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ガールズカルテット 作者:双色
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 古風な日本屋敷。武家屋敷といえば尚しっくりくる。
 電車二本とバスを経由して遥々やってきたわたしを出迎えたのは、荘厳といって指し差し支えないそんな家屋。木造の巨大な門を前にして、わたしは自らの矮小さを思い知るように立ち尽くしていた。
 それにしても、何だろう、これは。
 日を改めた話し合いの場に棺木さんが指定した場所こそがこの武家屋敷の住所で、午前の授業が終わって直ぐに飛び出したわたしは、さらに半日ほどの時間を掛けてここにやって来た。
 夜の帳はもう随分降りて来て、辺りは薄暗く烏色の空が場を不気味に盛り上げる。
 この分では帰りには夜間バスか何かを使用しなければならない。それだって、こんな辺境の地にバスが出ていればの話だけれど。
 有り体な表現を使うならば、既に終わった後の村。昔は人が住んでいただろう痕跡が残っているけれど、屋根に穴が開いた木造家屋、荒れ果てた田畑が今は既に人の生活など成り立っていないことの証明だった。
 小さな村。今でも専業農家の家庭があって可笑しくない、そんな場所。
 荒れ果てた空間の象徴のように佇む武家屋敷は、さすがに他の家屋のように荒廃してはいなかったが。今でこそ化け物屋敷みたいだけど、全盛期はきっと芸術作品のごとく人の目を惹いたに違いない。
 盛者必衰の理を表す。
 祇園精舎の鐘でなくとも、驕れる者がいつか滅ぶ運命を表す存在は日本中に転々としている。
 この武家屋敷こそが、まさにその一つだ。
 さて、と……。
 指定の場所はここで合っているはずだけど、棺木さんの姿はどこにも見当たらない。
 もしかしたらこの夕暮れ、日も落ちてきた暗闇に擬態でもしてるんじゃないかと思って辺りを散策してみたけれど、無駄骨だったことは言うまでも無い。
「ほんとう……どうしたもんかな……」
 武家屋敷。
 夕暮れ。
 夜の闇。
 廃れた田舎町。
 ……人を脅かすのに、これほどに相応しい状況はきっと無い。都会の夜は人の怖さがあるけれど、こういう場所には人外の怖さがそこら中に潜んでいる。別に、わたしが今の状況を怖いと思っているだとか、そんなことを言っているわけではないけど。
 なんて考えながら息を吐き、自然と視線は足元へ向けられる。そこで。
 ふと、門の前に落ちた板に目が留まった。
 分厚い、周囲と同様に変色し腐敗が進んだ木の板。
 わたしはその板を、不意に裏返してみる。
「…………棺、継?」
 これが屋敷の主を示す標札だとしたら――けれど、この名前は。
 棺木。
 棺継。
 棺桶を引き継ぐ。或いは受け継ぐ。
 そんな不気味な言霊を宿した名前。こんな名前、聞いたことも無かったら見たことも無い。
 棺木だって聞いたことのある名前ではなかったけれど、棺継の方は初見で有り得ないと思ってしまった。文字から伝わる微妙なニュアンスというものもあるんだろうけど、これはそんな程度の次元でなく、もっと――。
 似て非なる二つの(かばね)。ここを指定したのは、棺木鏡介。
 偶然ではないと言い切れる。解らないことがあるとしたら、どうして、彼はここを指定したのか。わたしに棺木と名乗ったのが嘘だとしたら、でもそれならわざわざ本当の名前を明かす必要なんて無い。昨日の喫茶店から場所を移す必要が無いのだ。それに、彼には偽名なんて使う理由が無い。
「……棺継、鏡介」
 呟く声。
 烏色の空。
 わたしは黒い姿の男を思い出しながら、知らぬ間に屋敷の中へと脚を進めた。


 ◇


 ぎしり、と床の軋む音。
 当然というより自然というか、むしろ見たとおりと言うべきか、屋敷内には電気など通っていなかった。必然、わたしは真っ暗な廊下を歩く羽目になる。視界は大分慣れてきたけれど、精神の方が全然慣れない。
 一歩踏み出すことに軋む床。
 風の音に虫の声。
 どれもこれも、必要以上に不気味で仕方ない。肝試しをしている気分だ。今にも廊下の曲がり角から蒟蒻(こんにゃく)が飛び出してきそうな気がする。いや、それなら本当に肝試し。作り物の恐怖だが。
「…………」
 自分の考えたことが、実は冗談にならないことに思い至る。
 外はとっくに日が落ちて、世界は夜の中に沈んでいるだろう。それは建物の中とはいえ、灯りの無いここでは変わらぬこと。濃厚な暗闇に閉ざされた視界と、冬の冷気に満ちた人気の無い冷たい空間。
 勢いで這入ってしまったけれど、本当にその選択は間違っていなかったのか。
 或いは外で待っていれば、やーやー遅くなりましたー申し訳ありません、とか言って棺木さんが現れたかもしれないのだ。今頃は外でわたしを探しているかもしれない。だとしたら戻った方がいいのだろうか。さっさと出て行った方が、いいのかな。
「……そういってもなあ……」
 自分でもバカなことをしたとは思う。
 当てがある訳でもないのに、未踏の地それも暗闇の中で動き回った所為で戻り方が解らない。来た道を辿ろうにも振り返ればやっぱり前方に見えている襖やら壁やらと同じ景色で、正確に辿っていく自信が無い。
 ……残念ながら。わたしの異能だって、建物の構造を把握するなんて便利な機能は備えていないし。
 さてどうしたものか。
 このまま朝まで他人様のお屋敷を徘徊するのも良くないし、わたし自身そんなのは嫌だ。取り合えず外に出ること。そうすれば今よりは状況もましになる。なら、どうやって外に出るかだけど――
 思い至るのは簡単だった。
 ここは日本屋敷――武家屋敷だと自ら評価を下したのだ。
 ならば、外に出ることは容易い。現代住宅と違って、この形式の屋敷には縁側とかそんな、外と直接通じている部分がある。現代の常識に囚われないのなら、玄関以外にも屋内を出入りする方法は存在するのだ。
 気が付けば実行するまでのタイムラグはコンマほどの数秒。わたしは直ぐ隣の襖をスライドさせた。触れた指に埃が付く感覚。屋敷の外見どおり長い間人が出入りしていないのは明確。立て付けの悪さなど、そういう先天的な理由ではなく、ぎしぎし音を立てながら襖が動く。
 そして。
 開かれた広い畳床の一間。
 その向こう。
 左右に開かれた障子に挟まれるようにして。
 そこに。
 月を見上げるように、一人の少女がいた。
「…………」
 沈黙が、声にならないはずの沈黙がこの時ばかりは台詞になってしまうのも頷ける。わたしはそんな心境になって絶句した。ともすれば呼吸することさえも忘れていたかもしれない。
 神々しく輝く天上の月を見上げる小さな少女に、わたしは恐怖することはなかった。
 絶句したのは、見蕩れてしまったから。
 魅入ってしまった。魅せられてしまった。
 暗い闇の中で、まるで自らが光を放っているように美しく姿が映える――純粋な、白い少女。
 身に纏う着物は純白。その白い着物の袖から出ている左右の手も、首元で分かれる黒髪の隙間から窺えるうなじもまた――その存在を象徴する色が、澱みなく穢れなく、魂に色があるとするならばきっと――白。
 純粋にして純真。
 儚い小さな背中。
 わたしは、自分よりもずっと年下と断言できる少女を、美しいと思ってしまった。
“――――”
 少女は何かを呟くように、天空を見上げていた。
 傍らに投げ出された長い包帯。
 気付けばわたしは少女の直ぐ傍まで来ていて、同じように月を見上げる。
 金色の孔。世闇の黒き壁面に穿たれし、神域への門。大袈裟な形容だけど、わたしには今宵の月がこの世のものと思えないほど幻想的に思えた。まるで初めて、生まれて初めて月を見上げたみたいに、純粋な気持ちで。
 この世界を、綺麗だと思ってしまった――。
“――――”
 歌。
 近づいてみて解ったのは、少女の呟きが韻を踏んだ歌だったということ。
 直ぐ近くにいるのに上手く聞き取れない。綺麗な声が紡ぐ歌が聞き取れない。そのことが、わたしにはやけに哀しく思えてしまって。それだけのことがどうしても、心苦しくて。
 縁側から投げ出された両足は、ぱたぱた、と二つの振り子のように左右対称に揺れている。その仕草が妖麗な雰囲気にそぐわず幼い。歳相応の少女の幼さが現れていた。
 白い肌。生まれてから一度も陽を浴びたことがないのではないかと思うほどに、病的なまでの白。相対するように黒い長髪。表情のない(カオ)は、何故かはじめて見る少女の筈なのに、どこか見覚えがある気がしてならない。
 異彩を放っていたのは、けれどそんな肌の色ではなかった。
 後姿では決して解らない。少女の異常さは、その瞳にある。
 右と左とで色の違う瞳。儚く虚ろな二つの瞳は、右が群青、左が灰。空を見上げる双色の瞳。それらが共に極上の宝石のような美しさを持っていて、わたしが魅入ってしまったのも――見せられたのも少女の瞳だったのだ。
 けれど。
 白い少女の瞳も表情も、ただ哀しみだけを湛えていて。
 それが、何故か自分に近いもののように思えてしまって、わたしは。
 この、感覚は、いつかの。
 そう、まるで。
 あの日、二日前。
 棺木鏡介と向き合ったあの瞬間の感覚が――

“――月の夜はこうして、目を開いているの”

 果たして、歌うことを止めた少女が、月に謳うように言った。
 涼やかな声と対照的に、少女の声から感じ取れるのは底知れない絶望の感情。
 少女は月を見上げながら、依然として脚を振りながら、
“ほんとうは、外しちゃいけないんだけど。でもね、こんなに綺麗な月があるんだから少しくらい”
 しっかりとした口調は、やはり幼い容姿に反していた。
 これほどに幼い少女なのに、なにかに絶望を覚えてしまったように沈んだ、現実に嫌気が差したような話し方をするなんて。これではまるで。
“冬の夜は星が綺麗。世界はこんなにも薄汚れているのに、穢れの中にある星は綺麗”
 いつか、わたしも同じことを思ったことがある。
 世界は汚い。世界には、穢れた思想が満ち溢れている。望まずして手にした叡智は、触れてはいけない禁忌だった。世界の理は――決して開けてはいけない、禁忌の詰まったパンドラの箱。
 同じことを、少女も思っているのだろうか。
 月を見上げながら呟く少女には、世界の理が見えているのだろうか。
 だとしたら、この少女はまるで。
“静かになりましたね。今宵は、普段にもまして騒がしかったのに”
 締めくくるように、呟く。
 白い少女は依然として月を見上げたまま、
“貴方は、わたしの味方ですか?”
 そう、問いかけた。
 はっとして振り返る。これまで白い少女に集中していた意識を背後の闇へと振り向かせれば、そこに闇に紛れて黒い立ち姿があった。知っている。わたしをここに向かわせた張本人だ。

 棺木鏡介。――否。棺継鏡介。
 今なら、それが断言できる。

“さあ――私は、唯の破綻した失敗作ですよ”
 知っている。その声を、わたしは知っている。
 畳の上を歩いて、部屋の中央まで歩を進める。けれど、彼の移動はそこまでだった。縁側に出て月を見上げる白い少女と、一定の距離を置いているように。棺継鏡介はそれ以上少女に近寄ろうとしない。
“屋敷が静かになったのは、貴方の仕業ですね?”
“ええ”
“どうして、静かになったのですか?”
 表情は微笑。黒い男は相変わらず、愛想笑いのような空っぽの微笑を貼り付けたまま、
“私が――全て、殺してしまったからです”
 知らず、身が竦んだ。
 感情なんて無い、形だけの仮面みたいな笑顔を。
 わたしは初めて、恐ろしいと感じた。
 錯覚ではない。確かに今の瞬間、彼の表情には明確な殺意と敵意――憎悪、呪詛、怨嗟、あらゆる負の感情が浮かんだから。本能的に逃げ出したい衝動が生じる。胃の中にあるものを全て吐き出したくなる。
“そうですか”
 あっけらかんと、白い少女はそう言った。
 全て、と男は言った。大きな武家屋敷。今宵この屋根の下にいた人間はきっと一人や二人ではない。多ければ数十人。もしかしたら、棺継という名の血族が集結していたかもしれない。
 自分がいる場所と同じ屋根の下で、そんな惨劇が起こったと告げられたのに。
 白い少女は、表情一つ変えずにただの一言で返したのだ。
“どうしてですか?”
 哀しみも、恐れも、憎しみも、何もかも。
 一切の感情が感じられない、少女の問いかけ。それはきっと、どうして人を殺したのか、とその行為が信じられないと言っている風ではない。まして、その罪を糾弾している風でもない。文面の通り。本当に純粋に、どうして殺したの? と興味無さ気に、社交辞令のように訊いたのだ。
“貴女を――”
 黒い男は、逡巡するように言葉に詰まって、
“――貴女を、自由にするために”
“そうですか”
 それも他人事だと、言っているように。
 両者の会話には、その端々から一切人間らしい感情が読み取れない。必要だから言葉を交わしているのではなく、必要でもないのに言葉を交わしている。他愛も無い雑談と同じ。する必要なんて無い、戯言の掛け合い。一つだけ、一般的な雑談と違うことがあるなら、二人はそれを望んでいないこと。
 望んでいないのに、互い雑言を口にしている。
 顔をあわせることもせず、向き合うことなどなく。交わすのは言葉だけの、感情の伴わない会話。互いに何かを探り合うわけでもなければ、互いの感情を交えることもない。そもそもそんなこと、両者が望んでいない。
 本当に形だけの、空っぽの会話。
 白い少女と黒い男。
“どうしてですか?”
 白い少女が同じ疑問を繰り返す。抑揚のない、感情の無い声で。
 変わらず少女の脚は揺れる。
 月を見上げる儚い横顔が、再度問いかけた。
“どうして、わたしなんかの為に人を殺したんですか?”
 問いかける声。感情の伴わなかった少女の声に初めて、本当の意味で、黒い男が起こした行動の真意を問いかけていた。それだけは答えて欲しいと。答えるべきだと。
 懇願するように、希うように。
 白い少女が黒い男に訊く。
“……目、痛いですか?”
 答えない男に、少女は別の質問を投げかける。
 ……暗闇で、わたしは気付かなかった。というよりも、わたしは彼の姿を一目振り返っただけで、後はずっと少女を見ていたから気付けなかった。依然として月を見上げる白い少女は、わたしと違って一度も振り向いていないのに。どうして。
 どうして、男が――棺継鏡介が泣いていると、解ったのだろう。
 泣いている。違う。彼の涙は、赤かった。
 右目から頬へと流れる朱色の涙。表情は笑っていても、それは泣いているように見えた。
 男は右目を庇うこともせず、流血を拭おうともせず、無関心のまま放置している。既に何をしても意味がないと、何をしても手遅れだと言うように。微笑むように瞼を下ろして、瞳を隠して。
 この時、わたしは思わずにはいられなかった。
 欠陥製品。誰かを――妹を救うと言い訳して、結局救いたかったのは自分だと言った彼。その、自らの救済さえも中途半端にしか出来なかったと言った黒い男。
 たった一人の、妹を救おうとした、世界の傍観者。
“どうして”
 自分への質問には答えず、今度は黒い男の方から質問する。
 天上の月を見上げて、金色の孔を尊ぶように儚げな表情は、白い少女のそれによく似ていた。
“どうして世界は、こんなにも美しいのでしょうね”
 その問いを、男は当然のごとく口にする。
 彼なら知っていたはずなのに。
 世界はこんなにも薄汚れて、穢れた思想に満ちていると、世界の真理はどこまでも腐敗していると。わたしと同じように、望まぬ叡智を重ねてしまった彼なら知っているはずなのに。
「――――ッ」
 途端、頭痛が、思考を乱した。
 夏の時と同じ。廊下で暦と向き合ったあの時と同じ感じ。立っているのさえも難しくて、目を開けているのも苦しくて。重力が、体全体にそれぞれ異なった方向に働いているみたいな、浮遊感と圧迫感と重圧感が同時に体と精神を苛む。
 膝が、砕けてしまいそうだった。
 眼球が痛い。
 頭だけじゃなく、体全体が痛い。
 目が熱い。熱い、痛い、熱い、痛い。疼く。疼く疼く疼く疼く疼く疼く疼く――。
 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいイタイイタイイたいいタイイタイ――。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いアツイあつイアツイアついあつイアツイ――。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいクルシいクルシイくるシイクルシイくるしイクルシイ――。
 平衡感覚の喪失。思考が徐々に劣化していく。目を閉じているのに原色が異常な速度で点滅する。血液が逆循環を開始してるみたいな感覚。呼吸するのが難しい。息を吸い込むたびに、喉が、肺が擦り切れるみたいに痛い。
 それでも。
 もう一度、目を開けようとした。
「…………もう……少し……」
 もう少しだから。
 後少しだけ、さっきの景色を見ていたかった。
 自分の姿をそこに投影することで、辿り着けそうだったんだ。――わたしが、心のどこかに閉じ込めた遙瀬空のところに。いつか、見失ってしまった遠い禁忌を。誰かを好きになった記憶。亡くして、否定して、掻き消そうとして――それでも消しきれなかった大切な想いを。
 我侭だけど、今更だけど、取り戻さないと。
 止まってしまったわたしはもう一度、遙瀬空として進まないといけないから。
 そして。
 わたしがそう思った瞬間。
 不意に、これまでわたしを支配していた非現実感が、現実の喪失した感覚が、唐突に消失した。
「お疲れ様です」
 ……体が、重い。
 爪先が床についていない。なのに体は何かに支えられているみたいに、絶妙なバランスを保って立っている。支えられているように。事実、支えられながら。
「……棺木さん」
「ええ、どうもこんばんは」
 変わらず微笑する黒い男の姿が、そこにはあった。
 右目は髪で隠れて見えない。血も流れていない。そこにいたのは、昨日、一昨日わたしが会って話をした棺木鏡介だった。
 辺りを見回してみる。場所はそれまでと変わらず畳の上。障子の開いた縁側。差し込む月明かり。変わらぬ景色の中に、ただ一つだけ、白い少女の姿が欠如していた。
 それだけの変化が大きい。あんなにも輝いて見えた月は呆気ないほどに色褪せて見えて、綺麗に思えた世界はまた穢れた禁忌に満たされていた。一人の、純白の少女がいなくなっただけでこんなにも。
 でもまあ、そんなの当然か。
 だって今のは、わたしの世界じゃない。夢のようで夢でしかない、夢の果てなんだ。
「……今のは、なんですか」
「私の記憶……というよりも十年前にここで起きた出来事の記録です。貴女ならきっと、辿り着くだろうと思っていました。ここは特別、私の思いが強く出ていましたから。貴女はそれを拾ってしまうのではないか、と」
「あれを見せるために、場所をここにしたんですか……?」
 棺木さんは頷く。
 既にわたしの体は正常な感覚を取り戻していた。力の入らなかった手や足はしっかりと自分の意思で動く。わたしは自分を支えている棺木さんの腕から逃れ、反動で三歩ほど前進。いつか、白い少女がいた場所に立った。
「あの子は、棺木さん、貴方の妹ですか」
 わたしの問いに、けれど棺木さんは答えない。
 無言のままわたしの隣に並んで、月を見上げる。
 ややあってから。
「御解かりでしょうが、私の苗字は『棺継』。棺を受け継ぐと書いて、棺継です。この家系は、少し変わっていまして、そうですね――世界の中心を追い求めていたんです」
「世界の、中心?」
「世の理。全ての因果関係が収束し、全てが始まり全てが終わる、始発点にして終着点。現象の最果てで、そこには全てがあって全てがない。そういう場所です。棺継の家系は永い年月を費やして、そんな途方もない、在るか無いかも不明瞭な場所を求めてきました。そうして、何代もの時を経て私の代に行き着いた。純血だったんです。何度も何度も、同族間で子孫を作り、私が生まれた。ならば、私は一族の悲願の結晶だったんでしょう。永きに渡る研究の成果と、血に刻まれた呪い。そして、中心と繋がったこの目」
 棺木さんは自分の右目を指して、
「こちらの目は、既に機能していません。十年前に失明して、世界との繋がりも途絶えました。残った左目も、失明こそしていませんが、色の識別も出来ないほどに劣化しています。こちらはまだ中心に通じていますが。いつか反動で潰れるでしょうね」
 まるで他人事のように語る姿は――白い少女のそれに酷く似ていた。
 感情など一切表に出さず、月を見上げて語る。
 棺木鏡介とわたしに名乗った男。
 その、黒い男。棺継鏡介という、同族殺しの異端。異端であり、破綻。
「お察しの通り、彼女は私の妹です。もっとも、私も彼女もそうは思っていませんが。というよりも、そんなこと、思ってはいけないんですよ」
 思ってはいけない。思えないのではなく。
 禁忌。血の繋がりを信じるその行為が禁忌であると、黒い男は語る。
「純血、だと誰もが信じていました。――違ったんですよ。いつからかは解りませんが、棺継の一族は混血になっていたんです。一つの家系では完成されなかった世界との経路が、そうすることでようやく完成した。ですが、それが間違いだったんです。私の目は不完全な発現でした。恐らく、十年前のことがなくてもいずれ両目共に潰れることになっていたでしょう。
 しかし、妹は違っていたんです。私の妹は、完全な形で棺継の悲願を達していました。貴女もご覧になったとおり、妹の目は左右で瞳の色が異なります。右に棺継の異能。左に混血の異能。二つの異能を宿していました。故に異能は異能として扱われず、一族の中では異端――破綻として扱われていました」
 わたしは思い出す。少女の傍らにあった白い包帯を。その意味をようやくにして理解する。棺継の家系が求めた異能がその瞳に宿るものだとしたら、あの包帯の使い道を察することは難しくない。直感的でいて、絶対的根拠のない推測だけれど、同時にそれ以上の解答がないと思える答え。
「光を見たことがなかったんです。私の妹は。棺継はいつの間にか世界の中心に到達するという目的を忘れて、いつしか純血であることを誇るようになっていました。それ故に、その為に、彼女の世界からは一切の光が奪われた。永い年月を暗闇の中で過ごしていたんです。あんな、小さな少女が」
 変わらぬ平静。変わらぬ無表情。
 なのにどうして、彼は。
 棺継鏡介というソレは、どうしてこんなにも辛そうに言葉を紡いでいるのだろう。
 この瞬間が、錯覚かもしれないけれどこの瞬間こそが。棺木鏡介がわたしに初めて本物の感情を見せた瞬間だった。どうしようもない苦痛を堪えているように、耐えられない激痛に歯を食いしばるように。悲痛に歪んだ、歪な微笑が月光に映える。
「それが、赦せなかったんです。……いえ、違いますね。私は彼女に同情したわけでも、棺継を恨んだわけでもなかった。そうです。私は、自分のことしか考えていなかった」
 そのことが最大の罪であると、語る。
 ここまで聞いて、ようやくわたしは理解に至った。彼が憎んでいたものは誰でもなく、彼を苦しめているものは何でもないのだと。棺木鏡介の抱く怨嗟の苦しみも、棺木鏡介を締め付ける束縛も――全ては彼自身、棺継鏡介という彼自身なのだと。
「私は唯、自分に嫌気が差していたんです。罪悪感、などと高尚なものではない。優越感でも、劣等感でもない。どこから生じたのかも解らない、自己を永遠に締め付ける感情。私が救いたかったのは自分自身でしかなかった。そう――同じ血を持って生まれ、同じ目を持って生まれたのに。ほんの些細な違い、唯瞳に発現した異端の違いだけで――私だけが持て囃されることに負い目を感じた」
 異能、異端、そして破綻。
「私は、私は正統な棺継の者ではない。悲願を達したのは妹だった。……だと、いうのに。どうして私だけがヒトとして扱われ、どうして彼女だけが破綻と扱われているのか。気付いていた。気付かないフリをしていた。私は知らず負い目を感じていたのだと。知っているのに知らないフリをして。彼女を救う。棺継の支配が彼女を破綻とするのなら、私がその支配を取り払う。光を与える。そうすることでやっと、私はこの感情から開放されるのだから。その為に、多くを殺し、多くを滅ぼし、一つの家系を終わらせた」
 はじめから誰かを救いたかったわけではない。
 ただ、自己の心の救済を求めて、他人を救うと口にして禁忌を犯した。
 棺継の家系。気付いていないはずなどない。棺継という家系は、彼にとって掛け替えの無い家族だったというのに。なのに、自らを解放するために滅ぼした。
 あろうことかその禁忌を、妹の為だと銘打って。
 誰に罪が在ったのだろう。
 知らぬ間に混血となっていた棺継の家系。世界の中心という悲願を忘れ、いつしか純血という血の潔白、一族の繋がりを大切にしていた家系。その為に光を奪われた少女。異能は異端として扱われ、最後には破綻として忌避された。彼はそれが赦せなかった。求めていた場所に辿り着いたはずの少女が、なぜ蔑ろにされなければならないのか。なぜ、失敗作である自分だけがのうのうと生きていられるのか。
 答えられない疑問に自我を押し潰されそうになったから――壊れる前に壊した。
 彼が生まれた、彼が繋がっていた――家族という名の世界を、破壊した。
「……思えば、初めはちっぽけな感情だったんですよ。妹に負い目を感じていただけ、瞳を隠され、視界を、世界を閉ざされた彼女を見るたびに疼くように痛む感情。それを嫌悪するあまり、大切なものを多く失った。……失った、ではなく、切り捨てた、ですか。ただの一言でも、助けて欲しいだなんて言われていない。それなのに私は――」
 月を見上げる瞳が、細く閉じていた世界との繋がりが、
「――彼女にとって大切な家族(セカイ)を壊した」
 涙を滲ませて、心の底から後悔して、泣いていた。



 ◇



「だけど、貴方は救われなかった。自分を優先して、多くのものを犠牲にしたのに。なのに、本当に救いたかった自分自身でさえ救済することが出来なかった。それが貴方の後悔ですか? 棺木さん」
 彼の言葉を継ぐ。
 棺木さんが失った世界。家族、繋がり、妹。残ったものは後悔だけ。自己嫌悪と罪悪感。目的は達せられず、失ったものは多大。
 静かな動作で棺木さんが頷く。過去を回想するように、ゆっくりと瞳を閉じて。
 月明かりが屋敷を照らす。星空は遠く、いつか夢見た理想郷がそこに在るみたいだ。
「結局、一度でも彼女には自分が兄であると言えませんでした。言う必要など無く、知っていたでしょうが。世界との繋がりを持つ目は、否応にも全ての真実を告げます。貴女の異能も同じですよ。世界の中心と繋がっているんです。世界の始まりから終わり、全てが記録された中心。そこに触れることは即ち、望まぬ叡智を得ることと同義です。嗚呼、そう考えるなら、やはり私は間違っていたのですね。彼女なら、その気になれば世界さえ変えることが出来たというのに。彼女はそれをしなかった。救済など、望んでいなかったんですね」
「…………」
 朔夜さんは言った、異端ではなく破綻だと。
 嘗て自らのセカイを壊してしまった誰か。異端として生まれ、異端として生き、破綻として終わった。世界にある以上、世界に背くことは出来ない。彼はその理に反して、世界を壊した。故に破綻。存在意義も、存在定義もなにもかもを否定して、空っぽになった存在。
 後悔のシガラミだけが彼を縛り付け、今尚も心を苛む罪悪感として在り続ける。道を踏み外したわけではなく、選択を誤ったわけでもない。彼は、壊したのだ。自分の世界を。自らと世界との繋がりを。
 破綻。その言葉が脳裏を巡る。
 黒い男は言った。自分は兄であってはならないと。自分にその資格はないと。救いたかったものを見失い、救うべき対象を見誤り、護るべき世界を壊した。望まれぬ救いを建前にして、妹を救う兄の姿を言い訳にして。自分のことしか考えていなかった。大切なモノがなにであるか忘れてしまうほどに、追い込まれていた。
 わたしには解る。棺木境介が背負ってきた孤独も罪も、犯した禁忌も。彼の記憶――破綻の記録を直視した故に否応にでも伝わる感情。
 彼はやり遂げた。すべきことを果たした。あの夜、自らを縛るシガラミを断ち切った。結果としてそれが彼の妹を救うことになったはずなのに――破綻した世界の最果てに彼が見たのは、途方もない後悔だった。
 白い少女、妹は救いなど求めていなかった。或いは現状を受け入れていたかもしれない。ならば、そんな少女の世界を奪ったのは自分ということになる。与えたのは救いではなく、より深い絶望。救済など、どこにもない。自己満足にすらなりきれない結果。残された孤独と罪悪感。
 言えるはずかない。思っていいはずがない。月光の下で儚く輝く白い少女、その尊い世界を奪った自分が彼女の兄であるなどと――どうして思えるだろう。
 わたしには、解る。歪な形ではあるけれど、それでもこの想いはきっと同じものだから。
 例え、棺継境介が犯した禁忌が間違いであったとしても――
「それでも、きっと彼女は貴方を兄だと思っています」
 全てが間違いで、世界さえも欺瞞だったとしても。
 それだけは間違いない。
 ……嗚呼、やっと見付かった。どうして今まで見えなかったんだろう。わたしの探していた答えは、ずっと前からここにあったんだ。
 胸の奥の歪な想い。埃を被って、破綻寸前まで摩耗したそれは、けれど。きっとあの白い少女と同じ感情なのだから。だから、わたしは言わなければならない。この破綻した世界の代行者として、言わなければならない。

「――貴方は破綻なんてしていません」

 遙瀬空を導いてくれた彼が、これ以上迷わないように。これ以上大切な何かを溢してしまわぬように。わたしは、最後に世界の代行を勤めなければならない。
「世界を壊しても、自身が空っぽだとしても。それでも――貴方が妹を想う気持ちは陰りなく本物なんですから」
 もしも本当に、彼が破綻していたら。自己の救済のみを望んでいたのなら。だとしたら、後悔も罪悪感もない。少女から世界を奪ったことに罪悪感を感じることなど、なかった。
 ……ほんとう、大切なものは近すぎて見失ってしまう。だけど、近いからこそまた修復出来るんだ。初めから傍にあった存在は、最後まで手放してはいけないものだから。見失ってはいけないものだから。
「棺木さん。わたしに勝手なことは言えませんが、彼女はきっと貴方を憎んでなんていません」
 遙瀬橙弥。
 遙瀬空。
「自分の兄が嫌いな妹なんて、きっと、どこにもいません」
 わたし自身が、そうであるように。あの白い少女もきっと、自らの兄を憎んでなんかいない。
 例え世界が壊れていても、互いが互いの居場所になれる。共鳴し、支えあう世界。それが、兄妹なんだと、わたしは思いたい。
 静かな夜の月。冬の夜は冷え込んでいて、ついさっきまで異常な熱に浮かされていたわたしの体も冷めてしまった。棺木さんは夜の冷風を一身に浴びて、果てなく遠い金色の孔を見上げる。いつか、双色の瞳が見上げたその輝きを。
「ありがとうございます」
 やがて、振り返らない黒い影のような姿が言った。
「少しだけ、楽になりました。錯覚かもしれませんが、確かに。貴女のお陰です、空さん」
「こんなこと、根拠なんてないんですけどね。……それに、本当に救われたのはわたしの方です」
 ようやく取り戻せた気がする。まだ不確かな形ではあるけれど、それでも確かに本物の想い。直ぐ傍にあって見失った、始まりの記憶。
 夢のように、醒めてしまえばなんでもない幻想かもしれない。
 それでもわたしはこの幻想に縋っていたい。わたしが停滞したあの日を、忘れてしまった想いを見失わないように。今は、埃を被った過去の記憶を大切にしていこうと思う。そうすることでやっと、わたしは遙瀬空として、歩き始められるから。
 ――わたしの言葉で、想いを伝えられるから。
 もっと早く気付くべきだった。
 穢れを知らないものが綺麗なんじゃない。穢れを知っているから、なにが綺麗なものか知っている。だからわたしは間違っていた。触れなければいいと、遠ざければいいと思ってしまったから。穢れに触れなかったわたしは同時に――綺麗なものにだって触れたことがないんだ。
 だから、そのことに気づかないまま、ずっと遠ざけてきた想いを、今度こそ形にしよう。
 時間は掛かってしまったけど、置き去りにしてきた遙瀬空の想いは風化していなかったから。もう一度大切なこの気持ちを抱き締めたい。自分に嘘を吐かないように。もう二度と大切な禁忌(キモチ)を見失わないように。
 ふと思い出す、いつかの疑問。
 世界は、どうしてこんなにも汚いのか。
 それは。
 そんなのは。
 世界の穢れを、わたしが拒絶していたから。なにも知らないで、なにもかもを否定していたから。ただ、それだけの理由。
 わたしはもう一度、縁側に立つ黒い姿に視線を送る。彼は、棺木境介は、既に語るべきことはないと告げるように月を見上げている。
「ここをまっすぐに行けば外に出られます」
 と、思い出したように棺木さんは言った。月明かりの照らす廊下。今、棺木さんが月を見上げ、かつて白い少女が世界を眺めていた場所。
「送っていきましょうか?」
 親切にもそう言ってくれる棺木さんはしかし、やはりわたしを見ようとはしない。今はただ思い出の回想をするように立ち尽くすのみ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
 大丈夫。自分の言葉が少しだけ誇らしい。うん、そうだ。わたしはもう大丈夫なんだ。
 道は示してもらった。スタート地点までは導いてもらった。なら――後は一人で歩き始めなくちゃ。
「そうですか。では、これでお別れですね」
 別段名残惜しそうもなく、棺木さんは別れを告げる。
「お気を付けて」
 黒い長身が頭を下げる。礼儀正しすぎる模範的なお辞儀に応えて、わたしは帰り道を歩き始める。暗い廊下。頼りは月明かりだけ。それでも、今は不思議と落ち着いていられた。
 さあ、帰ろう。
 大切な想いを抱いて、いつかおいてけぼりにした自分に会いに行かなきゃ。
 深遠な闇の中、瞬く星は絶望的に遠い。手を伸ばしても届かない輝きが夢のようで儚い。
 燦然の輝き。金色の月光は、いつか見た遠い夢の景色によく似ていた。
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