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あたしがあたしである限り
作:浅葉りな


   1

「後で、公園の桜の下で会いましょう」
 すれ違いざまにささやかれた言葉に、尚子はびくりと身を振るわせた。
 尚子はじっとその場に立ち止まり、しばらくしてから振り返る。
 尚子にささやいてきた少女は、扉の中へ入っていくところだった。プリーツスカートのすそが、吸い込まれるように扉の中へ消えていく。
 なんだったんだろう、と尚子は思った。
 まっすぐな長い黒髪の、日本人形みたいに綺麗な女の子だった。けれど、半そでのセーラー服から伸びたすらりとした腕には、いくつもの赤い傷痕がついていた。首には大きな、けれどもシンプルな十字架がかかっていた。
 その、どこか危うい様子に、尚子の目は釘付けになったのだ。そうして、少女は尚子の耳元でささやいた――
「……なんだったんだろう」
 尚子は小さくつぶやいた。
 本当に、なんだったんだろう。
 あれが現実だったとは、にわかには信じがたかった。
 けれども、耳には確かに、彼女の声が残っている。低いけれどよく通る、綺麗な声。
 尚子はポケットから携帯を出して時間を見た。三時十二分。余裕はある。
「……行こうかな」
 なんとなく興味があった。
 それに、献血したばかりで少しだるくて、すぐに家に帰る気にはなれなかったからちょうどいい。
 尚子は献血ルームを出ると、公園に向かった。
 公園は献血ルームのすぐそばにある。小さいけれど静かで、緑に囲まれた気持ちのいい場所だ。
 尚子は彼女に言われたとおり、桜の下のベンチに座った。
 今はちょうど4月。桜は満開に花開いている。
 風が枝を揺らすと、はらりはらりと花びらが舞い落ちる。
 この季節、他の公園は花見客でいっぱいなのに、ここには花見客はひとりもいない。静かでいい、と尚子は思った。
 騒がしいのはあまり好きではない。尚子だってたまには、静かに過ごしたいのだ。
 尚子はベンチの背をもたれさせ、足を投げ出した。
 春の陽気が気持ちいい。なんだか眠気に襲われて、尚子は目を閉じた。
 さわさわと、風が尚子の前髪を揺らす。
 綺麗な、子だったな。尚子はうとうととしながら、そんなことを思った。
 みんなと同じように髪の色を抜いて、化粧をして、スカートを短くしている自分とは大違いだった。
 綺麗なだけに、腕にはしったなまなましい傷痕が気になったけれど……。
「……ねえ、起きて」
 しばらくして、誰かから揺り起こされ、尚子は目を覚ました。
 どうやら、居眠りしてしまっていたらしい。目をこすりながら、尚子は顔を上げた。
 先ほど、尚子と入れ違いで中へ入っていった少女が、尚子をのぞきこんでいる。
「よかった。起きてくれて」
 少女がやわらかく微笑む。やっぱり綺麗だなあ、と尚子は思った。それだけに、目の端に映る赤い傷痕はめだった。
「もう起きないかと思ったわ」
「……居眠りしてただけよ。そんなわけないじゃない」
「それは、そうなんだけど……なんだか、あまりにも静かだったものだから。
ちょっとうらやましくなってしまって」
「うらやましい? なんで?」
 首をかしげる尚子に微笑を向け、少女は尚子の隣に座る。
「だって、とても綺麗でしょう?」
「……そうかなあ」
 尚子はつぶやいた。
 とてもではないが、綺麗だとは思えない。
 彼女のような人だったら、居眠りしていてもさまになるだろうとは思うけれど、尚子はごくごく普通の女の子だ。
 桜の下で居眠りしていたところで、ただ女子高生が寝ているな、としか見えないだろう。
「ねえ、名前を聞いてもかまわない?」
「名前? 三笠尚子。みっつの笠に、高尚の尚、それから子供の子でミカサショウコ」
「尚子……ね」
 少女は口の中で転がすように、尚子の名を何度かつぶやく。
「いいわね。綺麗な名前」
「そう……かなあ」
 尚子はまたも首をかしげた。
 いまどき子のつく名前なんて、そうそうないんじゃないか、と思う。そういう意味では珍しくはあるけれど、綺麗、だとまでは思わない。
 だが少女はそんな尚子の内心にはまったく気づかないようで、うっとりと目を閉じた。
「あ、ねえ、あなたの名前は?」
「私? 榊恵美」
「榊さん、ね」
「……恵美でいいわ」
 一瞬、恵美がきつく眉を寄せたような気がして、尚子は目をしばたたかせた。
 だが、気のせいだったらしい。恵美は変わらず微笑を浮かべている。
「……ねえ、恵美はどうして、私に声、かけたの?」
 なんだか恵美の笑顔が重苦しく思えて、尚子は明るく言った。
 恵美は首をかしげると、形のいい桜色の爪のついた指先で、ぷっくり赤いくちびるをなぞる。
 その仕草がどうにもなまめかしく思えて、尚子は思わず目をそらした。
「どうしてかしら」
 小さく、恵美がつぶやく。
「え?」
 尚子は顔を上げた。
 声をかけてきたのは恵美の方なのに、どうしてそんなふうに言うのだろう。
「私にも、よくわからないの。ただ、なんていうのかしら。あなたに声をかけなくっちゃって、そう思ったの。見た瞬間に、あなただ、って思ったわ。そして、気づいたら声をかけてた」
「……誰か、探してた人に似てたとか?」
「ううん、違うわ。私は誰も探してない。でも、あなたを見つけて、ああ、この人だって思ったの」
「よく、わからないんだけど」
「私もそうよ。よくわからない……でも、あなたに会えてよかったわ。あなたと話せてよかった。それじゃダメかしら?」
 ダメ、なんて答えられるはずがなかった。
 尚子は首を縦に振り、なんとなく、笑みを浮かべた。
 恵美も尚子に微笑み返し、降りしきる桜へと視線を移す。
「この間来たときには、まだ蕾のままだったのに――この次に来る頃には、すっかり花は散っているのでしょうね」
「この間、って……よく、来るの?」
「ええ。なんだか、落ち着くの。献血って。チューブの中を血が流れていくのを見ていると、ほっとするの。そういうことってあるでしょう?」
「あ、わかる。なんか、ついつい来ちゃうよね」
 尚子は何度もうなずいた。
 恵美の気持ちはよくわかる。
 尚子自身、チューブの中を流れていく自分の血液を見ているのが好きで、それでこうして毎月、献血ルームに通っているからだ。
「……」
 恵美はゆっくりと尚子に顔を向けると、目を見開いて、わずかに開いた口をぱくぱくさせる。
 どうしてそんなことをするのだろうかと、尚子は黙って恵美を見つめた。
「――ごめんなさい、少し、驚いてしまって」
「驚いた、って?」
「初めてよ。そんなふうに答えた人」
「……よく、変わった趣味だって言われる」
 尚子は苦笑した。献血によく行くことを話すと、クラスの女の子たちは必ず変な顔をする。
「でも、だから……あなただって、そう思ったのかもしれない」
 恵美がぽつりと言う。
「ねえ、私たち、お友達になれるかしら?」
「うーん、どうだろ。よくわからないけど……」
 いきなり問われても、友達になれるかどうかなんてことは尚子にはわからない。ぱっとわかってしまうとしたら、それはよほど相手がわかりやすいか、でなければ人の心でも読めるかのどちらかだと思う。
「あなたとお友達になれたら、きっと、嬉しいわ」
「……そういうもの?」
「ええ。ねえ、また、会えるかしら」
「別にいいけど……」
「なら、また来月の同じ日に、このベンチで会いましょう? 献血のついでだと思えばいいわ」
 恵美の言葉は、言葉そのものは勧誘だったが、どうにもあらがいがたいものがあった。
 深く考える暇もなく、気づけば、尚子はうなずいていた。
「よかった」
 恵美はふんわりと笑う。
 花のような笑み、というのは、きっと恵美の浮かべる笑みのようなものをいうのだろう。尚子はそんなことを思った。
 それから、ふたりは日が傾くまで他愛のない話に花を咲かせた。

 2

 ずっと、恵美のことを考えていたわけではない。
 むしろ、先月別れてすぐ、恵美のことは忘れてしまっていた。
 ただ、今日になったら自然な成り行きかなにかであるかのように恵美のことを思い出し、当然のように献血しに出かけ、当然のようにこの間座ったベンチにかけている。
 あの日、恵美とふたりで見た桜は、花がすっかり散って葉桜になってしまっていた。青々とした葉の間からさしてくる木漏れ日だけで、もう十分に暑苦しい。そろそろ夏がやってくるのだ。
「……ごめんなさい、待たせたかしら?」
 先月とまったく同じ、制服姿で恵美はやってきた。記憶の中にある恵美と寸分たがわないその姿に、尚子はなんだか変な気分になる。
 この間、会ったときと違っている部分といえば、腕にいくらか傷痕が増えたように見えることだろうか。
「そんなに待ってないよ」
 本当は少し待ったけれど、尚子は首を横に振った。恵美は安心したように微笑むと、尚子の隣に寄り添うように座る。
「……どうしたの? 気になる、かしら」
 恵美の腕にはしる傷から目をそらせずにいた尚子に、恵美はおっとりと首を傾げる。
 尚子はどう答えたらいいのかわからず、視線をさまよわせた。
「気になるの?」
「……別に、そんな」
「いいのよ。隠さなくって」
 言いながら、恵美は腕に残る傷痕を見つめ、いとおしそうに指先でなぞる。
「色々、あったの。色々……」
「なにかイヤなことがあったとか?」
「そういうわけではないのよ。ただ……なんて言うのかしら。どうしようもないの。特になにかがあるわけじゃないのよ。ただ、どうしようもないの」
「……よくわからないけど、大変だね。家の人とか、驚かないの?」
「怒るわ」
 あっさりと、けれども思ったよりもずっと強く言われ、尚子は顔を上げて恵美を見た。
 恵美はまっすぐ前を向いている。どんな表情をしているのだろうかと思ったけれど、特におかしなところはない。
 ただ、きつく噛みしめたくちびるが蒼白だった。
「私の家、剣道の道場なの。上には兄がふたりいて……私以外の家族全員、段位を持ってるわ。だから許せないのね」
「どういうこと?」
 剣道の段位と許せない、という言葉の間にどんな関係があるのかわからなくて、尚子は訊ねた。
 恵美はわずかに尚子の方へ顔を向けて、うすく微笑む。
「鍛え方が足りないんですって。だから、こんなことをする、んですって」
 うっとりと歌うように言いながら、恵美は傷痕を見つめる。
「……なにそれ。ひどい」
「優しいのね」
 恵美は顔を上げ、尚子に向けて微笑む。
 その笑顔はあまりにも綺麗で、尚子はどぎまぎしてしまった。
「でも、そうでもないのよ。とても善良で、とてもまっとうで、いい人たちよ」
「いい人だったら、そんなことしないんじゃないの?」
「違うのよ。いい人だから、私が許せないの。間違っているのは私の方だもの」
「……そういうものかな」
「ええ。ねえ、私のことより、あなたのことが聞きたいわ」
「え? 私のこと?」
 急に自分に話を振られて、尚子は悩んだ。
 自分のこと――と言われても、特別なことなどなにもない。
 恵美に比べればずっと、平和な生活を送っていると思う。
 不満を感じることがないとまでは言わないが、そんなものは些細なことだ。
「どうしたの?」
「うーん……あたしなんか、大したことないんだなあって思って」
「そうなの?」
「うん。だってあたし、結構、平和に暮らしてるもん。たまに、なんでこの人たちこんなにわかってくれないのかなぁとか、思うけど……思うけど、なにかあるわけでもないし。普段は仲いいし」
 言いながら、尚子はうつむいた。
「こういうことに、重いとか、軽いとかっていうことはないのよ」
 恵美の声とともに影がかぶさってくる。
 顔を上げると、それこそキスできてしまいそうなくらい近くに恵美の顔があった。
 尚子はドキリとして、まばたきもせずに恵美を見つめた。
 恵美がまばたきする。その音さえも聞こえそうな距離。
 早鐘のように打つ、自分の心臓の音さえも、恵美に伝わってしまいそうな気がして、尚子はかすかに身を振るわせた。
 どうして、こんなにドキドキするんだろう。
 会ったばかりの人なのに。
 まだ、2回しか会っていないのに。
 どうして、目が離せないんだろう。
 たしかに綺麗な子だけれど、自分と同じ女の子なのに。
 そうして、目が乾いて痛くなってきた頃、恵美がだしぬけに尚子を抱きしめてくる。
「め、恵美……?」
 やわらかい恵美の身体。落ちかかってきた長い髪からは、ほんのりシトラスの香りがした。
 上からのしかかられているような体勢だから、身じろぎもできない。
 触れあった胸から、ドキドキが恵美に伝わっていやしないだろうか?
 なんだかとても不安に思えて、尚子はそっと目を伏せた。
「でも、優しいのね。ありがとう」
 恵美のやわらかい声音でささやかれると、尚子の鼓動はさらに早くなった。
 こういうとき、どうしたらいいんだろう。
 目を伏せたままで、尚子は思った。
 相手が男の子だったら、きっとこれは恋だと思う。自分は恋に落ちてしまったんだろうと思う。
 でも恵美は女の子で……。
 自分は、どうしてしまったんだろう。こんな感情、自分は知らない。
 尚子は目を閉じた。そうして、そのまま、恵美の背中に腕をまわした。恵美に触れたその指先すら、熱を帯びているような気がした。

 3

 それからの一ヶ月はあっというまで、その間、尚子は恵美のことばかり考えていた。
 その名を思い出すだけで、尚子の頬は上気した。
 あのとき、恵美に抱きしめられたときに感じた胸の熱さを、尚子は誰にも言えなかった。
 あの感覚はきっと誰とも共有できない、そう思ったのだ。
 だから、また約束の日がめぐってきたとき、尚子は随分と早く公園へ向かった。
 しばらく待たなくてはいけないかもしれない――そう思いつつ公園にたどりつくと、いつものベンチには既に恵美が座っていた。
 けれども恵美は尚子に気づく様子はなく、つらそうに目を伏せている。木漏れ日が恵美に影を落としていて、その様子はまるで1枚の絵のように見えた。
「……恵美」
 恐る恐る尚子は呼びかけた。
 随分と小さな声だったというのに、恵美は顔を上げてやわらかく笑んだ。
 だが、その笑みもどこか消沈したような雰囲気を帯びている。尚子は胸が引き絞られるような、そんな痛みを感じて、眉を寄せた。
「どうしたの? なにか、辛いことでもあった?」
 訊ねてくる恵美の声音はひどく優しい。尚子はぶんぶんと首を振った。
 そうじゃない。そうじゃないのだ。
「……そう? なら、いいのだけど……」
「恵美はなにか、辛いことでもあったの?」
「特になにかがあったわけではないの」
 恵美はうつむいて、首を振る。
 尚子は恵美の隣に座って、恵美の言葉を待った。
「ただ……、ねえ、明日は来ると思う?」
 急に問われて、尚子は一瞬、言葉につまった。
 ――明日は、来ると思うか。
 まるで謎かけのような問いだと思った。
 明日が来ないわけはない、と思う。けれども、そんな当たり前の答えを、恵美は望んでいるのだろうか。
「……来ると、思うけど」
 しばらく悩んだ末に尚子は答えた。
 恵美はそれを聞くと、膝に額をすりつけるように身体を曲げて、小さくいやいやをする。
 自分のなにが悪かったのかわからなくて、尚子はただ、恵美を見つめた。
「ねえ、明日が確実に来るっていう保証がどこにあるの? たしかに、明日は必ず来るかもしれない。でも明日、私が存在しているだなんて、いったい誰に言い切れるの?」
 小さな声だったが、尚子の耳にははっきりと聞こえた。
「……恵美」
 尚子は恵美の背中を優しくなでてやった。
 なんとなく、恵美はそうしてほしいのではないだろうかと思ったからだ。
「私、怖いの。今日は一度きりしかないってことが、怖くてたまらないのよ。17歳の今日は、今、こうして話している間にも、どんどん過去になってるの。過去になったら、もう、今日は二度と来ないんだわ」
 尚子は黙って恵美の言葉を聞いていた。
 恵美の言うことは、頭では理解できるような気がする、ように尚子は思う。
 けれども、心から理解できるのか、と問われれば答えはノーなのだ。
 そういう考え方もあるのかもしれない、とは思う。
 けれども、尚子にとっては明日が来るのは当たり前のことだし、今日が二度と来ないのも当たり前のことだ。
 それがどうして怖いのか、そこを尚子は理解できない。と、いうことは、きっと、恵美の言葉の本当の意味を自分は理解できていないに違いないのだ。
「……尚子。私、どうしたらいいのかしら」
 恵美が尚子にすがる。
 見上げてくる恵美の、長い睫毛が濡れている。
 ――どう、答えればいいのだろう。わからなかった。
「わからないのよ。ねえ、尚子。わからないの。どうして、他の人たちは信じられるの? どうして、みんな怖がらないの?」
「……多分、怖がってたら、生きてけないからじゃないかな」
 もしも恵美の言うように、誰もが時が過ぎていくのを恐れるようになったら、それこそ大変だ、と尚子は思う。
 目をそらさないと、恐ろしくてとても生きてはいられないから、だからみんな見ないふり、気づかないふりをするのではないだろうか。
「でも、尚子、私、思ってしまったのよ。怖いって。ねえ尚子、人間は死んだらどうなるのかなんて、本当は誰も知らないのに、それなのに、誰も怖がらないのはどうしてなの?」
「……恵美」
 尚子は恵美の背中を優しくさすった。
 他に、どうしたらいいのかわからなかった。
 尚子だって、そう長く生きているわけではない。そんなこと、ずっと先の話だと思っていたし、あえて考えようなんて思わなかった。
 人の生き死になんてドラマやゲームや漫画や、そういったものの中のできごとでしかない。現実感が薄いのだ。
 そう、それはまるで幽霊のようなものだと思う。存在を信じている人間にとっては恐ろしくてたまらないものなのかもしれないけれど、本当にいるだなんて思っていない尚子のような人間にとってはどうコメントしていいのかさえわからないのだ。
「怖いのよ。こうしてる間にも、砂時計はどんどん落ちていくの。砂時計が落ちきってしまったら、いったい、どうなってしまうのかしら。17年なんてあっというまだったわ。きっと100年だって、過ぎてみればあっというまなのよ」
 しぼりだすように口にする恵美の目の縁に、透明な涙が盛り上がる。それは尚子が指で拭おうとするよりも早く、恵美の頬をすべり落ちていく。
 そのさまは、恵美の言う砂時計を思わせた。恵美のあごのやわらかな稜線から、ぽたりと滴る涙のしずくを見つめ、尚子はくちびるを噛みしめた。
 尚子は恵美に言うべき言葉を、なにひとつ持っていないのだ。
 それが悔しくてならなかった。
 もしも自分がもっと大人で、ものごとをよく理解していたら、きっと恵美になにか言ってやることができるはずなのだ。
 尚子にできることは、ただ、恵美の言葉を聞いてやって、背中をなでてやることくらいだった。
 涙を流しながらも、恵美はまばたきひとつしない。
 尚子はそのまっすぐな瞳を、とても綺麗だと思った。
 その綺麗な瞳を濡らさずに置けるのだったら、砂時計の砂など塊で落としてしまってもかまわない。
 けれども、そんなことが現実的にできるはずはない。尚子はくちびるを噛みしめると、以前、恵美がしたように、恵美をぎゅっと抱きしめた。
 言葉ではなにも伝えられなかったとしても、この身体のぬくもりは伝わるに違いない。
「……尚子」
 嗚咽まじりに恵美が言った。
 尚子は答えず、ただ、ずっとそうしていた。いつまでもそうしていたいくらいだった。

   4

 一ヶ月はそれこそ、矢のように過ぎ去った。
 あのあと結局、恵美は日が落ちて真っ暗になるまで泣き続けて、けれども理由は聞き出せなかった。
 へたに聞き出そうとすれば恵美を傷つけるだけだろうし、これは時間を置くしかない。そう思って、一ヶ月、尚子は過ごしたのだ。
 そうして、先月よりもさらに早く、尚子は公園へと出向いた。
 恵美はきっと、自分よりもずっと早く来ているに違いない――そう思ったのだ。
 けれど、公園のベンチには誰もいなかった。
 だがその代わり、ぽつんと十字架が置いてあった。その下には白い封筒が置いてあった。
「……?」
 十字架は間違いなく、恵美のものだ。はじめてあった日にも、その次も、この間も、恵美はこの十字架をかけていた。
 だが、なぜこれがここにあるのだろう。この封筒はなんだろう。
 そう思いながら、尚子はベンチに近づいた。
 恐る恐る、封筒を手に取る。
 裏返すと、三笠尚子さま、と宛名書きがしてあった。万年筆で書かれたらしい几帳面な筆跡で、いかにも恵美らしい。差出人は書いていなかったが、十字架のこともあり、これは恵美からの手紙なのだろうと尚子は思った。
 尚子は慎重に、封筒を開いた。中には押し花が透かしで入った、白い便箋が数枚、丁寧に折りたたまれて入っていた。
 なぜだかイヤな予感がした。
 尚子はその便箋をゆっくりと広げた。

     三笠尚子さま

   こうして、手紙でお別れを告げるご無礼を、どうぞお許しください。
   本当は、今日、お会いしようと思っていました。
   けれども、それはしてはいけないことなのだと思いました。だから、こうして、せめて手紙を残していこうと思います。
   あなたとお別れしなければならないのは、私にとっても、とても辛いことです。
   私はあなたが好きでした。
   突然こんなことを言われたら、あなたはきっと困るでしょうね。私もあなたも、同じ女の子ですから。
   まだ3度しか会ったことがないのに、なにを言うんだと思われるかもしれません。
   でも私は、はじめてあったあの日から、あなたのことが好きでした。あなたは私を見ても、蔑まなかった。私の言葉を聞いてくれた。それがどうした、と思われるかもしれません。でも、私にとってはとても大切なことでした。
   誰も私の言葉を聞いてくれなかった。私をまるで異星人かなにかのように扱いました。でも、あなたは違った。私はそれがとても嬉しかった。嘘やごまかしですませようとせずに、あなたは私の言葉に耳を傾けてくれたから。
   でも、だからこそ、私はあなたと別れなくてはならないのです。
   私はあなたを好きになりすぎてしまった。私はおかしな人間なのです。
   あなたと会って、話をしているだけで満足でした。満足しているつもりでした。でも、私の中で、あなたをずっと自分のもとにとどめておきたいと思う私が育っていました。私は何度、あなたの学校を訪ねていこうと思ったことでしょう。
   私の中にある気持ちは異常です。おかしいのです。間違っているのです。
   私はあなたを傷つけたくありません。困らせたくありません。だから、今のうちに、まだ傷の浅いうちに、こうして私からさようならを言おうと思います。
   さようなら、尚子。
   私が私である限り、私はもう二度とあなたには会いません。
   短い間だったけれど、とても楽しかったです。あなたの思い出だけで、きっと私は生きていけると思います。
   ありがとう、尚子。
   あなたの上に、優しさと幸せが降りますように。

 読み終えて、尚子は呆然とした。
 心の底から、書いてあることを理解したくないと思った。
「こんな……ことって」
 思わず、言葉がもれる。
 恵美の書いていることは、わからないでもないと思う。尚子だって戸惑った。こんな感情は知らないと思った。
 でも、こんな……、こんな手紙を残して、行ってしまうだなんて。
 尚子はベンチの上で鈍く光る十字架を、震える指先でつかんだ。
 そうして、そっと、それを頬に押し当てる。
 冷たい、金属の感触。でもそれすらも温かいような――恵美のぬくもりが残っているような、そんな気がした。
 絶対に、恵美を忘れることはないだろう。尚子は思った。
 たった3度しか会ったことがないし、連絡先も知らないけれど、恵美は自分の生涯の中で一番たいせつな人になるだろう。
 春に出会って――そうして、それからたったの4ヶ月のつきあいだった。
 でもこの4ヶ月は、今までに自分が生きてきたどの時間よりも大切だ。
「恵美……」
 尚子は十字架を持つ手に力を込める。頬に痕がついてくれればいい。消えない痕がつけばいい。恵美のことを思い出す、よすがにできるように。
 自分が自分であるうちは、もう会わないと。
 恵美がそう言うのなら、忘れないでいよう――と尚子は思った。
 あたしがあたしである限り、決して、恵美のことは忘れない。
 もう2度と会わないかもしれない。
 いや、きっと、もう会わない。
 けれども忘れない。ずっと。
「恵美……」
 尚子はもう一度、つぶやいた。
 まるでそれに応えるかのように、セミが鳴きだす。
 ああ、もう夏になったんだ。春はもう終わりなんだ。
 唐突にそんなことを思う。
 そうして尚子ははじめて、恵美の言っていた「今日は二度と来ない」という言葉を、恵美と同じ意味で理解した。














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