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No.08 空の騎士様
 姫姉さまが大人への脱皮を終え、旅立つ時が来た。
 丸くて半透明で空気の泡玉のような姿をした姫姉さま。円らな瞳を持つ水の妖精となった姉はこう言った。
「あなたもいつか私のような姫となって旅立つの。旅先で20の姫を産むか、空の騎士と共に黄金の卵を作り水天を抜けて空の世界を目指すかは、あなた次第よ」
 姫姉さまが話す空の騎士は、姫しかいないミジンコの世界に伝わる伝説のミジンコ。
 ミジンコの遺伝子に刻まれた叙事詩は、大人への脱皮を繰り返す私達の心の中で、螺旋のハープの弦を弾いて語り続ける。
『その者、泡の衣をまといて、水天の下に降り立つべし。失われし大地との絆をむすび、ついにミジンコを青き清浄の空へ導かん』
 姫姉さまは大きな両手を広げ羽ばたきながらながら言う。
「そろそろ行かないと。元気でね」
 姫姉さまが羽ばたくと、水は渦を巻いて姫姉さまを運んでいく。
 私も精一杯に両手を広げて羽ばたく。
「姫姉さまも、お元気で。さよなら」
 姫姉さまは私の声に手を振って旅立って行った。バタフライ泳法で。

 その日の夕方。私は大人への脱皮を終えた。
 私のあとに生まれた妹は、まだ脱皮前の小さな手を振りながら私を見送る。
 妹の小さな瞳に映る私は、姫姉さまのような丸くて綺麗な泡玉になっているかしら。
 私は小さな妹を水の渦に巻き込まないように気づかってゆっくりと羽ばたいていると、妹は小さな手を何回も動かして私を呼んだ。
「姫姉さま」
 私の中の遺伝子が波を打つ。螺旋のハープは弦を弾いて叙事詩を語り始める。
「あなたもいつか私のような姫となって旅立つの。旅先で20の姫を産むか、空の騎士と共に黄金の卵を作り水天を抜けて空の世界を目指すかは、あなた次第よ。そろそろ行かないと。元気でね」
「姫姉さまも、お元気で。さよなら」
 私は妹に見送られて旅立った。私が見送った姫姉さまと同じバタフライ泳法で。

 私はネコゼミジンコ。名前の通り猫背のような背が特徴のミジンコ。
 水天に映る空は、シオカラトンボの青色からナツアカネの赤色に変わりつつある。
 もうすぐ空はハグロトンボと同じくらい黒くなるだろう。
 私は稲の茎の間にある流れの緩やかな場所を見つけて一夜を明かした。

 早朝の薄明るい中、私は手を大きく広げて羽ばたいて茎の間から抜け出た。
 仲間のミジンコは水天の下でシンクロナイトスイミングをしながら植物プランクトンやバクテリアを食べている。
 私も右回転したり左回転したりしながら口の中に入ってくるプランクトンやバクテリアを飲み込んだ。
 喉ごしまろやかなツルンとした食感がおいしい。お腹の中ではまだ生きていて胃壁を押して暴れているのもいる。この振動が全身に伝わると、生きている喜びで私は幸せを感じてしまう。
 まいうー。太ってもいい。私は食べる。食欲の秋だもの!

 気づけば私の猫背の中でも何かが動いている。ご飯以外で動くものって何? 私は考えながら手を広げて羽ばたき続ける。
 体に伝わってくる振動は好き。でもだんだん激しくなってくるこの振動は一体なんなの?
 振動。激しすぎ。オニキモイ!
「誰か助けて!」
 私はスピンを繰り返し錐揉みをする。猫背から伝わる振動は幸せどころか、苦しすぎる。
 今の私の両手は、左右バラバラに動いているんだと思う。だって、もう連続3回目のムーンサルトだもの。オリンピックじゃない時に月面宙返りをしたって苦しいだけなんだから。イヤー。猫背の振動をなんとかして!!
 私が苦しんでいると、大きなミジンコが両手を広げて私を受け止めてくれた。
「ネコゼミジンコさん。今が踏ん張りどころ。しっかりするのよ」
 私のスピンを止めてくれたのは、長い鼻をしたゾウミジンコの姫姉さまだった。長い鼻の姫姉さまは私の猫背に触れた。
「おめでたよ。中に5姫いるわ」
「5姫?」
 目を回している私の猫背を押しながらゾウ顔の姫姉さまは円らな瞳をグルリと動かして言う。
「クローン妊娠は初めてなの? 捕食環境がいいと知らないうちに自分のクローンが育つのよ。大丈夫。5姫は健康に育っているから、腹式呼吸をすればすぐに楽になるわ。はい。吸って吸って、吐いて。ヒィーヒィー、フゥー」
 私はゾウの姫姉さまの教えどおりに腹式呼吸をする。
「ヒィーヒィー、フゥー。ヒィーヒィー、フゥー」
 その後すぐに5姫は私の猫背から産まれ出た。あっという間の出来事だった。
「母さま。母さま」
 生まれたばかりの小さな5姫は、白いビーズのように連なって私にまとわりつく。
「おめでとう。ネコゼミジンコさん!」
「ありがとうございます! ゾウの姫姉さま!」
 しかし喜びも束の間、出産が済んだら私は小さな5姫を残してすぐに旅立たなくてはならない。体の大きい私達は周辺のエサを食い尽くしてしまうから。
「私のかわいい大切な5姫。元気でね」
「母さま。大好き。母さま。母さま」
 私は自分とそっくりの猫背をした小さな5姫に別れを告げると、ゾウの姫姉さまと共に旅立った。バタフライ泳法で。

 大食の私達は、仲が良くても一緒にいられない。食が少ないと姫を増やせないからだ。
 ゾウの姫姉さまは私に別れを告げる。
「ネコゼミジンコさん。お元気で」
「ゾウの姫姉さまもお元気で」
 バタフライをしようと手を広げたゾウ顔の姫姉さまは別れ際に言った。
「西で空の騎士が現れたそうよ。西から来たオナガミジンコの姫姉さまから聞いたの。空の騎士に会えるといいわね」
 驚く私の前でゾウの姫姉さまは広げた大きな手を振り下ろす。膨よかな体を揺らして大きな水の渦と共に旅立って行った。バタフライ泳法で。

 私はまた一人になった。
 少し離れた所では、タマミジンコの姫姉さまが背に小さな姫達を背負って泳ぎ、捕食に精を出している。
 私の遺伝子は、今も螺旋のハープを奏で叙事詩を歌い続けている。私は叙事詩に従い大きく広げた手を動かして捕食を始める。ツルツルと口に入ってくるプランクトンやバクテリアを飲み込みながら旋回して水天に映る空を眺めた。
 空の騎士って、どんな方なのかしら。
 バタフライをしている私の耳にギターの音色が聞こえてきた。
 ジャジャン♪ ジャジャーーン♪
「みんな、おいらが悪いのか? 斬られたおめえが悪いのか? 拙者。カイミジンコ侍じゃ」
 突然の出現に私は手を動かすのを忘れてカイミジンコを見てしまう。
 姿は二枚貝。本体は殻の中にあり顔がどこにあるのか分からない。ミジンコ特有の大きな手も無い。
「あの、あなたはミジンコですか?」
 私が聞くと、カイミジンコはギターを弾いて歌いながら答えた。
「私カイミジンコは♪ ぜんぜんミジンコに似てないって言うじゃな〜い♪ でも、ミジンコと同じ甲殻類ですから! 残念!! 約5億年前から同じ姿。体長約0.6ミリ。精子の長さは体長の10倍、約6ミリ。斬り!!」
「た、体長の10倍の!!!」
 姫として生きる私の口では絶対に言えない驚き。
 私が手を広げて驚いていると、彼方から侍と同じ姿のカイミジンコの姫姉さまが向って来た。花嫁姿のケメコデラックス! のように。
「空の騎士様!」
 カイの姫姉さまの声を聞いて、私の驚きは寒気に変わる。
 うそ! こんなのが空の騎士!!
 カイの姫姉さまは甘い声を出して、ギターを奏でている侍を空の騎士と呼んで近づき寄り添う。
「空の騎士様。お待ち申しておりました」
 カイ侍は、まだギター演奏で歌っている。
 ジャジャーン♪
「夜。海中で青く光るウミホタルも、カイミジンコの仲間。切腹!!」
「空の騎士様。カッコイイー!」
 カイ侍とカイの姫姉さまは黄金の卵を作るため、水流が作り出す愛の泡と共に旅立っていった。自由形泳法で。

 また私は一人になった。
 あれが空の騎士だなんてショック。
 がっかりする私の耳に軽快なリズムが聞こえてくる。
「誰も彼も浮かれ騒ぎ♪」
 私はもっと静かな場所へ移動しようと思い、バタフライ泳法で進んでいると、姫姉さま達の声が聞こえてきた。
「キャー。空の騎士様! こっちを向いて」
 空の騎士の寒い現実を知った私には騒ぐ理由が分からない。
 早くこの場から去ろうと思い移動していると、姫姉さまの集団が軽快なリズムと共に私の方へ押し寄せてきて、私は集団に巻き込まれた。
 姫姉さま達は軽快なリムズを聞きながら細い腕を振って踊っている。
「オーレー♪ オーレー♪ ケンミジサンバ♪」
 よく見るとケンミジンコの姫姉さま達。姫姉さまの輝く瞳の先には、スマートな姿でステップを踏んで踊っている空の騎士がいた。
「サンバ♪ ビバ♪ サンバ♪ ケ・ン・ミ・ジ♪ サンバ♪ オレ!」
 気づくと私は腕を振って踊っていた。
 私を躍らせるとは、これが伝説の空の騎士というものなの。なんてオニキモイ!
 姫姉さま達は踊りが終わると、一斉に叫んで自分自身をアピールする。
「ケンさま! こっちを向いて! 空の騎士! ケンさま!」
 そうまでしてあの空の騎士と黄金の卵を作りたいのか?
 私の疑問は続いていたけど、今度の空の騎士はスマートでオニ甘の顔だったので、姫姉さま達が騒ぐ理由が少しだけ分かる気がした。
 ケンミジンコ一座は地方公演を続けるために踊りながら旅立って行った。犬かき泳法で。

 姫姉さま達の誘いを断った私はまた一人になった。
 水天に映る秋の空は今も青い。
 空の騎士に憧れていた私の心は秋空のように冷えていた。
 一人でいるのは淋しい。でも訳の分からない空の騎士と一緒にいると、こっちまでおかしくなってくる。
 私が一人静かに泳ぎながら植物プランクトンを飲み込んでいると、私にそっくりのミジンコが現れた。
「姫。お一人ですか?」
「あなたは?」
「ネコゼミジンコの空の騎士と申します」
 え! このミジンコが!!
 彼はしなやかな腕を振るたびに小さな泡を作り、私を見つめて周りをゆっくりと泳いでいる。
 これが泡の衣なのかしら。
 空の騎士は手を広げて私に触れた。
「よかったら一緒に水天を抜け空まで泳ぎませんか?」
 この空の騎士は、騎士というより貴公子だわ。彼と一緒に黄金の卵を作れたら、私はきっと幸せになれる。
「はい。喜んで。空の騎士様」
 私が空の騎士と手を取りあって泳ごうとした時、遠くから姫姉さまの怒号が届いた。
「あたしがいないうちに、ほかの姫に手を出すんじゃないわよ!」
「ゲ! ヤバイ!」
 うろたえる空の騎士。
 私の心の鏡に映った空の騎士の姿が粉砕する。
 これは一体どういう事なの?
 激しく腕を振って現れたのは、同じ猫背をした姫姉さまだった。彼女の猫背に何匹かの姫が入っている。姫姉さまは勇ましく近づいて空の騎士の隣にいた私を突き飛ばした。
「あんた。バカ?」
 何。この女。バカって、失礼よ!
 私が手を大きく広げて平手打ちの準備をした時、姫姉さまは空の騎士を引き寄せながら言った。
「あたしらはニセネコゼミジンコ。あんたらネコゼミジンコとは違うの。うちのイケメンに惚れないでよ。この泥棒猫!」
 ニセネコゼだったの。ガーン!
「この空の騎士は、アカサギ、シロサギ、クロサギと肩を並べるイケメンのミジサギなの。これからは騙されないように気をつけるのね」
 彼が超有名なミジサギだったなんて。私は騙されていたのね。危なかった。全てを奪われるところだった。
 ニセネコゼの姫姉さまは小さな姫を背負い、空の騎士を連れて旅立って行った。私と同じバタフライ泳法で。

 私はまた一人になった。
 もういいの。空の騎士なんていらない。20の姫を産む。
 そう決心をして一人で泳ぐ私の手に水天が当たった。
 あんなに高かった水天が低くなっている。ちょっと息苦しい。どうしてなの?
「大地との絆を結ぶ時が近づいるからだ。我が姫よ」
 私の目の前に現れたのは、私より小柄のネコゼミジンコの空の騎士だった。
 小柄な姿を見た瞬間、私の中にある遺伝子のハープが高鳴った。
 堂上教官、じゃなくて。彼が本物のネコゼミジンコの空の騎士様!!!
 私はなんの迷いも無く空の騎士の手を取った。
 すると彼の遺伝子のハーブも高鳴り、私と一緒に二重奏を奏でた。

 それから私は空の騎士と幸せな時間を過ごして猫背に黄金の卵を作った。
 水天が落ちてきても、空の騎士と一緒にいた私には、恐れも苦しみもなかった。
 そしてついに田は干上がった。
 水天を抜けた私は空を見た。
 空の世界には風があった。手を広げて羽ばたけば風を起こす事もできる。でも、もう水の泡はできなかった。
 青い空は、水天よりも高くて広かった。
 私はこの記憶を最後に15日の短い人生を終えた。
覆面小説家になろう
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