閑話休題
年が明けて、また、簗田家の主人は訳のわからないことを言い出した。
「新婚じゃないけど、新婚旅行に行ってくる」
なんでも、向かう先は北近江、痛めつけられた体も全開には程遠いうえに、梓まで連れて行くという。
内実は羽柴藤吉郎にせがまれたらしいが。女房の寧々を一度連れていくので、牛太郎にも是非梓を連れてこいとしつこく迫り、馬に跨れない牛太郎のための輿も梓の駕籠もすべて藤吉郎が用意してきた。
どころか、牛太郎の外出の許可をすでに上総介に貰ってきていた。女房にいびられている牛太郎が不憫で仕方がない。だから、梓と仲睦まじくさせるために、彼らの気分を変えて長浜に連れていきたいとかなんとか言って。
「好きにしろ。どうせ、痩せ牛に使い道はねえ」
とは、上総介の言葉である。
「どうせ、何かがあるに違いないけどよ」
終始愚痴っていた牛太郎は小姓の新三、それに梓のためにかつを連れて、当分の間岐阜を離れた。
これにしたり顔となったのは、七左衛門である。
「あの恐ろしい奥方様が岐阜にいないってだけで、ここまで羽根が軽やかになるもんか」
宿屋兄弟も弥次右衛門同様、城下の長屋住まいで、与力の大石新七郎は沓掛に行っている。稲葉山の屋敷に住み着いているのは、女中たちと新三、馬丁の栗之介であるが、人の少ない簗田家には、上下厭わず揃って食事を取るという常識外れの家風があって、七左衛門もそれに付き合わされている。
揃って飯など食いたくないなどとは梓が恐ろしくて言えなかったのだ。
「奥方様はいちいち厳しいからな。箸の持ち方なんて別にいいだろうがよ。俺たちは荷役くずれなんだから」
「兄さん。あんまり口が過ぎると、痛い目に合うよ。それこそ旦那様みたいに」
「まあ、それだけは勘弁だけど。でも、本当にうるさいからな。この前なんてそのうち嫁を見繕ってやるから、城下の変な女には手を出すなだなんて言ってきたんだぜ。あの人ってのは、本当に、こう、お堅いっていうか、なんていうか。そのくせ暴れ狂犬なんだから、参っちゃうよ」
そういうことで、七左衛門は梓が消えたその日から岐阜の夜に繰り出し、治郎助が眠る長屋に戻ってきたのは夜明け前。わざわざ早朝から稲葉山に出向かなくて済むとせいせいしながら布団にもぐったが、それからしばらくもしないうちに長屋の戸を叩く音があった。
すでに目覚めていた治郎助が戸を開けると、やって来たのは篠木於松である。
「どうしたんですか、於松殿」
「若様が稽古をつけてくれるってよ」
「兄さん!」
治郎助はこんもりと丸くなっている布団を揺らす。
「若様がお呼びだってさ! 稽古をつけてくださるらしいよ!」
「んだよっ。うっせえなあ。稽古なんかやってられっか」
「兄さんってば! 若様直々だよ! 何を言ってんのさ!」
「うっせえっての! やめろっ! 若様は優しいから見逃してくれんだろ! 俺は眠いんだよ! お前が行って、兄貴は風邪でも引いたって言っておけよ!」
「ししし」
治郎助は仕方なく七左衛門を置いて於松のあとをついていき、長良川にやってきた。
朝霧漂う河原にはすでに左衛門太郎と弥次右衛門、栗之介と二頭の馬、それと見慣れぬ巨漢の青年が口をへの字に曲げてそそり立っていた。
「この方は九之坪勢を率いている佐久間玄蕃允殿――、って、治郎。七左はどうしたのだ」
太郎に問われて、治郎助はちょっと視線を落としてしまう。
「ええと、兄は風邪を引いてしまったそうで」
「稽古なんかやってられっか。若様は優しいから、俺は行かねえって言ってましたよ」
と、於松が告げ口をして、憤怒したのは太郎ではなく玄蕃允だった。
「なんだとっ! 連れ出してきてやる!」
玄蕃允は火車のように長屋へと押し掛け上がり込むと、布団を剥ぎ取り、七左衛門の襟首を掴み上げた。
「な、何すんだ、この野郎っ!」
「誰に口きいているんだ、おおっ? さっさと来い!」
玄蕃允の迫力に圧倒された七左衛門は、着の身着のまま長良川まで連れ出され、川に投げ込まれた。真冬の水の冷たさにひいっと飛び上がったところ、玄蕃允の右拳を食らって、また、川の水を飲まされる。
「この野郎っ!」
頭に血が昇ってしまった七左衛門は玄蕃允に殴りかかっていったが、返り討ちにあって、最後には河原の上に伸びた。
「本当に風邪引いちまうぞ」
栗之介がどこからか枯れ木を持ってきて、七左衛門の脇で火打ち石を鳴らしたが、七左衛門の前に槍がぽんと放り投げられてきた。
「汗をかけばすぐ乾くわ」
玄蕃允に掴み起こされ、槍を押し付けられて、弥次右衛門や治郎助とともに息絶え絶えの体で鍛錬をさせられる七左衛門。
巨漢の青年が、梓の甥で、鬼玄蕃の異名を取る男だと於松に聞いたときには、七左衛門は厳しい鍛錬をさせられたあとで朦朧とし、河原の上に突っ伏してしまっていた。
「じいさん。早く言ってくれよ、そういう人がいるって」
「ししし。知っていて言わなかったんだよ」
於松は笑いながら、焚火の向こうで何かの皮を短刀で裂いている。訝しんで訊ねてみると、いたちだと言った。剥いだ皮は売り物にし、肉は食べるのだと三本の歯を見せて笑ってきた。
「おめえも食うか?」
「げえ。いらねえよ」
於松だけは毎日簗田家の食卓に並ばないし、普段はどこにいるのかもわからない。つまり、山か野に出てそういうことをしているのだと想像できると、七左衛門は気味が悪くなった。
治郎助が太郎や玄蕃允と話しながら、槍を構えたり突いたりしている。真面目でつまらない弟だ。七左衛門は仰向けに体を返すと、霧もやがうっすらと晴れてきた向こう、青く広がる空を眺めた。
自分にべったりと付いてくるだけだった弟もいつしか大人になったものだ。
「いつか、手柄を上げられて追い抜かれちまうよ」
於松の言葉に七左衛門は鼻で笑う。「んなこたぁねえ」と。
「今日はたまたま二日酔いなだけだ。そんなことよりよ、なあ、じいさん」
七左衛門は体を起こすと、いたちの肉を串刺しにしている於松に訊ねる。
「手柄を上げるも何も、旦那様のところにいていくさ場で活躍できんのか。旦那様は滅多にいくさ場に出ないんだろ。若様の下に付くならともかく、俺らはなんだか旦那様の従者じゃねえか」
「馬鹿言っちゃいけねえ。これからはいくさばっかりだ。旦那様は摂津にも縁があるし、武田にも縁がある。嫌でもいくさ場に連れて行かれるよ。でっかいいくさにな。ししし」
「つったってなあ。俺はともかく――」
七左衛門は一人ぽつんと丸まって座り込む弥次右衛門に視線をやった。肩で大きく息を切らしており、年かさの弥次右衛門は鍛錬で粉々に疲れてしまったらしい。
「本当だかどうだか、若様の叔父御の弥次さんは使いものにならなそうだし。大石新七郎殿は若様の右腕みてえなもんだんだろ。旦那様の与力で使える人間は俺しかいねえじゃねえか」
「もう、与力のつもりかい、おめえさんは」
「まあ、そうだ」
「おめえみてえなうつけは、いつかいくさ場で死ぬな」
「心配すんな。じいさんよりは長生きすっからよ」
「ししし。どうだかね」
「あーあ、俺も早く馬乗り侍になりてえな。きんきらの甲冑を着込んで、我は宿屋七左衛門にて候なーんて名乗りを上げてえよ」
黒連雀が川岸をばしゃばしゃと走り回っており、栗綱がそれをぼんやりと眺めている。
「旦那様、栗綱をくんねえかな」
とうてい不可能な願いを口にしたとき、栗綱の近くに女が座っているのに気付いて、七左衛門は「おっ」などと、いちいち気色めいた。
「着ている物は貧相だけど、顔立ちはなかなかじゃんか」
ぼさぼさの長い黒髪で、擦り切れた薄っぺらい半纏を着ている。
「あんな蛇みてえなのがなかなかなんて、どうかしてんな、おめえ」
於松の蛇のたとえも的を射ていなくもない。袖から覗ける腕も脚も痩せ細っていて、にこにこと栗綱を見つめている顔だけがくっきりと深彫りである。瞼は大きく、瞳も黒い玉のようで、唇は鳥のくちばしのように厚い。
「ありゃあ、どこの娘だ。簗田に縁でもあるのか」
「弥次の上の娘だよ」
「へえ」
と、七左衛門はすっかり冴え渡った眼差しで腰を上げた。牛太郎の企みにより弥次右江門の娘を娶らされるすんでまで行かされたが、雇われ百姓の農奴の娘などに期待していなかった七左衛門は、今ごろになって笑みを浮かべた。
「いいのかい。あの娘は物狂いだし、傷物だぞ」
於松が言ったので、七左衛門はどういうことだと訊ねる。於松はにたにたと笑いながら、へばりつくような視線を向けてくる。
弥次右衛門の上の娘は尾張の児玉ではちょっと知れた娘だったらしい。一日中素足でふらふらと歩きまわり、犬猫と話していたり、旅の僧に付いていってしまったりと、頭が弱い。そのくせ、隙のある色っぽさがあるから、やくざ坊主や足軽雑兵などに何度も犯されていて、二度産んだ子は間引きされている。
「手を付けたら最後、嫁にさせられるよ。ただでさえ嫁にやりずれえ娘なんだから」
「てかよ、なんで、じいさんがそんなことまで知ってんだよ。弥次さんに聞いたのか」
「旦那様に弥次の素性を調べるよう申しつけられたんだよ」
にたあと笑った於松の薄気味悪さと、なかなかどうして油断なく身元を洗っている主人の牛太郎に、七左衛門は少々寒気を覚えた。
弥次右衛門の娘はすえというらしい。栗綱に何事かを話しかけているが、栗綱は耳をぱたぱたと動かすだけで、視線は暴れ駆けている黒連雀を追っている。
七左衛門は於松の忠告も無視して、そろりそろりとすえに近づいていった。栄達を夢見る若者らしい好奇心の旺盛さと、船の上でも大将面をしていたほどの活発さである。手込めにしてやろうとか物狂いの女の味を知ろうとかそういうものではなくて、ただ単にからかってやろうと思った。
「よお。すえっていうらしいな」
にやにやと笑いながらの七左衛門に、警戒しているのか、すえは黒い瞳でじっと見つめてくる。
「お前、なんでここにいんだ」
「あんた、誰」
と、すえの声は割れ霞んでいた。
「俺は簗田左衛門尉与力、宿屋七左衛門だ」
「この子の御主人様?」
「そうだ」
七左衛門の背後に大きな影がのそっと聳え立った。あわてて、振り返った七左衛門の頭に玄蕃允の拳骨が落とされる。
「法螺ばっかり吹きやがって。来いっ! その腐った性根、叩き直してやる!」
襟首を掴まれ引きずられていった七左衛門の姿に、すえはきゃっきゃと笑い立てた。
「おかしい人。本当にお前様の御主人様なの?」
すえの問いに栗綱はぼんやりとしているだけである。
「お前様はおとなしい子だねえ。クロスケと一緒に遊ばないの?」
そのクロスケははしゃぎ疲れてしまったらしく、川面に鼻面を突っ込んで水を舐めている。左衛門太郎が「クロ」と呼びかけると、黒連雀は頭を上げてじっと太郎を見つめ、やがて首を上下に振り始めながら、ちゃかちゃかと太郎に歩み寄っていく。
「お前様たちの御主人様はあのお侍さんなの?」
「違うよ」
と、言ったのは栗綱ではない。どこからかやって来た栗之介であった。摘んできた草を手にしている。それに首を伸ばしてむしゃむしゃと食べ始めた栗綱の鼻面を撫でながら、栗之介は言う。
「クロの主人は若だけど、こいつの主人は簗田牛太郎だ」
「誰?」
「お前の父ちゃんの主人だ」
「あんたは?」
「俺は栗之介だ」
掌の草を食べ尽くした栗綱が、鼻面を栗之介の胸元にぐいぐいと押し付けて、もっと寄越せとねだってくる。
川岸では七左衛門が槍に見立てた棒で玄蕃允と向かい合わせられており、呆気なくやられた。
「この子はいくつなの?」
「や、八っつだ」
と、栗綱にぐいぐいと押し込まれながら栗之介は言う。
「もう、いい齢だよ。なのに、子供みてえなんだもんな」
ぱかぱかと黒連雀が馬上に太郎を乗せて歩み寄ってきた。手綱を軽く絞られると、若干嫌気を差すようにして首を大きく振るものの、
「こらっ」
と、たしなめられて、鼻を鳴らしながらようやく制止する。
栗綱が押し相撲をやめた。弟の黒連雀をじっと見つめる。自分たちが兄弟と理解しているのかどうか、仲が良いのか悪いのか、二頭の馬はしばらくじっと見つめ合ったあと、お互いぷいと顔を背けてしまう。
人間がするような仕草に、すえがはしゃいだ。
「お主、馬が好きか」
馬上からの太郎の言葉に、すえは声を止めてきょとんとした。
「す、すえっ」
娘が付いて来ていたことにようやく気付いた弥次右衛門が駆け寄ってきて、すえのばさばさの頭に掴みかかると、無理やり頭を押し下げた。
「も、申し訳ねえっ。こいつは頭が悪くて駄目なんだっ」
「いやあっ。いやあっ」
すえが弥次右衛門の腕にがぶりと噛みつき、騒ぎ立てた父親を尻目に逃げ出すと、そのまま姿を消した。弥次右衛門がすえに噛みつかれた跡を握り締め、顔をしかめながら、
「あ、あいつのことは気にしねえでくろ」
太郎は表情なく弥次右衛門を見下ろす。やがて、赤黒縞の鞭を取り出すと、いきり始めた黒連雀をなだめながら、
「一回りしてくる。先に戻っていなさい」
鞭をびゅうっと鳴らして、黒連雀は一気に跳ねて駆けていった。
一行は稲葉山の屋敷に向かう。もうすでに於松は消えてしまっている。玄蕃允を先頭にして、新参者の三人は槍や棒を担がされる。ぼろぼろにされてしまった七左衛門は、睡魔も手伝って、首をぐったりと垂らしながらだった。屋敷に辿り着くと、庭先で真っ先に倒れ込んでしまう。
「だらしないなあ、兄さん」
と、治郎助にまで嘲られる有様。七左衛門には返す気力も残っていない。
「お風呂が上がってますよ。汗を流して、朝食にしましょう」
縁側からの声に目だけを向ける。左衛門太郎の女房のあいり。子を産んだせいかふっくらとしていて、鬼梓のような美女でもないが、それでも武士の女房として華がある。
左衛門太郎が下賤な町娘の子で、あいりが明智庄の足軽雑兵の娘であるのは、七左衛門が格太郎の名だったときから耳にしていたことだ。
それが、左衛門太郎は牛太郎の養子に、あいりは丹羽五郎左衛門の養女に、それぞれなったことで、今では本来の出自などかすんでいる。
「将とその他大勢ってのは全然違うんだ」
簗田家は主人の牛太郎が風呂好きなため、人手は少ないくせに風呂場と茶室は贅沢である。上総介の下知で稲葉山に屋敷を築造したさい、風呂場の造りだけは自分の思い通りにしてくれるよう上総介に頼み込み、大工にあれやこれやとうるさかったらしい。どこでそんな知恵を手に入れていたのか、蒸気が逃げないよう壁にも床にも板が何枚も張られていて、しかし、大きな格子窓が、朝は太陽の光を吸い込み、夜は虫の声を届かせる。鋳鉄製の風呂桶は大男の牛太郎が悠々と浸かれる大きさ。
このような風呂場は岐阜の城か、それとも京の公家屋敷ぐらいにも匹敵するから、たまに梓やあいりと仲の良い近所の女房連中が湯を貰いに来るらしい。藤吉郎も牛太郎の目を盗んでやって来ることがしばしばだという。
治郎助に背中をこすらせながら、七左衛門は言う。
「将になれば嫁から風呂まで違うんだ」
「だったら、きっちりと腕を磨くんだな」
と、風呂桶に浸かっている玄蕃允が言った。自分の家の風呂のように満ち足りた表情である。
「ちぇ、玄蕃様だって風呂を貰っているくせに」
「何か言ったか」
ざばあ、と、湯を大量にこぼしながら玄蕃允が風呂桶から出て、七左衛門は彼をじっと見つめる。
「案外、粗末ないちもつですね、玄蕃様」
びしっ、と濡れ手拭いで七左衛門の頭を叩くと、玄蕃允は洗い場から出ていった。七左衛門は舌打ちしながら風呂桶に入ろうとする。しかし、もう一度、舌を打った。湯が半分もなくなってしまっている。
「やっぱり、弥次さんの娘を嫁にして与力にさせてもらうのが手っ取り早い」
「槍一つで伸し上がってみようとは思わないのかよ、兄さん」
「馬鹿言え。若様だって旦那様の養子になって、将になったんじゃねえか」
風呂場を上がり、着物を纏って縁側を行くと、馬屋の前で栗綱と黒連雀の体を栗之介が洗っているところ、すえの姿を見つけて七左衛門は口許を緩めた。どうやら、姿を隠し隠しくっ付いてきたらしい。
「兄さん、やめなよ」
治郎助の制止も無視して、七左衛門は草履を突っかけると、にやにやとしながら馬屋に歩み寄る。瞼をうつらうつらと下げている栗綱の鼻面を、すえは撫でていた。
「よお、いつの間にくっ付いてきたんだ」
すえは七左衛門を無視しているのか、声が聞こえていないのか、にこにことしながら栗綱を見つめている。
「お前、栗綱がよっぽど好きなんだな」
と、七左衛門がすえの肩にすうっと手を回したところ、
「いやあっ!」
腕を払ってき、歯を剥きながら七左衛門を睨みつけてくる。すると、突然、栗之介に櫛を入れられていた黒連雀がいななきながら立ち上がり、どすんと前脚を七左衛門の真正面に振り落としてくると、血走った目をにじり寄せてきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! 栗之介さんっ!」
黒連雀の威圧に、七左衛門は腰を抜かし、あたふたと後ずさりする。栗綱が七左衛門をぼんやりと眺めてくる。
「あーあ、クロに嫌われちまった」
「な、なんでよ!」
「助平だからだろ」
黒連雀が首を振り乱しながら前脚でちゃかちゃかと地面を馴らし始める。身の危険を悟った七左衛門は一目散にその場から逃げた。
「叔父上」
朝食も済んだ広間に弥次右衛門は一人、左衛門太郎に呼び出された。
「児玉に帰りなされ」
不安げに眉尻を垂れ下げる弥次右衛門の前に、太郎は巾着袋を差し出した。置くときに袋の中で音が鳴ったので、弥次右衛門が息を呑みながら太郎に顔を上げると、太郎は薄っすらと静める眼差しで、弥次右衛門を見つめ返す。
「開けて確かめなされ」
弥次右衛門が巾着袋の紐をほどくと、中には黄金を叩き伸ばした譲葉金、大判が四枚入っており、米石高にすれば二百石相当、銭貨にすれば百貫、百姓の家族なら三十年は食うに困らない額であった。
太郎の俸禄は三百貫である。沓掛三千貫の簗田家とはいえ、父の牛太郎が常に疑っているので太郎は沓掛城の収入を私的に扱えない。岐阜の家は太郎の俸禄から賄われているので、大判四枚はおいそれと渡せるものではなかった。
「それで静かに暮らしなされ。叔父上にいくさ場は向いておりませぬ」
大判どころか、金など目にしたことがない弥次右衛門は、震えながら巾着袋を胸に抱き寄せると、
「す、すまねえ」
と、頭を下げた。
弥次右衛門はその足で馬屋にひっついているすえの腕を掴み取り、騒ぎ立てるすえを稲葉山から無理に連れ下ろしていく。
山菜を摘んでいた於松がそれを見ていた。於松はひそかに弥次右衛門とすえの後を追い、彼らが城下の長屋に入っていくと、板壁に耳を寄せる。
「た、太郎から大判を四枚も貰った! もうこれでひもじい思いをしなくて済むぞ!」
弥次右衛門の嫁らしき者が喚声にもならない奇声を放ち、於松はそこを離れると、別の長屋に出向き家屋の戸を叩いた。
戸が開いて、治郎助が出てくる。
「どうしたのですか。鍛錬は昼間からだって玄蕃様が言っていたはずですが」
「ししし」
於松は後ろ手に戸を閉めると、丸まっている布団をちらと見やったあと、言った。
「弥次が若様から大判四枚を頂戴したみてえだ」
「なんだって!」
七左衛門が掛け布団を蹴飛ばして飛び起きた。
「それってどういうことだよ、じいさん!」
「大判と引き換えに尾張に帰れってさ。で、弥次はとっとと帰るつもりだ」
「あの野郎......」
「ししし」
於松は言うだけ言うと、長屋から去っていった。
「あのおっさん、結局はそういうことだったってわけか。ふざけやがって。銭だけ貰って、はいさよならなんて、男気のねえ野郎だ」
「別にいいじゃないか」
治郎助が吐息をつきながら腰を下ろし、止めていた草鞋の補修を再開する。
「弥次さんがいたって、足手まといなだけなんだからさ」
「そういう問題じゃねえだろ。一度ははいお願いしますって口にしたんだぞ。それを大判四枚ごとき並べられただけでさよならかい。だいたい、ドケチの旦那様がこんなことを許すはずねえだろ」
「旦那様がいないから、若様は弥次さんを追い払っただよ。だいたい、若様にはいろいろ難しい気持ちがあるんだよ」
「許さん!」
七左衛門は立ち上がると、股引を履いて、帯を締め直した。
「一発、ぶん殴ってきてやる!」
「ちょっと、兄さん!」
七左衛門は治郎助の声も聞かずに長屋を飛び出していった。
「おい、弥次! 開けろ、こら!」
弥次右衛門の長屋の戸をぶち破らんほどに叩き続けていると、弥次右衛門があわてふためきながら戸を開けてきて、七左衛門はその襟首を掴み上げた。
「どういうことだ、おっさん! あんたは旦那様の家来になったんじゃねえのか! 金だけ貰ってとんずらしようだなんて、なめてんのか、こら!」
「か、堪忍してくれえ。俺なんかがいくさなんて無理なんだよお」
「やめてください!」
少女の悲痛な声に、七左衛門はいからせた顔を向けた。はっとして、絞っていた眉間を緩ませ、両腕から力を抜いてしまう。部屋の片隅に座りこむすえが猫みたいに目を据わらせ、それを弥次右衛門の嫁らしき女が抱いている中で、屹とそこに直立し、両拳をぎゅうっと握りながら七左衛門に立ち向かってくるその少女は、おそらくすえの妹のはずなのだろうけれど、黒髪が農奴の娘とは思えないほど艶がかっていて、目鼻立ちもはっきりとしている。眉だけが勝気さ漂う尻上がりで、耳にしていたところ齢十三のはずなのに、わりと大人びていて、わりと七左衛門の好みだった。
「お父ちゃんはただの百姓なんです! 勘弁してください!」
そうして、下の娘は床に膝を付くと、這うように頭を下げてくる。
「この通りです! 勘弁してください!」
七左衛門は弥次右衛門から手を離した。口をへの字に曲げながら、娘の頭を見つめる。弥次右衛門も土下座してきた。
「申し訳ねえ! この通り! 俺っちのことは忘れてくれ!」
ちぇっ、と、七左衛門は踵を返した。
「お嬢ちゃんの顔に勘弁してやらあ。てかよ、本当に大判四枚も持ちながら尾張まで帰るつもりか。いくら、織田領は治安がいいとはいえ、物騒な世の中に変わりはねえんだからよ。だったら、弥次さんと知り合ったのも何かの縁だ。あんたら家族、尾張まで護衛してやるよ」
「ほ、本当か?」
「お父ちゃんっ!」
「いいんだよ、お嬢ちゃん。俺はここに来るまでは堺の船乗りだったんだ。船乗りってのは仲間たちとの信頼関係で始めて海に出られるんだ。へっ。酔狂なもんだぜ。船を下りても、情に薄くはなれねえんだからよ。で、お嬢ちゃん、名はなんていうんだ」
「た、たまっていいます」
「おたまか。いい名だ。弥次さん。尾張に行くときは言ってくれ。俺が付いていれば百人力だからよ」
七左衛門は微笑みを残すと、自らの長屋へ戻った。
布団の中に潜るまでの間を治郎助が怪訝そうに見つめる。
「どうしたの。にやにやして。喧嘩してきたんじゃないの」
「へへ。治郎。お前は勿体ないことしたよなあ。弥次さんの娘ってのは、上のあいつは変人だけど、下の子はあのオヤジのくせに、なかなかの上玉なんだぜ。まあ、まだ、子供だけどよ、あとちょっともすれば、結構な女になるよ。しかも、嫁にしちゃえば簗田家一門衆なんだからよ」
しばらくすると、七左衛門のいびきが響き始めて、治郎助は溜め息を深くついた。
四日後、弥次右衛門一家は後ろめたさを振り切るように岐阜を立った。七左衛門も付いていった。無論、太郎には無断である。
ふらふらと道草ばかりのすえを嫁がたしなめ、弥次右衛門とたまが荷駄を担いでいく。
「貸しな」
七左衛門がたまの荷駄をひょいと担ぎ上げ、格好をつけた。
ところが、岐阜を出てしばらくし、難所の木曽川を渡れば尾張の国という目前で、弥次右衛門一家は野盗に遭遇してしまう。
七左衛門の言ったように、乱暴狼藉を嫌う上総介の令により、織田領はちょっとした盗みでさえ死刑になるほど規律が徹底されている。織田が尾張美濃を治めるようになって五年以上が経過しており、野盗などもっての他だ。
しかし、現実には目の前にいた。五人だった。どれも大柄の男で、顔つきはそれなりに野蛮そうで、
「おめえらの荷物、全部ここに置いていったら娘たちは許してやらあ」
と、腕力の自信に満ち溢れている。
「お前ら野盗風情が! この宿屋七左衛門が返り討ちにしてやるわ!」
とはいえ、太刀も脇差も持っていない七左衛門は、拳一つだった。いいところを見せられたのは頬に見舞ってやった拳一発だけで、あとは五人に寄ってたかって殴り蹴飛ばされ、突っ伏して伸びた。
結局、弥次右衛門一家は荷物をすべて奪われ、挙げ句に大判四枚も見つけ出されて、無一文となった。
弥次右衛門とその嫁は肩をがくりと落とし、涙に暮れる。すえはけらけらと笑っている。たまは、瀕死七左衛門に屈みこみ、手拭いで彼の鼻血を拭った。
「おらたちのためにごめんなさい、七左さん」
年端もいかない娘に顔を向けていられなくて、七左衛門は両目をぎゅうっと瞑った。弱すぎると思った。
「どうすれば。これから、どうすれば」
と、泣きしきる弥次右衛門に七左衛門はぽつりと言った。
「岐阜に戻って、若様に謝るしかねえだろ」
さて、弥次右衛門一家から荷物を奪い取った野盗――ではなく、尾張九之坪勢の足軽兵五人は木曽川の川べりで篠木於松と合流した。
「いいのかよ、於松さん。こんな真似をしちまってよ。ちゃんと、ケツだけは拭いてくれよな」
「あいあい。ほらよ、駄賃だ」
於松は彼らが奪い取って来た大判のうちの一枚を、組頭に渡した。
「口止め料だかんなあ。ちゃんと皆で分けるんだぞ」
「荷駄はどうすんだよ」
「そんなもの川に捨てちまいな。ししし」
於松は足軽兵たちと別れると、岐阜の城下をくぐり抜け、一路、北近江小谷を目指した。
牛太郎は旧小谷城下の寺社で寝泊まりしている。夜、於松は人目を忍んで寺社に入り込み、梓を寝床にしていないことを確かめると、障子戸の向こうに声をかけた。
「なんだ、早かったな。入れ」
於松が戸を開けると、牛太郎は梓の小袖で顔を覆って、布団の上に仰向けになっていた。
「首尾よく行きましたよ、旦那」
牛太郎は小袖を除けると、体を起こした。肥えた体は見る影もなくなったが、藤吉郎の好意か何かで食ってばかりいるし、初めて外の世界を見回っている梓が上機嫌でいるので、 瞳に生気は戻っていた。
「で、ヤジエモンはどうした」
「岐阜に戻りましたよ。馬鹿な七左がぼこぼこになりましたがね」
「あの野郎。女たらしは助さんじゃなくて、兄貴のほうだったか。まあいい。出せ」
「なんのことで?」
「なんのことでじゃねえよ。太郎がヤジエモンにくれちゃった金だ。どさくさに紛れて自分の物にしようとしてんじゃねえ」
於松は渋々半纏の袖から大判三枚を取り出し、牛太郎の前にそれを並べた。
「一枚は九之坪の奴らにくれましたからね。口止めで」
「気がきくじゃねえか」
牛太郎は大判二枚を手に取り、それを自分の懐におさめると、一枚は於松の前に戻した。
「これはジジイの分だ」
「いいんですかい」
「口止めだ。お前は信用できねえからな」
「そんなこと言わねえでくださいよ。旦那様にいの一番に報せたのはあっしですよ」
「まあな。だから、くれてやる。褒美だ」
「ししし。さすがは旦那様」
「それにしても、太郎の奴は本当に頭でっかちだな。ヤジエモンに金なんかやっちまったら、児玉の連中が押し寄せて来るじゃねえかよ。まあ、気持ちはわからんでもないけどよ」
「そんなことより、旦那様」
「なんだ」
「その残った二枚は若様に返してあげるんですかい」
「......」