欲望と言う名の刀
晩夏の日曜、とあるマンションの一室で、二人の男がテーブルを挟んで座っていた。
一人はこの家の主、大久保洋一。三十代前半で、父親の経営する会社ではあるが取締役部長を任されている。
向かい合ってソファに座る初老の男は、なじみの古美術店主、吉川である。
骨董に興味のない大久保の父親が、知人の義理で茶碗を一つ買って以来、吉川は大久保の邸に顔を見せるようになった。
大久保がまだ大学に通っていた時、日本刀を持ってみたいと言った大久保に、刀の見極め方を教えたのもこの吉川であった。
大久保が所帯を持って、この手狭なマンションに引っ越してからも、吉川は父親よりも大久保を上客として扱い、いい物が手に入ると訪ねてきた。この客間兼リビングの飾り棚にあるマイセンの皿も、玄関の壁に掛けられたビュフェのリトグラフも皆、吉川から購入した物だ。
茶道具を扱うかのように、一つ一つ手順を踏んで取り出す吉川の仕草を、大久保はじれったく思った。やがて、ちりめんの風呂敷の中から一振りの日本刀が姿を現した。
「これは?」
大久保が訊くと吉川が説明した。
「ある御仁から譲り受けたもので、作者は無名の者ですが、その出来栄えは見事ですよ。お手にとってご覧下さいませ」
大久保はその刀を手に取り、まずは一礼、右の手に柄を持ち、刃を上にすると、左手で鞘を滑らし抜いた。鞘から抜いた刀は、途端に解き放たれた魔性の輝きを四方にまき散らした。
研ぎ澄まされた刃の、生き生きとした波打つ模様。切先の燃え上がる炎のような煌めき。それは、一瞬の内に大久保の心を魅了した。
「ううむ、見事」
大久保は、今までいくつかの刀を見てきたが、これほどまでに鋭く優美な輝きを持つ刀を見たことがなかった。中心には銘が入っているが、吉川が言うようにまったく見たことのない名であった。柄は後から作ったものらしく、刃に比べ下品なまでに装飾が過ぎる。
「実はこれ、曰く付きの品物でしてね」
吉川は、大久保が刀を鞘に納め、風呂敷の上に置くのを確認してから、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「と、いうと?」
こほん、と軽く咳払いをすると、吉川は講釈師のような口調で話し始めた。
「初夏の柳がささやく、人が行き交う日本橋、侍らしき男の声が響き渡る。無礼者、かような無礼を受けたのは初めてじゃ。かくなる上は、と刀を振り上げた男の足下に、地面に頭が着かんばかりにひれ伏しているのは、薬売りの商人らしき男お許しを、お許しを今にも泣き出しそうなその男の嘆願に耳も貸さぬその侍、刀をエイと振り下ろした。季節は変わり、北風が山の紅葉を吹き飛ばす頃……」
大久保は退屈そうな顔を作った。
「要点だけを簡潔に話してくれないかな」
吉川は、残念そうに眉を下げたが、普通の口調に戻って話を続けた。
「まあ、江戸時代、無礼打ちを目撃した刀工が、自分の作った刀に念を込め、刀に不思議な力を持たせたそうです。なんでも、この刀、心の清い人間を斬ることができないと言われていましてね、この刀を手に入れたお侍が、面白半分に農民の子供を斬ってみたところ、かすり傷一つ負わせることができなかったんだそうです」
「ふうん」
大久保は、ソファーの肘掛けに肩肘をついて、半ば冷やかすような顔をして吉川の話を聞いていた。
「それで、そのお侍、調子に乗ってもっと試し切りをしてみたくなり、ついに自分の奥方を刃にかけたのです。善人を斬ることが出来ない刀なのだから、自分の選んだ、どこをとっても申し分のないこの出来た妻に、かすり傷も負わせることは出来ないはずだと。ところが、奥方は死んだ。良く出来た奥方だったのになぜ、やはりインチキだったのかとお侍様悔やんでいましたところ、奥方の不義が明らかになったのです。結果的には、その刀の力は本物だったと」
「ほお」
大久保は欠伸をごまかして相づちを打った。
「その後、お侍は切腹なされ、家の者が財産を処分した中にこの刀がございまして、巡り巡って今日ここに」
「ふうむ」
大久保は改めて刀を手に取った。今度は鞘を抜かなかった。
「確かにこの刀には言い知れぬ魅力がある。だが、そんな力があるとは到底思えないが」
「信じる、信じないは、洋一さんのご自由。洋一さんが刀の力を試すために人を斬るような御仁ではないことを存じておりますが、この刀にそういった謂れがあることを念の為……」
大久保は、吉川が去った後、刀をテーブルの上に置いたまま、腕組みをしていた。
確かにこれまで魔剣と呼ばれる刀の話は聞いたことがある。雷を呼ぶ刀、鬼の刀、等々。しかし、それらの話は伝説のものである。実在は定かではない。いや、皆、作り話であると言っても過言ではない。この刀もその類か。おそらくは無名の作者の刀を高く売りつけるためであろう。わざわざそのような作り話をせずとも、これほどまでに見事な刀ならば、喜んで手に入れように。
大久保は自分が見くびられたように感じ、少々気分を害した。
大久保は気を取り直し大きく一呼吸した後、刀を手に取った。左手に鞘を持ち、右の手で刀の柄を一気に引く。刀の刃が外気に当たって呼吸を始め、怪しい光を放ち始める。
「美しい」
大久保は意識的に呼吸を整えた。深く、長く息を吐く。
刀が全貌を表すと、左手の鞘を畳に置き、刀を自分の目の前に立てて持った。
「なんという輝き。魂が吸い込まれて行くような、これはまさに芸術品」
大久保は、うっとり刀を眺めた。こうしている時間が一番幸福を感じるのだ。美しい刀を見ていると、恍惚の状態になるのだ。大麻を吸ってもこれほど気持ち良くはなれまい。大久保は暫くの間、身動きせずに刀に見とれていた。
武士の世が終わって久しいこ今の時代、大久保は、もはや刀は人を斬る道具ではないと考えていた。
刀は芸術品である。美しい屏風や茶器を眺めるのと同様に、刀も眺めて楽しむ物だと思っていた。ただ屏風や茶器と違うところは、それらは使うことで生きるが、刀は本来の用途を成さないことである。本来、人を斬るためだけに作られた刀が、その能力を眠らせたまま、ただ人に見られる。刀自身が、斬りたいと疼いているような、禁欲的なそれが妖しい輝きとなって大久保の心を揺らすのだ。
吉川から手に入れたこの刀は、正にそんな大久保の心を満足させる逸品であった。しばらくの間、刀に見入ってはうっとりとした後、刀を鞘に納めようとしたその時、大久保の心に邪念がよぎった。
本当にこれは、善人を斬れないものなのだろうか。
大久保はそんな思いに心を乱した自分を恥じ、刀を納め、書斎へ持って行くと奥の棚に飾った。
大久保は、大事な本や、腕時計のコレクションなど、家族には決して触らせたくないものを書斎に置いている。最近掴まり立ちができるようになった子供はもちろん、家事上手の妻でさえこの部屋には立ち入らせない。掃除も自分でやる。
書斎の棚には他に二本の刀がある。いずれも大久保の眼鏡にかなった逸品ばかりである。たった今手に入れたその刀は、鞘や柄の細工の点では他の二本に見劣りはするが、それだけである。別段、何か特別な力を持っているようには見えない。しかし、特別な力を期待してこの刀を買った訳ではないのだから当然である、と自分自身に言い聞かせた。
大久保は、会社から歩いて十分ほどの所に住んでいた。通勤に時間をかけるのはバカらしいと思っていたからである。
翌昼、大久保が会社の近所の行きつけの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、店に中村が入ってきた。中村は、中学時代からの幼なじみであり、近くで不動産屋をやっている。
「新しい刀を手に入れたそうじゃないか」
父親が居合道をやっていた影響か、中村は、自分では刀を持たないのに、大久保の刀収集には興味を持っている。
「お、なんだ、耳が早いな」
「昨日、マンションの前に吉川の車が停まっていた」
「めざといな」
「まあな。で、どうだ」
「うむ、見事な逸品だ。今夜来るか」
「待ってました」
その夜、大久保は訪ねてきた中村を、自分の書斎へ案内した。
大久保もまた車の収集家であり、物へのこだわりを理解する人間であるため、大久保に限っては書斎に入ることを許していた。
「ううむ、この刃紋の美しさ、まさしく名刀」
中村は作法に則って刀を見定めた後、唸った。
「そうだろう。俺も一目見て、どうしても手に入れたくなった」
「お前でなくとも欲しくなるわい。して、この作者は」
「それが」
大久保は、昨日吉川から聞いた謂れを中村に話した。
「ほう、なるほど。で」
「で、って気にならないか。これが本当にそんな力があるのか」
「無名の作の刀を高く売るための作り話だろ。そういう話はよくあるさ」
「しかし」
「そもそも、お前は、刀は美術品として眺める物だと言っていたではないか。眺めるだけなら、この刀にどんな力があったって関係なかろう」
大久保は、痛いところを突かれた。中村の言う通りである。そのような話に心乱されるのは、やはり己の心が未熟なのかもしれん。
「どうしても気になるんなら、その辺の人でも斬ってみればいいじゃないか。ん?」
「そんなことをしたら殺人だ」
「ははは、冗談だよ。お前には人は斬れない。それにしても、奥方を斬るなんて、そのお侍も愚かだの。どうせなら将軍を斬ってみるくらいの事をやればよいものを。俺だったら、悪い政治家や悪徳業者をばったばったと斬りまくるのにな」
中村は豪快に笑い飛ばした。
その時ちょうど、ドアの外から夕餉の仕度が整ったと呼ぶ家人の声がした。
中村が帰った後、ほろ酔い加減の大久保は、一人で刀の前に座っていた。
中村の言う通り、この刀にどんな力があっても、なくとも、この刀の美しさは変わらない。それでも気になってしまうのは己の心の未熟さなのかもしれん。この刀を試してみたいと思うのは、もしかしたら己の中に人を斬りたいという欲望があるのではないか。いいや、この刀に摩訶不思議な力があるかないか、知りたいと思うだけで、決して人を斬りたいわけではない。では、本当に人を斬りたくはないのか。刀で人を斬ると、どんな気持ちになるのか、感じてみたくはないのか。今まで、刀は美術品であって人を斬る物ではないと言っていたが、心底からそう思っているのか、天に試されているのではなかろうか。何があっても人を斬らずにいられるか、天が問うているのではなかろうか。
新しい車を手に入れた時、車の性能を確かめるために高速を思い切り車を走らせる。或いは、高級万年筆を手に入れた時、書き味を試すためにやたら自分の名を書きまくる。
大久保は、己の気持ちは、それらの気持ちと同じだと思っていた。
人を斬りたいのではない、刀の能力を見極めたいだけなのだ。
しかし、いつの間にか大久保は、この刀で斬るにふさわしい人物を考えていた。善人か悪人か確かめてみたい人物を考えた。一方でまた、そのような考えを浮かべる自分を恥じ、この刀を使ってはならぬと己に言い聞かせるのであった。
大久保の欲望の箱の蓋が、いつの間にか開き始めていた。一度開いた蓋はふさがらない。中から欲望の靄が止めどなくあふれ出し、心の中を満杯にする。やがては己を征服する為に。
「近頃、主人の様子がおかしいんです」
大久保の妻の相談を受け、中村が大久保の書斎を訪れたのは、それから半月後の夕刻。
大久保は、自身の性格を自覚しているからか、妻には堅実で貞淑な女を選んだ。中村はこの選択を正解だと思っていた。
夕闇に浮かぶ大久保の顔は、細君の心配いかんばかりか、目は落ちくぼみ、血色悪く頬はこけ、目の玉だけが不気味に輝いている。
「どうした、具合が悪いのか」
大久保は、部屋の灯りもつけずに物憂げに答えた。
「いや、あの刀が」
「あの刀?ああ、先日手に入れた曰く付きの刀か」
「あの刀が、悪人を斬れと俺を誘うのだ」
「何をばかな」
「眺めていると、試してみたくてしょうがない。俺の中に人殺しがいるのだ。心の葛藤と戦っている内に夜が明ける」
「何を言っているんだ。お前はあの刀の作り話に惑わされているだけだ。あんな刀など、さっさと手放してしまえ。吉川を呼んで返せばいい」
「一度買った刀を一ト月もしない内に返すなど、俺の信用に関わる」
「いいではないか。気にするな。このままではお前、病いに倒れてしまうぞ。そうだ、ならば俺が買い取ろう。俺が他の商人に売り払う。それならどうだ」
渋る大久保。
「ええい、有無は言わせぬ。この刀、俺が買い取ったぞ。いいな。おっと、今持ち合わせがないが、代金は後ほど払う。いいな」
中村は、大久保の背後の棚に飾られてあった刀を手に取ると、強引に持っていってしまった。
後に残された大久保の、放心した横顔に夕闇が迫り寄り、床に長い影を作り出す。
数日後、すっかり生気を取り戻した大久保に、再び穏やかに仕事をする日々が戻ってきた。
以前のように、昼過ぎに喫茶店へ向かいながら、大久保は思った。
中村が言うように、あの刀の魔力に取り憑かれていたのだろう。今では人を斬りたいなど、これっぽっちも思わない。
ああ言った刀は、持つべきでない。もし刀に摩訶不思議な力があるとしたら、と想像するに留める内が花である。実際にそのような力を持つ刀を手にしてしまえば、自分では押さえきれない欲望があふれ出すのだ。
冷静にそう思えるほど、大久保の心は穏やかになっていた。
とはいえ、今はまだ刀を眺めることに恐れを感じている。
人間とは弱いもの、と大久保は身をもって感じた。
もしかしたら、天は、刀が本来人を斬る道具であることを教えてくれたのかもしれぬ。人を斬る覚悟がなければ、刀を持ってはならぬと。
あの刀を手放してよかったのだ。中村の友情に感謝しよう。そういえば、それきり中村は姿を見かけぬ。まさか刀の代金が払えず、己から逃げているのではあるまいか。ばかな。己を救ってくれた中村に、金など貰わなくともよい。そうだ、あの時、なぜ、只でくれてやると言わなかったのか。居合いで鍛えられた強い精神力を持つ中村なら、きっと、己のように刀に惑わされることなどないだろう。
気のせいか、日差しも清々しく感じられる。
もう刀を集める事は止めよう。
大久保は天に誓った。
喫茶店の隅に置いてあるテレビでは、昼のワイドショーか何かだろうか、画面の中で司会者の男が早口でまくしたてている。
「もう一度確認します。では、日本刀を持った男が、視察中の総理大臣に斬りかかって怪我を負わせ、取り押さえられたということですね」
大久保は、日本刀と言う言葉に敏感に反応して、テレビ画面に注目した。
画面は切り替わり、どこかの建物の前にいる若い男性アナウンサーの姿を映している。
「大臣の怪我の具合はどうですか」
「救急車で都内の病院に運ばれ、治療中とのことです。命に別状はない模様です」
「容疑者の男の身元はわかりますか」
「いえ、現在確認中と言うことです。目撃者の話では、男は三十代前後と見られ、がっしりした体格で……」
大久保は、自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。
まさか……。
大久保は、携帯電話を取り出し、中村に電話をかけてみた。
留守番電話のアナウンスが流れる。
大久保は舌打ちして電話を切ると、アドレス帳を開いた。
「中村の店の電話番号は」
調べるより行った方が早い。大久保は席を立った。
中村に限って、そんなことはない。中村は、弱い自分と違って、あの刀の魔力に負けるような男ではないはずだ。中村が店にいるのを確認すればそれで済む。俺の取り越し苦労だ。そうに違いない。
早足で駅前の通りを抜けようとするところを、携帯電話が鳴った。
「中村か」
いや、吉川である。
一瞬ためらった後、大久保は電話に出た。
「あ、大久保さん、ちょっとお話しがあって後でそちらへ伺おうと思うんですが」
「いや、今日はちょっと」
「さいですか、いや実はね、この間大久保さんにご購入いただいた日本刀、返していただけないかと思いましてね」
大久保は、はっとした。
「先日わかったんですが、あの刀、どうやら江戸時代の物じゃなかったらしくてね、あの刀を売りつけた業者、とんでもないワルでしてね、あんな作り話でもしなきゃ高く売れない、といけしゃあしゃあと開き直るんですから。もう返品する話はついてますんで、申し訳ないけれど今度取りに伺いますよ」
大久保の背中に、冷たい汗が流れた。(了)