第28話 父vs.娘
「ただいまぁ……」
陽乃はコッソリと玄関を開けた。今日は祥夫は土曜出勤だからまだ帰っていないだろうと思ってはいたが、それでも緊張する。
「いないみたい……よかった」
「何がよかったんだ?」
「ゲッ!?」
階段の上を見ると、祥夫がいかにも不機嫌そうな顔で立っている。パタパタと足音を立てて降りてきた。
「別にぃ。今日いいことあったからよかったって」
陽乃は冷静に言葉を返す。ふつうにしていればバレっこない。
「いいこと?」
「そう。私にだってそりゃあいいことくらいあるでしょ? 人間なんだから」
何を小説臭いセリフを吐いているんだろう。不自然じゃないか。
「いいこと、ねぇ」
ちょっと嫌味ったらしい言い方で祥夫が返す。陽乃はあえて気にせず2階へ上がろうとした。しかし、直後に祥夫が口にした言葉に足を止めた。
「男の子と会って、そりゃあ楽しかっただろうに」
沈黙が続く。
「おまえはコソコソとなんでそういうことをするのかなぁ」
陽乃の肩がフルフルと震えている。
「ねぇ、マズいよ」
夏樹がコッソリとキッチンから廊下にいる二人の様子を窺っている。その上に由利が乗っかるようにして覗き込む。最近、体が大きくなってきた夏樹とはいえ、まだ由利の体を支えるには辛いようだ。
「母さん、重いから」
「あぁ、ごめんね」
ふと下を見ると、いつのまにか祖母の知恵子までやって来ていた。
「なんだよ、ばあちゃんまで」
「あぁなると祥夫は頑固だからねぇ」
さすが息子の母親だけあり、知恵子はよく祥夫の性格をわかっている。
「昔っから娘、娘って大騒ぎするオバカさんだから困ったものだねぇ」
ハァッと知恵子はため息を漏らした。
「だからって、姉ちゃんがかわいそうだよ。俺よく佐野って人のこと見てきたけど、めっちゃくちゃいい人だと思う」
夏樹もため息を漏らす。
「アンタが原因なのはわかってるの?」
由利もため息を漏らした。
「わかってる。でもまさかこんなことになるとは思わないしね」
夏樹が翔を見かけたのは、午後3時頃のこと。つくし野川の土手でいつものようにサックス(陽乃がいつも佐野がね、サックスがねと騒ぐので夏樹もこの単語を覚えてしまった)を練習しているのを見た、と。その隣にトランペット(同上)が置いてあったので姉ちゃんきっと練習してるんだよ、ということを由利に伝えたら、いつのまにか後ろに立っていた祥夫に夏樹は詰め寄られ、こういうことになったのだ。
「俺、後で怒られるだろうなぁ……」
今回ばかりは怒られても仕方がない。夏樹も覚悟はできていた。と、その直後。陽乃の大声が家中にこだました。
「いい加減にしてよ!」
祥夫もかなり驚いているようだった。何か続けようとした祥夫だったが、陽乃は一気にまくし立てた。
「何なの? 私が佐野と一緒にいるところをどうせ後をつけて見たとか、夏樹とかお母さんが偶然私と佐野がいるところを見て聞き出して詰め寄って追いかけて見てきたとかそんなとこでしょ?」
(うっ……姉ちゃん鋭い)
しかし、陽乃の怒りの対象は夏樹ではないようだ。さらに怒った声で陽乃は続ける。
「だいたい前から思ってたんだけどさぁ、お父さん私を何だと思ってるの? おもちゃ? お父さんの操り人形? 小学生の頃からそうよね。勉強しろ、算数の公式はお父さんがやったようにこうして覚えろ、お父さんは水泳をやっていたから陽乃にもやらせよう、字が綺麗だと社会にも受けがいいからやらせよう。私の意見はそっちのけ。お母さんの意見もそっちのけ。私がダンスやりたいって言ってもダメ。バレエをやりたいって言ってもダメ。子ども会の廃品回収にも参加したいって言ったらあんなことをしている暇があったら勉強しろ。好きなものも自由に買えるようになったのは中学生のころから。挙句の果てに高校に入ってからも子どもが男の子と仲良くやりだしたら口出しして、ヒドいこと言ってその人との仲ぶっ壊してさ」
(姉ちゃん、ぶっ壊すはマズい……)
祥夫は汚い言葉遣いを嫌う。まして女の子ならなおさらだ。しかし、今日の陽乃はひるまない。
「それにずっと前から思ってたんだけど、夏樹と私とも扱いが違うよね。夏樹はサッカーもやらせてもらえるし、数学で5点取ったってお父さんは全然叱らないし。私なんか数学70点でも納戸に閉じ込められたことあったわよね。何それ、0点取ったから廊下に立ってなさいとかいうのび太くんのノリ? 要するにアレでしょ、お父さんは娘を大事にしたいしたいとか思って結局娘が自分の言うことを聞いていればそれでじゅ……」
パン!!
一発の乾いた音とともに、陽乃の左頬に激痛が走った。
「……なんだ、その態度は」
祥夫は顔を真っ赤にしている。
(ヤバいよ母さん! あれ、かなり怒ってる)
夏樹もさすがに焦ってきた。由利もオロオロしている。
(お義母さん、どうしましょ?)
(そうねぇ、今夜は炊き込みご飯を作れば機嫌が直るんじゃないかしら?)
いつもこうして的外れな答えを言うのが知恵子だ。祥夫もこうだったら良かったのに、と由利も思うことがよくある。
「……ほら、いつもそう」
陽乃は涙目にもならず、小さい声で言った。
「自分が言い返せなくなったらすぐに暴力」
「……。」
祥夫は何も答えずに陽乃を見下ろしている。
「最低」
陽乃はそのまま左頬を押さえながらゆっくり2階へ上がった。
「言い忘れてたけど」
祥夫は怒った表情で上を見上げた。
「約束してあげる。今度の期末テストで全教科90点以上じゃなかったら、部活辞める。お父さんのいうこともぜ〜んぶ聞いてあげる」
「本当だな」
「もちろん。それでお父さんが良ければ、ね」
陽乃はクスッと笑って自分の部屋へと入っていった。
「……生意気になりおって」
祥夫は怒りを隠せない様子だった。
「フゥッ……」
陽乃は部屋に入り、すぐにベッドに横になった。
カチッ、カチッと時計の規則的な音だけが聞こえてくる。急に立ち上がり、部屋をドタバタと走り回った。
「ど、ど、どうしよう!? 言っちゃった、言っちゃった!! あぁぁ〜心に決めていたとはいえヤバい〜!! 90点なんて取れるの私〜!?」
走り回っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「何? 誰?」
「俺だけど……姉ちゃん、ジュースいらね?」
ドアを開けると、夏樹が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「どうしたの、急に。珍しいじゃない」
「うん……さっきのことで」
夏樹は経緯をすべて話した。
「それで?」
「え、だから俺のせいで姉ちゃんぶたれちゃったし……」
「あ、そんなの気にしなくていいよ。夏樹は何にも悪くないんだから」
案外あっさり許してくれたので、夏樹も拍子抜けした。
「怒ってないの?」
「怒ってないってば」
陽乃はリンゴジュースをゴクゴクと飲んだ。
「姉ちゃんってさ」
「ん?」
「佐野さんと会ってから丸くなったよね」
ブボァッ!とジュースを吐き出したので「汚ねぇ!」と夏樹は思わず陽乃から離れた。
「な、なんでそこで急に佐野が出てくるのよ!?」
「え、いやだって今日だって佐野さんと一緒にいる姉ちゃん、スゴく女らしかったっていうか……」
ガシッと夏樹は襟をつかまれ、壁の隅へ追いやられた。
「やっぱりアンタ、私をおちょくりに来たんでしょう?」
「や、マジ違うから……ってか顔怖いよ?」
「失礼ね! 出て行って、ホラ早く!」
陽乃は強引に夏樹を外へ追い出した。こぼしたジュースをティッシュで拭きながら陽乃は夏樹の一言を思い出していた。
(佐野さんと会ってから丸くなったよね)
「……そんなわけないじゃない」
しばらく考えて、やっぱり「そんなわけない」ともう一度だけ呟いた。 |