前編
出来れば、文頭のライン(――――=――――= ←こんなやつ)が改行しない環境で読んで頂ければ幸いです。
――――=――――=――――=――――=――――=
見上げれば、そこに竜が居た――。
――とある王国の大通り。
民衆の活気に満ちあふれ、
大きな荷馬車が往来し、
剣を履いた騎士達が、
変わらぬ日々を笑顔で見守る、
そんな平穏に満ちた街中で――。
バサリ、バサリと。
巨大な羽ばたきが辺りに響く。
ふと、誰かが空を見上げた。
釣られて、周囲もそれに習う。
民衆も、騎士達も、
大人、年寄り、そして子供達も。
しかし、只一人。
少年クリスは背を向けて、
つまずき転んだ幼子を助け起こしていた。
その小さな幼児が、
泣きもせずに空を見上げて、
目を見開いて驚愕する。
そして、辺りを包む巨大な陰。
クリスは、その幼子にいぶかしみ、
どうしたのかと、空を振り仰いだ――。
そこに、竜が居た。
コウモリにも似た巨大な翼、
その体はトカゲにも似て、
その眼光は刺すように鋭く、
少年クリスの姿を射貫いた。
そう、見つかったのだ。
少年は竜に見出されたのだ。
その、刹那。
ガアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
一瞬だった。
その一瞬で、辺り一帯が全て焼け落ちた。
竜の吐いた恐るべき炎に、全てが溶けた。
辺りの人々、家屋、馬、
それが引いていた荷馬車も、
全てが焼け崩れ、骨すらも残さず灰となった。
その少年、クリスただ一人を除いては。
「あああああああっ!!」
切り裂くような少年の叫び声。
そんな悲鳴を上げることすら、
可能なのはその少年だけであった。
むしろ、灰となってしまったほうが。
むしろ、その方が幸いだった。
と、そんなことを云えば不快だろうか。
全てが瞬時であったのだ。
その刹那で、全てが焼き滅ぼされたのだ。
自らが全て瞬時に溶けてしまったのなら、
死の苦しみなどあろう筈も無い。
だが、少年クリスの体は耐えたのだ。
彼の体は如何に炎に包まれようと、
決して焼き滅ぼされることはなかったのだ。
つまり、竜の炎に焼かれ続ける、
その地獄のような苦しみを、
延々と味わう羽目になったのだ。
あああああああああああ……
全身を焼かれ、呼吸をも阻まれ、
もはや叫ぶことすら適わなくなる。
それでも、それでもその少年は、
死ぬことを決して許されない。
竜が炎を吐き終えた、その後も。
(やはり……)
そんな少年を、竜は冷たく見下ろした。
竜は自分の炎が通じないことに、
憤りや苛立ちを覚えたり、
あるいは不思議に思う様でもなかった。
そうと初めから判っていたかのように。
(よろしい、ならば)
と、次の手を打つために、
少年の方へと距離を詰めた、その瞬間。
――ドスッ!
竜の体に巨大な矢が突き立っていた。
ここは王国、人無しでは無い。
王国を守る騎士達は、
手をこまねいてはいなかったのだ。
「放て! 全ての矢を射尽くせ!」
「全軍散開! おっとり囲んで追い詰めよ!」
「固まるな! 竜に狙いを付けさせるな!」
勇んで竜を取り囲んだのは、
四頭立ての王国の戦車。
それは巨大な石弓を備えた、
城をも崩す大型の兵器。
それこそ王国の繁栄を、
そして平穏を約束する守り神。
それに加えて雑兵も入り交じり、
ありあう手弓を引き続ける。
一頭の巨大な竜。されど一頭。
竜は今こそ怒り、首を巡らせ炎を吐き続け、
街に民衆、兵達に多大な被害を与えたが、
しかし流石に多勢に無勢。
竜はあえなく倒れ伏した――。
「お前は……」
事態の沈着を見て、少年クリスに近付いたのは、
栄えある王国の騎士長、ラルクその人である。
騎士長は見た。
何処にでも居そうな、ありふれた小さな少年を。
しかし、その存在は有り得ない。
周囲の全ては炎で焼かれ、
その焼け跡の、灰の中心に彼は居た。
身にまとっていた衣服ですら、
全て燃やされたにも関わらず――。
「お前は……何故、生きている。
あれほどの炎を浴びて、どうして生きているのだ」
周囲の焼け跡、
もはや消し炭となった人々を踏みしめながら、
騎士長ラルクは少年に問う。
自らのマントを外して、
少年をくるんでやりながら。
しかし、少年クリスは、
その優しさにも怯え、口ごもる。
「あ……あの――」
確かに、あの人混みの中、
生き残りは自分だけ。
しかし、容易には理解し得ない。
炎に焼かれた衝撃から、
ようやく息を吹き返したばかり。
その有様、この緊迫した状況で、
彼はあまりに幼い少年なのだ。
少年は怯える。困惑する。
堂々たる騎士に詰め寄られ、
どうして自分が責められているのかと。
いや――そこまで、少年は愚かではなかった。
「騎士長ッ!」
声を荒らげ、駆け寄る部下達の慌て振り。
竜は倒した。事態は沈静した筈。
しかし、火急の事態は続いていたのだ。
配下の騎士達は口々に急を告げた。
「竜がまた来ます! こちらに向かってます!」
「東方より三頭!」
そう、先の戦いは単なる初戦であったのだ。
むしろ、戦いはこれからなのだ。
東の空を仰ぎ見れば、
迫り来る三つの影。
それは統率も陣形も無く、
それぞれが思うように羽ばたいていた。
しかしそれらは、
間違いなくこちらを目指していた。
少年もまた、それを見た。
そして、顔を伏せて考える。
何も知らない。判らない。
しかし、直感する。予感する。思い込む。
標的は自分なのだ。
自分は特別な存在なのだ。
その自分を目指して竜が来る、と――。
少年は、その焦点だけは掴んでいた。
「……お、おい! ちょっと待て!」
騎士長ラルクは制止しようとした。
しかし少年は駆け出し、止まらなかった。
自分のために皆が死ぬ。
此処に居ては皆を巻き込む。
此処に居たら、大変なことになる。
そんな思いで、無我夢中に駆け出した。
――もしかしたら、年端の行かない少年のこと、
そこまで道義的では無いかもしれない。
大事から逃げ出したい、
そんな直感的な恐れもあるだろう。
他人から受ける重圧もあるだろう。
それら全てを含め、
少年は逃げ出す他は無かったのだ。
如何に自分が事態の「鍵」であろうとも。
街を駆け出し、駆け抜ける。
しかし、所詮は子供の足、
どうせ、すぐに捕まってしまう――と思いきや。
偶然にも一頭の馬に出くわした。
出張ってきた騎士隊の馬だろうか。
少年はそれに飛びついた。
若年の上、狼狽の上に大慌て、
その有様で慣れない筈の乗馬など、
大抵の場合は上手くいかない。
しかしそれは幸か不幸か、
実に良い馬であったのだ。
馬は理解する。
ヒトが困っている。慌てている。
そして自分が頼られている。
馬は全てを悟り得たかのように、
少年のおぼつかない足取りを助け、
腰を屈めて背負いなおして、
振り落とさぬよう滑らかに、
そして素晴らしい速度で駆け出した。
少年は見よう見まねで手綱を振るい、
馬は的確にそれを読み取った。
そして城下の街を走り抜け、
城門を潜り、民家を駆け抜け、
そして遙かな荒野を目指して――。
――ふわり、と。
花々が揺れる。
それは宮廷、最奥の、
秘められた王家の花園。
その花園の中心に、
一人の少女が座っていた。
「……ライラ?」
少女はふと、顔を上げて呼び掛けた。
それは人の名であった。
そして書物から目を離し、そっと耳を傾ける。
王宮のざわめき、人々の狼狽に。
「何が起こっているの?」
その少女の問い掛けに応え、
一人の女性が姿を現した。
それは耳の尖った長身の侍女。
それがライラであった。
ライラは答える。
「竜が、現れました」
「え……」
少女は絶句する。
侍女は包み隠さない。
「王国は竜に襲われ、甚大な被害を受けました。
その竜は騎士達の手で屠られましたが、
更に後続の――」
侍女ライラの、更に配下の者であろうか。
フードを被った魔導師風情の者が現れ、
侍女に何かを耳打ちする。
侍女は驚き、そして目を見張った。
「――竜の炎にも耐えた少年?」
事件の不可思議を伝えられ、
思わず侍女は聞き返す。
果たして、その答えは――。
――その答えは、
王宮の最奥で何も知らぬはずの、
幼い少女から告げられた。
「竜を屠る者――」
侍女は少女に振り返る。
幼くあどけない少女の顔は、
氷のように鋭く引き締められていた。
少女は告げる。
唄うように。
「夜の闇が故に、彼の月は光り輝く。
悪の栄える故に、正義は起こる――」
少女は立ち上がり、
侍女達はそれにひれ伏した。
いまだ幼く、いまだ即位が叶わぬ、
王国の正当なる主権者、リリ女王の足下に。
「竜が現れた故に、
彼の者――『竜を屠る者』も又、
我々の元に現れたのです――」
――さて、その王宮の城下。
騎士長ラルクの思いも又、
彼の者を追う。
いや、実際に追いたかった。
しかし、彼の役職がそれを許さない。
城下の街は混乱を極めていたのだ。
民衆は慌てふためいている。
もう全ての人々が知っている。
東の空から迫り来る危機を知っている。
しかし、騎士長が治めるべきは、
目を血走らせて奔走する配下の騎士達。
迫り来る危機に迎え撃つため、
兵の統率を正さねばならぬ。
彼の少年は既に遥か彼方。
それに人手を割いて跡を追わせる、
それだけの手間も惜しい有様であった。
「矢弾を揃えろ! 急げ!」
「臆するな! さっきの繰り返しだ!」
「時は今だ! 皆、日頃の鍛錬と忠誠を示せ!」
民衆の保護は雑兵に任せ、
王国の騎士は声を張り上げ、奔走する。
その喧噪の狭間で、
騎士達は異変に気付き始めた。
「――おお?」
「あ、あれ……?」
矢を揃えていたその手が止まる。
振り上げた剣は力を失い、
ダラリと垂れ下がった。
竜の進路が逸れたのだ。
それは何処か。
無論、決まっている。
王国から離れ行く少年の、
その行く先に向きを変えたのだ。
だからといって放ってはおけない。
危機の行く手は変わったが、
その行く手に破滅が訪れる。
騎士長ラルクは姿勢を改め、
往来する騎士達を目で追った。
竜が来ないなら、
竜の行く手に赴くしか無い。
ここまでの指示の撤回と、
出兵の準備が必要だ。
――そう思案する騎士長を指して、
呼び掛け、駆け寄る者がある。
ラルクの副長、名はセラムと云う。
実はラルクもまた、副長の彼を求めていたのだ。
「騎士長!」
「セラム、探していた。すぐに出兵の――」
「ガウス摂政閣下がお呼びです! すぐに宮廷へ!」
「なんだと?」
緊迫の事態、そんな暇など無い――とはいえ。
摂政――王国の執政を預かる者。
幼い女王に成り代わり、
王国の主権を握る者。
出兵ならば尚更、摂政への進言は必要だ。
伝令ではなく、自ら赴く方が話も早い。
騎士長は重く頷いた。
「判った。おい、馬だ」
そう部下達に振り返るが、しかし。
「なんだと? 居ないとはどういう――」
――その馬である。
少年クリスを背に乗せ、
どこまでも駆けていく。
民家を抜け、
田畑を突き抜け、
広い草原をどこまでも。
なんだか逃げ切ったような、
そんな気がした。
風のように駆け抜ける、
この名馬の背に乗る限りでは。
しかし。
如何に名馬であろうとも、
所詮、大空を駆ける者には敵わない。
迫り来る凄まじい気配が、
只ならぬ恐るべき殺気が、
そのことを痛い程に悟らせた。
「ひゃあっ」
振り返った少年は悲鳴を上げた。
竜はもうそこまで来ていたのだ。
先程までは雲間に居たはずなのに。
馬は苦しげに嘶いた。
走り続けることが苦しいのでは無い。
百戦錬磨の彼だからこそ、
逃げ切れないことが悔しいのだ。
百戦錬磨の彼ならばこそ、
既に状況を理解していた。
敵は何か。
何故、逃げているのか。
何故、少年を守るのか。
自分の背に乗せた、その時から、
既に契約は結ばれていた。
しかし、少年は気がつく。
このままでは彼を、
この馬を巻き込んでしまう。
「止まって――止まれ!」
馬を止めるには、ただ手綱を引けば良い。
少年はおぼろげに知っていた。
手綱を手に、思い切り引っ張った。
しかし、馬は応じない。
か弱い少年に強く逆らい、
その手綱を引き返した。
「だめだよ! 君まで襲われてしまう!」
もはや名馬は、少年の声には応じない。
歴戦を経てきた自信があるのだろう、
もうその指示に従うのを止めた。
馬は行き先を転じる。
少年を竜から守るため、
彼は別の進路を選んだのだ。
「え、ちょっと、そっちは……」
馬が目指したのは、
王国の外れにある古い森。
確かに木々の下を潜れば、
容易には見つからない筈――。
――いや、それはまずくないか。
少年の危惧は実にごもっとも。
相手は炎を司る竜、
森ごと焼かれては大変なことになる。
ましてや竜達は只の野獣では無い。
遥か遠方に居る少年の存在が判るのだ。
だからこそ、
竜達は遙か彼方から現れたのだ――。
――宮廷。
「何故、遙か彼方から竜達が現れたのか」
摂政ガウスが重々しくも、
登城した騎士長ラルクに告げる。
「既にその少年のことは聞いている。
それが竜の目指すところであるのだろう。
少年が逃走し、竜はその跡を追い、
王国から離れていった」
状況の読み返しである。
摂政は既に知っていた。
竜との戦い、少年の存在、その全てを――。
「少年が何者かは知らぬ。
ただ、竜の炎に耐えうるのなら、
今の我々が案ずることは無い。
そのような力を持たぬ民衆にこそ、
我々は心を砕かねばならぬ」
「し、しかし!」
騎士長は反論に出る。
だが、それはすぐに差し止められた。
摂政ガウスは全てを読んでいた。
騎士達は竜を追わんとすることを。
だからこそ、こうして呼び出したのだ。
王国として何をすべきか。
こんこんと、ジワリジワリと、
血気に逸る騎士長に釘を刺す。
「我々には竜に抗する力が無いと云っているのだ。
少年は王国を去った。王国は此処にある。
我々が忠義を尽くすべき王国が此処にある。
余程の危機が王国に迫らぬのなら、
貴重な兵士の命、無駄に投ずることは出来ぬ。
軽挙妄動を慎み、護民の兵と共に街を修復せよ。
大義であった」
口答えは許さぬ、と――。
摂政ガウスは既に背を向け、宮廷を去る。
それに群がる文官達。彼も又、多忙なのだ。
あの竜との戦いで傷ついた街のため、
家屋を、家族を、生活を失った民衆のため、
彼は奔走しなければならないのだ。
騎士長は脱力し、嘆息する。
摂政の言い分はもっともである。
騎士の存在は王国ありき。
その王国がまず傷ついている。
しかし、竜達の動向は捨て置けぬ。
斥候を放ち、その行方を掴んでおきたい。
その程度の独断なら出来るだろう。
ラルクはそれで良しとすることで、
気持ちを落ち着けようとした――。
――実は、彼はまったく知らないのだ。
如何に少年の存在が重いのか、
如何に竜が大敵であるのか、
彼にはまったく判らないのだ。
だからこそ、
女王は自ら、ここに現れた。
伝承を知らぬ騎士長に、
そのことを伝えるために。
騎士長ラルクは首を振り、
職務に忠実であろうと己を殺す。
傍らの副長に横目で語らいながら、
宮廷の外へと向かおうとした、その折りに。
ふと、何かが道を遮った。
それはラルクの腰までしか無い身の丈で、
彼は危うく突き飛ばすところであった。
はた、と見おろす。
それは一人の少女。
決して、煌びやかでは無い。
しかし、透き通るように白く輝いていた。
「あ……」
希でも目にすることの無い、異質の存在。
それを目の当たりにして、しばし呆然とするが――。
――ラルクは慌ててその場に跪いた。
相手が誰か、すぐには悟り得なかったが、
王国の騎士ならば見誤ることは有り得ない。
その少女こそ真の主権者、
幼きリリ女王、その人であった。
ラルクは想う。
最前にその姿を拝したのは、
女王は更に幼く、いまだ物心無く、
亡き王妃の腕に抱かれていた、
その折りであっただろうか。
それ以来、
風も当たらぬ王宮、その最奥で、
守り育てられた王家の末裔。
世事に関わりなき守り姫。
幼き女王は、その忠義の騎士に呼び掛ける。
「騎士長、ラルク・ド・ライアン」
女王は、彼とは初見に等しいはず。
なのに、彼の姓名を誤らず知っていたのは、
背後に控えた侍女の入れ知恵か。
だが、そうであることを認めないほど、
少女の気位は高くない。
少女は語る。
その胸の内を。
「私は何も知らない。
何も出来ない。
私にあるのは、
侍女の告げることを耳にし、
書物に目を通しただけの、
ささやかな知識だけ」
しかし、その無力な女王の次の言葉は、
騎士長ラルクの心を穿つ。
「私に出来るのは、それをそなたに伝えるだけ――。
――知っているか。『竜を屠る者』の存在を」
はっと、ラルクは頭を上げた。
女王は続ける。
「それに関する伝承は少ない。
それは遥か太古のことであるから。
その『竜を屠る者』だけが、
唯一、竜に打ち勝つことが出来るという――」
「陛下、それでは」
ラルクは意気込み、問いかける。
しかし女王は手を振り、騎士を押さえた。
「私を陛下と呼んではならない。
いまだ即位が叶わぬのだから。
しかし、その権威が無くとも、
私にはしなければならぬことがある。
そのため、私の命を受ける者が必要だ」
ラルクは息を呑む。
そして悟る。
女王が何を望むのか。
それには相当な覚悟が必要だ、ということを。
「騎士長、ラルク・ド・ライアン。
竜の脅威に立ち向かうため、
どうか、あの少年を守ってください。
あれこそ未だ目覚めぬ、
『竜を屠る者』に相違ない。
あの少年を守るために――」
女王は、その小さな拳を握りしめた。
「――摂政の命に逆らい、
王国を捨て、戦ってください。
そのために、あなたが死に至ろうとも」
騎士として、家臣として、戦士にとって、
これほどの喜びがあろうか。
バリッ!
ラルクはその言葉を受けた瞬間、
お仕着せの鎧を剥ぎ取った。
彼はまさしく、
王国の騎士という身の上を脱ぎ捨てたのだ。
「この剣に誓って」
ラルクは剣を抜き、
絶対の誓いを少女に捧げた。
そして、宮廷の外へと駆け出していく。
曇り無き忠義の心と、
迷い無き戦士の魂を、
その胸に抱きながら。
城外に飛び出したラルクは、
誰の物との知れぬ馬に飛び乗る。
行き先は見上げればすぐ判る。
三頭の竜が目指す、その先へ――。
傍らに居た副長セラムは目を丸くして、
走り去る上官を見送るばかりであった。
「セラム――おい、セラム!」
副長の肩を気安く叩く者がある。
それは彼の同僚、
騎士長ラルク直属の仲間達であった。
「騎士長はいったいどうしたのだ!」
「半裸で飛び出していったぞ! 何事だ?」
「自分達が聞いても何も応えては――」
取り囲み、口々に尋ねる同僚達。
聞かれても困るところだが、
副長は生真面目なのだろう。
口ごもりながらも、
騎士長は密命を受けたのだと、
そのように云い、誤魔化した。
――騎士長、出奔。
その事態は正しく直前の出来事。
明かすのは流石に憚られた。
副長自身、事態を飲み込めずにいるのだが。
ともかく、その誤魔化しを受け、
騎士達は顔を見合わせる。
納得したのか、しないのか。
ともかくその場は散開し、
セラムは大きく溜息をついた。
さて、どうしたものか――。
「やれやれ、どうしたものか。
栄えある王国の騎士長とも、あろうものが」
背後からの、重々しい声。
先程の摂政ガウスが其処に立っていた。
恐らく、一部始終を見ていたのだろう。
セラムはおずおずと胸に手を当て、礼をする。
摂政は儀礼など良いと手を打ち振った。
「義気に熱い士であること、
騎士長には配下ながら敬意を払っていたが、
だからこそ、その少年を見過ごせないのだろう。
騎士長自ら規律を乱す、その罪は免れないが、
温かい心で帰りを待つ、そのつもりではある。
そなたの誤魔化しの通りに密命としておこう。
心配には及ぶまいぞ、セラム副長」
くどい。
しかし、建前でも配下を思いやる摂政の口上に、
セラムは深く頭を下げた。
その摂政のお言葉はまだ続く。
「それに、王国は決して人無しではない。
副長、ご苦労ではあるが騎士長に成り代わり、
復旧の指揮を――なんだ?」
その摂政閣下のお言葉を遮る者があった。
それは、フードを深々と被った一人の小男。
摂政の傍らにしゃがみ込み、
何やら一枚の書き付けを手渡したのである。
「なんと、これは……。
やれやれ、儂の口から云わなければならんのか。
セラムよ。そなたの妻に不幸があったようだ。
先の竜の炎に巻き込まれたのだろう」
「え……っ」
セラム副長は蒼白となる。
体は硬直し、声も出ない。
心優しい摂政ガウスは、
目を伏せて家臣を慰めた。
「もう、この場は捨てて寺院に急ぐと良い。
そこに遺体が安置されているだろう」
「そ、そんな……アーニャ、アーニャが……」
上官の前にも関わらず、
セラムは姿勢を崩して身悶え、うろたえる。
無理もない、自らの妻の不幸である。
「さあ、行くが良い。
陣頭の指揮は不詳、儂が取らせて頂こう」
「ああ――ああああああああ……」
セラムは力なく、
彷徨うように宮廷を駆け出した。
その背後から。
摂政ガウスの独り言だろうか。
重い言葉が跡を追う。
「あの少年さえ、王国に現れなければ……」
あの少年――その少年は、今。
その少年を乗せた名馬は、
その少年を守るがために、
深い森のその深部へと潜り込む。
その上空。
竜はその「眼」で少年を追う。
しかし、竜は眉をしかめる。
いのち溢れる森林に、
その眼が妨げられてしまったのだ。
人混みならば、上空からでもまだ判る。
しかし、みずみずしい枝葉は編み目のよう。
その下を潜られては「眼」が霞んでしまう。
――ならば、と。
竜はその巨大な口を開いた。
――ならば、全てを焼き払うまで。
(待て。やるな)
後続の、もう一匹の竜は囁いた。
(むしろ、今の方がまだマシだ。
炎に紛れてしまえば、
影も形も判らなくなるぞ)
むう、と指摘された竜は唸る。
どうやら、竜から身を隠すためには、
炎に身を包めば良いらしい。
そのような手段、
か弱い我々、人間には成し得ない。
竜ともなれば、炎など身を包む衣の如し。
そして彼の者、その少年にとっても。
しかし、森林が火の海と化しては堪らない。
たとえ、特異な体を持つ少年であっても、
炎に焼かれ続ける、その苦痛に耐えかねて、
彼の精神は破壊されてしまうだろう。
まさに、
愚者を相手に、
智者が己の智に惑う、
そんな有様ではあるのだが――。
――さて、どうするか。
(もとより彼奴に炎は効かぬ。
無駄に炎は使わぬ方が良い)
(では、どうする)
どうやら、竜にも得手不得手があるらしい。
血気に逸る者と、
そして知恵者といったところか。
(よし、儂がまず追い立てる。
あれはまだ幼子にすぎぬ。
戦いを知らず、逃げるしかない。
追えば逃げる。逃げ込むならば――)
竜は見た。
森の中頃にそびえ立つもの。
森の奥に佇む、
古い石造りの見張りの塔。
それは正に人が建て、
人が住まい、安堵する格好の場所。
(あそこだ)
――さて、その少年は。
馬の導きで森に踏入り、
竜の気配が消えたことに気がついた。
見上げれば、
古い木々の枝葉が絡み合わされ、
天地自然の大屋根と化している。
陽の光が刺す隙も見当たらない。
果たして、この上に居るのか。
そして再び、炎を浴びせられるのか。
そう思えば気が気では無いのだが。
流石の名馬も疲れを覚えたのだろう。
呼吸の乱れをブルブルと吐き捨て、
歩調を緩めてポクポクと森を歩き始めた。
少年も思わずホッと溜息をついた。
逃げおおせたとは思わないが、
ここで少しは気を緩めても良いかと――。
――サクッ
馬は驚き、前足を上げて身をひるがえした。
何事かと、少年は慌てて馬の首にしがみつく。
その馬の足下には、一本の矢が突き立っていた。
名馬は逃げ込める隙を求めて、辺りを見渡した。
しかし、もう遅い。
少年と馬はすっかり取り囲まれていた。
それは正しく、百鬼夜行と見紛うような光景だった。
赤裸に粗末な皮の装具を身につけて、
手には剣にナイフ、ある者は両手にまさかり、
槍、弓矢、巨大な戦斧、等々、
統制も無く、思い思いの装備を着けた男達。
それらは実に柄の悪い連中であった。
髪もざんばら、いかめしい強面。
まさに、森に潜む鬼共であった。
その鬼共は、少年を見て愚痴り出す。
「チッ――なんでぇ、只の餓鬼じゃねぇか」
「馬具に金がかかってんな。狙いはそっちか」
「そんなチンケな稼ぎ、願い下げだよ」
「姉御、こんな餓鬼つかまえてどうしようってんだ」
――姉御。
そう呼ばれた主が、少年の前に進み出る。
この連中、間違いなく盗賊風情。
ではその主こそ、彼等の頭目というわけか。
「悪いね、みんな。
これは稼ぎじゃないんだよ」
それは褐色の肌をして、
髪を一本残らず剃り上げた、
遠い異国の女であった。
彼女がその身にまとっているのは、
男共と同じく、肌も露わに粗末な皮の装具のみ。
彼女が持つ得物――それは武器では無く、
いわゆる数珠を拳に巻き付けていた。
それが、彼女の武装であった。
「坊や、名乗りな。あたいはパミヤ。
盗賊団の頭目にして、南の呪術師。
――云ってみりゃ、悪い魔法使いだよ」
「え、あの、ボクは……」
怖じ気づきながらも名乗り返した。
「……ボクはクリス――クリスといいます」
無理も無い、豊かな街育ちであるのだろう。
噂でしか聞かない森の盗賊を目の当たりにして、
体も強ばり、考えることすら構わない。
呪術師パミヤは、そんな少年の顔を覗き込む。
「それじゃクリス坊や、聞きたいことがある。
あんた、なにもんだ」
「……え?」
何を聞かれているのか判らない。
クリスはキョトンと、パミヤの顔を見返すばかり。
「フン、自分が何者かなんて、そんな餓鬼に判るかよ」
手下の一人が、鼻を鳴らして野次を入れた。
頭目のパミヤは陽気に笑って振り返る。
「アハハ、あんた意外と哲学者だね。
ま、自分が何者かなんて、あたいだって判らない。
――じゃあ聴き方を変えるよ、坊や」
パミヤは、更にずいっと少年に詰め寄る。
「いったい何があったんだ。どうも王国が騒がしい。
その気配は感じるんだが、遠視や占いが苦手でね」
今度は幾分優しい声でそう云った。
そのお陰か、クリスは少し落ち着いて考える。
王国で何があったのか。
竜の襲来、人々は焼かれ、しかし自分は――。
クリスは少しうつむき、考える。
自らに問いかける。
自分は何者か。
パミヤは、それを読み取ったのか。
目を細めて、少年に囁きかけた。
「あんたは何者か――。
何があったのかを云ってくれりゃ、それで判るよ。
さ、難しいこと考えずに云ってみな」
呪術師でなくとも、
あるいは占い師でなくとも、
この少年が普通ではないことは、
火を見るより明かであったろう。
何でもない只の少年が、
武装した軍馬で駆け込んでくるなど、
早々あっては堪らない。
――さて、少年は大きく息を吸い、
なんと答えるべきか、目を泳がせながら考える。
それを静かに見守るパミヤ。
周りの手下は、じれ始めて大あくび。
しかし、彼等とて盗賊の端くれである。
どんなときでも、仮に眠りこけていたとしても、
身に迫る危機には即座に応ずる――。
「――ああッ!?」
剣を抜き、弓矢をつがえ、
もたれ掛かっていた戦斧を即座に取り直した。
しかし、其処に襲来するのは、
そんなもので太刀打ち出来る相手では――ない!
ズドドドドドドドドドドドドッッ!
「な、なんだぁ!?」
「うひゃあああああっ!!」
森を蹴破り、
大地を揺るがし、
天をも落とす衝撃――。
竜であった。
少年の居場所を大ざっぱに見当をつけ、
強引に森の木々を蹴破って現れたのだ。
「散れッ!」
パミヤは叫ぶ。
そう云われなくても、
手下の連中は慌てふためき、
我も忘れて散り散りとなる。
しかし自分は、
少年の馬に飛び乗りつつ、
「そういうことかい!
これまたエラいもん拾っちまったね!」
そう愚痴りながらも、
少年を丸ごと抱きかかえ、
馬の手綱をその手に取った、
この一瞬で悟ったのだろう。
おおよそながらも、
この少年の経緯を。
名馬は嘶き、身悶えた。
盗賊風情に扱われては溜まらぬと――。
――ズシンッ!
今の瞬間、今居た場所に、
竜の前足が振り下ろされた。
しかし、パミヤの手綱さばきでかわしきる。
それでもう誇り高き名馬は迷いを捨てた。
そして二人を背に乗せ、森を駆ける。
まるでツバメが舞うかの如く、
入り乱れた木々を縫うように。
それを竜は逃さぬと、
太古の木々をなぎ倒しながら、
津波の如く押し寄せる。
その時、
両者の間に立ち入る者が、
「うおおおッ! これでも喰らえ!」
盗賊の一人が巨大な戦斧を振り上げ、
竜のその鼻っ面に打ち下ろす。
「よしな!」
パミヤが振り向き、叫ぶがもう遅い。
バキッ……ゴキャッ!!
飛びかかったその手下に、
鋭い牙が喰らいつき、
真っ二つに引き裂かれ――。
「――あのバカッ!」
パミヤは苦悶する。
しかし、無駄ではない。
お陰で、馬と竜とのその差は開いた。
そして竜のその顔面には、
戦斧が突き立ち、残っている。
無駄ではない。無駄にはしない。
パミヤは振り返らず突き進む。
「見ておいで!
取って置きのを喰らわせてやるよ!」
余程の仕掛けが有るのだろう。
果たして、竜に備えたのか知らないが。
パミヤが目指すその先、
それは森の中頃にある、
太古から残る見張りの塔――。
――竜の心中でニヤリと笑った。
果たして、術中にあるのはどちらなのか。
竜の特質、竜の性質。その巨体が示すもの。
残忍、獰猛、あるいは高慢。
しかし竜の本性はしたたかさ、
狡猾さであるという――。
――狡猾。
王宮の最奥、秘められた花園で。
「結界を――」
リリ女王の命ずるがままに、
侍女ライラは手配する。
やがて女王の周囲を取り囲んだのは、
フードを被った四人の魔導師。
その者共が右腕を挙げると、
やがて虹色の球体が現れた。
そして、その中心で。
リリ女王は机に向かい、幼いその手で、
しかし確かな手つきで筆を走らせる。
二通の手紙を傍らに置きながら。
一通は、雪国の貴重な狼の物であろう、
実に美しい純白の毛皮を鞣したもの。
もう一通は、南国の鳥から採取したのだろう、
色鮮やかな羽根飾りのついた羊皮紙。
どちらも女王が誕生の折に届けられた、
祝福の言葉が綴られていた。
あえて云えば、
女王の数少ない盟友であるのだろう。
例え、国同士が相争っていたとしても――。
さて、それらの送り主に宛てた物であるらしい、
二通の手紙を女王は書き上げた。
まだインクが乾かぬその書面に、
高価な砂金が振りかけられ、
女王の筆跡はキラキラと光り輝いた。
そして王家の印で綴じられた二通の封書は、
侍女ライラを通じて二人の魔導師に託される。
その二人は手渡されたのが早いか、
無言のまま、スッと姿を消した。
結界の中で行われたこの巧み。
それらは全て、
狡猾なる宿敵が相手ゆえか――。
しかし、侍女ライラは想う。
騎士長に命じたその顛末は、
既に摂政の知るところとなっている。
――否、初めから目を付けられていたのか。
だからこそ、あの場に居合わせたのか。
襲来した竜の討伐に消極的で、
彼の少年との関わりを避けた摂政ガウス。
果たしてそこに他意があるのか、否か。
――判らない。判るはずもない。
王国の、人の身でありながら、
竜に組するなど、あまりにも有り得ない――。
その時、女王は問う。
「彼らは……応じてくれるのでしょうか」
侍女は応える。
「仮に疎遠の中でも、あるいは宿敵だとしても、
古き盟約を違えることはありません」
「そう……」
女王は嘆息し、しばし目を伏せた。
やはり世辞を知らぬ幼い少女、
一つの事を起こすにも、
不安になるのも無理はない。
しかし、女王としての責務は、
不安や気弱、幼少であることなど許さない。
女王は改めて、侍女に振り返る。
「本を開きます」
侍女は頷き、片腕を高く上げ、
新たな結界、白く輝く球体を産み出した。
その二重の結界に守られた内側で。
女王は机の引き出しを開く。
更にその内側、二重底の仕掛けをコトンと開いた。
そこから妖しい光が微かに放たれる。
それは封印が解かれたことを示していた。
そこには小さな古びた書物があった。
女王はそれを手にすると、
侍女ライラはゆっくりと背を向けた。
女王は、その侍女に問う。
「知っていますか。
何故、数ある禁書の中で、
これだけが存在すら隠されているのか」
ライラは応える。
背を向けたまま。
「――いいえ。
ただ、私共が眼にするのは許されない、とだけ」
女王は本を開き、
書面を辿りながら静かに語る。
「これには、書かれています。
彼の『竜を屠る者』が如何なる者か。
そして、竜とは如何なる者か」
――ライラは何も答えない。
知ることを許されない。
知りたいと望んではならない。
王家を守り、禁書を守る。
それが彼女、侍女ライラの勤め。
女王は俯く。
そして声を震わせ、呟いた。
「――王国はもう、これまでかもしれません。
彼の者と、もっと早くに出会えていれば」
侍女はハッと振り返ろうとする。
しかし自制し、また背を向けた。
リリ女王。
いまだ幼く、即位を許されない女王。
しかし、如何に幼くとも、
子供であることを許されない少女。
その禁書を読むことを許された――否。
託された、と云うべきかもしれない。
その禁書の秘密を担うのが王家の勤め。
侍女ライラとその配下はその責務を預け、
その引き替えに忠誠を誓う。
それが、この王家の在り方なのだろう。
だからこそ、その忠誠に応えねばならない。
いまだ幼き少女は女王として、
果断の決意と共に立ち上がった。
女王は禁書を閉じ、その上に手をかざす。
すると、それはみるみる燃え上がった。
「行きましょう。
彼の者と、相まみえなければなりません。
――なんとしてでも」
「はい――」
女王は侍女の導きによって、
隠し扉の向こう側へと、姿を消した。
その背後には既に灰となり、
砕け散った禁書が残るばかりであった――。
――そして、激戦の森。
パミヤは少年を抱え、疾駆する。
向かうその先、
それは太古の見張りの塔、
頑健な格子造りの落とし扉。
「せぇッ!」
――ゴゴッ!
呪術師パミヤの気合い一閃、
大きく手を振り上げた瞬間、
まだ距離のある落とし扉がせり上がる。
呪術師としての力だろうか、
馬で疾走しながらの荒技である。
そして馬ごと、塔の中に駆け込んだ。
むろん、今度は手を振り下ろし、
門を閉めることも忘れない。
その次の瞬間――。
――ドドンッ!
跡を追っていた竜が激突。
塔は大きく揺すぶられたが、
その程度では頑丈な塔は崩れはしない。
太古から残る、それ故に、
実に頑健な作りであった。
あるいは、頑健である故に、
その塔だけが残ったのだと云うべきか。
中は円筒状。
その内側を沿うように螺旋の階段がある。
パミヤは騎乗のままで駆け上り、
途中の踊り場で足を止めた。
ここは盗賊共が根城にしていたのだろうか。
武器に戦利品、寝床の毛皮や食い残しの食器、
生活の跡が散らかり放題。
パミヤは馬から飛び降り、
それらガラクタを蹴散らしながら、
更に見張りの塔を駆け上がった。
「見てな、このトカゲ野郎め!
目に物を見せてやる!」
目指すは屋上、
パミヤはその手の数珠を巻き直しながら、
ひょっこり首を外に出す。
そこには手間を掛けたのだろう、
複雑で巨大な魔方陣が――。
「なにィッ!」
――ドガッッ!!
遥か上空からの衝撃に、
パミヤは慌てて首を引っ込めた。
いったい何が起きたのか。
「くそッ! もう一匹いたのかよ!」
一瞬の出来事、
よくぞ相手を見定めたものだが、
奥の手は絶たれ、上と下の挟み撃ち、
もはや事態は最悪。
更に、その竜は再び舞い上がり、
強烈な体当たりを繰り返す。
「ひ、ひぃっ――」
思わず悲鳴を上げる少年。
塔の内装は揺すぶられ、
木造の足場はきしみ、崩れ落ちる。
パミヤは慌てて駆け下りて、
在り合うもので少年と馬を庇う。
頑丈な塔とは云えど、
屋根は木材を渡したのみ。
それらはあっさり崩れ落ちた。
パミヤは計らず目を合わせた。
屋上から覗き込む、
恐々しい竜の双の目と――。
(虜にしたぞ。此奴はもう逃げられまい)
(いや待て、余計な者がついている)
(ならば焼き払おう。この中ならば、良いだろう)
(おお、盛大に焼き払え)
知恵者の許しを得たその竜は、
その石塔を巨大な竈に変えん、と、
巨大な口を開いて、大きく息を吸い込んだ――。
――と、その時である。
パミヤは突如、階段を再び駆け上がった。
竜の苛烈な攻撃が止んだその隙に。
その先、上階の踊場に、
まだ転げ落ちずにいた大壺が――。
「ふンッ!」
気合い一発、
得意の念動力で叩き割る。
ぼわん――。
その壺から湧き出たのは、
なんとも毒々しい真っ青な煙。
しかも、それは只の煙ではなかった。
まるで意志を持つかのように、
頭上の竜に吸い寄せられていくではないか。
「!?」
竜は面くらい、払いのけようと飛翔する。
しかし、その毒煙幕は逃がさない。
あっという間に竜の全身に絡みつく。
呪術師パミヤはニヤリと笑う。
「アハハッ! ざまァみろ!
ソイツはタダの毒じゃない。
毒沼の巨大ガマガエルが体内に飼ってる、
目に見えないほどのちっぽけなアオムシなんだよ。
そぉれ、遠慮は要らない。とことん喰らい付きな!」
誰に自慢しているのか、
してやったりとパミヤは笑う。
不運な竜は狂ったように宙を舞い、
どうにかそのアオムシを払おうと七転八倒。
もう一匹の門前の竜は、
気の毒な同胞の災難に怒り心頭、苦渋の咆哮。
しかし、その場は離れず、
相方を助けに向かおうとはしない。
ここで彼の少年を逃がしては、
元の木阿弥となってしまう。
代わりに、その怒りを塔に振り向ける。
巨大な前足をふるい、塔の壁面に叩きつけた。
――ドガッ! ドガッ!
それでパミヤには相手の覚悟が知れた。
それ程に、この少年を仕留めねばならぬのか。
「やれやれ――。
やっこさん、よっぽどの訳ありのようだね?」
パミヤにそう問いかけられても、
クリスの方こそ何が何だか判らないのだが――。
塔は円筒状。
上からはめっぽう強いが、
横からはそうではないだろう。
ぼやぼやしてはいられない。
パミヤは竜の激震でよろめきながらも、
在り合う武装をかき集める。
そして首から極太の数珠、
革のバンドに呪符や薬瓶を挟み混み、
再び、少年の背後に乗り込んだ。
そして階段を下りて落とし扉の前で構える。
その突撃の構えに、歴戦の軍馬も勇み立つ。
戦火に恐れる駄馬ではない。
修羅場上等、それは女盗賊のパミヤも同じ。
しかし、少年はそうではないだろう。
そんな彼のため、パミヤは言葉をかけた。
「さあ逃げるよ、坊や。
戦ったりしない。戦って勝てる相手じゃない。
横をすり抜け、尻尾を巻いて逃げるんだ。
もし――」
パミヤは言葉を切り、
少年の頭にポンと手を乗せた。
「もしアンタと馬の二人切りになっても、
構わず、とことん逃げるんだよ。
こいつは本当に良い馬だ。
ちゃんと逃げ道を見つけて、
何処までも走ってくれるだろう――。
アンタ、しっかり坊やの面倒見るんだよ。
いいね?」
パミヤに首を撫でられ、
馬は嘶き返した。
出会ったばかりの事情もロクに判らぬ少年に、
我が身を犠牲にするというのか。
坊や――。
そう呼びかけられたクリスは、うつむいた。
恐怖からではない。
いや、怖くない筈は無いだろうが――。
無力。
無力で、あるが故に。
パミヤは勇み立つ。
それだけの力を持つ故に。
案外、少年を守るのは、
義理人情でも愛情でもなく、
戦いに燃える自分のためかもしれなかった。
「……行くよ!」
気合い十分、
その手を天に振り上げる。
――ゴゴッ!
轟音と共に門が開き、
脱兎の如くパミヤは飛び出した。
虚を突かれた竜、
しかし、逃げ道は皆無。
その巨体を駆使し、完全包囲の構えを取っている。
そして次は?
パミヤはその手、その指に、
幾枚かの呪符を挟み込み、
「……ぬぅぅぅううううっ!」
パミヤは右腕を大きく回すと、
その軌跡は炎と化した!
「ハァッ!」
――スパンッ!
パミヤの炎は一気に集約、
それは一筋の閃光の如く、
竜の顔面に直撃!
「よぉし、今のうちに――ああっ?」
――ズシンッ!
竜の反撃!
巨大な前足が振り下ろされる!
堪えない。
まったく堪えていない。
パミヤの炎を受けて、
即座に反撃に出る竜には、
微塵の損傷も感じられない。
「……クッ」
パミヤは竜の打撃にどうにか耐えた。
高く掲げたパミヤの手から、
眼には見えない盾が産み出されていた。
予測できない速さの反撃、
右にも左にもかわせずに、
彼女は正面から受け止めたのだ。
「火が効かないのか!
なんなんだ、このトカゲ野郎は!」
――恐らく、パミヤは知らない。
相手が「竜」である事を。
そして竜の更なる攻撃、
今度は横合いから、
弾き飛ばそうと叩きつける。
――ドドッ!
「ぐぅッ!」
これもかわせない。
パミヤは片腕を突き出して応じる。
先程と同じ「気迫の盾」で。
どうにか、その衝撃は殺され、
少年や馬には伝わらない。
その時、クリスのむき出し肩に、
何かがポタリと滴り落ちた。
それは血であった。
パミヤは吐血していた。
気合いで打撃を受け止めたために、
彼女の身体に無理が生じているのだ。
「……どうすりゃいいんだ。
アオムシは効いた。炎は効かない。
この違いはなんだ――」
直接、喰い破るしかない。
そういうことだろう。
王国の街では矢弾に倒れた。
そうはいっても、炎を司る竜である。
炎の支配者だからこそ、炎は効かない。
「どうにもイヤな予感がするね。
いや、そんなことは後だ……」
パミヤは馬を飛び降りた。
かなり堪えているのだろう、
その足はガクリとふらついた。
「もうその時は来たよ。
さあ、二人で逃げな。
あたいが――」
――なんとかする。
その一念の元に。
パミヤは目の前にあるものを見た。
いつの間に抜け落ちたのだろう、
あの気の毒な手下が命を賭して、
竜の鼻面に突き立てた巨大な戦斧――。
「パ……」
彼女の悲壮なその姿を見て、
少年は思わずその名を呼ぼうとするが、
うわずって声が出てこない。
その戦斧を手にするパミヤ、
しかし傷ついた彼女の、
その細腕には余りに重い。
しかし、どうにか持ち上げて、
その刃に向けて、何かを塗りつけている。
それは腰から取り出した小さな小瓶。
だが、それをおとなしく待つ竜では無い。
――忌々《いまいま》しいニンゲンめ、
これ以上、邪魔立てするなら、
先にお前を焼き滅ぼしてやる――。
包囲の構えを解かないままに、
竜の口が開かれた。
少年には効かぬ故に封じていた、
恐るべき炎が今、放たれる――。
「――パミヤさんっ!」
少年は悲鳴を上げ、
竜は大きく息を吸い、
内包する炎を沸き立たせた――その時!
響き渡る戦士の咆哮!
「うおおおおおおおッ!!」
ズシャッ!
グオオオォォォ……ッ!
竜は身悶え、苦痛を叫んだ!
見れば、その横腹がザックリと切り裂かれている!
「無事か、少年!」
竜が身をよじらせ、その包囲が解かれたスキに、
新参者はスルリと滑り込む。
そうして少年とパミヤの元に駆け付けたのは、
一降りの剣を手にした騎乗の戦士。
王国の騎士の身を捨てた、
ラルク・ド・ライアン、その人である。
「無事か! そして女!
お前が守ってくれていたのか!」
パミア、少年、そして馬を見た。
それこそ、見紛う筈もない彼の愛馬。
「そしてお前も――よく守ってくれたな」
ラルクは騎乗のまま側に寄り、
自分の愛馬の頭を撫でる。
自分の主人と出会った彼も又、
嬉しげに嘶いた。
――が、再会を楽しんでなど居られない。
パミヤは挨拶抜きで云う。
「逃げるよ。このままじゃ分が悪い」
ラルクも戦士、御託は抜きで、
「おう!」と叫んで馬を転じた。
竜は彼らを押しとどめようとするが、
しかし傷つけられて、先程のような勢いは無い。
その横合いをすり抜け、
それぞれの馬は駆け出した。
「女! それを貸せ!」
ラルクは叫ぶ。
それとは無論、パミヤが抱えた巨大な戦斧。
「俺の方が似合いの筈だ!
俺がアイツを足止めする!」
パミヤはズシリと重いその得物を、
どうにか戦士に投げつけ、
「判った――気を付けな!
それには毒が塗ってあるよ!」
と、忠告を添えた。
ガシリと受け取った戦士は、その代わりに、
「これを――いや、少年!
これはお前が持て!」
そう云いながら、剣を鞘ごと投げて寄越した。
「少年! お前は『竜を屠る者』だ!
お前こそが竜に打ち勝つことが出来る!」
「え……」
呆気にとられながらも、剣を受け取る少年。
にわかに戦士の言葉が受け入れられない。
それは、パミヤも同じく――。
「竜……竜だと!?」
パミヤは何故か、そこに驚いている。
彼女の云う「トカゲ野郎」が、「竜」であることに。
そして背後を見返した。
ようやく竜は体勢を立て直し、
こちらに向けて突進の構えを見せている。
その緊迫の最中で、パミヤは叫ぶ。
納得がいかない、とでも云うように。
「おいッ! あれが竜なのか?
あのトカゲ野郎が竜だって云うのか!」
「話は後だ!」
戦士は問いかけを打ち捨てる。
今は戦いの最中、
目前の危機に応じるのが先決。
ラルクは馬を転じた。
ここで竜に立ち向かうつもりだ。
「早く行け! ここで足止めをする――。
なんなら、ここで仕留めてみせる!」
戦斧を大きく振りかざしながらの、その宣言。
「――ッ」
パミヤは舌打ちする。
余りに疑問が多すぎる。
そして、今の戦士の宣言。
「お前ッ!
云ってる意味を判ってんのかよ――クソッ!」
知恵が回らない奴――そんなことを云いたげに。
しかし、この状況。
パミヤはそのまま進み、道をそれ、
森の木々の中へと紛れ込んだ。
これで一安心と云ったところか。
元騎士長の地位にして、
最前線に立っていた戦士、
ラルク・ド・ライアン。
手にしたばかりの戦斧を軽々と振り回し、
竜の巨体に立ち向かう!
「でぁぁぁああああッ!」
竜の右側をすれ違い様、
毒のある戦斧で斬りつけた!
――ズシャァァアアッ!!
グァァァアアアアッ……!
竜は叫び、身悶える!
見れば、受けた傷口はジュクジュクと泡立ち、
尚もその身を喰い破ろうとしているではないか。
戦士はニヤリと笑った。
どうやら、あの女が施した毒は、
相当にえげつないモノであるらしい。
更に竜の巨体には戦士の動きが余りに速く、
とても応じれるものではない。
やれる。
倒せる。
戦士は既に勝ち誇っていた。
「さあ! 竜よ、来てみろ!
その力を俺に見せてみるがいい!」
兵法として、挑発は余りにも手が古い。
果たして、竜には言葉が通じるのだろうか。
それは知らぬが――。
竜は狡猾にして、
したたかな知恵者である。
彼はフッと目を細めた。
馬鹿馬鹿しい、と――。
……あ、と戦士は口を開いた。
バサリ、バサリ……。
竜はその巨大な翼を広げ、
天高く羽ばたいて行くではないか。
「おいッ! 相手はここだ!
その身体に傷を負わせた者は、此処にいるぞ!」
戦士の挑発も、もはや通じない。
二度もその身体を斬りつけられ、
血を流し、毒に蝕まれたにも関わらず、
竜は豪快に自分の怒りを打ち捨てたのである。
――やれやれ、馬鹿らしい。
つまらない相手に関わってしまったものだ。
さあて、我が標的は何処に行ったのかな――。
さしもの戦士も打つ手無し。
地団駄を踏む彼ではないが、
自分の愚かさに憤慨した。
――そうだ、
空飛ぶ竜を相手に、
剣で勝てる筈が無い。
しかし、自省している場合ではない。
竜の向かう先は決まっている。
自分の命よりも重い存在、少年の元へ。
しかし、自分にはどうすることも――。
「クソッ! どうすればいい!
どうすればいいんだ!」
その竜が追すがる標的、
クリスとパミヤは――。
パミヤは馬を駆けさせながら、
小さな小瓶をぐいっと呷る。
そして、ぷはぁっと吐き出したのは、
なんとも怪しい黒い吐息。
恐らくは、
聞くに堪えない怪しい素材を煮立た、
呪術師謹製の強心剤なのだろう。
その効果が全身に回るのを味わいながら、
ふと、少年を気にかける。
怪我は無いのか、
そろそろ、空腹ではないのか。
あるいは疲れて、眠くないのか。
いや、それよりも。
――とんでもない重荷を背負わせやがって。
剣を抱え、俯き悩む少年を見て、
パミヤは思わず嘆息する。
しかし当面、考えなければならないこと。
逃げるのは良いとして、何処へ。
此処はそこまで大きな森じゃない。
森は身を隠すには安いが、
走り続ければすぐに切れてしまう。
草原や荒野に出れば、
すぐにも竜に捕らえられるだろう。
しかし、我が故郷の密林ならば――。
パミヤは思わず目を細め、故郷を想う。
――そうだ。
我が故郷の密林ならば。
南の強国、その数々を全て飲み込む大密林ならば、
竜から身を隠すのに相応しいだろう。
その密林を出てから、
もう何年になるだろう。
自分が成年となったのは、
故郷を離れてからのことだ。
そして東方、西方をも巡り――。
この急場の最中で、
パミヤは望郷の想いにしばし漂った。
その密林、獰猛な野獣が闊歩する中、
災害も激しく、生活の場としては劣悪の極み。
だからこそ、家族に親族、部族の繋がりは熱い。
そこに、この少年を連れて行こう。
きっと歓待してくれるだろう。
そこで守り育てれば良い。
とてつもない責務、
『竜を屠る者』などという名を、背負うのならば。
パミヤはそっと少年に囁いた。
「あたいが教えてやるよ。戦い方でもなんでも」
「?」
何を云ってるんだろう、
そんなふうに少年クリスはパミヤを見上げ――。
いや、違う。
クリスはパミヤよりも更に上を見ていた。
故郷を想い、惚けたかパミヤ。
呪術師である彼女より先に、
少年の方が気がついたのだ。
バサリ、バサリ――。
竜が、もうそこまで来て居るではないか。
「クッ――仕留めるとか大口叩いていたくせに!
全然もたねぇじゃねぇか、あのオッサン!」
しかし、愚痴るパミヤにも失態がある。
うかつにも、木々の薄い領域に来ていたのだ。
切れ切れの枝葉の隙間から、
竜の恐るべき巨体が見える――。
(見つけたぞ。さて、どうしたものか)
――竜の眼も又、
少年の姿をしっかりと捕らえていた。
確かに、どうしたものか。
空を飛んで逃げたのは良いが、
炎の効かぬ少年が相手。
地上に降りて近づかなければ、
何をするにもままならぬ。
しかし、そこは狡猾なる竜、
思いついたその手は実に簡素で鋭い。
(喰えば良い)
そう思案が至り、彼はニヤリと笑う。
(四の五の争わず、一気にすくい上げればいい。
生死をいとわず、胃袋に納めてしまうのだ。
炎は効かぬと聞いてはいたが、
我が臓腑に燃える炎であぶり続ければ、
果たして、どのくらい耐えられるものか――)
残忍を極めた自分の考えに、
思わず竜はほくそ笑んだ。
そうと決まるのが早いか、
竜は突入の体勢を取る。
猛禽が獲物を狙うように――。
ヒュンッ……。
その時、竜は聴いた。
何かが風を切る音を。
――ドスッ!!
そして竜は、信じられないものを見た。
自分のその体に、
巨大な矢弾が突き立っているではないか。
その竜の異変に、あの男も眼を見張る。
「――あれは?」
元騎士長、ラルクは地上から竜を追いながら、
その宿敵の異変に気がついた。
それはラルクがよく知るものであった。
その放たれた矢弾を、それを放つ戦車を、
それらを率いていた当の本人であるのだから――。
「竜がこちらを向いた! ここに来るぞ!」
二人の騎士はそう叫びながら、懸命に滑車を廻す。
しかし、狙いを定める射手は沈着冷静。
「慌てるな。急がなくて良い」
その射手も又、滑車を回して砲台を調整する。
戦車の巨大な石弓は、素手で操作することは不可能。
弓を引くのも、狙いを定めるのも、
全て歯車仕掛けの機械が用いられていた。
そして弓を引き終え、新たな矢弾がつがえられた。
しかし――。
「来るぞ! こちらに迫ってくる!」
「逃げるんだ! やっぱりこれ一台では――」
「だから慌てるなって」
相変わらずも、
射手の落ち着き振りは鉄壁である。
「俺は見ていた。
街で倒れた竜がどの矢弾で倒れたか。
それは俺が放った奴だ。
狙ったのは竜の胸元――」
射手は、グイッとレバーを引いた。
「そう、ここだ」
新たに放たれる矢弾は、
それは迫り来る竜の、その急所へ――。
――ドドォォォォン……
呆気ないほどに、
竜は地に倒れ伏した。
誘いの一矢、とどめの一矢、
王国の誇るべき射手の、見事な手腕。
「お前達――」
その彼らの元に、
元騎士長ラルクが駆けつけた。
「来てくれたのか!」
「いえ、騎士長」
胸をなで下ろす騎士達を背に、
射手は手柄顔で敬礼をする。
「探しましたよ――ったく。
なかなか作業の指示が降りて来なくてね。
ガレキの片付けも一段落したし、
そろそろ昼メシにしても宜しいでしょうか」
「もう晩メシ時だぞバカ野郎!」
そんな軽口を叩き合い、
勝利を味わう王国の騎士達。
そこにパミヤと少年がやってきた。
強力な援軍を得て、流石に安堵の色を隠せない。
が――。
パミヤは撃ち落とされた竜を見た。
ギリギリまで引きつけてからの射撃、
距離はそう、遠くはない。
パミヤはゴクリと、息を呑む。
果たして、「竜」などという魔獣が、
世の常の石弓で倒せるものなのか。
そして、
本当にこれで倒したことになるのだろうか。
――と、その時。
「……え?」
その時、少年が上を見上げ、何かに気づいた。
パミヤは彼を後ろからしっかりと腕に抱き、
共に同じ馬に乗っていた。
「どうしたんだい? なんでも云ってみな。
どんなに下らないことでも」
「え、いや、その――」
クリスは戸惑い、ためらうが、
そのためらいこそ無性に気になる。
「――あんたは只の坊やじゃない。
ほら、何でも良いから」
「その――」
クリスはゴクリと唾を呑む。
「許さないって、声が……」
「――ッ!」
蒼白となるパミア、
思わず声を張り上げた。
「馬に乗れッ! 来るぞッ!」
思わずギョッとする騎士達、
その遥か上空から!
――ゴォォォォォォオオオオッ!!
響きわたる火炎の咆哮!
(……許さん)
(――許さん!)
(絶対に許さん!)
ゴォォォォォォオオオオッ!!
――生きていたのだ。
それはパミヤの生きた毒、
アオムシにしてやられた彼の竜であった。
彼は怒りに震えていた。
自らを痛めつけられ、
同胞をも打ち倒され、
怒りに猛り狂っていた。
もはや封じていた炎を解き放ち、
その爆発する怒りを撒き散らし、
森の深緑全てを焦土に帰さん、と――。
――もはや少年のことなど、どうでもよかった。
「逃げろ! 早く!」
ラルクは叫び、戦車の要員を急き立てた。
そのラルクにパミヤは問う。
「この炎はあのトカゲ野郎か!
アイツは炎を吐くのか!」
そう、パミヤはここまで、
竜が炎を吐く姿を見ていない。
「知らんのか? この炎で王国は襲われたのだ!」
「知るか! あたいはずっと森に居たんだ!」
だが、文字通りの火急の折り、
罵り合っている場合では無い。
パミヤは相手が竜であるという事実、
それをようやく飲み込みながら、
少年を抱えて馬を走らせる。
ラルクもそれに続こうとするが、
しかし、四頭立ての巨大な戦車は簡単ではない。
ここは木の根が絡み合う森の中、
よくぞ此処まで乗り入れたと云うほどなのだ。
足下も悪く、直進で突っ切ることも適わない。
その上に、竜の炎が差し迫る。
森林の枝葉のその大屋根は、
見る見るうちに燃え広がる。
木々の幹までも火に包まれて、
それらは炎の壁と成す。
もはや逃げ道を選べない。
パミヤはその有り様に苛立つ。
そんなデカい長物など捨てろと云いたい。
しかし、云えない。
その戦車こそ、竜に立ち向かえる唯一の武器。
「フンッ!」
ドドッ……!
パミヤの「気迫」が、森の木々を薙ぎ倒す。
そうして巨体の戦車を助けるために、
逃げ道を切り開くのだが。
「どうする――ここで捨てるか!」
「いや! これを捨てたら、どうやってアイツと!」
「しかし、死んでしまってはどうにもならんぞ!」
叫び合い、惑う騎士達に、
パミヤは口出しすべきかと、また惑う。
捨てるか進むか、
どちらでも良いから決めてしまえ、と――。
「――おい、そっちだ!」
「おお! 道が開ける!」
――え?
騎士達は歓喜し、突き進む。
しかし、パミヤはその先を見て、
思わずゾクリと身を震わせた。
太古の塔――。
その開けた道の先に、それがあった。
パミヤ達が命辛々、逃げてきた塔。
そこは元々、
パミヤ率いる盗賊団の根城であった。
そこで寝泊まりし、雨露を凌いだ住処であった。
時には酒盛りをした、心安らぐ場所であった。
だからこそ初戦では、
逃げ込むべき場所と思っていた。
しかし今は、
あの塔こそが自らの墓石に見えた――。
「見ろ! 塔があるぞ!」
「あそこなら、炎を凌げる!」
「この戦車も丸ごと入れそうだ――」
騎士達は嬉々として、馬に鞭を入れた。
そこまで、真っ直ぐに道は開けていた。
無論、それは既に倒れた竜が突入した折り、
パミヤと少年を追って切り開かれた道であった。
ラルクはパミヤに、意味ありげに振り返った。
彼も一軍の長、そこまで愚かではない。
これは「誘い」だ。
我々は追い詰められている、と。
パミヤの方こそ、
これが何を意味するのか判っていた。
何故なら、これは繰り返しだからだ。
――竜は我々を追い詰めているのだ。
無作為に炎を撒き散らしたかに見えて、
我々を巧妙に追い立てたのだ――。
パミヤはそう想った。
そして選択を迫られた。
そう、もう一つ選ぶ道がある。
騎士達を見捨てて、
身軽にこの場を逃げ去るか。
しかし、パミヤは即断。
「見捨てられるか!
あたいは絶対に仲間を見捨てないんだよ!」
パミヤもまた手綱を叩き、
彼等と共に塔へと――。
そして此処にも、
選択を迫られた者が居る――。
――此処は王国。
そこは、神聖なる王国の寺院。
普段なら、静かに祈りを捧げる場所。
しかし、王国もまた火急の折、
被害を受けた人々の救済、あるいは慰霊のため、
今は人混みで溢れかえっていた。
それは無論、賑やかさや華やかさからは縁遠い、
哀悼に満ちた光景であった。
運ばれてくる遺体と再会を遂げ、むせび泣く者。
それでも、それはまだ幸運な方。
粉々に焼き崩された者の家族は、
見つかるはずも無い身内を求めて、
延々と彷徨うことになるだろう。
あるいは、家が焼かれて生活を奪われ、
助けを求めて訪れる者。
あるいは、恐怖のあまりに自分を見失い、
心の平穏を求めて訪れる者。
そんな、悲しみに溢れた寺院の中で――。
(どうだ。動いたか)
闇の会話が、身を潜めていた。
(いえ、あれからは花園で読書を)
(あの騎士長の帰りを待つだけか?
そんな筈はないだろう。
王宮に閉じこもっていては、どうにもなるまい)
(と、申しますと……)
そんな囁きを交わす者共が居る。
だが、それは不意に遮られた。
「摂政閣下。あのう――」
家臣に問いかけられ、
振り返るガウス摂政閣下。
彼はフードで顔を隠した小男を連れて、
被害を受けた人々の視察に訪れていた。
「どうかしたのかね」
この惨事ゆえ笑顔は見せぬが、
穏やかな口調で問い掛けに応ずる。
「竜の亡骸をどう処分すべきか、
家臣一同、思案にあぐねております。
余りに巨大のため、仮に人手を掛けたとしても、
その手段が――」
「切り分けてはどうだ?」
摂政ガウスは、こともなげに提案する。
しかしまだ、戸惑う家臣。
「し、しかし、切り分けるといっても」
「街に石工が居るだろう。
彼らなら、巨大な鋸を持っている。
普段、硬く巨大な岩石を切り崩す彼らなら、
死骸の切断など造作もあるまい」
「――おお、成る程」
家臣は、摂政の妙案をようやく理解し、
ぽん、と手を打ち鳴らした。
成る程、いま立っているこの場所こそ、
石工の技による建造物なのだ。
「では、さっそく手配いたしましょう」
「遺骸の切断ともなれば、さぞ気味が悪かろう。
報酬はたっぷり支払い、兵達にも手伝わせよ。
希望者が居なければ、道具のみ買い上げればいい」
「はい、ではさっそく」
人混みをかき分け、家臣は現場へ急ぎ足。
そして再び、闇の会話が――。
(あれらは、只の女子供ではない。
取り巻きの侍女達も只の世話人ではないのだろう。
そろそろ、自ら動き始めても良い頃だ)
(しかし、地下の抜け道は全て掌握済み、
抜け出そうとすれば、必ず――ん?)
ふと、摂政ガウスは上を見上げた。
目に映るのは荘厳なる御柱、厳粛なる大天井。
人に驚き、走り抜けるネズミも居ない。
首を振り、我を取り戻す。
気のせいかと――。
――実は、其処に居た。
摂政ガウスの直感に誤りは無い。
女王とその侍女達は巡らせた結界に身を隠し、
寺院の上階を走り抜けようとしていたのだ。
ありきたりな地下の抜け道よりも、
人々が渦巻く寺院こそ安全、
そう思案した結果なのだろう。
だが、ある時。
ふと、女王の足が止まる。
(陛下、お急ぎを)
侍女ライラに促されるのだが、
しかし、リリ女王は容易に動かない。
女王が見おろす、その階下。
そこに響く、人々が嘆き悲しむ声。
世事に疎い女王ならばこそ、
そのような声が痛烈に響くのだろう。
(ライラ)
女王は問いかける。
(捕らえることはできるか。
あの『者共』、全てを)
ライラは首を傾げ、問い返す。
(恐れながら、あの『者共』とは――)
(捕らえることが出来たなら、
王国の人々全てが助かる)
(陛下、それは――)
何故、助かるのか。
否――何故、捕らえなければ助からないのか。
侍女ライラは察する。
尋ね返す、という行為は、
王家の禁忌に踏み込む恐れがある。
しかし、女王――少女は何を抱えているのか。
如何に禁忌といえど、
少女の孤独に追いやっては、
取り返しのつかない事態にも成りかねない。
ましてや、国家の存亡がかかっているのだ。
ライラは眼を閉じ、そして選んだ。
一歩、彼女は禁忌に踏み込んだ。
(何故です。陛下)
女王も決断した。
王家の掟を、破ることを。
(竜は死んではいない)
(――!)
その、あまりの恐るべき真実に、
ライラを含む侍女達は蒼白となる。
確かに竜は騎士に射抜かれた筈。
王国で、そして彼の森でも。
しかし女王は氷のような表情を崩さない。
(彼の者――竜を屠る者。
その伝承が真実ならば、
その者でなければ、竜は倒せない。
先に打ち倒されたと聞く、その竜は――)
(……竜では無い、と?)
(竜であって、いまだ竜ではない。
云ったはずです。
あの禁書には竜が如何なる者か。
竜を屠る者が如何なる者か。
それらが全て書かれている、と)
ライラは眉をしかめて、
その言葉を噛みしめる。
いや、判らない。
不可解だ。
女王はいまだ、
禁忌を破ることをためらっているのか。
侍女ライラは、更に踏み込む。
(――陛下、それはどういうことですか)
(竜は目覚めてこそ、竜となる。
竜の目覚めは、『言葉』で成し得る。
その『言葉』を知る者、『唱える者共』が、
王国のどこかに潜んでいる筈)
女王が見下ろす寺院の階下。
ライラはそれに習って覗き込んだ。
そこに、ある男の声が朗々と響いていた。
「王国は皆様と共にあります。
我々こそが王国そのものであり、
我々は一つなのです。
さあ、今こそ手を取り合い……」
響き渡る弁舌、
人々はそれにすがりつく。
その手腕をもって摂政の座に登り詰めた男、
その名は、ガウス――。
侍女は思い返す。
(あの男が、摂政の座を獲得しえたのは、
今は亡き先王陛下、並びに王妃殿下の、
謎の死があればこそ――)
それ故に。
リリ王女は幼くして、
女王の地位に就かざるを得なかったのだ。
しかし、いまだ幼く、
いまだ即位が叶わぬ女王。
(あの男がそうかも知れない。違うかも知れない。
しかし、私が一命を捨てても試みる価値はある)
証拠など無い。
しかし、外部の者が王国を自由に操り、
そして、王家に探りを入れるならば、
摂政の座がもっとも好都合なのだ。
もし、的中したならば。
己の命を捨てる、それだけで、
王国の者全てが、世界全てが、
竜の驚異から救われるなら――。
ライラは心に決めた。
(かしこまりました、陛下。
私の命に換えましても)
「……っ」
リリ女王は思わず、返答に詰まる。
命に換えても――。
その言葉はこの場において、
比喩でも慣用でも常套でもなく、
極めて現実的な生々しい宣言であった。
女王は唇を噛みしめ、
そんな気弱な自分を戒めようとするのだが。
自分なのだ、と。
自分が命じたことなのだ。
王国のために戦い、そして死ね、と。
あの騎士長にも、そう命じたではないか。
しかし――。
ライラは後を託そうと、
配下の魔導師達に振り返った。
(よいか。なんとしても陛下を守り通せ。
自らの命を盾としてでも)
魔導師達は頷きあう。
もとより、その覚悟で王家に仕えてきたのだ。
しかし、流石に幼い女王には――。
――命じる側には堪らないだろう。
ライラが一礼を持って立ち去ろうとしたその時、
少女の絞り出すような声が……。
「……ライラねえさま、どうか、死なないで」
「姫さまも、どうかご無事で」
そして、ライラはその場から姿を消した――。
――立ちすくむ女王。
残る魔導師達は気遣い、
先を急げと、促すことを躊躇った。
だが、階下の犠牲者達はそれを許さない。
また、階下に響く別の声。
「ああ……アーニャ、アーニャ……。
どうして、どうしてこんな……」
王国の騎士の一人が、
とある女性の遺体にすがりついている。
摂政閣下の弁舌も耳に届かず、
今も民衆が、王国が嘆き悲しんでいる。
そう、許されない。
すでに犠牲は出ているのだから。
(いきましょう)
女王の名を背負う少女は、
自らに命じて、歩き出す。
悲哀に満ちた寺院を後にして。
――そう、犠牲は出ている。
そして戦いはいまだ終わらない。
今も尚、激戦の最中にある――。
――再び舞台は、その激戦の森へ。
「急げッ!」
パミヤと少年を乗せた馬は、
四頭立ての、戦車の出足を抜き去って、
一足先に塔の中へと駆け込んだ。
少年の命こそ最優先と、
真っ先に逃げ込んだのは良いのだが。
(しかし、どうする。
この塔に出来ること、それはせいぜい、
炎から身を守る程度でしかない。
むしろ、この塔こそ格好の竈――)
パミヤは思わず上を見上げた。
既に落とされた屋根は天窓と化し、
先の戦いでは、そこから竜に覗き込まれたのだ。
――間違いない。
あの竜は、再び上から来るはずだ。
その時、その瞬間こそ好機。
天を指して、巨大な弓矢で射抜ければ――。
パミヤは馬を飛び降り、
塔の安全地帯と云える踊り場へと、
少年と馬を追い立てる。
――やはり、先程の巻き戻しだ。
そっくり同じで気持ちが悪い――。
「早くしろ! 扉を閉めるぞ!」
パミヤは巨大な扉から顔を出し、
戦車が中に飛び込んだ直後に、
落とし扉を閉ざそうと身構え――。
「――あああッ」
ズウウウゥゥゥンンッッ!!
もうあと少しで、
どうにか辿り着くところであったのに――。
戦車は見事に踏みつぶされた。
戦車が塔に辿り着く、その間際を狙われたのだ。
此処に来ると判っているからこそ、
それは実に容易な仕事であったのだ。
パミヤは見た。
戦車を仕留めた、その竜の姿を。
もはや呆然として、その姿を目の当たりにした。
おお、なんとその姿の恐ろしいことか――。
――その姿、
それは呪術師パミヤにいたぶられ、
ボロボロに喰い破られた竜の成れの果て。
その体の随所は生きた毒霧に襲われて、
皮膚は破られ、骨までも突き出し、
まさに腐りかけた亡骸そのものであった。
だが、もっとも恐ろしいことに、
その手酷く損壊した全身の傷跡からは、
まるで焚き付けられた炭火のように、
メラメラとした炎が赤く輝いていたのだ。
それが絡みつくアオムシを焼き払ったのだろう。
まさにそれこそが、
竜が内包する怒りの炎であったのだ。
――炎の亡者。
そう、パミヤは想った。
そして、震え上がった。
これでも、これでもまだ死なない、
いや、死ねないのか、と。
それは不死の力といった不可思議な呪いではなく、
ここまで傷つけられ、同胞を屠られた憎しみからの、
その執念の炎と云うべきであったろう。
そして竜は周囲に炎を吐き散らす。
彼らの逃げ場を奪うがために。
少年を、呪術師を、そして騎士達と憎き戦車、
それらは直ぐには殺さない。
自らの怒りを焼き付けるために。
――許さん! 絶対に許さんぞ!
その竜の咆吼は、
まさしくそう叫んでいた。
「立てッ!」
そのラルクの叱咤に、
パミヤはようやく我に返る。
見ればラルクは必死の形相で、
生き残った仲間を助け起こしていた。
戦車は破壊されたが、まだ射手は生きていた。
戦車を御していた二人の騎士の姿は見えず、
竜の足から吹き出した血だまりが、それだと判った。
その戦車を引いていた馬達は?
それらは辛くも竜の巨体から逃れたらしい。
既にラルクが手綱を切り、塔へ押し込まれていた。
次に射手の肩を抱き、
「さあ、早く中へ!」
「――いや、まだだ!」
促すラルクの手を払い、
射手は戦車の残骸にすがりつく。
戦車は踏みつぶされはしたが、
巨大な弓矢は弾き飛ばされただけだ。
矢弾を乗せるレールも付いたまま。
それなら、まだ矢弾の射出は可能だ。
弓を引き絞る歯車仕掛けがあれば、だが――。
「無理だ! その弓が素手で引けるものか!」
「引くしかない! やるしかないんだ!
他にどうやってコイツに勝てる!
他にどうやって俺達が生き抜く道がある!」
上官であったラルクに強く逆らい、
射手は尚も弓にすがりつく。
冷静沈着であった彼、それ故に、
絶体絶命なこの状況で、
命を賭してもこうすべきだと、
命を賭ける時は今だと、確信していた。
だが、竜はそれを待つ訳がない。
自らの溶鉱炉を更に沸き立たせ、
そして、その口を開き、
ガァァァアアアッッ!
吹き付けられる炎、
ラルク達は絶体絶命。
しかし、突如現れた氷の壁が、
――パリィィィンッ!!
既の処で、
パミヤが竜に立ちはだかっていた。
しかし、大技を繰り出したその煽りだろうか、
彼女はがっくりと膝を着く。
「ク……ッ!
な、何かするなら、早くしろ!」
パミヤは叫ぶ。
残る力を振り絞りながら。
そして竜に睨み据えた。
立ちはだかる炎の化身、
そんな強大な敵は彼女とて初めてだろう。
しかし――しかし、負ける訳にはいかない。
――ならば、これならどうだ!
ズゥゥゥウウウウンッ!
振り下ろされた竜の前足、
パミヤは違わず両の手を掲げ、
透明な「気迫の盾」で受け止めた。
ゴフッと、パミヤは再び吐血する。
炎の竜の巨体、
それに対峙する小さなパミヤ。
もう長続きしない。続く筈がない。
身体の対比だけでも明白。
パミヤは隙を見て小瓶を取り出し、
何かをグビリと飲み干した。
それは何かは知らないが、
目は虚ろとなり、体から異様な煙が立ち籠めた。
その身を盾に、命の全てを振り絞り、
全てを捨てて守り切ろうという、
壮絶な覚悟をもってパミヤは立ち上がる。
しかし、弓の弦は容易には引けない。
ラルクはそれに戦斧の柄をひっかけて、
射手と共に力を合わせ、
鍛え上げた肉体を振り絞るのだが。
「……ッ! クソォッ!」
引けない。動かない。
鍛え上げた鋼鉄の弓は、
悲しいまでに、ビクともしない。
「ウオオオオオオオッ!
何故だ! 何故、我々はこんなに非力なのだ!」
――弓を引ききれぬ非力。
鍛え上げ、騎士長を名乗り、
王国を守ってきた歴戦の勇士が、
自らの非力を嘆いていた――。
――その時、塔の中では。
名馬は少年を乗せたまま、
螺旋階段の踊り場で佇んでいた。
階下を見おろせば、
落ち着かずにひしめき合う他の馬達。
戦車を引いていた四頭と、
ラルクが乗ってきた一頭。
しかし、自分はそれに混ざる気はない。
彼の少年をその背に預かる者として、
狼狽など許される筈はない。
ならば、自分は何をすべきだろう――。
ぴしゃり、と、
少年に手綱を当てられた。
上へ登れと、少年は云う。
それに逆らう道理は無い。
名馬は云われるがままに、
ゆっくりと階段を上がる。
ポクリ、ポクリと。
何故か、ここは静かであった。
森の木々が燃えさかる轟音、
塔の外での戦いの喧噪、
それら全て入り交じったその果てに――。
不思議にも、心の静寂へと誘われていた。
やがて塔の頂上へ辿り着く。
塔の外壁は非常に分厚く、
馬一頭が悠々と歩けるほどであった。
周囲の木々は全て燃え上がり、
その火柱は塔をも凌ぐ高さであった。
塔はすっかり炎に取り囲まれていた。
その火柱を透かして見える、
恐るべき竜の姿――。
背に乗っていた少年は、
ストンと外壁に飛び降りた。
その少年の姿は、あまりにも無残であった。
先の竜に衣服を全て焼かれて、
騎士長から譲り受けたマントで身を包むのみ。
そして、譲り受けた物はもう一つ。
その腕に、一降りの剣が抱えられていた。
少年は馬と向き合い、語りかける。
伝わるかどうかも判らないままに。
「ボクは何も判らない。何も出来ない。
ただ、炎に焼かれてもボクは死なない。
ただ、それだけ。
今のボクにはそれだけしかない。
それでも、とても熱くて苦しいけれど――」
少年は少し目を伏せる。
「でも、キミはそうじゃない。
キミはとてもスゴイ馬だと想うけど、
でも焼かれたら、いくらキミでも死んじゃうよね。
それでも――」
少年は――クリスは面を上げて、
炎を透して、竜を見た。
今も尚、戦っている人達のため、
なんとしても倒さなければならない、
その魔獣の姿を彼は見た。
自分が立ち向かわなければならない、
強大なその相手を。
「ボクは――。
それでもボクは、キミの力を借りたい」
馬は、クリスにその鼻面をすりつけた。
――なんなりと、我が小さな主よ。
この命が尽き果てようと――。
――ガァァァアアアアアッ!!
パミヤは違えず、その手の呪符を天に放つ。
再び現れた氷の壁が、竜の炎に耐え凌いだ。
炎か、
それとも、豪腕に物を云わせてくるか。
応ずる技を間違えれば、そこで終わりだ。
しかも竜の巨体に比べて、
あまりに小さいパミヤの体。
盗賊を生業とする彼女、
災難からは逃げるのが心情、
こんな持久戦など得意な筈がない。
しかも、まだ弓は引けない。
如何にラルク達が力を絞りだそうと、
弓の弦は僅かに弛んだままだ――。
「あんたら、なにやってんだよッ!!」
そう叫びながら、
燃えさかる森を掻き分けて、
飛び出してきた者共が居る。
「お、おまえたちこそ!」
僅かに振り返りながら、パミヤも叫んだ。
そう、彼女の知り人だ。
それは最初の竜の襲来で散り散りとなった、
彼女の手下、盗賊団の一味であった。
「早く逃げな! みんな焼け死んじまうよ!」
「そりゃあんたらの方だろうがッ!」
三名ほども居ただろうか。
盗賊団はもっと居たはずなのだが、
すっかり逃げおおせたのか、
炎に倒れてしまったか。
すぐに彼らは状況を察する。
そしてそれぞれ弓に取り憑いて、
ラルクと共に戦斧の柄を掴み、
あるいは皮のバンドを引っかけて。
ラルクは驚き、狼狽えた。
「なんだ、貴様らは!」
「なんでもいいだろ! こいつをひっぱるんだろ?」
「狙いは! どこを狙うんだ!」
「お、俺が! 俺が定める!」
「おいテメェ! いつものバカヂカラはどうした!」
「テメェこそグダッてねぇでひっぱりやがれ!」
誰が何を云っているのか、
そんな大騒ぎをしながらも弓を引く。
それで少しずつ、少しずつだが弓はしなる――。
しかし、竜がそれを黙って見ているものか。
ズゥゥゥウウウウンッ!
「くッ――クハァ……」
振り下ろされた竜の衝撃、
それを受け止めたパミヤが再び、膝を着く。
「――あ、姉御!」
「……まだか、まだ……」
パミヤは息も絶え絶えに立ち上がろうとする。
しかしもう、彼女は半ば白目をむいて、
その足腰は、もはや立たない。
もうこれまでか。
これまでなのか――。
あと一手。
竜の、あと一手で全て終わる。
あと一手で――。
――。
「ああ――っ!」
力尽きようとしていたパミヤの、
その双眼が見開かれた。
「――うわぁぁぁぁぁぁあああああっ!」
金切るような雄叫びが空を裂き!
塔を包む火柱の中から放たれた炎の弾丸!
それはクリス!
火達磨と化した騎乗のクリスであった!
人馬一体――。
弓と格闘するラルクも、思わず見上げた。
彼の知る戦場で、あるいは古き戦史の中でも、
これほどに壮絶な騎兵の姿が在っただろうか。
クリスは全身を炎に包まれながら、
名馬の跳躍にその身を託し、
竜の首へと食らいついたのだ。
「く、クリス!」
パミヤは驚愕し、
打たれたように立ち上がった。
そして彼女は見た。
これまで愛おしむように守ってきた少年の、
その悲劇的なまでの壮絶な姿を。
クリスは空中にありながら、
手にした剣を抜き払い、
勢いに任せ、宿敵の首筋に体ごと、
柄をも通れと刺し貫いた。
炎に包まれたクリスの強襲、
炎を友とし、糧ともする竜には、
それに応ずる術は無い――!
グァァァアアアアアア……ッ
竜は苦悶の咆哮、
首を振り乱し、藻掻き苦しみ、
これでもかとクリスは振り回された。
馬はどうしたか。
クリスの跳躍、その役を終えた彼は、
その身を火柱に炙られながらも、
火柱と化した木々を蹴り下り、堂々の着地。
しかし、クリスは竜の首に取り憑いたまま。
突き立てた剣にしがみつき、決して竜から離れない。
そして、よじ登る。
一度は突き立てた剣を引き抜き、
それを手にしながら竜の頭上へ。
「うう……うう……うう……」
クリスは泣いていた。
呻き声を上げ、苦しんでいた。
全身を焼かれた苦痛に合わせ、
恐怖で押しつぶされそうになりながら。
しかし、それは既に極限に至り、
自らを打ち捨てた非情さと、
強敵に屈しない残忍さが、
その小さな体に鋼のような力を宿す。
そして――。
――そして、その少年の怒りは、
もはや怒髪天へと達していた!
「エヤアアアアアアアアアアアアッッ!」
クリスは雄叫びと共に、
両手で構えた剣を竜の脳に突き立てる。
それを繰り返す。
幾度も。幾度も。
苦痛に顔をゆがませ、
恐怖で涙をも流しながら、
しかし頂点に達したその怒りで、
もはや竜が動かなくなったことも気付かずに――。
それでも、竜は倒れない。
その姿のままに、生ける屍と如く立ち尽くしていた。
――まだだ。
まだ、儂は死なんぞ――。
そう、それでも竜は死なない。
少年に頭蓋を砕かれ、
もはや藻掻くことすら叶わず、
朦朧としながらも立ち続ける竜の姿がそこにあった。
これもまた、執念の力か――。
しかし、時間稼ぎには十分であった。
――ガチンッ
遂に弓の弦が留め金に届いたのだ。
「引けた! 弓が引けたぞ!」
「放てッ!」
射手は狙いを定め、
そして留め金を蹴り飛ばす――。
ドォォォォォオオオオン……。
止めを刺した。
ついに竜は倒れる。
「逃げるよっ!」
パミヤは立ち上がる。
半ば力尽きていた彼女だが、
そんな彼女を突き動かすものがある。
何処にそんな力を残していたのか、
竜が崩れ落ちるその間際、
既にクリスを奪い去っていた。
パミヤに抱き止められたその折り、
力も気力も使い果たしたのか、
少年は気を失っていた。
しかし、手にした剣は手放さない。
ガクリと首をのけぞらせたクリス、
そんな少年の身体を抱え、
満身創痍のパミヤは、どうにか馬によじ登る。
しかも、その馬もまた、
炎に炙られた彼の名馬であった。
しかし、パミヤは容赦なく馬をせき立てる。
これでもかと燃え盛る炎の森の中へ。
死なせない。
なんとしても。
この子を死なせてなるものか。
パミヤは残る手持ちの呪符を撒き散らし、
燃えさかる炎を吹き飛ばしては突き進む。
「続けッ!」
ラルクもボヤボヤしてはいない。
塔に押し込んでいた馬達を解き放つ。
残る男達、それぞれに馬に飛び乗って、
もはや火の海と化した森の中を、
這々《ほうほう》の体で掻き分けて――。
――森の外。
やっとの想いで森を抜け出した彼ら。
更に小高い丘に駆け上り、
ぐったりとその場に倒れ込んだ。
ここまで来ればもう大丈夫だろう。
しかし、彼らが空の彼方に見たものは。
「あれは……」
「……」
三頭目の竜の、その姿が見えた――。
――時は、もはや深夜。
闇夜では無かった。
巨大な月が空に浮かび、
生き残った彼らの姿を照らし出していた。
その月の隣に、
小さな影が浮かんでいた。
そう、王国を襲った一頭に続いて、
現れた竜は三頭。
二頭までは倒した。
あと一頭が残っている。
だが――。
「――来ないのか?」
「みたいだな。何故だ」
「待っているのか?」
「……何を?」
判らない。
その三頭目の竜は登場した時と変わらず、
その大きさを変えず、空のその場に浮かんだまま。
果たして、何を待っているというのか。
「……フン」
パミヤは鼻を鳴らして、ポリポリと頭を掻いた。
もうどうにでもしてくれ、とでも云いたいのか。
彼女は吹っ切れた様子で、
ラルクに残る小瓶を投げて寄越した。
「飲みな――一口だよ。
二口目は、必ず一年は空けなきゃならない。
でないと中毒を起こして体が蝕まれるからね。
それでも飲みたいって時は、
絶対に死にたくないって時だけだ」
もしかしたら、既に先の竜との戦いで、
パミヤ自身がその禁忌を破ったのかも知れない。
それを口に含んだラルクは、
その衝撃的な効果に目を回した。
成る程、間違いなく年に一度の処方だろうと、
納得しながら仲間達に回す。
――そう、慌てたって仕方ない。
三頭目の竜を目の当たりにしたところで、
腰を据えて傷ついた体を休めるのが先決。
そして――。
「――俺はラルク。ラルク・ド・ライアン。
王国の騎士長を任じられていた」
そう、名乗り交わすには良い機会だ。
「あたいはパミヤ、森の盗賊団、頭目――。
南から来た呪術師」
「ああ――」
ラルクは王国の治安と防衛を勤めていた者。
心当たりが有るらしい。
「最近の盗賊は得体が知れない、
そう聞いてはいたが、貴様の仕業か」
「そのようだね。よろしく、元騎士長さん」
「……」
その「元」騎士長の事情は、
おいおい聞くつもりなのだろう――。
最期まで完成できればいいなあと思ってます。なので続きは未定。