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ガールズカルテット 作者:双色
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 特に何かをして過ごしたというわけでもない時間が過ぎて、下校時間になる。
 わたしは朔夜さんから預かった鍵で硬く扉に施錠し、帰宅の途に着いた。小さな鉄片がひんやりと冷たい。正直こんな部屋に鍵を掛けておく必要があるのか、わたしには甚だ疑問である。教師にしても生徒にしても、朱空朔夜印の謎スペースに侵入しようなんて思う愚人はいないだろう。何も知らないこそ泥が間違って足を踏み入れてしまうかもしれないけれど、それも間違いで、入ったからといって盗って得する物も盗られて困る物も無いから問題ない。
 日が高い夏場なら、まだ廊下は茜色の夕日に染まっている頃。でもそれは飽くまで夏場の話。今日は冬真っ盛りで、おまけに天候も優れないときている。当然、廊下は深遠な闇に満ち溢れていた。廊下というよりも寧ろトンネルと言った方がしっくりくる。夜間制のない学校だけに夜用には作られていないのだ。当然、夜を照らす明かりは弱々しく頼りない。
 はっきり言って、不気味だ。
 一歩外に出て最初に気づくことは、室内と廊下での気温の違いだった。
「……やっぱり、寒いな」
 声は不気味に夜の中で残響した。
 …………。
 認めたくないけど、わたしにもやっぱり年並みの情を持っているらしかった。胸の内を明かしてしまうなら。わたしの精神はこの状況に少なからず非日常的な何かを感じ取って落ち着かない。心臓が脈を打つ速度がいつもより速いのに気づく。寒いのは、どうも気温の所為だけじゃないみたいだ。
 うん。早く帰ろう。
 こんな所に長居するのは、嫌だ。
 夜の学校と夜の病院。二大不気味スポット。厳密には今を夜と言うのはまだ早いかもしれないけれど、この暗さはこれ以上深くなったりしないだろうからそんな理屈は何の解決にもならない。加えてここは使われていない教室が集められている二棟の一階。人気は完全に、全くに、生命の気配など皆無。この上の二階ならホームルーム教室があるから、まだ残ってる生徒がいるかもしれないけど。頭上で点灯している蛍光灯が不気味さを増長させていて、明らかな逆効果だった。完全なブラックアウトよりも中途半端に明かりがある方がかえって気味が悪い。
 早足に歩き始める。さて、今日の夕飯は何しようかな、なんて気を紛らわすために考えてみる。
 たん、たん、と廊下に響き渡る自分の足音さえ耳に入れたくない。そう意識することは逆効果で、聴こえないようにと考えることで一層聴覚はその音を拾った。
 早く明かりのある所に行きたい。こんな無機質な光じゃなくて、もっと人の温もりがある明るい場所に。
 たん、たん。たん。
「…………ッ」
 寸での所で声が出そうになった。
 二階に続く階段があるのは五歩後の曲がり角。直ぐそこまで来て、わたしは足を止める。
 人体に付属されている脚は全部で二本。右と左。左と右。交互にそれを前に出して移動することを、歩行という。なら、それによって発生する音は二つ。右足と、左足の分。それなら、三つ目の音は何だと言うのか……? 
「幻聴……幻聴……」
 自分に言い聞かせる。病は気から。気が病んでいると、本来あるはずのないモノが視えたり、聴こえたりするものだ。だから気にしないでいよう。今のだって、きっと何かを聞き違えただけ。
 一人頷いて、右足を上げる。その一歩を踏み出す前に、
 たん、たん。
 わたしの足は、空中で静止していた。まだ、地に着いていない。
 たん、たん、たん、たん。
 お構いなしに続く足音。絶句して、わたしはそれを聴いていることしか出来ないでいた。……何でもない。なんでもない。怖くなんて、ないんだから。内心で強がってみるわたしを嘲笑うかのように足音は止まない。性質が悪いのは、その音が正面から聞こえてくるということ。
 選択肢は二つ。
 振り返って逃げ出すか、かぶりを振って前進するか。
 落ち着いて思考しよう。ここは学校で、今は下校時刻を少し過ぎただけの時間。だったらまだ校舎の中には人が残っていても何にも可笑しくない。足音が在ったって不思議でもなんでもないんだ。……でも、わざわざ一階に下りてくる理由は? 
 何も考えないことが得策。無心のまま、わたしは後の選択肢を選んだ。
 目を瞑って、前に踏み出す。視界を閉じることで鋭利になった聴覚が告げる。後少し。後少しで、足音と擦れ違う。ぐっ、と拳を握り締めて、わたしは運命の一歩を踏み出した。
「ひゃ――――」
 体が運動方向を変える。片足を上げた状態で安定の悪い体が後方に反り返る。そこからの流れは極自然だった。安定を失ったわたしの上半身はどんどん反っていき、下半身がそれに耐えられなくなる。後は重力に従って……ようするに、尻餅をつく結果になった。
「いたた…………」
 勢いよく倒れこんだわけではないけど、未知との接触に体は思っていたよりも強張っていたらしい。受身も何も無く、勢いのまま倒れたのはそれなりの衝撃だ。
 正面から足音が迫っていることは解っていたけど、本当に正面……対面から向かってきているなんてことまでは解らなかった。明らかに、わたしの不注意に過失がある事故だった。
 わたしは膝を立てて、倒れたまま腰をさすって目を開ける。ぶつかったということは足音の主は確かな質量を持っていたということでつまり、そこにいるのは少なくとも幽霊とか呼ばれる類の怪奇ではない。そのことに少しだけ安心。
「すいません……大丈夫ですか?」
 ぶつかった相手に対して、わたしは必然的に見上げる形になる。
 そして――それが、気に入らなかった。わたしは今ほどに数秒前の自分を愚かに思ったことは無い。むしろこれが解り易い畏怖の対象だったらどれだけ良かったことか。目を閉じるなんてこと、愚行にも程がある。
 解き放たれた視界にいたのは、いつか見たことのある上級生だった。
「わたしは大丈夫だよ。……あれ? 空さん、久しぶりだね」
 思い出すのは、五月下旬の放課後。夕焼け色の廊下。
 ――その上級生、御桜流深は微笑んで手を差し出した。
「……ええ。お久しぶりです」
 差し伸べた手を拒むように、わたしはそれを視界にも入れずに自力で立ち上がる。
 御桜流深。
 その名前を聞いたのは五月の、梅雨を間近に控えた頃。暦と橙弥を交えて四人での邂逅だった。
「御桜、流深さんでしたよね」
 御桜流深という先輩はにこやかに頷く。
「覚えててくれたんだ。ありがとう」
「人の顔と名前は忘れないようにしているだけです。次に会った時、覚えていないと失礼ですから」
「へえ、記憶力いいんだね。さすが、一年生首席。生徒代表さんは言うことが違うね」
「…………」
 やっぱり、この人は……。
 自分の中に在る感情を再度確認する。感情の無い笑顔。さっきまで見ていた黒い男の仮面染みたそれとは違う、まるで、張り付いてしまった故にどうすることも出来ないような。前者を意図的に付け外し可能な仮面に喩えるなら、後者は顔の形が勝手に変形していると喩えるのが正しい。……つまり、それは。
 感情の有無に関わらず、場合によりどうするべきか判断し、それが自動で行われるシステム。初めから設定された、或いは説明書通りに組み立てられた贋物。
 自覚してはいた。初めてこの人を見たときから、ずっと。
 わたし遙瀬空は、この人――御桜流深が苦手だった。
「……それでは」
 努めて冷静に。内心の独白などおくびにも出さず。彼女の横を逃げるように通り過ぎる。
 そこで、
「好きなんだよね、お兄さんが」
 ぴたり。と、わたしは歩みを止める。
 というよりも正しくは、次の動作に移ることが出来なかった。
 脳から伝達される運動神経が脊髄で滞っているような、否、そもそも体を動かすという方法を忘却してしまったような――それほどに、今のわたしの頭の中はガランドウ状態で何も思考出来ずにいた。
 突然、なにをいいだすんだ、この人は。
 どうやら彼女は、わたしのことが気に入らないらしい。
 わたしが彼女に対してそうであるように。
「ええ。その通りです」
 嗚呼そうか。やっと解った。
 ――わたしはこの相手が苦手だから、早く逃れようとしたんじゃない。
「家族、兄妹ですから。当然、兄には好意を抱いています」
 ちらりと横目に窺う。黒髪が邪魔をして表情は窺えなかったけれど、彼女はきっと今、物凄く楽しそうに笑っているのだろう。それが心から笑っているのかはわたしの知りえるところではない。だからこれは予想になるけど、それもきっとプログラム通りなんだろう。
「それだけですから」
 決定的な一言みたいに言って、歩みを再開する。
 言葉に、唯、明確な敵意だけを乗せて。
「自分に嘘を吐くのは良くないと思うよ。空さん。……ん? あ、今のはわたしに嘘を吐いたことになるのかな。まあ、どっちにしても同じことだよね。この世界で唯一貴女を欺けるのは、貴女自身なんだから。だから、その嘘を明かせるのも自分だけ。それを拒絶してたら、一生自分を騙し続けることになるよ」
 その言葉に不本意だけどわたしはもう一度立ち止まった。
 数秒前と変わらぬ平坦な口調が糾弾してくる。それが不快だったから、無視して逃げるのは気に喰わなかった。まるで自分が劣勢に立たされているような、弱みを握られているみたいような、全てを見透かされているような。それが、その事が、その事実が、その態度が。――癪に障る。
 きっ、と睨み付けるように振り向くと、相手もまたこちらを振り向いていた。
 楽しげに、儚げに、全てを知っていながら達観しているように。
 他の誰も隣に立たせず、他の誰一人として自分の同類は存在していないと言うように。
 自分だけが世界中で唯一孤独で、罪深く、深い深い、救いようの無いほどの絶望を知っていると言うように。
 こうして対峙しているわたしさえも無いものとするかのごとく。
 無感動に、無感情に、無表情に、無慈悲に、無関係に、無二無双と。
 気に喰わない。気に入らない。気に障る。癪に障る。
 跳ね除けたくて、拒絶したくて、否定したくて、消し去りたくて――
 ………………。
 …………。
 ……。
「嘘を吐いてるって言うなら、アンタの方だってそうでしょ」
 半ば開き直って、わたしは今までの口調を改める。
 さっきよりも威勢に、さっきよりも敵意を込めて。呪詛を撒き散らすように言い放つ。
 御桜流深は、そんなわたしの態度を求めていたのか少しだけ楽しそうに笑う。それが欣喜から零れた感情表現でないことは今更思考する必要も無い。
 何もかも見透かされているというなら、それは何もわたしに限定した話ではない。彼女の言った通り、この世界でわたしに嘘を吐ける存在なんて有り得ない。だから条件は同じ。わたしにだって、相手のことは解りきっている。
「――へえ」
 感心するように、シニカルにそう呟き、
「やっぱり、解るんだ」
 御桜流深という上級生はそう言った。
 知っていた。でも自覚していなかったんだ。わたしがこの人を苦手にしているのは本当のこと。だけどそれとは別に、苦手意識とは別にもう一つある。それは言葉では形容しきれない感情で、それでも無理矢理に言葉にするなら――そう、わたしは御桜流深という先輩が嫌いだ。
「でもわたしのことは今は関係ないでしょ?」
「そうですね。確かに、貴女がわたしに嘘を吐いてもわたしは何も迷惑しません」
 そうだ。彼女がどれだけわたしを欺瞞しようとも、わたしは何も困らない。だから初見で彼女のことを看破したときに何も言わなかったし、今だってそれを追及したり糾弾したりするつもりはなかった。それでも、わたしがそれを口にしたのは……なんていうか、言われっ放しが気に入らなかったから。
 嘘を吐きたければ好きにすればいい。わたしにとってそれが不都合なら、いつでも化けの皮を剥がしてやるだけの自信はある。だから勝手にしていればいい。わたしには。けれど。でも。
「でも、兄を騙しているのは話が違ってくるんじゃないですか、御桜先輩」
「騙す、か。うん。自己弁護する気は無いから認めるよ」
 あっけらかんとして、御桜先輩は肯定した。見ているこちらが毒気を抜かれるほどに。
 完全に付け入るところを間違ってしまったのか。否、そんなことはない。
 自己弁護、と御桜先輩は言った。言い訳や詭弁ではなく、弁護と。それはつまり、彼女にはまだ救いようのある面が、無罪放免であると言える可能性が残されていると言っているのと同じこと。この期に及んで悪足掻きをしているわけでは、ないと思う。この相手に限ってはそんなことはないと断言できる。
 だったら、何が言いたいのか。
「わたしが騙してるんじゃなくて、遙瀬くんが騙されてる、って言うのかな」
 そんな戯言染みたことを、或いは解答を示すように御桜先輩は口にした。
 主語を入れ替えただけで何も変わらないじゃないですか。言いかけて思い留まる。同じじゃない。文面と結果だけを見るならば同じことなのかもしれないけれど、それでも。そこには異なるニュアンスがある。
 因果の逆転、或いは発想の逆算。
 本来なら全ての現象は原因が先に在り、その後に結果が在る。けれど逆説的な考えで、結果が在るから必ずそこには何らかの原因が在る、とも言えるのだ。原因が原因足りえるのは何らかの結果が在ってこそ。なら、先に結果が在ったとしたら。必然的に原因が無ければ矛盾する。
 御桜先輩が言いたいのは、つまりそういうことなんだろう。
 自分が遙瀬橙弥を欺いているのはあくまで結果論だと。遙瀬橙弥が騙されているから、自分が彼を騙す形になっているんだと。そう言っているんだ。
「……なにを、バカな」
 そんなのは根本から矛盾する。
「騙されてるというのなら、性質上そのことに気づいているなんてことは有り得ません。それは唯の狂言でしかありません」
「正論だね。うん。間違っていないよ。百点満点。でもね、空さん。世界は不条理で満たされてるんだよ。理屈に合わないことも、筋の通らないことも幾らでもある。――この世界にはね、破綻しているからこそ成り立つことだってあるんだよ」
「…………言いたいことが解りません」
「だからさ――」
 微笑むように、舞うように。ただ楽しげな口調が淡々と告げる。
「――遙瀬橙弥はとっくに壊れてるんだよ。ずっと前に」
 理性が、音を立てて崩れ始める。
 直ぐにでも手を振り上げて、この女を張り倒してやりたいと思った――けれど。
 けれど、わたしにはそれが出来なかった。
 だって。
 ――それを口にした御桜流深の表情は泣いていたから。
 涙も零さず。ただ表情だけが、確かに泣いていた。
「………………」
 わたしは、何も言わない。
 何も言えない。
 これ以上待っていてもわたしからは何も言わない。そのことに気づいた御桜先輩は少しだけおどけたようにして、
「ごめんね。ちょっと意地悪だったかな」
「ええ、とても」
 自分の中に在る感情を確認するように。
 少しだけこの人を認めてしまった自分を、否定するように。わたしは言った。
「とても不愉快です、御桜先輩」
 それを別れの言葉にして、わたしは今度こそ御桜先輩を通り過ぎる。本当はまだ、わたし自身の課題は結論に至っていない。この結果は少しだけわたしが誘導――逃避――した結果だけど、御桜先輩もそれには気づいているだろう。それでも彼女はわたしを引き止めることをせず、どこへ向かうのかわたしとは進路方向を逆に歩き始める。
 自分に嘘を吐くのは――か。
 確かにそうかもしれない。……でも、本当なのだろうか。わたしは、わたしは遙瀬空を欺いているのだろうか。自分に嘘を吐いて――どんな嘘を吐いているというのか。
 話を逸らしたのは、答えたくなかったからじゃなかった。わたしはそれに答えることが出来ないから、話を逸らした。だってその答えは、今現在わたし自身が探し求めているモノだから。
 去り際に一度だけ立ち止まる。こっそり窺った背後には闇に解けかける御桜先輩の後姿。何処へ向かうのか。或いは目的地など無いのか。わたしと同じ方向に向かうことを避けているだけのなのか。そんなことは解らない。
 その闇に、消えていった先輩に、わたしは言った。
「覚えてますか、先輩」
 思い出す。わたしははっきり覚えている。あの日、あの時。最初の邂逅を。
 夕焼け。登場人物は遙瀬橙弥、御巫暦、御桜流深、遙瀬空。わたしは最後に現れた。
 最後に、どうでもいい、心の底から何でもないことを言ってみる。
「わたし、貴女に自己紹介してないんですよ」
 けれど知る術なら幾らでもある。遙瀬橙弥とクラスメイトである御桜先輩が、遙瀬空のことを知ることなど容易い。
 それは本来、わたしが御桜先輩に言われるべき科白だった。
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