【36話】 揺れる感情 溢れる想い
夕方・・・。
病室のソファでコーヒーを飲みながら、隣りに座るお嬢様に声をかけた。
「あの、お嬢様・・・」
「ん?なぁに?早瀬。」
おいしそうにコーヒーをすすりながら俺を見上げたお嬢様。
「その・・・、やはりお帰りになった方がよろしいのではありませんか?どう考えても、完璧にかくまうのは不可能です。それに、お夕食は外食で済ませたとしても、お風呂はどうするんです?ここじゃ入れませんよ?」
コーヒーカップを手に持ったまま告げた俺に、お嬢様がハッと口に手を当てた。
「やだ、お風呂のことなんてすっかり忘れてた!!早瀬ってば、いいこと言ってくれた。ん〜〜、こんな暑いのにお風呂入れないのは、さすがに困る。どうしよ〜〜〜〜」
「ですから、今日はお屋敷にお戻りになられた方が・・・」
ぼそっと突っ込んでみたものの、お嬢様は聞く耳を持たず・・・ひとり『う〜んう〜ん』と頭を悩ませていた。
あはは・・・、無視ですか・・・。
「あっ!!!じゃあ、私、今からお屋敷戻ってお風呂に入ってくる!!で、すぐ戻って来るね。それなら大丈夫でしょ??我ながらいいこと考えついちゃった。へへっ。じゃあ、早速帰らなくっちゃ。あ、お夕食はうちからおいしいの持って来るから、早瀬、病院食食べちゃダメだよ!ね??じゃ、また来るから!」
そう言って突然ソファを立ったお嬢様は、俺に飲みかけのコーヒーを預け・・・鞄を持って病室を駆け出して行ってしまった。
「あ、お、お嬢様!・・・」
慌てて呼び止めた声も虚しく、既にお嬢様の姿は消えていた。
うっ、もういない・・。
はぁ〜・・・。『風呂に入ってまた来る』・・・って。
俺は、かくまうのは無理だから帰れって言ったのに。
それは完全無視・・・と言うか、頭に無いんだな。
しかも、コーヒー飲みさしだし・・・。
その上、競走馬の如く前だけ見て走り去って行ったし・・・。
ひとりポツンと病室に残された俺は、開きっぱなしのドアを見つめながら、妙におかしくて笑ってしまった
「はははっ。お嬢様って、やっぱめちゃめちゃ可愛くておもしろい。」
開きっぱなしのドアを閉めた後、ベッドに腰掛け・・・手に持ったお嬢様の飲みさしのマグカップへ視線を落とした。
「飲んでも・・・いい・・・よな。」
まるで誰かに確認するかのようにぼそっと独り言を呟いてから、それを恐る恐る口に運んだ。
彼女の唇が触れた場所に自分のを当てた瞬間、一気に胸がドキドキして顔が熱くなってしまった。
俺、やばすぎ。
間接キスだけで『男』になりかけてる・・・。
こんなんで一晩、『耐える』のは・・・絶対無理。
俺だって普通に健康な成人男子なんだ。
指咥えてお嬢様の寝顔を一晩眺めてるなんてこと、出来ない。
お嬢様の飲みさしのコーヒーを、一口こくんと飲んでからオーバーテーブルに置き、深いため息を吐いた。
どうしよう・・・。このままお嬢様がお泊りなんかしたら、俺はきっと彼女を汚してしまう。
そんなこと、出来ない。泣かせたくないし、嫌われたくない。
一緒にいたいけど・・・いたいけど・・・。
ひとしきり悩んだ末・・・枕元に置いてあったケータイを手に取った。
「よし、悠斗に電話しよう。うん。そうしよう。お嬢様と二人でお泊りなんか出来ない。」
大きく一度深呼吸をし、ケータイを握り締めた俺は、悠斗へ電話を入れた。
「もしもし・・・悠斗様ですか?早瀬です。」
―「おっ、早瀬。ちょうど良かった、明日行こうかと思ってるんだが、何かいるものはあるか?食いたいものとかあったら持って行くぞ?」―
ご機嫌な声で電話に出るなり悠斗が話を振った。
「あ、そうなんですか?いえ、今のところ別に欲しいものはありません。お気遣い感謝致します。お電話しましたのは、その件では無く、別件なんです。」
―「別件??何だ?」―
「はぁ、・・・お嬢様のことなんです。」
少し間を置いてぼそっと答えると、悠斗は『月華のこと?』と不思議そうに聞き返した。
「はい。今日、お嬢様がお見舞いに来てくださいまして・・・」
途中まで言ったところで、悠斗が遮り口を挟んだ。
―「ちょ、ちょっと待て!今何て言った!?月華がお前の見舞いに行ったってのか??何で?俺は早瀬が入院してるなんて、あいつに一言も言ってないぞ!」―
尾行されてたことをちっとも知らない悠斗は、凄まじく驚いた声で言った。
ははは・・・。未だに気付いてないのか。
「悠斗様、実はお嬢様は悠斗様を尾行なさったそうです。それで、私の入院のことも骨折のこともお知りになったそうで。」
苦笑まじりに答えた俺に被さるように、悠斗が『はぁ?????』と声をあげた。
ま、無理も無いな。
「それは、また明日にでも詳しく話します。今はその話では無く、私のお願いを聞いていただきたいのです。」
―「お願い?」―
オウム返しのように聞き返した悠斗に『はい。』と即答し、そのまま言葉を繋げた。
「お嬢様がお屋敷に戻られたら、何か理由をつけて・・・お屋敷から出さないようにしていただけませんか?」
―「へ?」―
前説明も何も無い突然の訳の分からない俺の言葉に、間の抜けた声を出した悠斗。
「とにかくお願いします。お嬢様をお屋敷から出さないで下さい。」
もう一度お願いすると、悠斗は電話の向こうで『お願いの意味』を考えているようだった。
頼む。何も聞かずに『うん』と言ってくれ。
お前しか、こんなこと頼める相手いないんだ。
―「・・・分かったよ。とりあえず引き止めればいいんだな?」―
自分なりに解釈したのか、悠斗が間を置いて了承し・・・尋ね返した。
「はい。よろしくお願いします。突然すみません、無理なお願いをしてしまって。それでは失礼致します。」
―「おぅ、じゃあまた明日。」―
悠斗との電話を切ってから、深い安堵の息を吐いた。
ふぅ〜・・・。
これで、今夜は安泰だな。
一緒にいられないのはすごく寂しいけど、今のままだと『男』になってお嬢様を襲いかねない。
俺のせいで、彼女を泣かせたくない。その為には、これで良かったんだ。
ケータイをパジャマのポケットにしまい込み、そのままパタンとベッドに倒れ込んだ。
「お嬢様・・・すみません。やっぱり早瀬には、一晩お嬢様とお部屋を共にするなど出来ません。貴女を・・・穢してしまいそうで・・・。」
独り言を呟いて間も無く、緊張の糸が切れた俺は・・・深い眠りに落ちてしまった。
目を覚ますといつの間にか部屋には明かりがついていた。
窓の外へ視線を移すと、既に真っ暗。
だいぶ寝てたのか・・・俺。
もそもそと起きて目をこすって見えたのは、床頭台に置かれた病院の夕食。
だが、それはすっかり冷めきっていた。
「あっためなおして食うか。」
湯沸し室にあるレンジへ行こうと、片手に膳・・・もう片手に松葉杖をついてドアへ向かい、開けようと手を伸ばした瞬間・・・それは勝手に開かれた。
え?
「ただいま、早瀬〜。あ〜〜〜!!病院食は食べちゃダメだって言ったのに!もしかして食べちゃったの!?」
入って来るなり、俺を見て叫んだのはお嬢様。
ぎゃっ!
な、何で、お嬢様がここに。
悠斗に引き止めろって言ったはずなのに。
「お、お嬢様・・・どうして・・・」
状況が理解出来ずに膳を持ったまま突っ立っていると、お嬢様がちらりと膳を覗き込んだ。
「あ、良かった。まだ食べてないのね?これは、食べちゃダメ。こっちを食べましょ。ほらほら、ソファに移動して。早瀬。」
そう言って俺から膳を取り上げたお嬢様は、俺を回れ右させて背中をポンと軽く押し・・・ソファへ行くよう促した。
「え?あ、お、お嬢さ・・・」
「早くソファに座って。すぐに用意するから。」
言葉を挟もうにも、その隙さえ与えてくれないお嬢様は、持ってきたバスケットをテーブルの上で開けて何やらパタパタ忙しそう。
そんなお嬢様をただ呆然と見つめていたところに、もう一つの声が聞こえた。
「よぉ、早瀬。」
へ?
慌てて振り向いた先には、ドアにもたれて俺に手を振る悠斗の姿。
「ゆ、悠斗様!!」
悠斗の姿を見た瞬間、慌てて彼の腕を掴み病室の外へと連れ出した。
「悠斗様!!これはどういうことですか!?私は、貴方に『お嬢様をお屋敷から出さないで欲しい』とお願い申し上げたはずですよ!?」
病室から少し離れた場所で悠斗に叫ぶと、苦笑いをされた。
「すまん。あいつの押しに負けた。」
押しに負けたって・・・。
「どうして、もっと強引に引き止めて下さらなかったんですか!」
これじゃ安泰どころか、その逆じゃないか。
う〜〜〜〜、悠斗のボケ〜〜〜。
見つからないようにかくまうなんて、俺には出来ないぞ。
それより何より、俺自身、とうにお嬢様への欲情がマックス超えてるんだ。
こんな状態で、一晩お嬢様と二人っきりで『男の本能を我慢』なんて、無理だ。
不可能だ。
考えただけで、気が狂う。
うぅっ。
壁にもたれてうな垂れていると、悠斗が俺の肩をポンと叩いた。
「話しは月華から聞いた。心配するな。さっき詰め所に行って、今夜俺と月華がお前の部屋に泊まる許可は貰っておいた。これで、見回りの度にビクビクしなくて済むぞ。」
Vサインをしてにへっと笑みを向けた悠斗に、俺は耳を疑った。
え・・・??
泊まる許可を貰った??
ちょっと待て!!ここは、家族以外付き添いはダメなんだぞ??
なのに、いったいどうやって許可を得たってんだ。
「悠斗様、ひとつ伺ってよろしいですか??ここは家族以外の付き添いは不可なんです。それをどうやって・・・」
ちらりと悠斗を見て質問を投げかけた途端、ふっふっふっと不敵な笑みを浮かべられた。
むっ。何やら嫌な予感が・・・。
もしや・・・。
「な〜に、そんなの楽勝楽勝〜。俺に落ちない女はいない。デート一回で交渉成立だ。」
左手を腰に当て、右手をひらひら振り余裕の顔で言ってのけた悠斗は、ひゃっひゃっひゃ・・・と高笑いをした。
ははは・・・、やっぱり。
そんな気がしたぜ。
「なるほど。まぁ、悠斗様もご一緒ならば安心です。」
良かった。
お嬢様と二人きりじゃないなら、何とか自分を保てそうだ。
ほっと安堵し言い返したところで、病室のドアがガラッと開いた。
「お兄ちゃんも早瀬も何やってるの??夕食の準備出来たから早くおいでよ〜。」
俺たちを見やって声をかけたお嬢様は、おいでおいでと手招きした。
「ほ〜い。」
「すぐに参ります。」
一緒に返事した俺と悠斗は、笑顔で病室に戻り・・・お嬢様と三人で、沢村の専属シェフが作ったおいしい料理を腹いっぱい堪能した。
22時・・・。
消灯の見回りが済んだ後、こそこそと三人で部屋を抜け出した。
ナースステーションから一番離れたエレベーターに乗り、向かった先は屋上のある階。
この階には倉庫などがあって、時折ナースがうろついてることがあるから注意だ。
見つからないよう辺りを気にしながら松葉杖で歩いていると、ふと悠斗が声をかけてきた。
「おい早瀬、ほんとに大丈夫なのか??いくらなんでもこれは見つかるとやばいぞ?」
時折後方を振り返りつつ小声で言う悠斗。
「平気ですよ。これに関しては、常習犯なので・・・私。」
にへっと笑い返して答えると、悠斗は呆れたように笑っていた。
「何だか、すごくドキドキするね。こういうの。」
嬉しそうに小声で言葉を挟んだお嬢様は、俺を見上げてにっこり笑った。
「そうですね。あ、そろそろ着きますよ。あの扉を開ければ屋上です。」
前方を指差し教えた途端、お嬢様が『私が一番乗り〜』と軽い足取りで駆けて行った。
お嬢様によって開けられた屋上の扉。
その先には、広い屋上と夜景と月明かり。
「うわぁ〜、綺麗。あ〜〜〜〜夜景が見える〜。」
はしゃぎ出たお嬢様は、真っ直ぐフェンスまで走って行った。
やっぱ、六つ下だよな。
中身は、まだまだ子供だ。でも、そういうとこが超可愛いんだよな〜。
お嬢様の後姿を見つめてふふっと笑ってから悠斗を見やると、その眼差しは・・・真っ直ぐお嬢様だけを見つめていた。
え・・・。
何だ・・・こいつのこの・・・視線。
これってまるで・・・。
その先の言葉を飲み込んだ俺は、軽く息を吐いた。
ははっ。俺としたことが、変なこと考えちまった。
有り得ない。有り得ない。
まったく。ほんとこいつって、とことん『度の越えた超妹バカ』すぎだぞ。
「あ、お嬢様、お一人で先に行かないでくださいよ!さ、悠斗様も行きましょう。」
お嬢様に声をかけてから悠斗の腕をポンと叩くと、『あぁ。』と我に返った悠斗が頷いた。
悠斗とともにお嬢様のもとへ行くと、彼女が前方を指差した。
「ほら、見て。夜景すごく綺麗だよ。」
「ほんとだ。夜景なんか見るの久しぶりだな。」
フェンスにもたれて煙草を咥えた悠斗がしみじみ言った。
「時々、ここに一人で来て眺めるんです。そうすると、気持ちが落ち着いたりするんですよ。」
お嬢様の隣りで夜景を見ながら呟くと、彼女が俺を見上げた。
「そうなの?でも、それ分かる気がする。すごく綺麗だもんね。」
ふふっとお嬢様が微笑んだのと同時に、悠斗のケータイが鳴った。
「あ、電話だ。ちょっとすまん。」
片手でケータイをパカッと開いた悠斗は、お嬢様と俺に一言告げてから『ほい。なんだ?』と電話に出ながら遠ざかって行った。
友達から・・・か?
「ねぇ、早瀬早瀬!見て!」
ぼんやりしていた俺の腕を突いたお嬢様が、空を指差し声をかけた。
「え?あ、はい。」
言われるままに見上げると、昨日と同じ大きな月。
ほんの少しだけかけてるのかも知れないけど、夕べとたいして変わらないようにさえ見える。
「すごくおっきいね、月。綺麗・・・」
そう言ってじっと月を見つめるお嬢様の横顔は、月なんかよりも遙に綺麗で輝いていた。
君の方がずっとずっと綺麗だよ。
心の底から、君が欲しいよ。
大好きだよ・・・愛してる・・・月華。
溢れる気持ちとともに、胸の奥で呼んだ彼女の名前。
その瞬間、頬に伝う何かを感じた。
え・・・。
「早瀬・・・どうしたの?涙・・・」
お嬢様が俺の頬にそっと手を当て、不思議そうに声をかけた。
涙・・・?
はっ。
「あ、いえ、何でもありません。すみません。」
すぐさまお嬢様の手を振り払った俺は、彼女の傍から離れた。
やばい、俺。
感情のコントロールが出来なくなってる。
このままじゃ・・・まずい。
「早瀬?」
傍へ来たお嬢様が、心配そうな瞳で俺の顔を覗き込んだ。
ダメだ、来ないでくれ。
今傍に来られたら・・・俺、何するか分からない。
「大丈夫です。一件電話する用があったのを忘れてました。電話を終えたらすぐに戻りますので、お嬢様は悠斗様とご一緒にごゆっくりなさっていてください。」
ポケットからケータイを取り出し、精一杯の笑顔でお嬢様に告げた俺は・・・急いでその場を離れた。
お嬢様から見えないように建物の裏に移動すると、壁にもたれかかりズルズルとへたり込んだ。
「バカ野郎、しっかりしろ拓海。心の中でお嬢様の名前呼んだくらいで泣いてんじゃねえよ。」
拳をぐっと握って自分に言い聞かせるものの、瞳からボタボタと落ちる涙は止まらない。
くそっ、感情のコントロールが利かねえ。
『好きだ。』って一言が言いたくてたまんねえ。
『愛してる』って言葉を伝えたくてたまんねえ。
そんなの出来ないことは、百も承知なのに。
それでも、言いたくてたまらない。
月華が欲しくてたまらない。
「くそっ!」
行き場の無い自分自身への怒りの感情を、コンクリートの地面を思いきりぶん殴ることでぶつけた俺は、そのまま声を殺して嗚咽した。
いつか伝えたい愛の言葉。
いつか呼びたい愛しい女の名前。
出来ない辛さと切なさが・・・胸の奥で溢れて・・・痛い。
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