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カゼシスの街にて

とある酒場親父の顛末

作者:東風
 ここは王都から歩いて一ヶ月はかかるという辺境の地。
 三代前の領主が、政争に敗れて落ち延びてきたことをきっかけに、今代の領主が貴族の嫁を迎えて爵位を得ることに成功したという、絵に描いたような田舎。
 ケレイス辺境伯のお膝元、カゼシスの街。
 そんな鄙びた街の、一応目抜き通りに面した、小さな酒場兼宿屋。
 それがここ、『緑の枝と小鳩』亭だった。

 三代前の領主とともに落ち延びできたという、ある意味由緒正しい庶民の宿屋は、現在四代目の親父が切り盛りしている。
 とは言っても、親父がその由緒正しい血を継いでいるわけではない。
 親父は元々歴戦の傭兵で、王都にも招聘されたことがある猛者だった。
 貴族との付き合いが性に合わず、当時の上官の顎をうっかり砕いてしまってお尋ね者になり、ここに流れ着いた、とまことしやかに囁かれているが、今回の話に親父の上官は関係ない。
 気になる人は、親父に直接聞けばいい。
 上官と同じ拳を食らえることだろう。
 ここで重要なのはそのことではなく、親父が傭兵として様々な地で、様々な種類の人間とつきあってきたことにある。

 四代目の親父はその名を、エイヒム、という。
 名字があったのかどうかはわからない。
 エイヒムは十年ほど前にふらっとこの地に住み着いて、ついでに宿屋の看板娘兼跡取り娘をかっさらった。
 器量良しから、街中の男が娘を狙っている、と言われていた中、エイヒムは十五歳も離れた少女をあっという間に手に入れたのである。
 当然、街中の男達から恨まれたが、エイヒムは気にしなかった。
 エイヒムはむしろ、慣れない宿屋兼酒場家業を覚えるのに必死だったのである。
 男達の闇討ちは、エイヒムのストレス解消にしかならなかった。
 そういう意味では、真に、暴力的な世界でしか過ごしてきたことのない男だったのである。

 美味しいものをあちこちで食べてきたエイヒムは、舌が大変肥えていた。
 だが、料理についてはからっきしである。
 同じように、宮廷音楽から場末の酒場で乱闘騒ぎのBGMになる音楽まで、いろいろと聞いてきた耳も肥えていた。
 もちろん、楽器についてもからっきしである。

 料理については、家事全般に隙のない愛妻が担当したので、問題はない。
 そして、酒場の音楽についても、接待するべき親父がやることではないので、吟遊詩人やら旅の楽団やらから場所代をもらって、適当にやらせている。
 やらせているのだが……。

 厳つい親父エイヒムは、気障ったらしい吟遊詩人の胸ぐらをつかみ、酒臭い息を吹きかける。
 「そんななまっちょろい音なら、やめっちまいな」
 貴族の楽士だった、と言う吟遊詩人は顔をしかめた。
 「どういう意味だ?」
 酒場の許可をもらって演奏している手前、そうそう激しく罵ることもできず、吟遊詩人は睨みつけるのみである。
 さしずめ、「田舎の酒場の親父に、音楽の何が解るのか?」といった視線であろうか。
 エイヒムはふん、と鼻で笑った。
 「いいか、周りを見て見ろ。誰がおまえの音楽を聴いている?」
 吟遊詩人は、眉をひそめながら辺りを見回し、愕然とした。
 親父と吟遊詩人のやりとりに、誰一人として気づいていないのだ。
 そう、音楽がやんだことにも。
 「見たな? じゃぁ、次だ。よく耳を澄まして聴いて見ろ」
 何を聴けと言うのか。
 エイヒムの皮肉げな笑いを不快に思いながらも、耳を澄ませる。
 聞こえてくるのは、罵声や怒鳴り声、酒場にありがちな喧噪の音。
 「何を聞けというのだ? 何も聞こえてこないじゃないか、皆、うるさくて……」
 吟遊詩人は、自分で反論しながらも、言葉が口の中に消えていく。
 そう、うるさいのだ。
 淑やかな音色など、かき消されるほどに。
 吟遊詩人の目は大きく見開き、言葉を失って、周りをもう一度見回した。
 「そうだ。うるさいんだよ。誰もおまえの音に気づかねぇ。誰一人だって、だ。
 いいか? 皆が耳を澄ませているときに、そのお上品な芸術とやらを聴かせるのなら、俺にもわかるさ。
 田舎ものにその音が理解できるかは半信半疑だが、よっぽどすごい音楽なら、聴かせる力もあるかもしれねぇ。
 だが、誰も耳を澄ませてねぇ、おまえの存在にも気づいていないところで、そんな死にそうな音を出してなんになる?
 それがわからねぇようなら、こんな田舎の小遣い稼ぎは、やめちまいな」
 頭を殴られたような気がした。
 田舎の酒場の親父の言葉に、反論できない自分がいた。
 肩をがっくりと落とし、カウンターにのせてあったリュートも落ちそうになる。
 エイヒムは、今度は哀れみを込めた目で若い吟遊詩人を見下ろし、リュートを丁寧に元の位置に戻してやる。

 「俺は音楽のことはわからねぇ。どうやればいい音がでるのか、とか。歌詞をどうやってひねり出すのか、とか。
 だがな、あちこち見てきてわかったこともある。
 音楽ってのは、聞いてもらってなんぼ、なんだよ。
 鳥が歌ってるのだって、つがいを呼ぶためなんだ。
 聴衆がいるからこその音楽なのさ。
 だったら、その聴衆を無視して奏でる音楽に、どれほどの意味があるんだろうな?」

 端正な顔の若い吟遊詩人は、エイヒムの言葉に目を大きく見開き、意味を問いかけられたときには心臓に痛みさえ感じた。
 たかだが酒場の親父の言葉が、心に突き刺さる。

 「俺にとっては、このざわめきだって、立派な音楽なんだぜ?」
 にやりと笑って、エイヒムはまたジョッキを傾けた。
 なみなみと注がれた常温ビールは、泡がぷちぷちとはじけて、エイヒムの茶色みの濃い髭を白くする。
 今、眠りから覚めたばかりのように、吟遊詩人は三度、酒場の中を見渡した。
 罵り合う男女。
 赤ん坊を背中に背負った少年給仕。
 祝杯を上げるおやじ達。
 お互いにいかさまを隠し合う賭博士達。
 注文がまだ来ない、と怒鳴る酔っぱらい。

 「おっと、仕事、仕事」
 エイヒムはジョッキの底に残っていたビールを喉奥に流し込むと、厨房から愛妻が並べていた皿をつかんて、怒鳴る酔っぱらいのテーブルに運んでいく。
 吟遊詩人はその背中を見送り、そっと、頭を垂れた。

 エイヒムはもちろん、そんな吟遊詩人のことなど覚えていない。
 時間はあっという間に過ぎていき、三年ほどを、時にまじめに、浮気疑惑事件等も挟みつつ、暢気に過ごす。
 そんな日常の中、ちょっとした異変が『緑の枝と小鳩』亭に起こっていた。
 それは、様々な楽団、あちこちの吟遊詩人が、ここ『緑の枝と小鳩』亭に詰めかけてくるようになったのだ。
 是非、酒場で演奏させて欲しい、そして、親父に薫陶を授けて欲しい、と。

 エイヒムは音楽家ではない。
 詰めかけるもの達が、何を好き好んで、辺境の酒場の親父に音楽を教えて欲しいなどと言うのか、さっぱりわからなかった。
 だから概ね怒鳴って蹴り出した。
 その中でも幾人かの根性があって、他よりはましな音を出せるものだけをチョイスし、少し高めの場所代をとって、演奏させてやった。
 酔っぱらって怒りっぽいエイヒムは彼らの音楽を聴く度に、この酒場にはあわない、だの、雰囲気にあってない、だの、酔っぱらいのリクエストにも応えられないのか、と難癖を付け、さらに高額の場所代をせしめるのであった。
 「王都の音楽院に比べりゃ、遙かに微々たる金額だろうよ」
 ニヤニヤと悪い笑みを浮かべる夫に、若い妻は呆れたように肩をすくめつつ、放置する姿勢だ。

 だが、この尋常ではない音楽家達の訪問に、理由が見つかった。
 エイヒムが、酒場の運営がうまく行かなかった時期に、嫌がらせ込みで難癖を付けた吟遊詩人が、王都で成功し、その王都で『緑の枝と小鳩』亭のことを吹聴している、というのだ。
 「なんてこった! つまり、嫌がらせなんだな、このヤロー!」
 エイヒムは怒鳴ったが、王都に殴り込みに行くわけにも行かないし、彼の厳つい腕が王都に届くわけでもない。
 足を踏みならして悔しがったところで、意味はなかった。
 「ま、いいじゃない。別に困ってるわけでもないんだし。お小遣い、稼いでいるんでしょ?」
 妻がにんまりと笑って手を差し出してくる。
 エイヒムは、うっかり墓穴を掘ったことを知り、王都の音楽家を逆恨みし、渋々懐にしまい込んでいた場所代の差額を妻に差し出した。

 それからさらに二十年の月日が経つ。
 いつの間にか街は発展し、領主は「芸術の庇護者」というよくわからない二つ名で呼ばれるようになっていた。
 何でも、お膝元に通い詰める芸術家達の生活の世話をしているうちに、王都の高位貴族達から尊敬を集めてしまっていたらしい。
 芸術家が集まるから、その作品のバイヤー達も集まり、それに群がるように生活雑貨やら何やらの商人達も集うようになり、カゼシスは辺境にあって最大の中継都市と呼ばれるまでに育っていた。

 『緑の枝と小鳩』亭は先日、ようやく代替わりした。
 名物親父ことエイヒムが、膝を壊して歩けなくなったのだ。
 元々膝には古傷を抱えていて、ずっと騙し騙し使っていた。それが年齢とともに、騙す余地もなくなってきた、ということだ。
 エイヒムが引退を宣言すると、まだまだ若い妻も一緒に引退を宣言し、次男夫婦に店を継がせる。
 三十年間がむしゃらに店を切り盛りしてきて、初めての休日と言えた。
 親父の代替わりはすぐにもニュースになって街中を駆けめぐり、エイヒムの身辺は少し慌ただしかったものの、仕事を失った虚無感を紛らわせるには、必要なことだったらしい。
 引退しても親父を訪ねてくる客人はひっきりなしで、結局、エイヒムは店内の特等席に一日座り込んで、酔っぱらいやなまっちろい楽士相手に店をにぎわし続けていた。

 そんなある日のことだ。
 領主たる辺境伯の従僕が血相を変えて酒場に転がり込んできた。
 「エイヒム、エイヒムはいるか!」
 三十年と少し前は、領主は街の名士人員と面識がある程度に街が小さかった。
 当然、古くから仕える従僕も、エイヒムと顔見知りだ。
 「おう! ジャン、どうした? とうとう首になったのか?」
 エイヒムは領主の名代の前であっても、椅子から立たない。自分たちがこの辺境の地を作り上げてきた自負があるから、庶民だって自分を安売りしない。
 そして、ケレイス伯はそれらを認める鷹揚な人物でもあった。
 「エイヒム! とうとうも何も、俺は立派に勤め上げている! いや、そうじゃない! 領主様がおまえをお呼びだ! 奥方共々、即刻来てくれ」
 「んぁ? 俺、何かやったか?」
 途端にエイヒムはまじめな顔つきになり、ジャンを見返す。
 ジャンはもどかしそうに首を横に振っていたが、「これ以上は言えない」の一点張りで埒があかない。
 物々しい馬車の送迎に、酒場内は一時騒然としたが、次男夫婦は「行ってらっしゃい」とあっさりと見送る。
 仕方なく、エイヒムは妻と杖を手に、領主が用意した馬車に乗り込んで、酒場を出発した。

 最近、建物を建て替えたばかりの領主館は、ほにゃらら何とかという高名な建築家が、自ら作らせてくれ、と頼んできただけあって、重厚な中にも品がある、見事な作りになっていた。
 車止めで馬車を降りた後、エイヒムは妻と杖を支えに、領主の待つ部屋へと案内される。
 ケレイス伯は、初老の紳士だ。
 彼は足の悪いエイヒムのために、1階の応接室で待っていてくれた。

 「おぉ、エイヒム! 息災そうだな」
 伯爵は目を細め相好を崩し、エイヒムとその妻に頷きかける。
 さすがのエイヒムも、深く頭を垂れて見せた。
 「お久しぶりでございます、伯爵。お変わりなく」
 今は田舎の酒場親父ではあるが、かつては傭兵として王都に招聘されたこともあり、言葉遣いも振る舞いもかしこまれば相応のことができる。
 妻の方がもじもじとして、でかい親父の陰に隠れるように体を縮こまらせ、頭だけをペコリと下げて見せた。
 「奥方も相変わらず可愛らしい。いや、美しい、か。教会の尖塔の屋根に上がって、降りられなかったお転婆にはとても見えない」
 「やですよぉ、領主様ったら! そんな昔のこと!」
 妻は領主を殴るわけに行かないから、隣にいるエイヒムの背中を強かに殴り、エイヒムは思わずうなり声を上げた。
 エイヒムの恨みがましい目に領主は苦笑いを返し、さて、と口火を切る。
 「今日、ここに呼ばれた理由を聞いたかね?」
 「いいえ、伯爵様。存じません」
 「……何か思い当たることはあるかね?」
 「何も思い当たりません」
 「そういわずに、考えてみたまえ。何か浮かんでくるものがあるだろう?」
 「まったく」
 とりつく島もない返答に、伯爵は弱り切る。
 一方、エイヒムは内心、動揺の嵐である。
 彼は、この招聘が誰かの何らかの意図があるものだ、と理解していた。
 そして、それがあるとすれば……。
 王都ではないか、と推測している。
 一番可能性が高いのが、自分がかつて顎を砕いた上官、だ。
 そう、彼は本当に上官の顎を砕いていたのだ。お尋ね者にならずにすんだのは、ろくでなし上官の親がまともだったからだ。
 それでも、無罪放免とは行かず、彼は職を失い、王都にも近づかないことを約束し、この辺境の地に流れてきた。
 確か、あの上官は高位貴族の跡取りだったはずだ。奴が貴族位を継ぎ、そして、自分にとっての過去の汚点であるエイヒムに今更ながらの復讐を誓ったのだ、とすれば……。
 隙を見せてはいけない、とエイヒムが考えるのも当然だった。
 エイヒムはもう、エイヒム一人を考えることは許されない。
 元気が良すぎるものの愛する妻がいて、店を立派に切り盛りしてくれる次男夫婦がいて、隣町に嫁いだ末娘夫婦は商人だ。
 それぞれ孫だっている。
 エイヒムの顔がどんどん険しくなっていくのを見て、伯爵は、エイヒムが何か考え違いをしていることに気づいた。
 助けを求めるように酒場親父の陰にいる小柄な細君を見やるが、当の妻は肩をすくめるばかりである。
 伯爵は、親父の妻も、状況を理解していることに、少しだけ安堵した

 「まぁ、いい。私ごとになるが、妻の叔母君が先月亡くなってね。それに伴い、私と妻が、王都にある妻の実家を訪問することになった」
 「……奥方様のご実家は、侯爵と聞き及んでおります」
 「よく覚えていたね。その際にね、陛下から、おまえ達夫妻を王都につれてくるように、といい使っているのだよ」
 「……」
 エイヒムは思わず言葉を失い、顔面蒼白になった。
 陛下と言えばたった一人。国王に相違ない。
 今代の王は、エイヒムが王都にいた頃はまだ王太子だったか。
 王太子に面識はなかったから、個人的に呼ばれる理由がない。
 だとすればやはり、貴族位を継いだ上官が王の側近にでもなって、王都で広まった噂を元に、エイヒムのことを思い出した、としか思えなかった。
 王の招聘を拒むことは許されない。
 「わかり……ました……。しかし、妻はおいていきます。王都へは私一人で……」
 「何、バカなこと言ってるんだい? 王都なんてあんたは飽きてるかもしれないけどさ、あたしは一度だって見たことないんだよ。孫達にも自慢できるじゃないか。勿論、行くよ」
 「なっ! バカやろう! ……っ!」
 思わず怒鳴りつけたが、ここは伯爵の面前だ。
 妻はしれっとしているし、伯爵は困惑して首を傾げるばかり。
 「おまえまでついてくることはねぇ」
 小声でそういっても、妻は杖を堅く握りしめるエイヒムの手に、自分のかさかさの小さな手を重ねて、にやり、と笑う。
 「王様からの呼び出しは、あたし達二人、夫婦って言ってただろ? あんた一人しか行かなかったら、領主様だって困るさ」
 道理を説かれて、弾かれたように伯爵をみる。
 伯爵はにっこりと頷いていた。
 「そうしてくれると、私もうれしいね。最近、心の臓が弱ってきてるんだ。陛下の前で、余計なことを考えずにすむよ。
 それに……」
 伯爵は真っ白になった髭をしごきながら、いたずらっぽく笑う。
 「そう、悪い話じゃないと思うよ。例え何があったとしても、私がおまえ達を守ろう。おまえ達あってこそのカゼシスなのだから」
 領民をここまで大事にする領主、というものを、エイヒムは見たことがなかった。
 ずっと、お人好しすぎる領主にいらだちや不満を抱えていたが、このとき初めて、エイヒムは領主を領主として尊敬した。

 彼の尊敬のまなざしに、伯爵は少し居心地の悪さを感じる。
 エイヒムは明らかに勘違いしている。
 領主は領民を大事には思っているが、すべての領民をエイヒムほどに大事には思っていない。
 だが、それをわざわざ訂正して、がっかりさせる必要もない。
 エイヒムの中では「お人好しすぎる」伯爵は、心の中を暴露されたら、かなり人間性を疑われるだろうことを考えつつ、夫婦に旅立ちの用意を早急に行うよう申しつけるのであった。

 伯爵夫妻一行とともに王都へ向かうとあって、高々酒場親父夫妻にもクッションをたっぷり詰め込んだ二頭立て馬車が用意された。
 王都までの一ヶ月半をこの馬車で過ごすのだ。
 旅費はすべて、伯爵側で用意してくれるとあって、妻は終始機嫌がいい。
 伯爵夫人とも気が合うようで、たまに夫人と同じ馬車に乗り込んでは、酒場の女将さんらしい話し上手さで場を沸かせていた。
 一方、エイヒムは仏頂面のままだった。
 彼は、王都にたどり着いた後のことを頭の中でいろいろと組み立てていた。
 万一、自分に何があったとしても、妻はなんとしても逃がしてやりたい。
 上官が継ぐはずの爵位をすっぱり忘れている自分が恨めしい。
 王都に残っているあちこちのつてを思い出し、手紙を書く毎日である。

 王都にたどり着くと、妻はぽかんと開けた口を閉めることができず、これまでの騒がしさが嘘のように静かになった。
 王都の規模に萎縮してしまったのだろう。
 自分が王都に初めて来たときはどうだっただろうか?
 エイヒムはあの頃、まだ十代後半のやんちゃ盛りで、怖いものなど何もなかった。
 エイヒムがドアをたたいた傭兵団はまだ健在だが、団長はとっくの昔に代替わりし、エイヒムを知るものはいない。
 王都にあって、エイヒムがもっとも恐れた男であり、エイヒムを育て上げてくれた男だったが。
 「団長にも……随分、不義理をしていたな……」
 王都から逃げるように去る時、落ち着いたら団長に手紙を送る、と告げてあった。
 だが、エイヒムは結局、一通も書かなかった。
 書けなかった。
 「おまえは一角の人間になる」
 そう常々言ってくれていた団長に、自分の短気で起こした不始末を、そして、幸せとは言え場末の酒場親父に納まった自分を、知らせることができなかった。
 風の噂で、団長がすでに亡くなっていることは知っていた。
 数年前、大往生だった、という。
 大通りに面した傭兵団の建物の前を通る際、エイヒムは目頭を押さえた。
 妻はそれを見て、ようやく口を閉じることに成功すると、不器用な夫の背中を柔らかくなでてやった。

 王都にある、侯爵家の屋敷に到着すると、そのうちの一室をあてがわれる。
 礼服なども用意してもらっていて、妻は初めて身につけるドレスにうれしさを隠しきれない様子だ。
 「やっぱり……来て良かったのかもな」
 妻は王都にあっても美人な方に入る、とエイヒムは思っていた。
 だが、実際に王都に着て、体にあったドレスを身に纏うと、年齢など関係なく、美しい、と思った。
 「ほら、見てちょうだい! お姫様みたいだよ! アリサが羨ましがるねぇ。連れてきてやれば良かった! そうだ、お土産に布とレースを買っていこう? アリサだけじゃなくて、キャシーやルシーにも、作って上げられるわ」
 妻は女の孫達の名前を次々と挙げ、自分のドレス姿を鏡に映し続けている。
 妻の笑顔を見て、あぁ、この笑顔に惚れて、結婚を申し込んだんだ、と思い出す。
 くるくる変わる表情と、たまに見せる底なしの笑顔。
 王都にあった駆け引きばかりの日常からもっとも遠い存在。
 エイヒムは思わず妻を後ろから抱きしめ、驚く妻に強引にキスをする。
 守ろう。何があっても守らなければ。
 若い頃に戻ったような情熱的なキスは、妻がドレスの皺に怒り出すまで続けられた。

 王都についた翌日、エイヒムと妻は、また馬車に乗せられ、しかも馬車の窓をご丁寧にふさがれた状態で、連れ出された。
 馬車の隙間から明かりが漏れて、真っ暗ということはなかったが、何のためにこんなことをするのか非常に不安になる。
 エイヒムはずっとぴりぴりしていて、杖を持っていない手で妻を脇に抱えていた。
 「ねぇ、そんなに緊張しないで。誰も彼も楽しそうじゃない? あんたも楽しもう?」
 「大丈夫だ。俺が守ってやる」
 「あんた、昨日の夜からそればっかり」
 妻は苦笑して、もう何も言わなくなった。
 ただ、エイヒムの手がずっと震えていることには気づいていたから、彼に抱えられて少し腰が痛くなっていても、ずっと我慢していた。

 馬車が止まる。
 エイヒムは緊張して、杖を握りしめた。
 この杖が、かつての相棒の剣でないことが、甚だ悔しかった。
 ぎゅっと杖を握りしめた手に、妻がそっと手を添える。
 「大丈夫、あたしを信じて」
 その瞬間、エイヒムの肩の力が抜けた。
 妻は何かを知っている、とわかった、というのもある。
 同時に、妻と一緒なら、それでいい、とも思ったのだ。
 「あぁ、……わかった」
 エイヒムはこの旅の間、ずっと見せたことのなかった笑みを、ようやく浮かべることができた。

 「ようこそ! 我が音楽院へ!」
 馬車の扉が開かれると同時に、どこかで聞いたことがあるような声が、歓迎の言葉を述べる。
 唐突に明るくなった視野に目を細めていると、馬車の入り口では見慣れた顔がのぞいていた。
 「なっ! おまえ!」
 エイヒムが怒鳴りかける。
 そこには、随分と前に家を叩き出した長男が立っていたのだ。

 「母さん、よく一緒に来てくれたね。ありがとう」
 「何言ってるのよ。あんたが、一緒に来てくれって書いてきたんじゃない。俺一人じゃ、父さんに殺される、って」
 妻を思わず振り返ると、妻はぺろっと舌を出して首をすくめた。
 「おまえ達、共謀して!」
 「俺だけじゃないんだよ、俺だけだったら、勇気なくて、父さんに会えなかったと思う。
 先生がさ、父さんに会いたいって。皆を巻き込んでくれたから」
 馬車から引きずり出されるようにして外にでると、そこには、大勢の若い音楽家の卵達と、その一歩手前に壮年の立派な衣装を身に纏った男が立っていて、男はエイヒムを認めると、皺の寄った目を細めて、深々と気取ったお辞儀をした。
 「ご無沙汰しておりました。親父殿。
 ……覚えておいででしょうか?」
 男は頭を上げた後、エイヒムの目を見つめて、縋るように問いかける。
 その眼差しに、エイヒムの古い記憶が蘇った。
 「あぁ、てめぇ、あのときの吟遊詩人か! 死にそうな音出してた!」
 周囲の学生達がどよめく中、男は満面の笑みを浮かべて、はい、と応えた。
 「てめぇか! 俺の店に嫌がらせしてきたのは!」
 「嫌がらせ、ですか?」
 男が小首を傾げる。
 「そうだよ! 音楽教えろとか、聞いてくれ、とか! あちこちから俺の店に来やがって! 俺はそんなに暇じゃねぇ!」
 「……それでも、一人一人の音楽を聴いて頂けたのでしょう? だから、皆、またあなたに聴いていただきたくなってしまったのです。
 私はただ、あなたに音楽を教えていただいた、と言って回っただけです」
 悪びれずにさらっと返され、エイヒムは言葉に詰まる。
 そこに畳みかけるように、長男が割って入ってくる。
 「俺、宮廷楽師になったんだよ。遊びじゃなれない、人生賭けられるのか、って父さんに言われて、目が覚めたんだ。
 がむしゃらに頑張ったんだぜ? 先生に援助もしてもらって……」
 「人様に迷惑かけたのか!」
 とっさにエイヒムの手が伸び、ガツン、という音がして、長男は頭を抱えてうずくまった。
 「まぁまぁ。彼には才能もありましたから。無償での提供というわけではなく、少しずつ返済していただく約束もしております。
 彼の才能を惜しんだ、私の判断です」
 かつてのなまっちろい吟遊詩人は、押し出しの良い学長になっていた。
 もごもごと口の中で謝礼を述べると、学長はくすくすと笑って、学院の中に誘う。
 好奇の目でじろじろと見られながら移動し、応接室でようやく関係者だけになったときは、エイヒムばかりか、妻までが体中を弛緩させて、ソファに沈み込んだ。
 学長は、長男に指示して、何事かの用意に向かわせる。
 三人だけになった応接室に、エイヒムの重たいため息が落ちた。
 「何だってんだよ、この茶番は。……あんたにはその……せがれが迷惑をかけた」
 再度頭を下げると、学長は首を横に振る。
 「先ほどは、彼の手前、ああ言いましたけどね。本当は学費、私は出してないんですよ」
 「……はぁ? じゃぁ、誰が?」
 学長がそっと古びた手紙を机の上に出してくる。
 エイヒムは恐る恐る、それを手に取った。

 開いた瞬間、誰の手紙なのかがわかった。
 その筆跡に、確かに見覚えがあった。
 「……団長……」
 「あなたのお噂を聞いたのでしょう。私にわざわざ話を聞きにいらして。何度か、私のコンサートにもおいでいただきました。
 そんなときに、ご子息が学院の門を叩かれましてね。
 私が学費を援助しようかと思う、と打ち明けると、団長が是非に、と仰って。
 ……やっぱりエイヒムは田舎に納まるには大きすぎたな、と笑っていらっしゃいましたよ」
 エイヒムは言葉にならず、ただただ、文面を追った。
 恐らく、学長が長男の日々の風景を、出資者である団長に送ってくれていたのだろう。
 団長からは、昔のエイヒムを懐かしむ内容や、学院で長男が困っていないか、礼儀作法は厳しくしつけろ、見たところエイヒムそっくりだからすぐに図に乗るから、そのときは容赦なく鼻っ柱をへし折れ、それくらいでダメにはならない、など細かく記されていた。
 ぽた、ぱた、と滴が落ちる。
 エイヒムは顔を上げられない。
 学長は「そちらは差し上げます」と言い、「準備がありますので」と席を立った。
 広い応接室にたった二人。
 「後悔していた……」
 「知ってたよ」
 「ずっと……悪かった、と……」
 「いい人だったんだね……」
 「……一言、詫びたかった」
 「きっと、届いていたよ、あんたの気持ち。届いていたから、あんなバカにまで、気にかけてくれたんだろ」
 「あぁ、そうだな……あいつはバカだ……バカじゃなくなったかもしれねぇが……バカだ……」
 「あんたにそっくりだもの。バカに決まってるさ」
 「……あぁ、本当に……」
 陰が少しずつ長くなっていく。

 結局、王都には二ヶ月にわたり滞在し、王への謁見も二度賜った。
 顎を砕かれた上司は、素行の悪さから廃嫡されていて、貴族位は全く知らない人物が継いでいた。
 エイヒムの憂いはすべて杞憂に終わり、学長主催のコンサートでは長男が奏でるソロを聞くこともできた。
 興味がなかったから知らなかったが、『緑の枝と小鳩』亭の親父から音楽の才能を得た、と長男は有名だったらしい。
 そんな才能があったら、傭兵なんぞに身をやつしていなかった、と思わなくもないが、噂は放っておいた。
 学長が主導権を握って吹聴して回っている以上、酒場の親父にあらがうすべはない。

 帰りの馬車は、長男や学長やから持たされたお土産や、光栄にも陛下から下賜されたものまで積んで、行きの倍の量を持って帰る羽目になった。
 街に戻ると、今まで通りの生活が始まる。
 ちょっとだけ変わったことと言えば……。
 エイヒムが少しだけ、優しくなった、と噂され、浴びるように飲んでいた酒も控えるようになった。
 しかし、それは頻繁に訪れる可愛い孫達に囲まれているからだ、と街のもの達は思っていた。
 優しさのそのわけを知っているのは、ごく一握りの人たち。
 そう、あなたも。

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