第12楽章:アン・ドゥ・トロワで武者修行(前編)
梅雨も過ぎてだいぶたつと言うのに、シトシトと気だるい小雨の降ったあくる日。
たまたま一緒になった学校の帰り道で、唐突に弟は言った。
「おねえちゃんって、さいきんエドワードこうしゃくと仲良いよね。前はずーっと『じゃけん』にしてたもん」
「……へっ?」
――なん、ですと?
じゃけんって、……“邪険”の事?
思わぬ単語にびっくりし過ぎて思考停止したあたしに、丞は更なる追い討ちをかけてきた。
「やっぱりエドワードこうしゃくっていい幽霊なんだよ。ぼく、おねえちゃんとこうしゃくが仲良くしてる方がうれしいな」
くるくる傘を回して歩くかわいい弟は、ああ、ニコニコと言う形容詞がぴったりの表情で……本気で困るくらい満面の笑みだ。
バックに流れるBGMが雨音なのがピッタリ過ぎてなんだかむなしい。
取り敢えず黙っている訳にもいかなくて、あたしは無理矢理の苦笑いで返事をした。
「そ、そーかな」
「そーだよ。だって、おねえちゃんエドワードこうしゃくに怒ってばっかりだったもん。あーゆー『りふじん』な事はしちゃいけないんだよ」
り――理不尽、ですか。
「そ……そーかな」
「そーだよ。それに塩まくのはイジワルだよ。こうしゃくだって悪いことばっかりしてるわけじゃないもん」
うわあ――だいぶ痛いところを突いてきやがったコイツ。
無垢な言葉ほど容赦がないから手厳しい。しかも最近の小さい子はやたら難しい単語の使い方が上手いから、言いくるめるのも大変だ。
でも、確かに丞の言う通りなのだ。
あたしはエドワードが何かやらかす度に怒ったり、お清めの塩を撒いたりしていた。イヤそれはエドワードが問題起こすから自業自得だとは思うんだけど。
それでもエドワードはいつもそれを笑って受け止める。受け流してるとも言えるか。まあ、たまにヒステリックに泣いてるのはしょうがない。
ともかく、エドワードは凄く寛容なのだ。あたしや家族のする事に関しては。
だって御札を貼られようが徐霊師を呼ばれようが、エドワードが家族に何かした事は一回もない。――無自覚で何かしたのをカウントしないなら、だけど。
あれ、でもそれって、客観的に見たら『ワガママで怒りっぽい女の子を温かく見守る優しい紳士の図』に……なる、のか?
そんなまさか!
だってアレはどー見てもストーカー行為だ。一般女子の感覚で言ったら間違いなく“しつこい男”ど真ん中だ。て言うか住み込みってストーカーの域を超えてる。
でも、小学校低学年の男の子から見たらどうなんだろう。
まさかイジワルしてるのはあたしの方になるんだろうか。
ドツボにはまった思考が雨音と共にぐるぐる渦巻き出す。
そんなあたしの心情を悟ってか、丞は慌てて言い添えた。
「でもっ、それは前までだったの! 今は前みたいにエドワードこうしゃくにやな事しないし……」
……間違いない。低学年男子の目線で『わるもの』はあたしだ。
うわー神様仏様、案外ヘコみます。
「でも、今はとっても仲良いよ。そのほうがエドワードこうしゃくだってよろこぶし、ぼくもうれしい。仲良しがいちばんだよ」
「まあ……丞がそう言うなら、なるべくケンカしないようにする、かな」
しぶしぶの(もちろんそう見えないようにした)宣言に、丞は本当に嬉しそうにはしゃいで水溜まりを飛び越した。
「約束だよ! おねえちゃんゆびきり!」
「え……あ、うん」
指が千切れるんじゃないかってくらい、腕をブンブン振る指切り。しかし“ゆーびきーりげんまん”までしちゃったら、もう姉の立場として約束は守らざるを得ない。
子供の“約束だからね”は絶対だ。それこそ大人がしてくれた約束なんてものは、ホントのホントに絶対なのだ。あたしは大人じゃないけどお姉さんだし高校生だから、丞は絶対裏切らないと思ってるだろう。
ましてや、丞はあたしより、ドワードの味方だ。
うう……困った事になってしまった。
唯一の救いと言えばエドワードがこの場に居ない事だけ。丞がバラしたらなんの意味もない、ペラッペラの紙の防波堤だ。
口止めは――無理だな。絶対。
ああちくしょう泣けてくるんですけど自業自得ですか神様仏様!
「お、おねえちゃん」
「へ?」
気が付けば、大分後ろで丞が立ち止まっていた。
「なにやってんの?」
「だって、なんか、変な人が……」
あたし達の向かう先を指差したまま丞は立ち尽くしている。その表情が酷く固い事にあたしはやっと気が付いた。
「何……」
振り返ってそれを目にした瞬間。
あたしは言葉を失った。
「おや、こんにちは。久しぶりだね――茉莉ちゃん」
築十五年の我が家の前。
真っ黒な蝙蝠傘を差した銀縁眼鏡で着物の男が、ちょっと真似できないくらい爽やかな笑顔で片手を挙げた。
思わず傘を取り落としかけたのは言うまでもない。
「おねえちゃん、しりあいの人?」
「……とっても不本意だけど、そうだね」
「え?」
すっごく久しぶりのそのツラ。
それでも忘れるわけがない。忘れるもんか。
この、腹が煮えくり返るくらいの韓流スター顔を!
あたしはケンカでも仕掛けに行く勢いで徐霊師・ナチに詰め寄った。
「こんにちはっ。お久しぶりですねナチさん何の用ですかっ」
「うん、刺々しい事この上ない挨拶ありがとう。ついでだけど、笑いたくないなら無理に笑わなくていいよ? 顔引きつってるから」
……さらりと人の気遣いをぶち壊しやがってちくしょう。
猫かぶりの徐霊師は、湿気なんてどこ吹く風の爽やかな営業スマイルだ。
暴力主義はいけない。けど、ああ、コイツの事だけは本当に殴り倒したい。
取り敢えずお言葉に甘えて、無理して笑うのはやめた。
「……あたしは質問したんです、答えて下さい。何してるんですか? ひとの家の前で」
「やだなあ、茉莉ちゃん僕が前に言った事忘れたの?」
「忘れた……?」
アンタの事は存在すら忘れてたけど、何をされたかは忘れちゃいないんだからな、このやろう!
しかし当の徐霊師が言いたかったのはそんな事とは関わりなかったらしい。ヤレヤレと言うように首を振って、彼は着物のふところから“それ”を取り出した。
「僕は『いずれまた』と言ったんだ。それとこれ、見覚えあるよね」
「…………あ」
ペラリと突き出されたそれに、見覚えは――もちろんある。
「お、おふだ、ですねえ……」
「そうだね。ご丁寧にも誰かさんが元の札をそっくり模写した御札だね」
「…………」
――ちっ。やっぱりバレたか。まあ、書いたのは彼本人なんだから、そりゃバレるよね。
ニコニコと顔だけは無害に微笑ませて、徐霊師・ナチはすっと滑るように腰を屈め、あたしの顔を覗き込んだ。
降り続ける雨が二つの傘に遮られ、曇り空より濃い影が目前に落ちる。影の中、光る銀縁のフレームだけが不気味に明るい。
何顔なんか近付けてんの……とは言い難い威圧感に、思わず息を飲んだ。雰囲気に圧倒されてか、後ろにいる丞すら立ち竦んだままだ。
「茉莉ちゃん。君は『見えるタチ』の割りに、こういう事に極端に疎い。『周りに隠して過ごしている』からそうなってしまったんだろうけど――非常に危うい事をするね、君は」
「なっ……何が、ですか――」
「コレの意味を知らないのか、と言ったんだ」
ペラリ、と目の前に突き出されたのは、あたしの書いた嘘っぱちの御札。
何の力もない、エドワードさえ防げない、ただの紙っ切れ――の、筈だ。筈なのに。何を言うんだコイツは。
さっぱり飲み込めないあたしに、ナチはさも当然かと言わんばかりの溜め息を吐いた。
「そもそも何故、御札に退魔の法力が宿ると思う?」
たいまのほうりき――退魔の、法力?
唐突な呪文じみたセリフに思考が一歩ばかり止まってしまった。
「……知らないのか」
「知りません」
「だろうね、女子高生だし」
今コイツ全国の女子高生相手にものすごく失礼ぶっこいたよな。
しかし淡々と進む話に、あたしはつっこむタイミングを逃してしまった。
「御札はね、清めの塩や御酒の『浄化』、御守りや破魔矢の『加護』とは違って、それ単体に『力』はないんだよ」
「……え」
「アレは本来『挑戦状』や『果たし状』の類いだ。要はそれを使う者の力の媒介、相手への脅しと牽制。そう言ったところかな」
聞き慣れない単語にうまく思考が着いていかないんだけど――だけど、つまりそれは。
トンでもなく、まずい事をしていたと、そう言う事か。
それに思い至った瞬間、サアッと頭から血の気が引いた。
待って。それって、ちょっと、あたしが書いたんだから――。
「あた、あたしから、幽霊にケンカ売った事になるの……?」
「ご明察」
徐霊師ナチは屈めていた腰をすっと伸ばした。重なっていた傘が離れ、思い出したようにパラパラと雨の弾ける音が耳元に響く。視界に降りていた影はもうない筈なのに、むしろ辺りの暗さが増した気さえする。
背後でゴクリと喉の鳴る音がした。丞も話の意味と危うさに気付いたのだ。
徐霊師は相変わらず笑っている。
「馬鹿な事をしたね……なまじ力があるのも考え物だ」
笑みを形作る口元とは対照的に口調は冷ややかだ。当然だろう。
だってあたし、トンでもない事を――ん?
「あ、れ? ……あの、あたしあなたが家に来た後一回も、悪霊とか幽霊とかで問題があった事ないんですけど……?」
そうだよね。そうだよな。自問自答の解答はそれだけだ。
だって実際、エドワード以外には全く絡まれもしていない。あ、桜の神様らしき子が来た事はあったっけ。でもアレは別に問題らしい問題には発展しなかった。ご近所さんの桜が五秒で満開になっただけで……まあ、迷惑っちゃあ迷惑だったけど。
傘の影からそーっと徐霊師を覗き見る。
猫かぶりの徐霊師、ナチはやっぱり笑っていた。……微妙にムカつく。
「そりゃあそうだろうね。エドワード卿の強い怨ね……じゃなくて、加護が君の家を囲んでいるんだ。その力の方が君の力より『何倍も』強い。寄って来たくてもこれは無理だね」
「ちょ、おんねんって……」
「言葉のあやだよ。気にしない気にしない」
キッパリ言い切られてもはいそうですかで流せるかそんな物騒な単語。
しかし再びこちらに視線を向けた徐霊師からは笑みが引いていて、とてもつっこみを入れられる顔ではなかった。美形はだからイヤなんだ。無表情がふつーの人の三倍は怖い。
「とにかくだ。君は守って貰っているから無事にすんでいるだけで、少々危なっかし過ぎる。いつか家族や周りを巻き込む事にもなりかねない危険因子だ」
「……キケンって……」
そんな、人を時限爆弾みたいな言い方しなくたって……。
けど実際にその可能性はなきにしもあらずだから、あたしに反論の余地はない。
実際、以前はそうだった。怪我や病気がなかっただけで、怖い目にあったのは一度や二度ではなくて。
ふと、この人は案外、そんな事を見越して気にしてくれているのかなと思った。だってこんな横暴人間でも色々見えてる訳だし、それで苦労もした筈だ。きっと職業柄、あたしなんか比じゃないくらい色々と。
そう考えたら、なんだか余計いたたまれない気持ちになってきた。
うう……軽率な行動はするもんじゃない。
「そこでだ――修行、してみないかい?」
沈黙は三拍。
停止した思考が動き出した、その瞬間。
「………………はあっ!?」
思いの外デカい声がお腹の底からこぼれて、心底恥ずかしい思いに襲われた。
いやいやいや。そうじゃない恥ずかしがってる場合じゃない。
「修行って――!?」
「ご両親の了解はたぶんすぐに得られるよ。お母様にはお話してあるから……じゃあ、またね」
好き勝手に話を終わらせて、猫かぶりの笑みを浮かべた徐霊師はさっさと帰って行った。まじで、帰って行った。
ポカンと口を開けて取り残されたのはあたしと、後ろで怯えていた丞。
な、何だったんだ――今のは。
相変わらず降り続ける雨の下、あたし達は家に入る事も忘れて玄関前に突っ立っていた。
「お……おねえちゃん、どういうこと? しゅぎょう、って?」
「ゴメン、何が何だか、あたしにもさっぱり……」
ただ何となく嫌な予感はする。物凄くする。
せっかくの夏休みが始まるのに、どうしてだろう、もんのすごぉく嫌な予感。
どうやらあたしは幽霊でもないクセに、あの徐霊師とはすこぶる相性悪いらしい。
――あ。
幽霊と言えば、エドワードを忘れてたけど大丈夫だったんだろうか。あたしのいない時に何かしてないよね。
「お帰り、僕のマリィ! おや? ジョーと二人してどうしたんだい。そんな所で」
まるでタイミングを見計らったかのように、ドアからヒョコッっとエドワードの首が飛び出した。
「わあ、エドワードこうしゃく!」
「エドワード!」
拍子抜けするくらい無事だよコイツ……心配して損した。
首だけエドワードに丞がよろこんでバタバタと駆け寄ってゆく。どうやら少しは混乱が収まったらしい。まだちょっと、表情は固い。
丞はあの徐霊師が以前何をしたのか知らないのだ。それなのにただ怖い思いだけをさせて、ヤな巻き込み方をしちゃったかも知れない――そう思ったら、心の奥がちょっと痛んだ。
そして、その日の夜。あたしの物凄く嫌な予感は、ものの見事に的中したのだ。 |