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ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」を読んだ感想

作者:しのぶ
ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」を読みました。

この本は、ドイツの芸術史教授だったヴォリンゲルが、芸術について考察した本です。
初版が1908年ということもあって、「未開民族」という語が普通に使われていたり、一面的に思える見方があったりしますが、少なくとも私にとっては、なるほどと思わせられるような内容でした。

私の理解した限りでこの本の内容をごく簡単に言うと、(ヴォリンゲルはこれを書いた後も思想が幾らか発展変化していったようですが)
彼は、芸術には、芸術意欲には、2つの方向性があると言います。すなわち、「抽象」と「感情移入」の方向です。

まず、彼は、その当時の人々の先入観だというものを語ります。それは、芸術とは、常に、(外的な)自然に向かい、自然を描くものだという観念です。例えば、古代ギリシャの、写実的で活き活きした彫刻のように。

しかし、これは一面的な見方だと言います。なぜなら、「未開民族」の芸術や、原始的な芸術というものは、常に、外的な自然からはかけはなれた、幾何学模様に代表されるような様式の芸術だからです。古代ギリシャの芸術も、その初期においては幾何学模様だったと言います。

そこに、芸術意欲の2つの方向性を見出だします。

1つは、自然的な、有機的な、動的な生命を描いて、それに感情移入するもので、古代ギリシャやローマ、ルネサンス時代の西欧の芸術に代表されるもの。これが「感情移入」の方向です。

もう1つは、抽象的な、無機的な、結晶化された、静止した世界を描くもので、「未開民族」や、イスラム世界の芸術に見られるような、幾何学模様に代表されるもの。
これが「抽象」の方向です。(そして、これが芸術の起源にして終点だと言います)

芸術はこの2つの極の間を揺れ動くものだと言います。
そして、何故このような芸術が生まれてきたのかを考察します。

まず「抽象」の極である幾何学模様について、人と自然との関係から考察します。

つまり、こうした芸術を生む人々は、人間に対して友好的でないような、転変きわまりない、信用ならない、厳しい自然環境の中で生きているので、抽象化され、結晶化され、静止した、合法則的な世界を描き出し、その中にせめてもの安定を見出だそうとする、と言います。

一方、「感情移入」の方では、こうした芸術を生む人々は、自然によってか、人為によってか、人間に対して友好的な自然、自然と人間との、幸福で(そして稀な)調和の中で生きているので、自然に対して感情移入することができる。それで、活き活きとした、自然主義的な、有機的な、動的な芸術を造り出して感情移入すると言います。

さらにこういった方向性を宗教や哲学に関連付けます。すなわち、「抽象」に生きている人々は、現世を超越した、幽玄で、絶対的な思想に傾き、一神教に傾く、
一方、「感情移入」に生きている人々は、現世肯定的で、人間的で、自然主義的な思想に傾き、汎神論、多神教に傾く、と言います。

前述の通り一面的に思える面もありますし、それ以外のことも語っているのですが、それは置くとして、
この理論から言えば私の身近な芸術、例えば日本の芸術はどうだろうかと思います。この理論の正確さはともかく、もし当てはめてみるなら…


多分ヴォリンゲルも含意しているかと思いますが、前述のような、人がその中で生きている自然環境というのは、いわゆる自然のみではなくて、人間的な環境も含むかと思います。

つまり、社会的に不安定で、戦争や紛争の絶えない世界に生きていると、あるいは、何らかの理由で個人的に不安定な状態で生きていると、人は抽象の方に傾くだろうと私は思います。

戦国時代には茶の湯や禅が流行ったとかいう話です。
いつ死ぬかわからない世界の中で、一服して一時の安らぎを得たいというのはよく分かります。茶道には始めから終わりまで動作に決まった形式があって、何か不自由そうな気がして、何のためにそういう形式があるのか、私は不思議に思っていましたが、その理由がわかったような気がしました。

いわゆる、「わび、さび」と云われるような、極限まで装飾を切り捨てていったこじんまりした部屋や、枯山水や、禅僧の水墨画なんかも、抽象に向かうものかと私には思われます。しかし、幾何学模様のような、完全な抽象にはなりきらないのも事実です。極限まで単純化されて、背景の中に溶け込みそうな水墨画の中の人物も、やはり人物の形態は保っています。

自然の形態を保ったまま、抽象の中に溶け込もうとしているような感じがします。

2つの方向性を調和させた例として、ヴォリンゲルはビザンツ(東ローマ帝国)の芸術をあげています。ビザンツの芸術と言って何を意図しているのか分かりませんが、恐らく東方正教会のイコンのことだと思われます。

イコンとは宗教画で、キリストや、聖人や、その生涯の出来事などを描いた絵です。従って、描かれているのは生きた人間の姿なのですが、
まず構図や色使いが厳密に決まっていて、画家の創意を入れる余地がありません。なので、伝統に忠実に描いている限りは、ずっと変化しないわけです。

描かれている人物や風景も、写実的ではなく、様式化され、抽象化され、あえて陰影や遠近法が無視され、固定的に描かれていて、静止した世界、といった印象を与えます。
これはあえてそのように描かれているのであって、つまり永遠の世界を写し出すものだから、変化しないものとして描かなくてはならないということです。(他にも色々象徴的な意味があるようですが)

ここでは2つの要素が融合しています。あたかも、永遠なる存在と一体化することによって、自らも永遠の存在になろうとしているかのように。それは正教会の教義とも関係しているのでしょう。

翻って、水墨画の背景に溶け入りそうな人物を見てみると、ここにも同じような傾向が表れているように思えます。もっと前の、土偶とか、埴輪とかをみてもそうですが、また同時に、完全には融合しきらないような、動きの気配も感じられます。

江戸時代の日本画や、中国画はもっと自然主義的な印象を受けますが、同時にやはり抽象化されていて、みんなある程度パターン化された、画一化された姿をしているように思えます。



抽象を内に取り込み、あるいは抽象の内に自ら溶け込んで、自らも抽象化され、永遠化される。東亜の文化にはそういう傾向があるのかもしれません。個人的な印象ですが。
中国の道士が、朽ちない金属を体内に取り入れて、自らも朽ちない不死者になろうとするように、修行僧が、成仏して自ら超越者になろうとするように、仏教の方がより超越的で現世否定的ですが、方向性としては同じものを感じます。

日本人が、あるいは東洋人が、自然を大切にするとか、自然と調和して生きるとか云われるのもそのためかもしれません。
もっとも、場合によっては、その自然の威を借りて、自らを神格化し、絶対化するようなこともあるかもしれませんけれど。


現代のものについて言えば、いわゆるアニメ調の、漫画的な絵なんかもその延長線上にあるかもしれません。
埴輪の、ひょっとしたら土偶の時代にも匹敵するような、あえてとても非現実的な、様式化されたような人物の造形。しかし同時に、動的で、有機的で、活き活きした、そんな傾向も(全体的に)感じられます。あたかも、それほど抽象化された世界にまで達して、ようやく羽が伸ばせるというかのように。

それにしても、もし抽象の方向性が、信用ならない、不安定な自然環境に対する反応なのだとしたら、一概には言えませんが、さほど不安定でもない戦後の日本でなぜこういう様式が発達したのでしょうか。
あるいは、これは現代日本の内的な不安と、それを超克しようとする努力の表れなのかもしれません。
と、そんな事を考えました。

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