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狂犬病予防業務日誌
作:赤いからす



第四章 明るい病室


 目覚めて真っ先に飛び込んできたのはまたしても白い天井だった。見た目はそれほどかわらないのに保健所の天井より清潔さを感じるのは消毒液のニオイがするからだろうか?腐るほど時間はあるから穴が開くくらい見ていられるが、天井を眺めているとまだ夢の中にいるんじゃないかと不安になる自分がいる。

 体の軸を動かさずに右側に顔だけを向けた。
 手を伸ばせば届きそうな距離に窓ガラスがある。びっしりと雪がこびりつき、白い幕で外の景色を遮って嫌がらせしている。
(まぁ、どうせ外は雪景色だろうけど)

 ボケッーとしているだけでなにもすることがない。腕と足が10センチくらいしか動かせない。生活圏内はベッドの上だけと制限されてしまった。

 床はチェス盤のような白と黒が互い違いに並べられた市松模様。起き上がって両足をつけ、組んだ両手を天井に向かって突き上げ、背骨が軋むまで伸びがしたい。そんなささやかな願いも叶わず、ベッドから一歩踏み出た空間が別世界に感じる。

 たまらず看護師さんに訊いたことがあった。
「いつ退院できますか?」
「安静にしていれば治りますよ」
 笑顔で答えてくれる看護師さんの言葉が子供騙しのまじないにしか聞こえなかった。

(どうしてこんなことになったんだ!)
 寝たきりだとまともに脳が働かない。毎日平板化された生活による倦怠感と虚脱感、空虚な時間が流れるだけで脳が衰え、いままでの記憶が失われていく喪失感に怯え、世間から取り残されていく疎外感となにもできない無力感に襲われる。おれの人形化が加速していく。

 せめて焦燥感くらいあれば生きていけるのだが……。早く治そうという焦りでもなければ生きていく意欲があるとはいえない。看護師さんに訊くまで心の中にあった僅かな焦りがいまでは完全に失っている。

 脳をちょっと使っただけでひどく疲れた。
 目をつぶって眠ろうとしたとき、病室出入口の白いカーテンが揺れた。
 誰かが入ってきたらしい。
 きつい香水の匂いがして予想はついた。

 挨拶代わりに母親はいつも同じ台詞を言う。
「具合はどう?」
 おれは頷くことしかできない。そんな自分を腹立だしいと思わない自分に嫌気がさす。

 母親は粗末なパイプ椅子に座り、買物袋からリンゴを取り出した。そして果物ナイフで皮をむきながら静かに語り始めた。
「昔々あるところに悪戯好きで好奇心旺盛な王子様がいました」
(おいおい、やめてくれよ)

 一人部屋でよかったと心底思った。
「王子様は役人たちの仕事ぶりをチェックするためにお忍びで城下町のお役所に勤めることにしました。それは犬や猫の遺体を片付けるとても辛い仕事でした。クリスマス・イブの夜、王子様がたった一人で残業をしていると老人が犬を連れて処分してほしいとやってきました。ところが王子様は犬を逃がしてしまいました。怒った老人は持っていた千枚通しで王子様を刺しました」

 おれに起こった出来事をわかりやすく、幼い子供に絵本を読み聞かせる感覚で話してくるのは刺激を与えたくないという配慮かもしれないが事実と少し違う。

 まず、おれは王子様ではなく郵便局員の小倅。千枚通しを持っていたのはおれ。なんのためにおれはそんなものを……使い方によって他人の命を奪い、己を破滅させる柄のついた大きな針は人生を変える大きな力がある。きっとポケットに入れておくことで安っぽい優越感に浸っていたのだろう。

 もう、子供じみたことはしない。
 生まれたばかりの赤ちゃんが病院から人生をスタートさせるようにおれも病院から生まれ変わるチャンスをもらったと思いたい。

「次の日、その老人はあっさり警察に捕まって事件のことを自白しました。なぜか狂犬病予防業務日誌に老人の名前と王子様を処分した記述が残されていたとのこと。なんでもその老人は昔臨時職員として保健所に勤めていたらしいの。保健所を見回る警備員さんは二階の会議室でヘッドホンをつけてテレビを見ていたので階下したの騒ぎにはまったく気づかず、定期的に巡回していないことが発覚して責任を取らされる見込み」

 おれが老人に刺された理由がわからない。母親が言ったとおり犬が逃げたことへの腹癒せで刺したのか?よくわからない。それにしてもあの警備員の竹山さんにサボり癖があったなんて……過去の経歴や見かけで人を判断してはいけない良い教訓になった。

 不思議と二人に憎悪を抱かない。彼らは肩身の狭い思いをしていることだろうし、いまのおれには復讐する体力も度胸も知恵もない。

「刺されたとき、王子様は這ってあるところへ向かいました。冷蔵庫のドアを開け、頭を突っ込んだままうわ言のように“ごめんなさい”を繰り返して過去のたわいない悪戯を反省していました」

 皮むきが終わり、食べやすくスライスしたリンゴを母親が皿に載せた。
「まだ気にしてたの?」
 母親の気楽な尋ね方におれは全身の力が抜けた。

「ぞぉだぁよぉ(そうだよ)」
 久々に声を出したので掠れてうまく発音できなかった。恥をさらしてでも返事をかえしたかった。

 そのとき、雲が風で流されて太陽が顔を覗かせた。同心円の配列となった光の輪が窓をさして母親の顔を逆光で隠す。

 陽の暖かみを吸収した影響なのか窓についていた雪がずり落ちた。
 まだまだ春は遠いのに家族との雪解けが早まりそうな気がした。




















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