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ラストプレゼント
作:エンデバー


 古ぼけた小さな引き出しから、指輪を取り出した。棚の上に置かれている、クマのぬいぐるみの赤いカバンにその指輪を入れた。
 クマのぬいぐるみは、母から私へ贈られた、最後の誕生日プレゼントだった。
 十年前、私が小学四年生のとき不思議な体験をした。思い出すと、胸の奥から込み上げてくるものを感じた。




 六月の蒸し暑い時期だった。空はどんよりと黒い雲に覆われ、遠くでは雷が鳴っていた。私が学校から帰ってきたとき、家の前に、救急車が赤いランプをくるくる回しながら止まっていた。
 それを見て私はどきりとした。同時に、不安が胸の中に一気に広まった。足を止め、じっと救急車を見つめていた。
それから少しして、母が担架に乗せられ、救急車へと運ばれようとしていた。
「お母さん……」
 私はぽつりと漏らし、急いで母の元へと駆け寄った。
「ねえ、お母さん」
 母の身体を揺すって呼びかけたが、なにも反応がなかった。
 死んじゃうの? 一瞬、そんな不吉なことが頭を過ぎった。私の目には涙が滲み出していた。母の顔が涙でぼやけて見えた。
「お母さん」
 玄関のほうでドアの閉まる音がした。私は振り返った。涙を服の袖で拭うと、ぼやけていた視界がはっきりとしたものに変わった。父が玄関で施錠し、私のほうに歩み寄ってきた。
「お母さんは大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。これから病院に行くから、真樹も一緒に来なさい」
 父は明るく装っていったのだろうが、顔には不安の色が窺えた。
 私と父は救急車に乗り込み、病院に向かった。救急車の中でも、私はしきりに母に呼びかけたが、反応は皆無だった。
 病院に着くと、母は手術室へと運ばれていった。私と父は、重い空気の中、待合室で何時間も待った。
 どれくらい待っただろうか、執刀医と思われる髭面の医師が父を呼んだ。父は立ち上がり、医師のほうへと歩み出した。私もついて行こうと重い腰を上げたとき、
「真樹はここで待っていなさい」
 と立ち上がった私に気づいた父がいった。
「私もお母さんに会いたいよ」
「今日はお母さんには会えないよ。手術で疲れてるだろうし。ゆっくり休ませてあげよう」
 私は俯き、がっくりと肩を落とした。
「真樹」
 と父に呼ばれ、顔をあげた。
「きっと、お母さんは大丈夫だから」
 父はぎこちなく微笑んだ。
「本当に……」
 大丈夫なの、といおうとしたが、寸前で飲み込んだ。大丈夫でなくとも、おそらく父は大丈夫だと答えるだろう。
「どうした?」
 父が窺うように質問してきた。
「ううん。なんでもないよ」
 私は父に微笑みかけた。父は私に背を向け、医師と共に診察室へ入っていった。仕方なく待合室で待つことにした。
 一人取り残された待合室は寂しいものだった。自然とため息が漏れた。父は大丈夫だといっていたが、父のぎこちない微笑みを見てそうは思えなかった。何か隠しているのかもしれない。胸の中の不安は、拭い去れずにいた。
 十五分ほど待って、父が診察室から出てきた。私はすぐさま父のところへ駆け寄った。
「お母さんは?」
「ただの貧血だってさ。さあ、帰ろうか」
 そういう父の目は、赤く充血していた。何か隠している。私は確信した。




 母が倒れて数日が経ったころ、私は父に連れられ、お見舞いに行くこととなった。久しぶりに母に会えると思うと、嬉しくなった。
 勢いよく病室の扉を開くと、母は眠っていた。母を取り囲むように、白衣を着た医師と看護師が数名立っていた。
「誠に残念ですが、山本さんはお亡くなりになられました」
 あの時の、髭面の医師が暗い顔をしていった。
「えっ!」
 私は抱えていた花束を落とした。釘で胸を打たれたような、強い衝撃が走った。母は眠っているのではなく、死んだのだということに気づいた。
「そんな……」
 父はその場に泣き崩れた。
「うそだ……」
 私は首を振りながら、いった。受け止めたくない現実を目の当たりにして、どうすればいいのかわからなかった。ただ、呆然と立ち尽くしているだけだ。それなのに、涙だけは自然と溢れ出してきた。
「うそだ……うそだ、そんなのうそだ」
 私は泣き叫んだ。誰も何も答えない。暗い顔をして、ただ俯いているだけ。
 私は母のところへゆっくり歩み寄った。そして、まだ温かさの残る母の手をぎゅっと握り締めた。
「お母さん。ねえ、目を開けてよ。ねえ……お母さんてば」
 涙が頬を伝い、ぽたぽた手に落ちた。
「どうして……どうして死んじゃったのよ。勝手に死なないでよ。まだ、お母さんに見てもらいたいこととか、甘えたいこととかいっぱいあったのに。どうして……」
 いくら私が泣き叫んでも、母は帰ってこない。いくら私が訴えかけたところで、母は何も答えてくれない。ただ、母は安らかに眠っているだけ。もう目を覚ますことはない。
 さよならさえも、母にいっていない。母と交わした最後の言葉はなんだっただろうと私は考えた。それは母が倒れた日の朝のことだった。
 いつものように、母は学校に行く私を玄関で見送ってくれた。いってらっしゃい、という言葉が私の背中に聞こえてくる。私は母に背を向けたまま、いってきますといい、駆け出した。
 母はどんな思いで私を見送ったのだろう? こんなことになるとわかっていれば、もっと親孝行をしていた。もっと母に甘えていた。だけど、いくら後悔してももう遅い。母は戻ってこない。




 母の死から数日が経っても、私は立ち直れずにいた。当たり前のように、母がいて父がいて私がいる。その中から、突然、母が奪い取られてしまった。身体が……命が……母の全てが。残されたのは母の思い出だけ。
 カレンダーに目を向けると、四日後の六月二十三日に赤い丸がふられていた。私の誕生日の日だ。しかし、祝ってもらっても何も嬉しくない。大切な人を失った。祝ってもらいたい人を失ったのだから。
 ため息をついて、テレビのほうに視線を移した。その時、テレビの隣にある小さな鏡に、母の姿が映ったような気がした。あわてて振り返ると、母が微笑みながら立っていた。
「お母さん……」
 私は思わず声を漏らした。どっからどう見ても母の姿だった。長い髪に、色白の肌。笑ったときに覗かせる笑窪。私は母の優しい笑みが好きだった。そんな母が、今、私の目の前に立っている。
「ぼうっとして、なにため息なんかついちゃってるのよ。ほら、しっかりしなさいよ」
 母はそっと私の肩に手を置いた。しかし、肩に手を置かれているという感覚は全く感じなかった。なにか違和感がある、といった程度だった。私は母の顔を見上げた。
「だって……お母さんが突然いなくなっちゃうから」
 じわっと涙が滲み出してくるのを感じた。それを溢れ出させないよう、必死に堪えた。
「もうすぐ誕生日だね」
「うん」
 私は暗い顔をして頷いた。嬉しくない誕生日だ。
「そんな暗い顔しないの。誕生日なんだから、もっといい顔しなさいよ」
「だって……」
「なに?」
「ううん。……なんでもないよ」
 私は何も答えないでおくことにした。ここで母が死んでしまったことの不満を、母にぶつけても仕方がない。なにより、そんなことをして母の悲しそうな顔を見るのが嫌だった。
「お母さんはどうして私の前に現れたの?」
 代わりに、母に質問した。
「さあ、どうしてでしょうね」
 母は笑いながら、からかうような口調で言った。
「意地悪」
 私はむっと頬を膨らませた。
「なに一人でぶつぶついってんだ」
 背中から父の声が聞こえてきた。振り返ると、風呂上りの父が缶ビールを片手に、怪訝な顔をして私を見つめていた。
「お母さんが、今私の前にいるんだよ」
 父は首をかしげてみせた。そして、少ししてから答えた。
「誰もいないじゃないか」
「えっ! なにいってんの。ほらここに……」
 視線を戻すと、そこに母の姿はなかった。
「うそ……」
 きょろきょろと辺りを見回した。しかし、どこにも母の姿はなかった。
「寝ぼけてたんじゃないのか」
 父は笑いながらいった。椅子に座ると、缶ビールのプルトップを開け、ぐびぐびと飲みだした。
「寝ぼけてなんかないもん。本当にいたんだから」
 つい声を大きくしてしまった。間違いなく母はこの部屋にいたのだ。父には見えないかもしれないが、私にはちゃんと見えた。幽霊だけど、母に会えたことは嬉しいことだった。
「本当にいたんだから……お母さん」
 私は顔を上に向け、ぽつりと呟いた。また母に会えるのだろうか。



 
 四時限目の国語の授業が、授業参観になっていたことを、すっかり忘れていた。母が亡くなり、私の頭の中は混乱していた。他のことを考える余裕など全くなかった。それに、今は授業参観など、私にとってはどうでもいいことだった。
 いつもなら、母が来てくれるのだが、その母がいない。父に授業参観のことをいっていればきっと来てくれたのだろう。しかし、私はすっかり忘れていたので、授業参観のことなど伝えていない。だから父も仕事で来ることはない。
 授業開始五分前になると、生徒たちの父や母がぞろぞろと教室に入ってきた。私は保護者たちを見回してみた。その中には知っている顔もいくつかあった。当たり前のことだが、母はいなかった。少し期待していた自分が、バカのように思えた。
 授業が始まりしばらくしてから、眠気が襲ってきた。目を擦り欠伸を寸前で呑み込んだ。
「次の行から、山本さん読んでください」
 突然、国語の先生が私を指名した。再度こみ上げてくる欠伸を呑み込み立ち上がった。その瞬間、
「がんばれ」
 と後ろから囁くような小さな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に、私の眠気は一気に吹き飛んだ。
「えっ!」
 振り返り、ずらりと並んだ保護者たちを一瞥した。その中に先程までいなかった母の姿があった。母は優しい笑みを浮かべていた。
「どうかしたか?」
 ずっと後ろを見ていたので、国語の先生が訊いてきた。
「いえ、なんでもないです」
 私は前に向き直り教科書を読み出した。
 たとえ母が幽霊であっても、私の側にいてくれることが嬉しかった。幽霊であっても、母に変わりはないのだから。だけど、私の中には不安があった。このままずっと、母がいてくれるとは思えない。いつか別れなくてはいけない日が、きっと来るはずだ。また突然母がいなくなったりすると、私は押しつぶされそうな悲しみに暮れることになるかもしれない。
 その夜、父に授業参観のことを話してみた。
「今日、お母さんが授業参観に来てくれたんだよ」
 テレビに夢中になっている父の背中に向かっていった。
「またお母さんが現れたんだ」
 父はテレビに目を向けたままいった。特に感心を示した様子はなかった。また、私が寝ぼけていたのだろうと思ったのだろうか。
「うん。ねえ、なんでお母さんは私の前に現れるのかな?」
「さあ、わからないな。なにかやり残してることでもあるんじゃないかな」
「それって、成仏できずにいるってこと……だよね」
「まあ、そうなんじゃないのかな」
 父は曖昧に答えた。
 成仏できないって、何をやり残しているのだろうか。私の前に現れるのだから、きっと私に関わることのはずだ。私に関わるものってなんだろう。首をちょっと傾げ、考えてみた。しかし、これといって思い浮かぶものはなかった。
「そういえば、三日後誕生日だろ。どんなケーキがいい?」
 父は私のほうに向き直り、訊いてきた。その時、父はどこかに向かってウィンクを投げかけた。私は首を傾げてみせた。それが何を意味するのかわからなかった。
 誕生日のことを話題に出されて、私は沈んでしまった。これだけは、触れたくないことだった。祝ってくれる父には申し訳のないことだが、仕方のないことだと思った。きっと、三日後の誕生日は、父も私も無理に笑顔を装って、苦しい日になってしまうのだろう。
「なんでもいいよ」
 私は無理に笑顔を装っていった。自分でも、顔が引きつっているのがよくわかった。
「そうか。それじゃ真樹の好きなチョコレートケーキを用意するよ」
「うん」




 三日後の誕生日は、私の気持ちとは裏腹に、家の中は盛大に飾りつけが施されていた。居間はまるで異空間だった。普段とは幾分雰囲気が違う。
「これ全部お父さんが」
私は居間を見渡しながら、感嘆の声を上げた。
「そうだよ。結構大変だったんだぞ」
 父は台所でなにやら作業をしていた。
 私は母の写真を持って席に着いた。そして、私の隣、生前まで母が座っていた椅子の前に写真を立てて置いた。
 しばらくしてから、父が台所から誕生日ケーキを持ってきた。それは以前父がいっていたように、チョコレートケーキだった。ケーキには既に、蝋燭が十本立てられていた。
「こんなものはいらないから」
 父は母の写真を手に取ると、元の場所に戻した。
「どうして? いいじゃない。お母さんも一緒で」
 私は父を睨んだ。三人で祝ってもらわなければ、誕生日なんてないほうがましだと思った。
「お母さんなら真樹の後ろにいるだろ」
「えっ!」
 私が振り返ると、母が微笑みながら立っていた。そして、私の隣の席に着いた。
「お父さんも見えてたんだ」
 父は笑顔で頷いた。私は不意に思い出したことがあった。あの時、父がどこかに投げかけたウィンクは母に対してではなかったのだろうか。
「これって、私を驚かすためにやったの」
 私は父と母を交互に見やった。二人はただ微笑んでいるだけだった。
 父には母の姿が見えていた。これはちょっとしたサプライズパーティーではないのだろうか。きっと、父と母は私を驚かすために手の込んだ誕生日パーティーを用意したのだろう。
 母が亡くなって悲しいのは私だけでなく、父も同じだ。父は私の誕生日を気にかけてくれていた。母が亡くなって何日も経っていないのに、父は笑顔で私の誕生日を祝ってくれようとしていた。それなのに、私は素っ気無い態度をとってしまった。
 それに母のやり残したこと、それは私の誕生日を祝うことなのだろう。今日で幽霊の母ともお別れなのだろう。
 私はじわっと涙が滲み出してくるのを感じた。暖かい涙が頬を伝う。
「泣くのはまだ早いわよ」
 母は微笑みながらいった。
「そうだね」
 服の袖で涙を拭って、母に微笑みかけた。誕生日だから、笑顔でいたい。そして母を笑顔で送り出そうと決心した。
「さあ、それじゃ始めようか」
 父はクラッカーを持って、席に着いた。父の目にも微かだが涙が滲んでいた。この日が、母との最後の別れの日だということを知っているのだろう。
 十本の蝋燭に、父は一つ一つ火を点していった。その後、居間の電気を消した。
 薄暗い部屋の中に二つの影があった。私と父の影だ。母は幽霊だから、影は存在しない。私はなんとも不思議な感じがしていた。いつもと変わらない誕生日のように思えるが、それは違う。父と幽霊の母に誕生日を祝ってもらうことになる。しかし気持ちは何も変わらない。二人は私の誕生日を、嬉しそうに祝ってくれている。そうでなければ、手の込んだ誕生日パーティーを用意しないだろう。母がいなくなって誕生日を迎えるのが苦痛だと思っていた。だけど、今はそんな気持ちは微塵もない。
「真樹、誕生日おめでとう」
 父がいった。
「おめでとう」
 そして母がいった。
「ありがとう」
 私はクラッカーの音と共に、蝋燭の火をふっと吹き消した。部屋は一瞬にして暗闇に包まれた。
「元気でね、真樹」
 か細い声が耳元で聞こえた。
「まって!」
 暗闇の中で、私は思わず叫んだ。
 電気がつけられたとき、母の姿はどこにもなかった。
「ねえ、お母さんは?」
「きっと、成仏したんだよ」
 父は泣いていた。
「今日が最期のお別れだったんだね」
「そうだな。そろそろ届くころだな」
 父がそういったとき、玄関のチャイムが鳴った。父は涙を拭い、玄関へと向かった。少ししてから、小さな小包を抱えて戻ってきた。
「真樹への誕生日プレゼントだ」
「お父さんから?」
 私は小包を受け取りながら訊いた。すると、父はゆっくり首を横に振った。
「お母さんからだよ」
 小包を丁寧に開けると、中には小さなクマのぬいぐるみと、ビデオテープが一つ、そしてバースデーカードが入っていた。バースデーカードには「誕生日おめでとう」と母の字で書かれていた。
 クマのぬいぐるみは小さな赤いカバンを掛けていた。中に何か入っていないかと思い指を突っ込んで見ると、ひんやりと、冷たい何かの感触を得た。私はそれを取り出した。指輪だった。
 次にビデオテープをビデオデッキに入れ、再生ボタンを押した。
 ビデオカメラを正面に母が座っている映像が映し出された。テレビの位置や時計の位置からして、居間で取られたもののようだ。少し緊張しているような面持ちで母ははにかむように笑った。
『えーと、とりあえず真樹の十歳の誕生日おめでとう。今までずっと黙っていたんだけど、お母さん病気だったの。末期がんで、命もそう長くない、とお医者さんはいっていました。ごめんね。だから、真樹の誕生日は祝ってあげられないかもしれない。そういうわけで、ビデオレターとして、お祝いの言葉をいわせてください。改めて、真樹、十歳の誕生日おめでとうございます。そして、こんな母親で許してくださいね。勝手にいなくなっちゃったりして、真樹は怒るかもしれないね。本当にごめんなさい。それと……』
「お母さんのバカ」
 私は思わずそんな言葉をぽつりと漏らした。やはり、母は貧血なんかではなかった。
 涙が溢れ出し頬を伝いぽたぽたと流れ落ちた。止処なく溢れ出す涙は、いつか枯れてしまうのだろうか。
「泣き虫、弱虫……」
 自分自身に向かっていった。母が亡くなって何度泣いたことだろう。誕生日なのだから笑顔でいたい、と決めたのに涙は自然と溢れ出してくる。
『……お母さんからのプレゼントは気にいっていただけたかな。前々から用意してあって、真樹の誕生日に宅配便で送ってもらうようにお父さんに頼んだのよ。クマのぬいぐるみのカバンには指輪を入れておきます。誤解しないでね。それは誕生日プレゼントじゃなく、真樹に貸してあげるだけだからね。以前お母さんがはめていたものなの。お母さんの形見だと思って持っていればいいわ。だけど、いつか返して頂戴ね。あなたに大切なもの、大切な人ができたときには、お母さんの墓石にでも返しに来てください。約束だからね。それでは、お元気で』
 そこでテープは終わっていた。その後私はぎゅっと指輪を握り締め、ただ泣いていた。




 あれから十年、私は二十歳になっていた。母との約束を果たすため、クマのぬいぐるみと、線香を持って家を出た。
 綺麗に並ぶ墓石の中に、母の墓石はあった。私は墓石の前にしゃがみ込むと、線香を上げ、クマのカバンから指輪を取り出し、そっと母の墓石に置いた。
 二十歳という日を、私の新たな旅立ちの日にしようと決めていた。母の約束からしてみれば、遅いのかもしれない。十年の間に、私は多くの大切なものを手に入れ、大切な人に出会った。
 だから、ピリオドを打ちたかったのかもしれない。長すぎた十年間に。そして、母のいなかった十年間に。私は目を瞑り、手を合わせた。十年の時を経て、今、私は母との約束を果たそうとしている。
 目を開けると、墓石に置いた指輪は消えていた。果たされた、十年越しの約束。














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