この動画を見ないで下さい
※一部残酷な描写を含みます。
まずはパソコンの電源を入れる。
ハードディスクがガリガリと音を立ててOSを読み込んでいる間、お気に入りのCDをステレオにセットし、スーツからスウェットに着替え、冷蔵庫からハイネケンを取り出す。
準備が整ったところで、デスク前のロッキングチェアに深々と腰掛ける。
とくに何を始めるわけでもない。会社から帰宅して一息つくまでの手順はいつもこんな感じだ。
冷えたビールを胃に流し込みながら、マウスを操作する。
メールソフトを起動すると、新着メッセージを知らせる短いビープ音が鳴った。
メッセージは一件。まったく見覚えのない送信者だ。
『件名:この動画を見ないで下さい』
どうせスパムメールだろう――
そう思いながらも、僕はメッセージを開いた。
――開いたのが間違いだった。
メッセージにはURLのリンクが一行記載されているだけだった。いつもなら、こんな怪しげなメールはすぐに削除していただろうが、記載されたURLの文字列に目を奪われた。
文字列の中ほどに、『MICHIRU_HATA』とある。波田みちる――僕の恋人の名前だ。
みちるの悪戯か? 一瞬そう思ったが、彼女に似つかわしくないやり方だ。みちるなら、もっとわかりやすい方法を取るだろう。
少し躊躇したが、僕はURLをクリックした。
WEBブラウザが立ち上がり、ページ上に動画プレイヤーが表示される。三秒ほどの読み込み時間があり、動画が再生された。
薄暗い部屋が映し出された。古いアメリカ映画に出てくる犯罪組織のアジトを思わせる雰囲気だ。画面中央に何かのシルエットが浮かんでいるが、暗がりでぼんやりとしか見えず、どことなく不気味な緊張感が漂っているように感じられた。
突然、画面が明るくなった。部屋の天井から吊るされた裸電球が点灯し、左右にゆらゆらと揺れている。中央にあったシルエットの正体は椅子に座った人間だった。
僕は画面を食い入るように見つめた。
女だ。足首を椅子の脚にロープで括りつけられ、両手を後ろに回されている。頭にはすっぽりと茶色い紙袋が被せられていた。
見覚えのあるワンピースを着ていた。
みちる……?
僕の心臓は狂ったテクノミュージックのようなリズムを刻み始めた。
画面の左端から白い霞がたなびいていることに気づく。次の瞬間、男がフレームインしてきた。女の近くまで歩み寄り、煙草を床に落として靴の底で踏み消した。カメラに背を向けたまま、肺に残されていた煙を吐き出す。出し抜けに、女の頭に被せられた紙袋を乱暴にむしり取った。
みちるだ――。
さるぐつわを噛まされている。涙で濡れた頬が電球の光を反射させた。
僕は膝裏でロッキングチェアを跳ね飛ばして立ち上がった。何だこれは……悪い冗談はよしてくれ。
男が振り返り、僕は再び驚愕した。
同僚の比留川だった。
みちると僕がつき合う以前、みちるに再三アプローチをかけていた男だ。つき合ってからも、みちるに言い寄っていたという噂がある。
背筋に悪寒が走った。
比留川はみちるの横に片膝をつき、カメラ目線でにやりと笑った。切れ長の目に不穏な光を宿している。ジャケットの胸ポケットから何かを取り出し、カメラに見せつけるようにしてそれを掲げた。
バタフライナイフ――。ぎらついたブレードを比留川の赤い舌が這う。
僕の口の中はからからに乾いていた。
比留川がみちるのワンピースを襟首から下腹部のあたりまで切り裂いた。馴染み深いピンクのブラジャーが露わになる。
おい……やめろ。
みちるはきつく目を閉じ、全身を硬直させていた。
みちる……。
比留川のナイフがブラジャーのフロント部分を切断した。
僕は金属バットを手に取り、ドアを蹴破って部屋の中に飛び込んだ。
狂態を演じる比留川のもとへ一直線に向かう。
比留川が振り返る。この状況において尚、奴は笑っていた。
かまわずバットを振り抜いた。
めしゃり、という音がして頭蓋が潰れる感触が両手に伝わってくる。
崩れ落ちた比留川の頭を中心に、赤黒い液体がゆっくりと広がった。
僕は追い討ちをかけた。うつ伏せに倒れた比留川の後頭部めがけて、バットを力一杯に振り下ろす。
何度も何度も殴りつけた。
鮮血が飛散する。
叩きつけるたびに、びちゃり、びちゃり、と音を立てた。
随分と平べったくなったが、僕はバットを振り下ろすのをやめなかった。
単調な動作を繰り返す従順な工業機械になった気分だ。――悪くない。
びちゃり。
びちゃり、びちゃ、びちゃり。
びちゃり。
びちゃ、びちゃり。
びちゃり。
びちゃ。
息が切れ、腕が疲れてきたので、反復運動を止めた。心臓が破裂するんじゃないかと思うほど、激しく鼓動していた。床がぬるぬると滑るので足元を見下ろす。
僕は血の池に立っていた。
ひい、という声が聞こえたので顔を上げると、みちるが怯えきった表情で僕を見ていた。
「みちる……」
我に返り、急に恐ろしくなった。膝ががくがくと震え出し、冷たい汗が背筋をつたう。
たまらず僕は、朱に染まったバットを放り投げた。
バットを放り投げ、悠々と一塁ベースに向かった。
打った瞬間にホームランと確信するほど会心の当たりだった。拳を突き上げて観客席の声援に応える。
――でも何か変だった。バットを振り抜いた瞬間、得体の知れない違和感に襲われたのだ。
釈然としないものを感じながら、僕はダイヤモンドを一周した。
四回裏、無死一、二塁からの三点本塁打。これで間違いなくチームは波に乗れるはずだ。ホームベースを踏み、ヒーローを迎えるチームメイトたちと次々にハイタッチを交わした。
ヘルメットを脱いでベンチに腰を下ろすと、比留川がにやけ顔で近づいてきた。
こいつとはどうも馬が合わない。僕にポジションを奪われたことを根に持っているのか知らないが、何かにつけ妙に絡んでくる。
「ナーイスバッティーング」馬鹿にするような口振りで比留川が言った。
「ああ」と素っ気なく返す。
比留川は僕の隣に座った。くちゃくちゃと音を立ててガムを噛み、癪にさわるにやけ顔を僕に向けた。こいつは人を不快にさせることに関しては天才かもしれない。
「やるねえ。決めるべき時に決める。さすがはレギュラー様だねえ」
僕は無視を決め込んだ。
意に介さず比留川が続ける。
「俺にゃあ無理だ。くちゃくちゃ。あの球は打てねえよ。くちゃくちゃ。バットに、くちゃくちゃ、かすりもしねえよ。くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ。運よく当たったとしても、くちゃ、ポテンヒットがいいとこだろう。くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ……」
「だったらその辺で素振りでもしてたらどうだ?」我慢できず答えてしまった。
「ぺっ!」比留川が僕の足元にガムを吐き捨てる。「お前にいいことを教えておいてやるよ。世の中にはな、いくら努力しても報われない奴らがいるのさ。それこそ血のにじむような苦労を重ねたって、すべてが無駄に終わっちまうんだ。そういう人間が最後にどういう選択をするかわかるか?」
もう、うんざりだった。深いため息を吐いてグラウンドのほうに目をやった。依然としてチームの攻撃が続いており、追加点が入りそうな気配だったが、いらいらして試合に集中できなかった。
「ところで、みちるちゃんとはうまくいってるのか?」
比留川がみちるの名前を口にすることが腹立たしかった。みちるが汚されてしまったような気さえする。この男はどこまで僕の神経を逆撫ですれば気が済むのか。
「うまくいってるわけないよなあ」そう言って比留川は甲高い奇声を発した。
「どういう意味だ?」
比留川は薄ら笑いを浮かべ、ポケットから新しいガムを取り出した。一枚差し出して「いるか?」と言ったが、僕は首を横に振った。ガムの銀紙を開きながら比留川が呟く。「いい体してるよな」
こいつと話してもストレスが溜まるだけだ。僕は比留川から離れようと腰を上げた。
「あえぎ声もいい」比留川がぼそりと言った。
「なんだと?」
「いい表情してたぜ。最初は泣き叫んでたけどな。そのうち腰をくねらせてよがりだしたよ」
僕は比留川の胸倉を掴んだ。「なにを言ってる?」
「野球は上手くてもセックスは下手らしいな、お前は。みちるちゃんは満たされてなかったみたいだぜ? なんせ三度目くらいから俺にせがんできたからな」
僕は比留川を思いきり殴り飛ばした。全身が熱くなり、拳がぶるぶると震えた。ベンチ内がしんと静まり返る。
倒れ込んだ比留川を見下ろして僕は訊いた。「いま言ったことは本当か?」
比留川は血の混じった唾を地面に吐き出し、蔑むような目を僕に向けた。
「みちるちゃんに訊いてみたらどうだ?」
殺す――。
僕の中で何かが弾ける音がした。
比留川の顔面をスパイクの底で蹴り飛ばした。
後頭部をコンクリートに激しく打ちつける。
比留川がうめき声を上げて身悶えする。
奴に飛び掛かる。
やめろ、という声がして、チームメイトが僕を羽交い絞めにした。
羽交い絞めにされた僕の心臓を狙って、銃剣の切っ先が迫る。
スローモーションを見ているようだった。突進してくる敵兵の残忍な笑み、返り血を浴びた軍服、シモノフSKSカービンの先端で鈍い光を放つ凶刃。すべてが鮮明に僕の網膜で像を結んだ。
逃れようのない危局。もはや死を覚悟するしかなかった。僕は恐怖におののき、固く目を閉じた。
――銃声が鳴る。
初めに一発、続けざまに二発。
目を開けると、僕に襲いかかってきた敵兵が倒れていた。腐葉土に顔をうずめ、こめかみのあたりから血を流している。
僕を羽交い絞めにしている屈強な兵士が耳元でぼそりと呟いた。『Fuck』と言ったに違いなかった。
二時の方向で人の気配がした。背丈ほどもあるシダの葉を掻き分けて、小銃をかまえた男が一人現れた。ひょろ長い体型をしたその男は、僕と同じ格好――捕虜に支給された作業服を着ていた。
「お、ぜんぶ命中してるな」男が言った。
羽交い絞めにしている腕が唐突に解かれ、背後の敵兵が何ごとかを叫んだ。
振り返ると、ライフルをかまえようとしている。銃口がひょろ長い男に向けられるその刹那、敵兵の眉間に弾痕が穿たれた。膝から崩れ落ちる巨躯に数発の銃弾が撃ち込まれる。敵兵は死のダンスを舞いながら絶命した。
すべてが一瞬の出来事だった。
九死に一生を得た僕はその場にへたり込み、深々と安堵の息を吐いた。
「……ありがとう。助かったよ」
「なあに。かまわんよ」あっけらかんと男が答える。
「あんたも収容所から逃げてきたのか?」
「ああ、そうだ。そんなことより――」彼は死体からライフルをぶん取り、僕のほうに放り投げた。「丸腰でここから脱走しようなんて自殺行為だぜ?」そう言ってにやりと笑う。
「……そうだな。すまん」僕はライフルを拾い上げ、装填された残りの弾を確認した。
辺りは静かだった。密林を抜ける風の音、どこか遠くにいる野鳥の鳴き声、それ以外は何も聞こえない。
「急いだほうがいい」彼が言った。「敵の追っ手はまだ統制がとれてねえ、動くなら今だ。このジャングルさえ抜けちまえば奴らも深追いはできねえはずだ」
「OK。行こう」
太陽の位置から進むべき方角を割り出し、僕たちは移動を始めた。
移動しながら話をしているうち、二人には驚くほどの共通点があると判明した。同郷の人間で、同じ兵学所を出ており、配属された部隊まで一緒だった。共に独身という点も同じだ。ただ、徴兵された時期だけは違っていて、彼が敵軍の収容所にぶち込まれたのは、僕より半年ほど後ということだった。これだけ共通点があると、親近感を抱かずにはいられない。そして何より、彼は僕の命を救ってくれたのだ。
やがて小さな川にぶつかった。歩いて渡れる程度の細流だ。すでに樹木の密度は低くなり、川の向こう岸は潅木がぽつぽつと生えているだけだった。
ジャングルを抜けたのだ――。
太陽は沈みかけ、辺りは薄暗くなっていた。川縁に向かおうとすると、「待て」と彼が言った。
「ここは気をつけなきゃいけねえ。この先に集落があるんだ。日が暮れる頃、敵の士官どもがそこから基地に戻ってくる。このまま進むと鉢合わせになっちまうかもしれねえ」
「夜まで待つのか?」
「そうしたほうがいいな」
岸の手前に腰ほどの高さの岩場があったので、そこに身を潜めて日が沈むのを待つことにした。岩に背をつけるようにして、二人ならんで屈み込む。彼がポケットから何かを取り出し、僕に差し出した。
ガムだった。
「ありがとう」と言って僕は一枚つまみ取る。「そういえば、あんたの名前をまだ訊いてなかったな」
「ヒルカワってんだ」彼が答えた。
ヒルカワ? どこかで聞いた覚えがある。どこだろう……どこかで確かに耳にした……。
「ところでお前さん、故郷に女はいるのかい?」ヒルカワが言った。
「あ、ああ……。帰国したら結婚を申し込もうと思ってる女がいる」
僕はみちるの顔を思い浮かべた。みちると話したい、みちるを抱きしめたい――。思慕の念が洪水のように押し寄せてくる。
「そいつは諦めたほうがいいな」とヒルカワが言った。
僕はヒルカワの顔を見た。「なぜだ?」
「みちるちゃんは俺のモノだからだよ」
ヒルカワの口からみちるの名前が出たことに度肝を抜かれた。
「みちるを知ってるのか?」
「知ってるもなにも、俺のモノだと言ったろう?」
「言ってる意味がわからない。どういうことなんだ?」
「みちるちゃんはな、もう俺なしじゃ生きていけねえよ。俺がそういう女に仕立て上げてやったのさ。このカラダと、クスリを使ってな」
背筋に悪寒が走った。ヒルカワが口にした不吉な言葉が、僕の脳裡で繰り返される。
「……冗談だろう?」
「お前さんが国を出たあと、みちるちゃんがえらく寂しそうにしてたもんでな。だからこの俺が手を差し伸べてやったというわけさ」
ヒルカワは薄笑いを浮かべ、ガムを口の中に放り込んだ。
「おい……」僕はゆっくりと腰を上げた。
立ち上がった瞬間、目がくらむほどの光が僕を包み込んだ。川の向こう岸から強烈なライトが照らされていた。
ライトに照らされたスタビライザーにワイヤーを固定する。
僕は機体を軽く蹴って、宇宙空間に身を漂わせた。
ヘッドセットの通信機で作業が完了したことを報告し、ブリッジに向かって親指を立てる。
ワイヤーに引かれて小型艇がゆっくりと動き出した。ぽっかりと口を開けた巡察艦リーヴストン号のハッチに機体が飲み込まれていく。
僕はバックパックの推進装置を操作し、後を追うように艦艇へと向かった。
――艦長からクルーへの説明が行われたのは、十四時間後だった。
救助した小型艇はヒートシンクの破損により、約七十日間宇宙を漂流していたらしい。乗組員は一名。民間人のパイロットで、すでに身元の照会も済んでいる。さいわい生命維持システムは正常に作動していたため命に別状はなく、回復には二、三日を要するとのことだ。機体のリペア、及び目的地であるUY3コロニーまでの護送をリーヴストン号が請け負うことになった。
ブリーフィングを終え、クルーたちが三々五々に散っていく。
通路に出たところで後ろから声をかけられた。
「よかったじゃない」
通信士のマーラだ。悪だくみをする猫みたいな顔で僕に近づいてきた。
「なにがだい? マーラ」
「女の子らしいわよ」そう言って僕を肘で小突く。
「小型艇のパイロットがかい?」
「ええ、そうよ。それもとびっきりキュートな子らしいわ。医療班のヤンにこっそり教えてもらったの」
「なるほど。マーラとしては期待が外れて大いに失望しているわけだね」
「あら、言ってくれるじゃない。あいにくだけど男には不自由してないの。だから私を口説こうとしても無駄よ?」
「検討してみるよ」僕はわざとらしく落ち込む仕草を見せた。
「あなたねえ、そろそろまじめに恋人を探さないと皆に置いてかれちゃうわよ?」
肩をすくめる僕に、尚もマーラの説教が続く。
そんな取り留めのない会話を交わしながら、僕たちは居住エリアへと向かった。
――小型艇救助から二日後。
娯楽室のラウンジで仲間たちと雑談に興じていると、珍しく艦長が姿を見せた。背後に誰かを従えている。
「よおし、皆そのまま聞いてくれ。先日、本艦が救助した小型艇のパイロット、ミチル・ハタ君だ。仲よくしてやってくれ」
艦長の後ろにいた人物がおずおずと前に進み出た。
「ミチル・ハタです……皆さんは命の恩人です。本当にありがとうございます!」彼女は深々と頭を下げた。
全身を電流が駆け抜けた――。同時に二つの感覚が僕を襲う。一つは強い既視感だ。理由はわからない、本当にそうなのかもわからないが、彼女とはどこかで会ったことがある。そして、もう一つはそう――ひと目惚れというやつだ。
幼い顔立ちにアンバランスなほど成熟しきった身体。短くカットされた艶やかな黒髪。寝癖がついているところがかえってチャーミングだった。
そこかしこで彼女を歓迎する声が上がっていたが、僕にはそれが遠くで発生する無害なノイズに感じられた。僕の目には彼女しか映っていなかった。
「UY3コロニーへの到着予定は二十六日後だ。いいか皆、その間に彼女にちょっかいを出そうなんて思うな。そんなことをした奴はマイナス二百七十度の船首で一人タイタニックを演じてもらう」
クルーたちの非難と笑いの入り混じった声を背に受けて、艦長がラウンジを出ていく。彼女は皆に一礼してから、艦長の後に従った。
「どう? 思わず抱きしめたくなっちゃうくらい可愛い子でしょ」
いつの間にかマーラが横にいた。
「……ああ、そうだね」
僕は茫然と立ち尽くしたまま、ミチル・ハタの後ろ姿を眺めていた。
――小型艇救助から十二日後。
少しずつミチルへの接触を繰り返し、今ではクルーの中で僕が一番親しく話す存在となった。
ミチルはUY3コロニーで宇宙建設工学の研究にたずさわっており、コロニー間の移動中に今回の遭難に見舞われたそうだ。
ミチルと話すのは楽しかった。話題が尽きることはなく、次から次へと止めどなく言葉が溢れ出てくる。二人はこれ以上ないというほど相性がよく、物事の考え方や人生観まで、何もかもフィットしているように感じられた。
ミチルがそばにいるだけで胸が躍る。僕が何かを言ってミチルが笑ってくれたら、最高に幸せな気分になれた。
間違いなく、僕はミチルに恋をしていた。
――小型艇救助から二十一日後。
僕とミチルの仲は、すでに艦内でも周知のものとなっていた。
最初の頃でこそ、ミチルにアプローチをかける男や、僕とミチルの間に割って入ろうとする男が何人かいたが、今ではそんな連中も近づいてこなくなった。民間人であるミチルの身を案じていた艦長も、僕が誠実に接していることを知って黙認してくれたようだった。
暇さえあれば二人は顔を合わせ、心地よい時間を共有していた。まだ相手に対する恋愛感情を口にしてはいないものの、互いが強く惹かれ合っていることは二人とも確信していた。
食堂でいつもの席に陣取っていると、ミチルが朗らかな笑みをたずさえてやってきた。
「やあ、ミチル。研究室に提出するレポートは書き上げたのかい?」
「うん、さっきEMW通信でチーフと話したんだけどね、提出は無期限にしてくれるって言ってたからね、戻ってから書くことにする」
ミチルはトレイをテーブルの上に置き、僕の真向かいに座った。今日も一段とエキセントリックな寝癖がついている。やはりチャーミングだ。
「それはよかった。ミチルの心配事が解消されて僕も嬉しいよ」
「うん、ありがとう。ミチルも嬉しい」満面の笑みでチョリソに噛りつく。
頃合いかな、と考えていた。そろそろ、ミチルへの想いを告白しておきたかった。何しろUY3コロニー到着まで、あと七日間しか残されていないのだ。護送を終えた時点でミチルとの繋がりが断たれるなど、考えられないことだった。それまでに二人の絆を確かなものにしておかなくてはならない。僕にとってはもう、ミチルがすべてだった。
ふと、視線を感じた。ミチルの背中ごし、三つ先の長テーブルの端に座る男がこちらをじっと見ていた。
機関士のヒルカワだ。
僕は思わず舌打ちをした。艦内でもっとも関わり合いたくない危険人物、それがヒルカワだった。奴に関しての黒い噂は絶えない。リーヴストン号に搭乗して間もない頃、何人もの女性クルーたちが奴の魔の手に落ちた。おかしな薬を使って意識が朦朧としている相手をレイプする、という人外の行為を繰り返していたのだ。マーラも奴に二度犯されていた。ヒルカワという男は紛れもない鬼畜だった。
「どうしたの? 怖い顔なってるよ?」ミチルの呑気な声。
「ん……そうかい? なんでもないさ、ミチル」
ミチルに視線を戻し笑顔で答える。ここのところ大人しくしているヒルカワだが、気をつけなければならない。奴をミチルに近づけてはいけない。絶対に――。
ヒルカワはグリーンティを飲み干してから席を立った。トレイをカウンターに戻し食堂を後にする。出ていく時、僕を見て笑ったような気がした。
――小型艇救助から二十六日後。
予定通り、明後日にはUY3コロニー到着となる。ミチルがリーヴストン号を降りる日がやってくるのだ。
僕はまだ、ミチルに告白していなかった。いざその時になると躊躇して口に出せないでいた。もし拒まれてしまったら――そう考えると怖じ気づいてしまう。我ながら、何とも不甲斐ない男だ。
しかしもう時間がない。迷っている暇などないのだ。
これから、この日最後の仕事である船外メンテナンスに取りかかるところだった。エンジニアロボットではチェックしきれない艦艇外壁の細部を点検する作業だ。この仕事が終わったら、ミチルに僕の想いを告げると固く決心していた。
専用の船外活動ユニットを着用し、デッキから宇宙空間に出る。班ごとに分かれて、それぞれの持ち場へと向かった。僕の担当は船体右側後部、第三艦橋から百八十インチの間隔でならぶ船窓のジョイント部分をチェックすることだった。
ミチルのことで頭が一杯になり、作業に集中できなかった。ミチルへの告白を頭の中でシミュレートする。今までに何度も繰り返してきたことだ。
その時、作業のために張りついていた船窓から、ミチルの姿が目に入った。
後ろ姿だが、ひと目でミチルだとわかった。あの寝癖は間違いなくミチルだ。機材庫のならぶ通路で一人立ち尽くしている。こんなところで何をしているんだろう――?
僕は作業の手を止めて、船内の様子を眺めた。
通路の前方から男が一人歩いてくる。
ヒルカワ――!
片手を上げ、親しげな笑みをミチルに向けていた。ミチルがヒルカワに一礼する。
僕の心臓は狂ったテクノミュージックのようなリズムを刻み始めた。
ヒルカワは馴れ馴れしくミチルの肩に手を置き、通路の先を指差して何やら話しかけていた。
肩に置いた手を腰のあたりまで下ろし、ミチルを促すようにして歩き出した。
何のつもりだヒルカワ……。
船窓からの死角に入り、二人の姿が見えなくなった。僕は慌てて隣の船窓に移動した。
ミチルの腰に手を当てたまま、ぴたりと身を寄せて歩いている。
その手をどけろヒルカワ……。
再び死角に入った。急いで隣の船窓に移る。
ミチルの耳元に顔を寄せて話しかけていた。
何を話している……ミチルに近づくんじゃない……。
死角に入った。隣の船窓へ。
この先はすぐに居住エリアだ。まさか、ミチルを部屋に連れ込むつもりじゃないだろうな……。
死角。次の船窓へ。
ヒルカワ……貴様……。
死角。次の船窓。
居住エリアに入った。やめろヒルカワ……。
死角。次の船窓。
レイプ。クスリ。ミチル……。
死角。次の船窓。
レイプ。クスリ。レイプ。
死角。次の船窓。
ミチル。レイプ。クスリ。レイプ。ベッド。ミチル。
死角。次の船窓。
レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ。レイプ――。
死角。次の船窓。
ヒルカワが部屋の前で立ち止まった。カードキーをリーダーに通しドアが開く。
ミチルは戸惑った様子で、ヒルカワの顔と部屋の中を交互に見ていた。
ヒルカワが背中を押すようにして、ミチルを部屋に入れた。
殺す――。
不意にヒルカワが振り返り、こちらに顔を向けた。船窓ごしに僕を見ている――。
つかの間、時の流れが静止したかに思えた。
ヒルカワが舌なめずりをする。
僕の殺意が増幅される。
セラミックスの外壁に隔てられた、わずか六十フィートの距離が果てしなく遠い。
そしてヒルカワは不敵な笑みを浮かべ、部屋の中に消えていった。
不敵な笑みを浮かべ、じりじりと間合いを詰めて来る。
微塵の隙も窺えない――。彼奴の正眼に構えた太刀先が妖しく月光を照り返す。
生唾を飲む。柄を握る掌に汗が滲む。
定めし瞬刻にて雌雄を決するに相違なかろう。
しかし妙だぞ……何だって比留川と斬り合う破目になっちまったんだ?
一陣の風。枝垂れ柳のざわめき。何処かで野良犬の遠吠えが木霊した。
開けっ放しのトイレの小窓から、野良犬の遠吠えが聞こえた。
長い小便を出し終えて身震いを起こす。洗面台のひび割れた鏡に映った自分の顔を見てげんなりした。酷い顔だ。
明らかに悪酔いしていた。しかし飲まずにはいられなかった。そういう気分なのだ。
とくに落ち込むようなことがあったわけでもなく、もちろん目出たいことがあったわけでもない。だけど酔いたい夜というものがある。今日はそんな日だった。
得体の知れない感覚に襲われていた。何か大切なものを失ってしまったような喪失感。取り返しのつかないことを仕出かしてしまったような悔恨。理由のわからない虚無感。それらの感覚がごちゃ混ぜになり、僕の内で無秩序な渦を成していた。
冷水で大雑把に顔を洗い、しわくちゃのハンカチで拭いてから、もう一度鏡を見る。やっぱり酷い顔だ。酒臭いため息を一つ吐き、立てつけの悪いドアを開けて店内に戻った。
カウンターの席に戻り、マスターに声をかける。
「ハイネケンちょうだい」
禿げてるのかスキンヘッドなのか、はっきりしない頭をした初老のマスターが、鈍重な動作でビール瓶を出した。「あいよ」
らっぱ飲みしかけた時、カウンターの端に女が座っていることに気がついた。僕がトイレに行っている間、店に入ったらしい。
ん――?
見覚えがあるような気がした。口に当てたビール瓶を下ろして女を観察する。
幼い顔立ちに短くカットされた艶やかな黒髪。頭頂部のあたりが寝癖のように跳ね上がっているのが目についた。タイトなニットが豊満な胸をやたらと強調している。
女をしげしげと眺めていると、こちらに顔を向けたので慌てて目を逸らす。
確かにどこかで会った気がする。アルコールの回った頭で懸命に記憶を探ってみたが判然としなかった。
それにしても――ずばり好みのタイプだ。女を意識しながら、ちびちびとビールを飲む。
「ねえマスター。あの子はよくこの店にくるの?」小声で訊いてみる。
僕、女、僕、とたっぷり時間をかけて視線を移し、マスターがようやく口を開いた。
「いいや。初めて見る顔だねえ」
へえ、と答えてからビール瓶を口元にやり、さりげなく女を見る。
カウンターに座っているのは僕と女だけだった。店内を見回すと、奥のほうでテーブルに突っ伏して寝ているスーツの男が一人いるだけだ。
女に声をかけようかと考えていた。話をすればどこで会ったのか思い出すかもしれないし、勘違いならそれでかまわない。とにかく、僕は女に強く惹きつけられていた。
ビールを飲みながら考えを巡らせていると、女も僕のほうをちらちらと見ていることがわかった。
脈ありかもしれない――。うまくいきそうな気がしてきた。第一、こんな店に一人で来るくらいなのだから、その気がないというのも不自然じゃないか?
よし、と心の中で呟く。三分の一ほど残っているこのハイネケンを飲み終えたら女に声をかけよう。途端に気力が満ちてきた。
空になったビール瓶を勢いよくカウンターに置いて席を立とうとした時、狭い入り口のドアが開いた。
男が一人店に入ってきた。
あれ――?
その男もどこかで会ったような気がした。
ひょろ長い身体に寸足らずの黒いジャケットを羽織っている。切れ長の目でせわしなく店内を見回してから、カウンターのほうに寄ってきた。終始、薄笑いを浮かべていた。
「やあ、ヒルカワさん」マスターが上機嫌なのか不機嫌なのかよくわからない顔で男に声をかける。どうやら常連客らしい。
「よう店長。いつものね」
ヒルカワと呼ばれた男は、女から一つ間を置いたスツールに腰かけた。ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、店のマッチで火をつける。
僕は思わず舌打ちをした。女に声をかけるタイミングを失ってしまったからだ。しかし――二人とも見覚えがあるなんて妙だな。
ヒルカワは、ビーフジャーキーを噛み千切りながら、露骨な視線を女に向けていた。女もそれに気づいているらしく、落ち着かない様子だった。
嫌な予感がする。かと言ってどうすることもできず、僕はただ空になったビール瓶を弄んでいた。
ヒルカワが女の隣に席を移した。
くそっ――。
身を乗り出して女に話しかけている。女は愛想よく応じてはいるものの、急な事態に戸惑いを見せていた。
「マスター! ハイネケンちょうだいよ」苛立ちを抑えるには飲むしかなかった。
ヒルカワは手馴れた様子だった。奴にとってはおそらく、女を口説くことは茶飯事なのだろう。女は幾分警戒を解いた雰囲気で、屈託のない笑顔を見せ始めていた。
僕の苛立ちはつのる一方だ。追加したビールがたちまち空になる。あの野郎……さっさと振られて帰りやがれ。
ヒルカワは女のスツールに手を置き、必要以上に顔を寄せて話しかけていた。女はすでにリラックスしきっている様子だ。
「マスター! ハイネケン!」まだまだ酒が足りない。
僕のほうが先に目をつけたんだぞ――。あの野郎さえ現れなかったら、今頃は二人で店を出ていたかもしれない……。目の前にならんだ空き瓶で、奴の頭を叩き割ってやりたくなった。
不意にヒルカワが立ち上がる。「店長、お勘定ね」
やっと振られたか――。僕はほくそ笑んだ。
しかし、女も席を立った。
おい……。
ヒルカワとマスターがレジの前で何やら談笑している。二人の男は薄気味の悪い笑顔を突き合わせていた。
女は入り口のドア付近に立っていた。
支払いを終えたヒルカワに、女が深々と頭を下げる。さも当然だと言わんばかりに、ヒルカワが女の腰に腕を回す。
そのまま身を寄せ合うようにして、二人は店を出ていった。
――後悔。屈辱。敗北感。
僕の手が小刻みに激しく震えていた。アルコールのせいなのか、感情の乱れのせいなのか、どちらが原因なのかわからなかった。
誰でもいい。誰でもいいから殺してやりたい――。そうすれば、すっきりするんじゃないだろうか。
時間をかけてたっぷりと痛めつけるんだ。思いつくかぎり惨たらしく――。
黒く濁った情念が理性を侵蝕し、僕を支配しつつあった。
規則正しい単調なリズム。
頭が痛くて目が覚めた。
どこだここは?
電車だ。電車の中だ。
始発の電車に乗ったんだっけな――?
それにしても酷い頭痛だ。
規則正しいレールの音が頭に響く。
どうしてこんなに頭が痛いんだ。
ああ、酒が残ってるからか。
ん? 酒なんか飲んだっけな――?
バーに居たような気がしないでもない。
長い夢を見ていた気がする。……いや、それも違うな。
痛い……。頭が割れそうだ。
吐き気もする。最悪の気分だ。
それはそうと、なんでこの車両には僕しか乗ってないんだ?
車内アナウンスが聞こえる。
ああ……次の駅か。次で降りないとな。
帰ろう。早く家に帰りたい。
……ん? なんだあれは。
茶色い紙袋――誰かの忘れ物だろうか。
札束でも詰まってればいいんだが。
ちっ。なんだこれは。
ビデオカメラか――。
液晶モニターを見ながらカメラの位置を微調整する。
被写体が画面中央に映し出されていることを確認し、カメラの位置を固定した。
照明をつけ、被写体の近くまで歩み寄る。
煙をたっぷりと肺に入れてから吸いさしを床に落とし、ローファーの踵で踏み消した。
これから始まることを想像すると、興奮を抑えきれなかった。加速度的に脳内麻薬が分泌される。
これでようやく、みちるが僕のモノになる――。
さて。ショーの幕開けだ。
僕はみちるの頭に被せられた紙袋を乱暴にむしり取った。
読了ありがとうございます。忌憚のないご意見、ご感想、アドバイス等をいただけると幸いです。