第75話 これがキッカケ
「寒い……」
陽乃は窓際の机に腰掛けながら手に息を吐きかけた。翔は向こうで楽器の準備をしている。同級生たちはとっくに掃除を終えて帰ってしまった。みんな鋭い子たちばっかりだったようで、沙希や由美子は「いいなぁ〜あたしも青春したいよ」とうらやましそうに呟きながら帰っていった。絵美と美里は「また来年ね! 年賀状、出すからね」と言って笑顔で帰った。
男子たちはやたらと翔に絡んでいた。いつ告白したのかとかどういうシチュエーションだったのかとか。やっぱり男子ってそういう話題が好きなんだろうか。女子も好きなんだけど。
陽乃はそんなふうに、とくに意味のないことばかりを考えていた。
窓の外は重苦しそうな暗い雲で埋め尽くされた空と雪の積もった校舎や木が見えるだけ。クリスマスイルミネーションがきらびやかな街中の風景と対照的な自然の風景は、今も昔も変わらないのだろうか。
それでも陽乃には世界が変わって見えた。
翔とお付き合いする。
実感が湧かないけれど、翔とは彼氏・彼女の関係なのだ。
「変なの……」
思わず笑ってしまった。同時にガラガラと音楽室のドアを開ける音がする。翔がアルトサックスをストラップ(※1)に吊るし、右手に譜面台を持って陽乃のほうを優しく見つめた。
「お待たせ」
「ホント。寒かったんだから」
「ゴメンって。待たせた分、えぇ演奏聴かせたるから勘弁、勘弁」
「はいはい。期待せずに待ってるわね」
陽乃はてきとうにあしらう素振りを見せた。目が合うとクスッと笑ってしまう。なんだかくすぐったい感じだ。
「では、さっそく」
翔は音楽室の黒板の前にある小さな舞台に立った。妙に緊張してしまう。前にいるのは陽乃だけだが、それが余計に緊張させるのかもしれない。
「曲目。青春の輝き。聴いてください」
翔が大きく息を吸ってサックスを奏で始めた。寒い音楽室で、陽乃を包み込む温かい翔の音色。音楽室の色が青色なら、翔の音色、翔のオーラはオレンジ色。そんな温かみがある。
(あぁ……これだ。これがキッカケで私は吹奏楽を始めようと思ったんだ)
目を閉じてサックスの音色を聴く。心の奥底まで届くような、優しい音色。不意に、初めて翔の音を聴いたあのつくしの川の川原の風景が蘇った気がした。
「……あ」
まただ。涙が出てきた。
翔の得意分野の曲なのかもしれない。バラード系統の曲は特に翔はうまかった。ビヴラートがよくかかっている。それ以上に、感情がこもっている。理屈では説明できない、そんな音色が翔の音色なのだろう。
気づけば、演奏はいつの間にか終わっていた。永遠に続くかと思うような時間だったが、時計を見たらまだ5時15分。やっぱり5分くらいしか経っていない。
「また泣いてる」
舞台から降りてきた翔が笑いながら近づいてきた。
「アンタのせいだからね」
陽乃は少し意地悪そうに言ってみた。
「へいへい。悪かったね。ほれ、ハンカチ」
翔はポケットからしわくちゃになったハンカチを出した。陽乃はちょっと顔をしかめた。
「これ、いつからポケット入ってるの?」
「今朝から」
「……。」
どう見てもそうは見えないハンカチだ。意外とルーズな面があるのかもしれない。
「いつまで泣いてるねん。ホラ、ぼちぼち帰らんともう6時になるわ」
「ん……そうだね」
「ほな、オレ先に楽器片付けてくるわな」
翔が先に部室へ戻ろうとした。どうせなら一緒に行ったっていいじゃないか。
「あ、ちょ……」
思わず次の瞬間に声が出た。
「待ってよ、翔!」
シン、と音楽室が静まり返った。
「え……」
翔も頬を赤らめて振り返った。
「あ、その、わ、私も一緒に片付け手伝う……よ」
そっと翔の横に立った。
「うん……」
翔はソッと陽乃の頭を撫でながら言った。
「ありがとな、陽乃」
さり気なく翔は陽乃を下の名前で呼んだ。
「どういたしまして」
二人はその後、一年にあった話をしながら楽器の片づけをした。
「本当に、一年って早いよね」
陽乃が譜面台をたたみながら言う。
「そやな〜。部活結成して、監査会クリアして。老人ホームに学校合宿。秋祭りにも出させてもろたし」
もう今年が終わりなのだ。今年一年、すごく早かった。
「翔」
「ん?」
翔の手をギュッと握り締めて言った。
「来年も、よろしくね」
「……あぁ」
たった一年で、こんなに翔と近くなれるとは思っていなかった。今、陽乃は嬉しさでいっぱいだ。
吹奏楽に出会えたこと。
美里や沙希、雪子たち同級生と出会えたこと。
そして、翔と出会えたこと。
これからも大変なことはあるだろうけれど、この仲間となら乗り越えていける。また来年、このドアを開けるのが今から楽しみだ。
「なに笑ってんの?」
翔が不思議そうに聞いた。
「別に」
クスクス笑いながら陽乃は外へ出た。
音楽室にもしっかり鍵をかけて、外へ出ると雪はいつの間にかやんでいた。それでも、地面は真っ白だ。
「ホワイトクリスマス〜!」
陽乃は積もった雪の上に寝転がった。隣に翔も倒れ込む。
「陽乃!」
「なにー!?」
一呼吸置いて翔が大声で言った。
「メリークリスマス!」
陽乃も一呼吸置いて返す。
「メリークリスマス!」
二人は笑いながらしばらく雪の積もる校庭に寝転がったままでいた。 |