第4条 遅刻厳禁
「どーしたの?乃杏」
トイレから出て来た千束は、怪訝な顔で廊下に座ったあたしを見た。
「え?イヤ。…転んだ」
あたしは呆然としたまま、しばらく廊下に座っていたみたいだ。
「なにやってんの、大丈夫?待っててくれたんだね。ありがと」
千束は、東雲先輩とあたしの事に全く気付いてないようだ。
少しホッとしながら、教室に帰った。
入学式という事もあり、午前中だけで学校は終わった。
この後、クラブ活動の見学などもできると言われたけど、あたしは部活をするつもりはなかったので、すぐに寮へ帰る事にした。
千束は、中学からずっと弓道部に入っていて、一旦寮に帰って昼食をとると、すぐに学校へと逆戻りした。
いろいろ話したい事はあるけど、夕食までは帰らないと言われてしまったので仕方ない。
あたしは自室に戻り、午前中の出来事をもう一度思い返していた。
入学式の朝、あたしは遅刻しそうだったから、ダッシュで体育館へ向かっていた。
曲がり角を曲がった途端、桜寮の寮長で、生徒会長の東雲大悟先輩にぶつかってしまった。
東雲先輩は、千束いわくなんで生徒会長になったのかもわからない性格の悪い人で。
入学式の祝辞の中で、名指しであたしの遅刻を注意した。(だけど、東雲先輩にぶつからなかったら、多分ぎりぎりセーフで間に合ったはず!!)
入学式後、芸術棟のトイレ前で千束を待っていた時。
東雲先輩に声を掛けられた。
あたしは入学式の祝辞の文句を言ったけど、東雲先輩は冷たい瞳で・・・あたしにキスをした。
うるさいから口を塞いだのだと言っていたけど、それで舌まで入れてくる?
絶対に嫌がらせだ。
初めてのキスに、腰砕けになったあたしに、アイツは言った。
『ヤラシイ顔してんじゃないぞ、処女』
その言葉を思い出して、あたしは思わずクッションに顔を埋めた。
最悪!本当に今日はなんて最悪な日なの?
あんな性格の人にファーストキス奪われるなんてッ!!
ベッドの上であたしはじたばたとバタ足をした。
悔しいよーーー!
するとその時、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「乃杏いる?」
このハスキーな声は、結城先輩だ。
あたしは、髪を整えてからドアを開けた。
「あ、いたんだ〜。よかった」
結城先輩は歯を見せて笑った。
「どうしたんですか?」
息を弾ませながら胸をなでおろしている姿を見て、あたしは不思議に思いながら尋ねた。
「実は、乃杏にお願いがあるんだ。お使いなんだけど、これから時間ある?」
なんだ、そんなこと。
「いいですよ。どこに行けばいいんですか?」
「桜寮まで、この手紙を持っていってもらいたいんだ。桜寮はレンガの道をひらすら真っ直ぐ行けば見えるから。今の時期なら大きな桜の木が見えるから間違わないと思う」
…え?桜寮って、もしかしてもしかしたら…
「さ…桜寮って、男子寮ですか?」
声が震えてしまう。
「そうそう。男子寮なんだけど、楓寮とは違って、女子禁制ってわけでもなくて。一階の公共スペースは女子が入っても大丈夫だから、安心して。でね、この手紙をそこの寮長に渡してほしいの。必ず直接渡してね」
結城先輩はあたしの手に手紙を握らせた。
ちょ、待って下さいッ!
「あたし、東雲先輩に会うのは、ちょっと…」
「え?…あぁ、入学式の祝辞の事ね?…気にすることないわ。東雲の奴、ああいうことよくやるから。別に乃杏を特別嫌ってるわけじゃないよ」
いえ、多分特別嫌われてるんです。キスまでされちゃったし…とは言えない。
「あたし、東雲には完全に目の敵にされてて、桜寮には2年も行ってないのよ。乃杏なら大丈夫だから、お願い」
2年…
て、あの事件があって以来って事かな?
当時の両寮長の現場を見た結城先輩だから、嫌われてるの?
とばっちりじゃない!見せられたほうが迷惑だよ。
「いつもは姫子に頼んでるんだけど、あの子ったら始業式が終わったらまた部屋にこもっちゃって。声を掛けても返事ないし、頼めるのは乃杏だけなのよ。ね?」
…しかたないみたいだなぁ。
「わかりました。行ってきます」
大きな桜の木からは、たくさんの薄ピンクの花びらが散っていた。
満開、花盛り、花見日和。
あたしはしばらく呆然として木を見上げていた。
こんなに美しい桜の木を、見た事がなかったのだ。
「こんな所で何やってるの?」
男子にしては高めのかわいらしい声。
優しく話しかけられたけれど、いきなりでビックリしてしまう。
「キャッ!!…あっ、すみません。桜に見とれてました」
ペコリ、と声の主に頭を下げる。
「見ない顔だけど、新入生かな?桜寮に何か用?」
顔を上げて見ると、あたしより少しだけ目線の高い男子が、大きめの瞳を細めてあたしを見つめていた。
「はい。今日入学しました、如月乃杏です。実は、楓寮の結城先輩から、東雲先輩へ、連絡の手紙を預かって来ました」
説明すると、
「へぇ、今日は姫子ちゃんじゃないんだ。…ボクは、閑谷 朔耶3年生だよ。よろしくね」
閑谷先輩は女のあたしよりもかわいらしく微笑むと、玄関に案内してくれる。
「高階先輩は、ちょっと都合が悪くて…」
「わかってるから大丈夫だよ。姫子ちゃん内向的だから、いつも新学期はブルーになるんでしょ?」
へぇ…閑谷先輩、よく知ってるんだな。
「最近はやっと姫子ちゃんも桜寮に慣れたけれど、初めのうちは大変だったんだ。誰も触るな、関わるな、て感じでね」
あ、それ今の状況だ。
あたしだけじゃなかったんだな、やっぱり。
ちょっとホッとしたかも。
「ボクね、結城さんとは1年の時からずっと同じクラスなんだ。東雲くんは、ちょっと無愛想だけど、本当はいい奴なんだよ?ただ、結城さんにだけは、ちょっとかわいそうなくらい冷たい」
『だけ』じゃないと思うんですけど…例えばあたしとか。
「どんなふうに冷たいんですか?」
まさか誰にでもキス?しないよね、いくらなんでも。
「ん〜。完全無視だね」
完全…無視?
「それって…」
「挨拶しようが、声掛けようが、用事があろうが、結城さんの事見えないみたいにね」
陰険…やっぱり、東雲先輩最低だ。
「結城さん、今はちょっとワイルドな性格に見えるけど、1年の頃は姫子ちゃんみたいな性格だったんだ。毎日東雲くんの事で泣いてた。…たぶん、負けないように強くなったんだろうね」
結城先輩のあの頼れる雰囲気は、強くなろうとした結果だったの?
無理して強くなった結城先輩…
でも、いまだに桜寮には入れないんだ。
きっと、心には大きな傷ができてるんだな…
高1で寮長の秘密の現場を見てしまった結城先輩は、きっと大きなショックを受けたに違いない。
更に東雲先輩から無視されて…
辛いよ。
あたしだったら、そんなとばっちりは耐えられない。
結城先輩は、強いんだ。…強くなったんだよね。
あたしは、結城先輩の白い歯が輝く笑顔を思った。
あたしも、あんなふうに強くなれるんだろうか…
「さ、如月さん。着いたよ、ようこそ桜寮へ」
閑谷先輩がにっこり笑って玄関のガラス戸を開いてくれる。
そこは昭和の香りがしそうな、木造の建物だった。
「東雲くん呼んで来るから、そこに座って待ってて」
そう言うと、閑谷先輩は氏名札を返して靴からスリッパに履き替えると、階段をパタパタと上がって行った。
チラリと氏名札を見ると、『東雲大悟』はちゃんと表を向いている。
玄関脇にある年代物の公衆電話。その横にポツンと置いてある木の丸椅子に腰掛けて待つ。
ドキドキする…
東雲先輩…どんな顔して会えばいいの?
その時。
「誰?」
廊下の奥から、ジャージ姿の男子が現れた。
手にはパックの牛乳が握られている。
「楓寮からお使いで来ました、1年の如月です」
椅子から立上がり、軽く会釈する。説明するのが面倒で、簡略化してしまった。
「へぇ。姫子の代わりか。如月って、大悟が祝辞で言ってた名前じゃん?」
足元から頭の先まで、ゆっくりと見られる。
なんか、ヤダ、この人。
「はい。その祝辞に出て来た如月乃杏です」
あたしは一歩下がって言った。
「乃杏?かわいい名前。オレ、3年でサッカー部部長の潮見 陵平。仲良くしよーよ」
握手を求める右手。
なぜか躊躇してしまう。この人、ちょっと怖くない?
「潮見、桜寮の中でナンパはやめろ」
同じ廊下の奥からもう1人、メガネを掛けて水色のシャツに濃い色のジーンズをはいた男子が現れた。
「香山…。別にナンパじゃねーし。ただ、仲良くしよーって言ってただけ。ね?乃杏」
勝手に呼び捨てしないでよ。
「オマエの生態はわかってるから。…乃杏ちゃん?大丈夫だった?」
色白に黒淵メガネが似合ってて、心臓がドキンと鳴る。
「はい、大丈夫ですッ」
「ちぇ、オレ悪者かよ…」
潮見先輩は、口を尖らせた。
「それより潮見、こんな所で部長がサボってていいのか?練習中だろ」
香山先輩の言葉に、あっと小さく言って、潮見先輩は玄関の三和土に放ってあったシューズを履いた。
「乃杏、またな!香山、あとで覚えてろよ」
言い残すと、牛乳を片手に持ったまま、軽やかに駆け出した。
「全く。アイツはいつもああだから。気をつけてね、乃杏ちゃん」
「はい。いえ、あの。ありがとうございました。あたし、あんまり男の人と話し慣れてないっていうか…潮見先輩のノリについていけなくて、困ってただけなんですけどッ」
焦って言うと、
「潮見は女の子に慣れすぎなんだよなぁ。…大丈夫だよ、アイツに気を遣わなくても。冷たくするくらいでちょうどイイから」
そう言うと、香山先輩(潮見先輩を呼び捨てにするって事は3年だよね)は、ハハハ、と声を出して笑った。
「で、乃杏ちゃんはここで何をしてるのかな?」
「あ。楓寮からお使いで、東雲先輩を呼んでもらってて。待ってました」
「あぁ。高階さんの代わりかな?…そっか。僕は、香山 健。3年で、東雲と同じ生徒会役員をやってる」
わぁ…ここにも生徒会が。偉い人に会う日だな、今日は。
「1年の如月乃杏です」
「如月って…もしかして」
香山先輩の言いたい事、わかります…
「入学式の祝辞で、東雲先輩に名指しで注意された、新入生です」
はぁ、と溜息。
やっぱりみんなちゃんと聞いてるもんだなぁ。
「あぁ、そうなの。へぇ〜」
香山先輩は、なんだか含み笑いをしている。
遅刻は、もう2度としませんッ。
あたしは心の中で、神様に懺悔した。
|