カラスの鳴く空に
以前にも増して、僕はこうして一人でいる時間が増えていた。
西の空に日が沈みかけた夕暮れ、僕は今日もこの河原と土手の間にある小さな坂道に座っていた。
ズボンの生地の下からは、かすかに湿り気を帯びた冷たい土の感触が伝わってくる。
もう間もなく季節は冬に終わりを告げ、春に移り変わろうとしている。
暦の上での春はとっくに訪れているはずだけど、こうして座っている今も真冬の寒い風が僕の目の前を横切っていく。
だけど僕は、それを「寒い」とは感じない。
肩を竦ませ、両手を上着のポケットの中に突っ込んで小さく身震いはするけれど。
それは、寒いからじゃなく。
ただ、「冷たい」からだ。
僕の目の前を、小さな川が流れている。
水面は今だからこそ、オレンジ色の淡い光を反射してきらきらと輝いて見えるが、実際はそんなにきれいなものじゃない。
水の色は遠目から見ても黒だか緑だか分からない色で濁ってるし、水の底には山ほどのゴミが沈んでいる。
こうして眺めている今だって、少し遠くの水面にはぷかぷかと白いものが浮かんでいる。
あれはおそらく、発泡スチロールか何かの残骸だろう。
原型がどんな形だったかさえ分からないほどに壊れて浮かぶそれは、さながら廃墟のようなイメージを思わせる。
それでも沈むことさえ叶わず、ただ流されるままにぷかぷかと浮かんでは揺れている。
この川をしばらく下っていくと、そこは海へと通じる河口になる。
きっとそこには、ここ以上に多くのゴミが掃き溜めのように佇んでいるのだろう。
そんなことを考えながら、僕は静かに体を倒した。
上着が土に汚れることも構わずに、地面に上に体を寝かせる。
斜めに見上げた向こうの空は、すでにオレンジ色の空が紺色の空へと変わり始めていた。
やはり、まだ春の訪れを身近に感じることはできない。
昼と夜の境目の空が、こんなにも早くやってきている。
遠くの空で、カラスが群れを成して飛んでいる。
僕の目から見ると、その群れの形はちょうどひらがなの「く」の字のように見えた。
やがてカラス達は群れを崩し、各々が好き勝手な方向に向けて散り散りに飛び去っていった。
彼らは……カラスは、決して人間の目から見ればいいイメージを与えない鳥だ。
ゴミを散らかし、死肉を貪り、体の色だって不吉なくらいに真っ黒だ。
だけど彼らは、すごく頭がいい。
頭がよすぎて、人間相手に知恵比べで勝ってしまうほどだ。
それはときとして、線路の上に石を置いて脱線事故を引き起こしたりなどという大惨事にすら進展してしまう。
だから、というわけではないけど、彼らは忌み嫌われる場合が多い。
平和の象徴と言われているハトだって、シンデレラの嫌味な継母達の目玉を平気でほじくり出すというのに。
だけどそんなことは、彼らにとっては些細なことなんだろう。
なぜなら彼らには、そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、大空を羽ばたける翼があるから。
彼らはきっと、生まれたときから自由だった。
それはもちろん、産まれてすぐに大空を自由に飛べたわけじゃないとは思うけど。
少なくとも、一生という時間の大半を、自由に羽ばたけるはずだ。
そう。
僕なんかとは、違うんだ。
ゆっくりと体を起こす。
僕の目からは見えないが、きっと背中は土に汚れたり雑草がくっついていたりするんだろう。
僕は立ち上がって、軽く体を掃った。
立ち上がった大地は斜めに傾き、どこか不安定だ。
少しでも前に体重をかければ、僕の体はそのまま坂道をごろごろと転がって、勢いのままに冷たい川の中に落ちてしまうかもしれない。
その、ゴミだらけの水の底に。
どうせ水深なんて膝の辺りまでしかないだろうとは思うけど、沈んだらもう浮かんでこないような気がした。
そうしてぶくぶくと泡の息を吐き捨てながら、どこまでもどこまでも沈んでいく。
誰にも気付かれることなく。
そこがきっと、僕の本当の居場所。
見せかけの夕陽の光さえも届かない、日陰の世界。
いつから僕は、自分の居場所を失ったんだろう?
いつから僕は、自分の居場所を求めたんだろう?
いつしか僕は、居場所がないと決め付けていたんだろう。
土手の坂道を下る。
一歩、また一歩と、地平線の位置が低くなっていく。
水面ぎりぎりのところまで歩いて、僕はその汚れて澱んだ水の底を眺めた。
夕陽の反射光が少し眩しくて、わずかに目をしかめる。
水面は音もなくゆらゆらと揺れて、映りこんだ僕の姿もゆらゆらと揺れる。
そこの映る僕の顔は、どんな顔をしているんだろう。
パシャン。
川の真ん中辺りで、魚が跳ねた。
その波紋がゆっくりと広がり、ただでさえ揺れて見づらい水面をさらにぐちゃぐちゃにしていく。
映った僕の顔も、何がなんだか分からないくらいにぐちゃぐちゃになっていた。
僕は川に沿って、雑草と砂だけのつまらない道を歩き始める。
そこら中に生える雑草の間にも、いくつものゴミが転がっていた。
空き缶やお菓子の袋、破りかけのダンボール。
表紙のない週刊誌、薄汚れて色が落ちたゴムボール、サドルと前輪が行方不明の自転車。
それらにはもう、居場所がない。
僕と、よく似ている。
ふと僕は、雑草の陰に隠れたそれを拾い上げた。
土やら砂やらで汚れた、白か黄色か判別が難しいゴムボール。
黒のサインペンで名前を書いてあったのだろうけど、ほとんどが消えていてもう読み取ることはできない。
手の中で軽くボールの表面を押してみると、ゴムの弾力が働いて形が元に戻る。
僕はそのボールを握ったまま、もう少しだけ先に歩いた。
そこはちょうど橋の下で、橋の足の部分を支えるためにコンクリートの壁になっている。
その壁めがけて、僕は握ったボールを軽く投げる。
緩やかな放物線を描いて、ゴムボールは壁にぶつかる。
しかし、長いこと捨てられていたせいか、弾力はほとんどないに等しかった。
本来なら跳ね返って足元を転がってくるはずのボールは、壁の下で行き場を失ったようにぽつんと拾われるのを待っている。
その表面に、淡い夕焼けが差して。
ほんの少しだけ、影を伸ばして。
ずっと、待っている。
誰かが拾い上げてくれるのを。
また、空を飛べるのを。
ただ、待っている。
……ああ、そうか。
口には出さず、僕は一つ頷いた。
こんな簡単なことに、どうして今まで気がつかなかったんだろう。
僕はゆっくりと、足を踏み出す。
結局僕は、この薄汚れたボールと一緒だったんだ。
二歩、三歩と。
薄汚れたボールに歩み寄る。
膝を屈め、それをそっと拾い上げる。
汚れ、冷たくなったそのボールを。
ぎゅっと握り締めて、僕は川の対岸を見た。
そしてわずかばかりの助走をつけて、その手に握った色あせたゴムボールを力いっぱい放り投げた。
ボールはさっきよりもうんと大きな放物線を描きながら、川の上を吹く冷たい風に流されることなく、音もなく対岸の地面を転がった。
たったそれだけのことで、僕は息が上がっていた。
それどころか、もつれた足のせいでバランスを崩し、だらしなくその場に仰向けで大の字に倒れてしまう。
見上げた空は、さっきよりも少しだけ紺色の空が近づいていた。
僕は大きく深呼吸を一つして、その空を見上げていた。
そして、思う。
結局僕は、誰かに見つけてもらいたかったのかもしれない。
自分自身の暗闇の中から、引きずってでも助けてほしかったのかもしれない。
それがどれだけ他人任せで、都合のいいことかと知っていながらも。
一人でいることに慣れて、それが当たり前で。
だけど、独りになることは怖くて。
ずっと、怯え続けていたのかもしれない。
助けを求めていたのかもしれない。
そのたびに、いつも差し伸ばしてくれた手はあったのに。
強がって、振り払って。
自分に嘘をついて。
「はは…………」
乾いた笑いがこみ上げてくる。
「ダメだな、僕は……」
だけど不思議と、体が軽くなったようにさえ感じる。
今ならちゃんと、自分の足で歩き出すことができる気がする。
幾度となくつまずいて、膝を着く道かもしれないけれど。
立ち上がろうとする僕に、差し伸べてくれる手があるから。
今まで払いのけ続けたその手を、まずは握り返してみよう。
そうすればきっと、僕は……。
ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ……。
その音に、僕は上着のポケットに手を伸ばした。
そこから取り出したのは、携帯電話だ。
着信中の文字が、夕陽とよく似たオレンジ色のディスプレイに表示されている。
一瞬だけ、僕は迷った。
だけどすぐに心を決めて、今まで一度も押したことがなかった通話ボタンをそっと押した。
仰向けに空を見上げたまま、僕は電話を耳に当てる。
電話の向こうから、声はない。
だから僕は、こう尋ねた。
「……もしもし?」
少しの間、電話の向こうから反応はなかった。
驚いているのかもしれない。
こうして電話で話すのは、初めてのことだったから。
シンという沈黙がしばらく流れて、僕がもう一度もしもしと尋ねようとしたそのとき。
「やっと見つけた」
そんな彼女の声が、電話の向こうと僕の目の前から同時に聞こえてきた。
電話にばかり意識を向けていた僕は、その電話の向こうにいるはずの声がやけに身近に感じられて、思わず驚いた。
そして少し、視線を移す。
僕は今、地面に寝転がっている。
だから。
橋の上からわずかに身を乗り出して微笑む彼女の姿は、今の僕から見ればちょうど真正面に見えた。
橋の欄干に腕を置きながら、彼女は夕陽を背に小さく笑っていた。
その彼女の影が、地面で仰向けに転がる僕の体に重なっている。
僕達は互いに、電話を耳に当てたまま視線を交わしていた。
もはや、通話をやめて直に声をかけても十分に言葉は届く距離。
だけど僕は、あえて電話の向こうの彼女に向けて言う。
「……見つかったか」
すると彼女は、もう少しだけ嬉しそうに笑って言った。
「そんなところで寝てると、風邪引くよ?」
「うん。そうかもね」
自然と、僕も少し笑えた。
僕達は互いにエコーする声を聞きながら笑い合った。
しばらくして、彼女が言った。
「もうすぐ、夕食の時間だね」
「そうだね」
僕は答えた。
「実は私、買い物の途中なんだよね」
「うん」
「荷物、結構多くなりそうなんだよね」
「うん」
そこで彼女は、言葉を区切る。
そして同時に、電話の通話も切る。
ぶつっという電子音が、僕の耳に響く。
見上げると、彼女はさらに橋の上から身を乗り出して、直後にこう言った。
「――早くしないと、置いてくよ」
そして一足早く、橋の反対側に向かって歩き出した。
僕は握ったままの携帯電話を切り、上着のポケットの中にしまいこんだ。
そしてゆっくりと体を起こし、今度は服についた汚れを払い落とす間すら惜しんで、小走りで土手の坂道を駆け上がった。
彼女は橋の真ん中辺りで、僕を振り返って待っていてくれた。
その駆け上がった坂道の片隅に、僕は小さなつぼみを見つけた。
それは、間もなく訪れる春になれば、一斉に咲き誇るであろうタンポポのつぼみ。
気が早いのか、もうこんなところに顔を出している。
……そうさ。
そうだよ。
もうすぐ、春なんだよね……。
僕は小さく、胸の奥で呟いた。
そんな風に立ち止まっていると、橋の上の彼女が再び呼びかけてきた。
「ほーらー。早くしないと置いてくぞー」
その仕草がどこか懐かしく思えて。
僕の足取りは、いつもより少しだけ軽くなる。
「ごめん。今行くよ」
そう、答えて。
笑顔を浮かべる彼女の元に、僕は駆け足で急いだ。
並んで歩く、僕達と僕達の影。
ふと見た、どこかの空。
白い屋根の上に、黒いカラスが一羽、羽を休めて留まっていた。
カァー、と。
聞き慣れた、そんな声がして。
僕は、帰る場所を見つけた。
三題噺ということで、初の短編及び企画参加という形でこのような作品を書き上げてみました。
このような企画物に参加するのも私自身初めてでしたが、とても面白く書き上げることができました。
時々こういう参加型の企画があるのもいいですね。
次回があれば、そのときはまた参加したいと思っています。
企画者のさすらいもの書きさん、色々とご苦労様です。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
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