」
 彼にまとわりつく腕に、ギュッと力を込めた。
 涙がこぼれる。止まらない。
 一生、泣き続けてやろうかと思った。
「大好きだったよ」
 ああ、本当にずるい、なんて甘い嘘。
 信じられたらどんなに良いだろう。
 けれど私は、その言葉を簡単に信じられるほど純粋な心を、持ち合わせてなどいなかった。

「‥‥‥お願い」

 どうして私じゃ駄目なの。
 どうしてあの子なの。
 あの子は、あなたのことを好きじゃないのよ。
 あなたを好きなのは、あの子じゃなくて私なのよ。
 なのにどうして、あの子を選ぶの。
「行かないで」
 立ち上がれないのを彼のせいにして、私はいつまでも泣き続けた。手で顔を覆い、袖にうずめて、決して彼の顔を見なかった。
 どんなに泣いても駄目なものは駄目なんだと、頭では理解していたけれど。
 ひとりで立ち上がって歩き出すには、傷跡が深すぎた。
「大好きなの」

 私の腕の中にあるぬくもりは、もう、私だけのものではなくなっていたというのに。














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