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ガールズカルテット 作者:双色
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 ◇



 月が遠く朧に滲み、星が黒い夜空を彩るように燦然と輝いていた。
 そんな夜。黒いスーツの男は一人闇に立ち、月を見上げる。それまで彼の後ろにいた少女のことさえも今は遥かに昔のことのよう。棺木境介にとっては、今だけがまさに生きた時間だった。こうして、こんな心境で月を見上げたのはいつ以来のことだろうか。と、意味のないことを考える。
 棺木にしてみれば、それはある意味で清算だったのかもしれない。ずっと昔、十年前。誰かにとっては短く、誰かにとっては長い期間。その間のことを、彼は清算していた。思い返せば、十年の歳月に自分はなにをしてきただろう。
 破綻した世界から抜け出し、ただひたすらに自らを否定してきただけではなかっただろうか。……そんなことは、解らない。一つだけ確かなことがあるとするなら、己の十年間を苛み続けた戒めは過去の禁忌と自らの後悔であるという、それだけの事実。
 一体なにがしたかったのかと問われれば、自分はなんと答えただろう。その疑問に思い到って、彼は苦笑した。
 至極簡単な解答。己の十年間は、なんでもない、自身からの逃避でしかないのだ。棺継の名を持つ自分に背を向け続けるだけの時間。痛いほどに理解していたつもりだった罪の重さも、それでさえ自らを縛るシガラミには含まれていない。
「結局、私はなんなのでしょうね」
 自嘲するように言った声は誰かに問いかけているようだが、彼の視線は天上の月。呟きは誰にでもなく、答える声になど期待していない。或いはそれは、滑稽な自らへの嘲笑でしかないのかもしれない。
 だというのに。
「さあな。お前はなんでもない、ただの破綻した失敗作だよ」
 彼の言葉に、応える声があった。
「ったく、私の生徒をこんな場所に呼び出して。もしものことがあれば裁判なしで、私はお前に制裁を下すつもりだったんだが……残念ながらその必要はないみたいだな」
「ご期待に添えなくて申し訳ありません。もっとも、貴女は空さんの貞操を心配してやってきたようですが、それではむしろ彼女の身になにかあって欲しかったように聞こえますよ」
 驚きもせず、棺木は応える。いつものように軽口を交えながら、旧友との会話に意識を割く。
「空さんのお迎えですか、朱空さん?」
 別段、興味があるというわけではなかった。自分の質問に意味などないことにも気付いていた。朱空朔夜がこの場所をどのように知り得たかは理解の及ばぬところではあったが、相手が彼女ならば幾らでも理屈は付けられる。
 確信しきった質問にしかし、朔夜は首を振ってそれを否定した。
「いいや」
 と、短く言って歩みを進める。憚らぬ足取りで家主である棺木の隣に並び、同じように夜空に目を向けた。お互いに向き合って話をする気などなく、そんな風に話をしたのがどれくらい前になるかも覚えていない。
「ま、半分はそれもあるんだけどな。あくまで空のことはついでだ。十六にもなって放課後の行動にいちいち教師が出るのは、ちょっと過保護が過ぎるだろ。私はあいつの担任でもないしな」
 ポケットから煙草を取り出し、一本を口に銜える。慣れた手つきで点火の動作に移った朔夜は、けれどすぐには紫煙を燻らせず、思い出したようにマッチをコートのポケットに戻した。火の点いていない煙草を物足りなさそうに銜えているが、その半面で無関心に放置しているともいえる。
「門の前に車を止めて、張り紙をしてきた。空ならそれを見て、今頃は車の中だろう」
「いいんですか。この辺り、駐車違反の取締り厳しいですよ。車上荒らしなども被害を拡大していますね」
「そうかい。夜は随分人気が増すんだな、この廃れた田舎村は」
 互いに意味のない会話だとは解っていた。軽口にしても誰が笑うではなく、苦笑さえも起きない。沈黙のみを生む会話を、そうと解って二人は続けていた。特に、その行為が無駄であるとも思わず。
「私はね、棺木。普通という現象が何よりも嫌いなんだよ。どんなことよりも嫌いだ。異常や怪奇とよばれる類いのものを嗜好してしまう、という困った性格をしているらしい」
 口火は何の予兆もなく切られた。朔夜は思い出すように遠くを見ながら、自身を語る。
 眠たそうに虚ろな瞳は、やはり自分達が繰り広げる会話に意味が見出だせないと言っている風であり、自身が提示した話題にさえも興味がないと明確に示す。
 火の点いていない煙草を口に挟んで、朔夜が淡々と続ける。
「けれどね、棺木。私は自分自身が異常に触れることを望んではいないんだよ」
 当たり前のように口にするそれは、言葉の前後で明らかな矛盾を作り出していた。
 棺木はなにも言わない。口を閉ざして月を見るだけ。相槌は打たないし、本当に聞いているのかも解らないような某とした立ち姿。まるで、意識が別のところにあるような、脱け殻みたいな存在感。
 空っぽの黒い男を、朔夜は横目にも一瞥さえせず言葉を続ける。
「どういうわけか、私は一線を越えられなくてね。怖いんだろう。未知の部分に自らを浸してしまうのは。知らないからこそ不安になり、不安は恐怖になるんだ。それに、私は今の日常を気に入ってしまっていてね――手放したくないと、思っている。後戻りできないかもしれない不安が、私を臆病にさせているんだよ。だからね、私は異常を求めはしても触れようとはしなかった。誰かが異常に関わるのを傍観していることを選んだんだ」
 日常。平穏。あるいはそこにある異常から目を背けているだけの、仮初の平静なのかもしれない。故に、日常なんてものはどこにもなく、異常という概念は存在しない。元より世界に存在している異常から目を背け、人は認識上の日常を生きる。その在り方こそが、既に異常。
 朱空朔夜は、その異常を見つけ出し、けれど傍観に徹する生き方を選んできた。
「だけどね、一つだけ例外があるとするなら、それはお前なんだよ。お前にだけは、私は自ら関わっていた。お前の存在を異常と認めておきながら、異端だと知っていながら触れた。自らを律する理を破り、禁忌を犯したんだ」
 淡々と、吐き捨てるような事実の告白が続く。
 火の点いていない煙草を一度口から離し、あたかも紫煙を吐き出すように息を吐き出す。
「それも、もう終わったことだがね。お前との直接的な関わりを絶ってから、私は事後処理に徹するようにしてきた。異常があれば首を突っ込むが、決して当事者にはならない。私は私の世界にいながら、外界の異常を傍観してきた。そして既に終わった異常の痕跡に触れるんだ」
「事後処理、ですか」
 ここでようやく、意識を取り戻したように棺木が呟いた。
「では、今夜ここに来たのもまた、事後処理ですか」
 全てを悟った風に黒い男は呟き、隣の女はなにも言わなかった。
 もはや語るまでもない、と。今更互いに確認しなくとも、この邂逅の意味は通じているはずだから。共に視線を交わす必要も無く、それは必然の理として二人の間を埋める。異端、破綻としてそこにある異常と、日常の枠を抜け出さない傍観者。
「事後処理――私は、既に終わっているのですか?」
「お前が終わったのは、十年も前のことだよ。今日まで生きた実感なんてなかっただろ」
 辛辣な言葉で返され、流石の棺木も苦笑する。相変わらず手厳しい言動。けれど、それも間違っていないのだから否定できない。自分は今日まで生きてきたのではなく、ただ世界に在っただけなのだから。
 それは大団円を迎えた後の、既に語られる術もない物語。
 エピローグは終わっていた。
 けれど、棺継鏡介という物語は未だピリオドを打たれず続いている。終わった後にもなお、新たな展開などなく無意味に時間を消費しながら続いているだけの物語。酷く醜く、ある種滑稽な喜劇に似た悲劇。
「終わり続ける物語。お前は終わりに辿り着いていながら、それでも在り続けた。自らを磨耗させながら、破綻しながら続いていた。なあ、棺木。そんなことになんの意味がある? なにを求めてお前は、世界に在り続けているんだ?」
 その質問には、答えられない。
 彼自身の中にもまた、確固とした回答が用意されていないから。
 自分の存在意義を見失った。解らないのではない。見失ったのだ。かつて一つの信念に基づき行動した。例え禁忌であろうと、結果が破綻していようと、それだけは本当の自分から零れ出た存在だったはず。なら、その本物を否定した自分には何が残るのだろう。何も残るはずがない。だから、棺木鏡介は空っぽだった。
 黒い男は答えない。ただ月を見上げて瞳を閉じる。
「妹を救う。お前は殺人の定義を肉親の救済に定めた。その為に、同じ肉親を殺す禁忌を犯した。一つの命を救うために、何十もの命を殺して。そんなことになんの意味がある。お前の妹は確かに不遇な世界に在ったかも知れない、だが彼女の世界を壊していい権利は、お前にはないんだ。――それだって、解っていたんだろう? 解っていたから、お前は自らの殺人定義を否定したんだ。否定して、破綻した。ここからは私の推測だけどね、それはお前が自らに行った断罪なんじゃないのか? 妹の世界を壊してしまった自らに、同じ破綻を以って贖罪するという断罪だ。もっとも、それだって自己満足に過ぎないが」
 十年間、思ってきたことがある。果たして自分は何かを為し得たのだろうか。
 幾つもの命を殺して、自分さえも救えず全てを失った男は、何を為し得たのだろうか。
 救いたかったものがある。尊く儚い、小さな小さな想い。自分はそれさえ失って、壊れてしまったのではないだろうか。不遇な妹を救う。それは欺瞞。本心は自己の救済。自らを縛る罪悪感からの開放。だが、それすらも。
「お前はさ、最後まで気付いていなかったんだよ。可笑しいだろ? 妹を救う、それは建前で、自らを救うことが目的だった? なら、どうして殺す必要があった。なぜ、自分や妹の世界を破綻させる必要があったんだ。結局のところ、お前は誰かを救いたかったわけじゃない。妹に負い目を感じていたわけでもない。お前はただ、寂しかっただけなんだよ、棺継鏡介」
 有り得ない、蜃気楼を見ている気分だった。朔夜の話を聞きながら、棺木はそう思った。
 空に浮かんだ月が、いつかの惨劇を想起させる。初めて言葉を交わした妹。目を合わせることなく、自分は小さな背中に向かって言葉を紡ぎ、妹は月に向かって歌うように話した。その瞬間こそが、彼にとっての終わりの瞬間。目的が、成就した瞬間だった。
「棺木、現象というのは成立することなく破綻することはない。初めから壊れている存在なんてないんだよ。皆、なんらかの形で存在の意味を果たして終わっていく。この世に在る意味を為し得てから、消えていくんだ。困ったことにね、ヒトという霊長はその存在意義がなんだか解らないんだ。だから、全員が不安を抱えて生きている。闇の中手探りで、自らの意義を探している。それを見つけることが、終わりの証だから。生まれたときから完璧な人間なんていないだろう? 誰しも欠けている何かが在る。それを見つけ出して果たすまでの期間を、人間は人生と呼んでいる。
 では、可笑しいじゃないか。お前はどうして破綻したんだ、棺木? お前が破綻している、既に終わった存在である。それはいい。そのこと自体は間違ってなどいない。寸分の違いなく、お前は壊れている。だけどね、それでは矛盾するんだよ。お前は妹を救いたかった。けれど救えなかった。でもそれは欺瞞で、本当は自分を救いたかったが……それさえも不可能だった。だとしたら、お前はまだなにも為しえていないだろ。結末に辿り着いていないはずだろ。終わるわけがないんだ。そんな中途半端な存在は破綻しない。破綻という結末にさえ、辿り着けるはずがないんだからな」
 棺木は否定しない。自分に思い当たるところはなかったが、言われてみれば確かにそんな気がしないでもない、と思ってしまった。ならば、自分はどうして壊れてしまったのか。新たな疑問が生まれる。
 深層心理、意識の最も深いところまで沈みこんで、それでも思い出せない。
 自分が真に求めていたものがなにであったのか、答えはきっと自身の中に在るはずなのに。否、自身の中に在るからこそ、自分では見つけることが出来ないのだ。自分の色を見つけ出せるのは、他人なのだから。
 自らが為し得た結論に思い至るということは、即ち自らの色を知ること。
「話を変えようか。棺木、お前はどうして棺継の一族が本来の目的を忘れて、血の繋がりに執着するようになったと思う?」
 その疑問は、自らも共通して抱いた疑問だ。その疑問があったからこそ、男は棺継を終わらせた。本来の目的を見失い、悲願の結晶を蔑ろにした一族にはそれ以上の意味がないと思ったから。
 棺継の家系は世界の中心を目指した。
 何代も研究を引き継ぎ、その成果を後の子孫に受け継ぐ。そうして繰り返される永い永い継承の螺旋。棺の中より受け継がれる叡智の結晶。世界の中心とは全てがあり、始まりで終わりの場所。そこを目指した。
 ふと、これまでまるで思い至らなかった疑問に棺木は眉を顰める。
 棺継が世界の中心を求めることは知っていた。生まれたときから体の中に流れる棺継の血が知っていたから。当然自分も同じ場所を目指す責務を負っていると、そう思っていたのだ。だからこそ、こんな疑問には思い至るはずがない。
 ――自分達は、どうしてそんな場所を目指していたのか。
 全ての始まりにして、全ての終わり。
 全ての原因であり、全ての結末。
 そこにはないものなどなく、なにかがあるはずもない。
 ……どうして、そんなところを求めたのか。人類全ての叡智の結晶。完成された人類の終着点。これからと、これまでの記録。アカシックレコードと呼ばれる概念に触れるということは、即ちそれら全てを継承するということ。だが何故。膨大過ぎる情報全てを求めていたわけではない。なんのために、自分達は中心に魅せられ取り憑かれたのか。
「言っただろ。不安は恐怖になるんだよ、棺木」
 黒い男の思考を裂いて、朔夜の言葉が響く。
「お前達はただ、不安だっただけなんだよ。元より異端の一族だったお前達には、寄り添って生きていく他人がいなかった。解り合える存在がなかった。全ての存在は皆、一つだけでは安定しない。光には影、希望には絶望、生には死。万物は対となる存在と共に支え合っている。お前達にはそれがなかった。不安は恐怖になる。ようするにね、お前達が求めたのは自分達の存在意義だったんだ。中心に至れば全てがある、だから――」
「――だから、私達は中心を目指した。不安を払拭し、自らが何者であるかを知る為に、ですか」
 文末を横取りされて、朔夜は非難するように棺木を流し見る。
「棺継が同族の繋がりを頑なに守ってきたのも、自分達を純血と誇ってきたのも、突き詰めればその一点に収束する。寂しいから寄り添っていた。唯一自分と同じ、家族という存在同士――となると、やはり私は間違っていたのですね。解り合える唯一の存在を、自ら撥ね退けてしまったのですから」
 確信を持った棺木の言葉を、しかし朔夜は首を振って否定した。
「お前にとって棺継は、既に同じものではなかっただろう。その目が何よりの証拠だ」
 言われて、棺木は思い出す。
 この屋敷の中を、まだ純血の棺継が闊歩していた頃のことを。あの頃の自分は、孤独を感じていたのではないか。解り合える存在が、支え合える存在がいない自分は、孤立していたのではなかったか。
 元より、繋がってなどいなかった。
 自分と同じ存在など、この屋敷にはいなかったのだから。
 嗚呼そうか。と、静かに棺木は認めた。
 自分はどうして棺継を滅ぼそうなどと思ったのか。妹を救う、自らを救う。そのどちらも間違いであって間違いではない。そして自らの願いは叶わなかった願いなどではなく、十年前に叶えられていた。
 互いに支え合う世界。
 そうだ。棺木鏡介に取っての繋がりは、同じ世界を持っていたのは――
「お前にとって、本当に繋がっていたのは妹だけだったんだ。棺継という異端の中でも、さらなる異端。お前は完全な形でなくても、存在意義は妹と同じだった。人間は不安を恐怖に置換する生き物だ。お前は怖かったんだよ、家系の中に於いて自分だけが異端であるのが」
 月は、煌々と世界を照らす。
 覚えている。あの夜のことを。
 初めて妹と言葉を交わした。兄としてではないけれど、同じものとして。そのことは、自己の救済に他ならなかったのではないか。都合のいい考え方をすれば、自分と同じ立場であった妹の救済も果たされていたのではないか。
 やっと気がついた。
 棺継鏡介は救われている。見失っていたのは、その事実だった。
「実に人間らしいじゃないか。寂しさを隠すために人は集団を作る。自分と同じ者を見て、自分は一人ではないと実感する。くだらないことだけどね、それが大切なことなんだよ。孤独は確かに、人を殺すのだから」
 朔夜は口を閉じ、棺木も何も言わなかった。
 必要なことは全て語った。既に終わった会話に未練はなく、終わりは当然のように受け入れられる。
 棺木鏡介の救済は十年前に行われていた。
 空っぽの男が唯一為し得た一つの結末。自己の救済。そして唯一人の妹の救済。果たしてそれが偽善や欺瞞であっても、彼自身にとっては全てだった。なにかを完成させて、結末に至った一つの物語。
 終わり続けた黒い男は、今、ようやくその物語にピリオドを打つ。
 長く、無意味な時間だったように思う。自分が求めてきた答えは、こんなにも簡単なことなのだから。簡単なのに気がつかない。簡単故に気がつけない。近過ぎるものは見失ってしまう、近過ぎるから見失ってしまう。
 十年間、棺木鏡介はそのことを体現していた。

 ――空っぽになった彼の中には、ずっと、あの夜の邂逅が残留していたのだから。

 不覚にも苦笑してしまう。普段から仮面のように貼り付けている微笑とは別の、棺木自身の感情の表れ。
 くすり、と零れた小さな声に朔夜が反応して振り向く。
「貴女には敵いませんね。これが、貴女の描いていた大団円なのでしょう?」
「大団円、か。違うな。お前にはバッドエンド以外用意されちゃいないよ」
 努めて、二人は普段通りに言葉を交わした。
 今、棺木鏡介は完全に終わったのだ。終わり続けることさえ終わり、真の終焉が彼を満たしていく中で、それでも日常を装う。看破するのは容易く、朔夜もすぐに異常に気付く。だが彼女もまた日常を装うのだ。
 異常を傍観し、当事者にならざる存在。それが朱空朔夜。
 棺木の異常に気付いても、敢えてそんなことを指摘する理由など、朔夜にはない。
 だから彼女もまた、日常の言葉を返すのだ。そのことが、旧友への彼女なりの思い遣りだから。
「空さんと私を引き合わせたのは、この為ですか?」
「さあな。空のこともお前のことも、お前達が勝手に動き回っただけだよ」
 言って、今度こそ朔夜は煙草に火を点けた。
 紫煙が夜空へ昇り、消えていく。
 一度だけ肺に溜まった煙を吐き出して、それが最後。朔夜は棺木の前を横切るように屋敷の廊下を歩き始めた。その視界に僅かも旧友を入れることなく。干渉を避けるように、去っていく。
 長い夜ももうじき明ける。
 闇と朝日が混沌とする朱けの空が直ぐ近くまできていた。
「朱空さん」
 去っていく背中を見ず、輝きが薄れてきた月を未だ見上げながら、棺木鏡介が最後の問いを投げかける。
「世界は、どうしてこんなにも美しいのでしょうね」
 銜えた煙草を指に挟み、振り返りはしないものの立ち止まり、
「お前が汚れているからだよ。お前は、禁忌を犯しすぎた」
 冷淡に、変わらぬ平坦な口調で糾弾するように朱空朔夜は言った。
 ――その罪を、これから償わなければならない。世界を壊した黒い男に、そうを告げるように。
 そうしてそれが本当に最後だった。女は完全な無関心をして屋敷を離れ、男は見送りもしない。別れの言葉も、再会の約束もなく、至極当然の如く終幕を受け入れる。
 多くのことを語り合った。自分の知らぬことも、自分の知ることも。互いが互いに無意味な時間だと思ってはいた。けれどそれを、その瞬間に交わされる言葉の一欠片でさえ、無価値だとは思ったことがない。それは未来永劫、時を越えて永遠に、互いを繋ぐ絆となりえるから。
 今宵、闇の中で交わされた新たな言葉も全て、彼らにとっては何物にも変えられないのだから。綺麗なものはいつか汚れ、芸術品は時を経て風化していく。だからこそ、その一瞬の輝きを焼き付けるのだ。自らが尊んだ美しさを忘れぬように。
 遠い遠い時の果て。輪廻の下に再び邂逅が赦されるのなら、次回は同じものとして、破綻する前に彼女に会いたいと思う。彼にとってその思考は、紛れも無く本物だった。
 朝焼けがもうじき空を染める。
 消えてしまいそうな淡い月の下、いつまでも黒い男は立ち尽くした。
 遠い夢を見守るように、自分の中に残った大切なものを抱き締めるように。終わりは速やかに彼の中を浸透し、一層清々しいほどに全てを溶かしていく。自分の中には何もない。そう思っていた割には、消えていくものは多い。
 それが、棺木鏡介だった。
 長い時間の中で忘れていたことも多くある。失くしたものは数知れず。
 多くの物を失くしてきた。その中に、自分自身でさえ含まれていたかもしれない。だが、不思議と悔いはない。失くした物も、壊した物も、今ではどれほどの数か解らない。解らなくとも、けれど彼が、棺木鏡介として得た物の数には遠く及ばないことは確信できた。
 今、散り逝く一瞬の命に誉れがあるならば、棺木鏡介にとってそれは自らが過ごした時間。
 そうして。
 最後に、これまで彼を支えていた原風景が――白い少女の姿が消失した。



 ……



 月が綺麗な晩だった。
 ともすれば眩し過ぎて目を細めてしまいそうなくらい、燦然と輝く月だった。
 男は何ともなしに縁側に出、その眩し過ぎる月を見上げる。
 心の中は晴れ渡り、心象の空色はどこまでも青い。
 穢れのない夜の中には先客がいた。
 不思議な雰囲気の少女だった。消え入りそうな儚い姿で、夜の中白く輝いている。
 少女は男を見上げた。
 男も、少女を見た。
“はじめまして”
 男は微笑みながら、口にする。
 十年間、言いたかったことがある。
 赦されぬことだとは解っているけれど、それでも胸に抱いていた想いがある。
 最期の夢の中、自身が抱えた罪もこの一瞬だけは忘れて、
“貴女の兄です”
 男は口にした。
 それだけで満足だというように、ゆっくりと男は目を閉じる。
 もう少しだけ、白い少女を瞳に映していたいと思ったが、どうやら限界らしい。
 消えそうな意識の中で、不意に誰かに触れられる。
 今一度、重い瞼を開けてみれば――少女の白い手が、自分の手を握っていた。
“はじめまして”
 オウム返しのように、少女が男の言葉を反復する。
 左右で色の違う瞳は、惜し気もなく喜びの感情を湛えていた。
“貴方の妹です”
 その言葉が、胸の中に溜まった澱みを消していく。
 幻想の中で最期の時を過ごす男に、少女は晴れやかな笑顔を向ける。
“――お疲れ様、お兄ちゃん”
 ずっと忘れていた。
 言葉では理解していながら、実感できずにいた事実。
 男は少女の手を握り返す。最期の力を篭めて。
“ありがとう、来旋(ラセン)
 ――自分は少女の兄であると、誇るようにその名を呼んだ。
 嗚呼……本当に、本当に自分は彼女の兄でよかった。

 長過ぎる旅の終わり、棺継鏡介は欣喜(キンキ)を抱いて眠りに就いた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
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