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  Absolute zero. 作者:清明
第一章 装填
『ミセリコルディア』
 Absolute zero.

 第一章 装填


『ミセリコルディア』

 耳障りなレッドアラートは未だに鳴り響いていた。
 傭兵稼業も長いので実戦は幾度となく経験してきたが今回が最悪のケースのようだ。軍の研究施設の警備要員としてここにやってきた。退屈な任務内容には飽き飽きしていたが、平和なのもたまには良い。と、思い始めていたのに、安寧は長く続かないものらしい。
 規則正しく、それでいて無機質な通路が、枝分かれしながらどこまでも続いている。
 等間隔に顔を覗かせる通風口の格子。通常電源は落ち、非常灯の醸し出す昏闇が辺りに立ちこめていた。長い時間、大音量の警告音に晒されているせいか、それ以外の音は既に耳に届いては来ない。それが、不気味だった。
 少女は舞い降りた。
 歩調には何の躊躇いもなく、ただ、淀んだ地下の空気を切り裂いて凛然と疾駆するその姿。淡々と薄ら寒い通路を踏みにじる軍靴。身を戒めるは、実用性だけを求めた灰色の戦闘服。それでも、少女の発する艶美な魅力は隠し切れていなかった。
 靡く金髪は彼女の膝の裏に届く程長く、泥濘した風を孕んで幻想的な軌跡を描いている。
 このような逼迫した状況下にあっても眠たげに薄く閉じられた目蓋。眼窩に填め込まれた澄んだ藍色の双眸。睫毛の一本一本が酷く官能的な存在感を放っていた。焦がれるような紅に上気した、幼さの色濃く残る無垢な顔立ち。まるで少女の肉体は、神自らが手掛けた芸術品ようで、創作物のようで、絶美を究めていた。
 傭兵隊の少女――ネリス・カラシニコヴァ。
 誰もが畏怖と畏敬を声高に叫ぶ戦いの申し子。
『硝煙の死神』の二つ名を持つ少女兵だ。
 状況は不透明だった。なんでも、この地下研究施設で厳重に保管されていたはずの生命兵器が脱走したらしいのだ。いくら出来損ないの犬擬きといえど、元から対人掃討戦を考慮されて設計されたものだ。そのスペックは計り知れない。無責任にも、そいつらを生み出した研究員どもは早々に施設を放棄して逃げ出してしまった。これ以上の被害を防ぐべく、もうじきここを潰そうと空軍の戦闘攻撃機が馬鹿でかい貫通爆弾を腹に抱えてやってくることだろう。早く逃げねば施設ともども埋葬されてしまいかねない。
 頭の中で状況を整理すると少し悲しくなってくる。
 つくづく自分は戦神に愛でられているらしい。……いや、死神だろうか、この場合。
 どこからか銃声が聞こえる。ネリスとは別の警備要員が応戦しているのだろう。ろくな武装はないはずだから長くは持つまい。
 久々に感じた戦場の雰囲気と死の臭いが全身にまとわりつき、背筋に物言えぬ高揚感が走る。
 足は自然と回転数を上げ始め、しばらく伸ばし放題だった髪が淀んだ風を孕んでなびく。
 今ある武装と言えば、九ミリ口径の自動拳銃が一挺。剥き出しの銃身に、肉抜きされた撃鉄。彼女の手に食らい付くように型取られたラバーグリップ。高い視認性と照準性を誇るタクティカルサイト。所余すことなく戦闘用にチューンアップされている逸品だ。彼女の腕なら、構えてから五秒で一五メートル先の六人にヘッドショットをお見舞いできる。
 この施設には通路が蟻の巣のように張り巡らされているため、閉所戦闘では拳銃の方が取り回しが効いて有利。だが、それは対人戦での話。これだけであの化物達を相手取るには火力に不安が残る。
 とりあえず最初の目的地は武器庫だ。記憶が正しければ、この通路を越えた先にある。
 十字路にさしかかり異変に気づいた。拳銃の銃口を目線と同じくして用心深く歩を緩める。生々しい血の臭い。硝煙の香り。それらが鼻腔を刺激してきた。
 トリガーストロークを少しでも短くするため、ダブルアクションのハンマーを起こす。曲がり角の壁に背中を預けて向こう側の気配を探った。
 通路の向こうに何かが居る。口から飛び出そうと騒ぐ心臓を、何とかなだめて飲み込む。
 もし、化物が居たらどこに撃ち込もうか。やはり初弾は胸部。怯んだところで次弾は頭部だろう。相手がヒト型を模していたらの話だが。
 意を決して、素早い挙動で角から飛び出す。瞬時に前方の空間を銃口でなめる。
 怪物はフロントサイトとリアサイトの先には居なかった。
 通路の壁に盛大にぶちまけられた、鮮やかとは言えない紅の色彩。それはある一点を軸にして、地面に、壁に、果ては天井にまで塗りたくられていた。血溜まりが一帯に形成され、その中に紅く染まった真鍮製の空薬莢が大量に転がっている。この一角だけ妙に湿度が高い。むっとした鉄臭い空気を不意に吸ってしまいむせ込みそうになった。唾液の分泌が過剰になり、飲み込むと嫌な味がした。肺は呼吸を自重し、胃がきゅっと締まったような気がする。背筋に走った武者震いはあながち気のせいでもなさそうだ。
 壁に躯を横たえる、ボロ雑巾のように引き千切られたヒトの残骸が在った。
 顔立ちと体付きから見るに、ネリスより五つぐらい年上の青年。ヒトの原型を留めては居るも、腹は何か肉食獣に貪られたかのようにずたずたで、腸は節操なく露出し、辺りには臓物の臭いが充満していた。しかし、彼はまだ生きていた。瞳からはまだ光は消えておらず、ごぽごぽと血が入り込んだ気道から嫌な音を出して呼吸している。いや、厳密には既に死んでいるのだろう。意識が有れど、それは生きる痛みを増長するだけ。
 ネリスは彼に注意深く駆け寄って容態を見た。彼は何かを言おうとネリスに向かって幽かに口を上下する。しかし、ネリスが次に取った行動は、気休めの手当をするでも無く、遺言を尋ねるために口を開く事でも無かった。
 彼女は唯、無慈悲に――いや、誰よりも慈悲深く、拳銃の銃口を彼の額へと優しく押し当てた。撃鉄は完全に屹立していたし、引き金にネリスの細い指が掛かっている。
 死神の残酷さと、女神の慈悲深さ。どちらとも言えない無機質な表情で、ネリスは相変わらず薄く閉じられた目蓋の、吸い込まれてしまうような碧色の眼で青年の瞳を見ている。長く、柔らかなウェーブを描く金髪は、青年の躯を包み込むようにして垂れ、その切っ先が紅く染まる。そこから感情を伺うのはとても難しかった。だが、青年は自分の生きた意味を悟ったかの様にゆったりと目を閉じる。
「おやすみなさい」
 微笑――。
 最後に掛ける言葉は、総てのヒトが安らぎを覚えるような、とても慈愛に満ちた声色だった。それだけで、終わる命に絶対無比の価値を与えてしまう。その命は無駄では無いと頷ける。その言の葉を聞くために生まれ死ぬのだと。
 ネリスは就寝前の子供にキスをする慈母のように、穏やかに引き金を引いた。
 跳ね上がる銃口は何処までも暴力的で。宙を舞う空薬莢は思いの外軽やかで。沸き立つ硝煙は消え入るように幽かで。真鍮の放つ鈍い光は導きとなるのだろうか。終わりを彩る轟音は耳を疑うほど乾いていた。
 ネリスは青年の骸を、血で汚れるのも構わずに抱き寄せた。涙は無い。嗚咽もない。在るのは静かな微笑のみ。
 綻ぶ前の蕾の様な唇が、弾痕の穿たれた青年の額に寄せられ、そっと触れる。唇に血が付着する。まるでルージュを引いた様だった。
 青年の骸が突如として光を帯びる。
 ネリスはそんな幻想的な光景を淡々と見つめていた。
 その陽炎の様な光は徐々に青年の胸に収束して形を成していく。
 その姿は鳥だった。フィンチ類の小鳥を連想する、輪郭だけの光る鳥。
 鳥は一度ネリスの顔を見て小首を傾げると、差し出された手の平に飛び乗った。小さなくちばしでネリスの親指の爪をつついた。細長い尾羽が動きに従ってせわしなく上下する。
 それは確かな質量を持っていた。それは彼の魂と呼べるモノ。感情や意識の集合体と言ったものだろうか。それは確かに人を人たらしめるモノの筈なのだが、何故か鳥の形をしていた。
 肉体と言うモノのは、所詮鳥籠なのかも知れない。人は生まれた瞬間から自分の魂を肉体と云う器に投獄しているのか。彼女は答えを持っていなかった。自分の意志なんか最初から亡い。
 ネリスは少し悲しげに微笑む。感触を確かめるかのようにつついてくる小鳥に応えて指を動かす。ネリスの指が光の羽に包まれた胸元に当たると、くすぐったそうにそれを避けて人差し指にとまった。
「そう……。解ったわ」
 肉体を無くした心は正直だ。ネリスは剥き出しの魂と意思の疎通ができる。その能力は死が蔓延する環境を生きてきた彼女にはとても重要だった。それと同時に悲しい事でもあった。
 ネリスは死の価値が下落することを危惧していたからだ。
「そろそろ、お行きなさい」
 あまり死者と触れ合ってはいけない。それは一種の冒涜だし、自分をこの世界で保っていられなくなる。ネリスは被われた天井に向かって鳥を解き放った。驚いた様に羽ばたいて、天井に消え入ってしまった。
 やはり、自分は人としてどこか欠けているのか。苦痛を伴う生をぬぐい去り、死の安らぎを与えるためなら味方に銃を向けるのもいとわないのだろう。
 彼を殺したのは背丈二メートルほどの犬とも猿ともつかない化物。一応ヒト型。
 情報だけで実物を見たことはなかったが、やはり醜悪なヒトが作り出した悪魔だ。
 その赤い目には狂気だけが映っていて、知性のかけらもない。
 そいつはサブマシンガンの弾をかなりの量浴びせても平気な顔をしていた。
 急所に当てればいくらか違っただろうが彼にはそんな余裕はなく、取り乱してトリガーを引きっぱなしにすることしかできなかったらしい。
 更に、怪物の方もかなりの俊敏性を発揮していた。かなり熟練した兵士でも正確に照準に捕らえるのは難しかっただろう。
 怪物はあっという間に肉薄してきた。怪物の凶悪な爪は、彼の腹をボディアーマーごと引き裂き、生きたまま怪物の餌にされた。
 ネリス冷静に分析をしていた。何でも、怪物はオーガと呼称されているらしい。
 食人鬼。まさにその通りだろう。
 目蓋を開け、交信を終了する。
 彼の首に掛かったドックタグを外し、ポーチにしまった。
 人知れず涙がほほを伝っているのは悲しいからではない。
 彼が泣いていたのだ。頭に残った彼の残滓をそっと消した。
 そして、ゆっくりと立ち上がる。彼の遺したサブマシンガンを使わせて貰おう。血に汚れているが気にはならなかった。
 サブマシンガンは長方形の箱のような形状をしている。抱え込むようにして構える様子から、兵士達の間でヴァイオリンと呼ばれていた。
 あまり銃に慣れていない兵士でも容易に扱えるようレシーバーにレーザー照準器が組み込んである。銃口に円筒形の消音器がついているので入っている弾丸は亜音速弾だろう。
 両利きで使用できるように排莢は下向きに行われる。注意すべくは自分で出した空薬莢を踏んで転ばないようにすること。戦闘中に転んだら明日の陽は拝めない。
 大型の五十発入りマガジンは大容量で嬉しいが装填にはこつがいる。ネリスは過去に何度か使っているので慣れているから問題はない。
 スリングベルトを肩に通して銃を脇の下に保持する。
 ネリスはホルスターからダガーを抜き、その刃をのぞき込んだ。
 煌めく白刃に映った自分の顔を眺める。
 髪がだいぶ伸びたみたいだ。最近切るのを忘れていたから。
 こんなところで血塗れていなければ、まだあどけない少女のものと変わらない、愛らしい顔立ち。つくづく戦場には似つかわしくないと思う。派手な傷の一つや二つ付いていれば少しは兵士らしくなるだろうが、残念なことにフェイスペイントぐらいしか施したことのない肌は白く奇麗なままだった。
 普段から表情筋をあまり使わないため頑なになってしまった表情。当然だ。笑顔で銃は撃てないのだから。
 髪でも手向けようかと一瞬逡巡したが、ダガーの柄を握ったところで思い止まった。
 
 相棒がこの髪を好きだといってくれたから――。


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