ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
幻の哀しみに惑いて
作者:麻月千恵
 何度も繰り返しているうちに、自分を責めさいなんだ罪悪感など、擦り切れてなくなってしまった。
 かたくなに守っていたはずの貞操観念はどこへいった?
 裏切れば裏切るほど、断ち切れなくなるその関係を。永遠に続く拷問のように感じているのに。
 それでも自分からは何一つ変えることなどできなかった。
 できたのは一つだけ。
軽はずみに覚えた目配せで。
一度。
そして、二度。
視線を合わせて、思いきりあけた隙に、とおりすがりの誰かを滑り込ませる。
 眠る夜は、ただ、終わることだけを夢見ている。
そのしどけない時間がとてつもなく優しく思える自分は、何かがおかしいのだろうか?

 最後の砦とばかり思っていた相手と、昨日寝た。
目が覚めてみれば、どうってことはない。
何か気持ちが変わるかと思ったけど、何一つ変わっていない。
起きて、シャワーを浴びて、まだ少し時間があったから、ベットに横たわって。
あいつは、のそのそと起きだし、無言で浴室に向かった。シャワーの音。しばらくして出てきて。
来る前にコンビニで買った水を飲みながら、二日酔いにならなかったね。なんて話をした。
ホテルから出たら、朝というか昼だった。
ちょうど気になる映画があって、帰りに見ていこうと劇場の前でとまったら、
俺も。
なんていうから、
SFだよ?
言ったら少し考えて、
やめとく。
とあっさり別れた。
 あいつは、SF系映画は全く見ない。知ってて言った。
別れるタイミングを、探すのが面倒だったのは、きっと私のほうだ。
 映画を見終わった後、ケータイの電源を入れたとたんに剛からメールが入った。
今日は、仕事を早く切り上げられそうだから。と書いてあったから、地元の駅で待ち合わせた。
昔はこんなことの後に剛に会うことが、怖かった。
それがいつのまにか楽しくなった。
でも慣れた。
今はもう、何も感じない。
 地元に帰る電車の中で、あいつにメールをしたら、いつもどおりのメールが返ってきた。
関係が変わることを、期待したくはない。
私が何も思っていなくても、向こうに変化が起きていたら、それはそれで面倒だ。
 最後の砦。
ずっと、そう思っていた。
踏み越えるのを恐れていたのはなぜだったんだろう?
あいつの気持ちは知らない。
次がどうなるかは、まだ分からない。

「なんだ、見に行くなら誘ってくれればよかったのに。」
映画の話をしたら、剛は多少悔しがって言った。
 見に行く時間なんてないくせに。と言ったら、そうだけど。と苦笑いして。
剛はSF映画が好きだ。宇宙空間の映像を見ているだけで目がキラキラしているのを知っている。
アクション映画も結構好きらしいが、SFの比じゃない。
最初に部屋に行ったとき、飾っていたフィギュアを恥ずかしそうに隠したことを覚えている。
『こんなの持っててオタクっぽいだろ?』
うつむいた剛の顔を、私は、なんだかかわいらしいな。と思ったのだった。
「で。どうだったの?面白かった?」
まあまあかな。なんて曖昧な答えをして、アイスコーヒーを飲む剛をぼうっと眺めた。
今日、切り出そう。
いや、明日にしよう。
そんなことを、常に考えているときがあった。
けれど、いつからか考えるのが面倒になり。
剛がそれでいいならいいんじゃないか。と思うようになり。
 側にいてくれれば誰でもいいなんて、思ってない。
剛じゃなきゃだめなこと、私にはきっと一杯ある。
でも、必ずしも彼じゃなくていいこと、実はたくさんある。それだけのことだ。
 考えるのが、もう面倒だと思ったのは、いつだったんだろう?
別れる理由は特にない。一緒にいて辛いわけじゃない。
自分を大切にしてくれることは、いつも伝わってくる。
それを裏切っていることが、ひどい罪悪感だったはずなのに。
「そういえば、昨日、田代、なんか言ってた?」
ふいに、剛が聞いた。
私は、状況が分からなくて、首をかしげた。
「昨日、飲んだんだろ?田代が言ってた。」
なんだか落胆した気分で、私はうなづいた。
「なんか、田代とお前がそんなに仲良くなるなんて、ちょっと意外だよな。
大学時代、あれだけ意見合わなかったのに。
昨日だって、俺じゃなくて、お前に相談がある。的なこといってたもんな。」
昨日のことを、田代は剛に言っていたんだなと知ったら、急に気分が萎えてきた。
田代に「ちょっと相談がある」と言われて、剛を誘おうとしたら、田代に断られた。
今までも二人で飲んだことはあるが、「剛が来られなくて」だった。
だから、昨日は。何かあるのかと思って、剛には言わないでおいた。
「何か」を期待していたのは自分のほうだ、気づいたら、自分が馬鹿らしくなる。
そうだ。よく考えれば、田代が剛を裏切るはずはない。
剛を傷つけるようなことは絶対しない男だ。
だから、私は田代と、安心して会えていた。
これからも。ずっと。そう。関係を変えたりはできない。お互いに。
「で、なんだった?
 わざわざお前に話したい相談ってさ。」
剛に聞かれ、ゆっくりと昨日のことを思い出した。
何の話をしていただろう?
仕事の話をして、友達の話をして。剛の話をして。
そうそう、上司が家を買った。先輩に子供ができた。そんな話。
それで。そうだ、最近車が欲しいんだけど手ごろなのが見つからないってぼやいてたっけ。
ああ、それから。彼女と別れようかと思ってるなんて。話してた。
向こうが、結婚を急いでいるらしい。でも、このままいっても結婚はない。
頼られすぎるのが正直辛い。そんなことを言ってた。
「なるほどな。彼女とうまくいってないからお前なのか。」
寂しそうに笑った剛に、優越感を感じている自分がおかしい。
あいつは、酔ったせいで少し泣いていた。
彼女のことを大切に思っていることは変わらない。
でも、自分が辛いときに彼女は頼りにならない。彼女は分かってくれない。
このままずっと我慢し続けるなら、自分がまいってしまう。
だけど、自分のことで手一杯の彼女にそれを言い出すのが、もっと辛い。
その涙を、今、剛を眺めているのと同じ角度で、見つめていた。
あいつが、ふいにテーブルにのせていた私の手を自分のほうにひいた。
手をつないだ。はたから見れば愛し合う恋人同士のように、指を組んだ。
少しだけ飲むスピードを上げた。
 あいつは酔っていた。そうじゃなければ、その線を超えることはなかった。
私も酔ってしまおうと思った。
考えるのは、もう面倒だった。
しどけなく優しい夜は、きっと、相手が誰だって同じように訪れる。
『お前は、どうすんの?剛とこのまま結婚すんの?』
NO.
とっさの言葉を飲み込んで、曖昧に笑った。
なぜか私は、あいつの前で、剛を愛していないそぶりを見せたくなかった。
「本当は、剛にも聞いてみたかったんじゃないかな?
今度、電話とか、してあげれば?きっとよろこぶんじゃない?」
寂しそうな顔をみていたくなくて、剛に助言した。
そのうちな。
そういって、アイスコーヒーに再び口をつける剛を、私はまた眺めた。
 目の前にいる剛も、あの時恥ずかしそうにうつむいた剛も、同じなのにどうして違うんだろう。
あの時と同じように剛を思っているのに、なぜ求めるものは変わるんだろう。
私、また、裏切ったよ?
本当は気づいてるでしょう?
だから、早く言って。その言葉を。
何度その言葉を、心の中でつぶやいただろう。
すべてを受け入れる振りをして、逃げ続ける私は卑怯なのかな。
この関係を変化させるのも、何かを切り出すのも。考えるのすらも、面倒になっていて。
だから、剛から言って。
「鳴海さ、確認なんだけど。俺の親と会うって話、進めていいんだよな?」
剛は、顔を上げると、私の目をしっかりと見て言った。
私はその目を見つめ返す。
どうして私は、あの一言を言うのをやめてしまったんだろう?
私たちの気持ちは、どうしてこんなに遠いんだろう?
終わることを恐れているのは、剛なの?それとも私?
ずるい私が、また言葉を飲み込んで、無意識にうなづいている。
剛は、手帳を取り出して、具体的な日程をいい始めた。それを他人事のように眺めてしまう。
ねえ、剛。
私たちが終わったのは、本当はいつだったの?
私は、手帳を探すために、かばんに手を突っ込んだ。

 田代から、映画を見ようと誘われたのは、それから2週間ぐらいたったころだ。
「剛誘ってよ。」
と、断ったら、
「恋愛映画。あいつ見ないじゃん?それにお前暇そうだから、相手してやろうと思って。」
それが、田代なりの気遣いだったと知って、悪い気はしなかった。
剛の会社はちょうど繁忙期で、剛の親に会う日までは一切会わない。
私は、いつもどおりブラブラと時間をつぶすように暇をもてあましていて、親に小言を言われながら家にいるよりはましかと思って出かけた。
 剛とは大学時代からの仲で、社会人になっても、関係はあんまり変わらない。会社は別々で、繁忙期も別々で。最初はお互い大変で会う日も少なかったけど、余裕が出てからは、お金もあるし、いろんなところに遊びに行けるようになった。
 会えないことが、最初は辛かった。でも、それも慣れれば平気になる。一人で映画にも行けるようになったし、したいことは自分でする。暇のつぶし方はいくらだってあるわけで。
そうすることで、二人の時間をもっと大事にできると思っていたかった。
田代が絶対に彼女を連れてくると思って行ったら、待ち合わせ場所にいたのは奴一人だった。
大学時代、田代が映画に行こうと言い出し、剛を誘った。すると、映画好きの私のところに話が来て、せっかくだからダブルデートにしよう。と田代が言い出したのが始まりで、私たちはよく4人で映画を見ていた。田代の恋愛遍歴は派手だったので、大学時代の彼女は常に変わっていたのを、覚えてる。そんな田代が3回も同じ女性をつれてきたので、これは本気だ。とうとう田代も身を固めるか。と剛と盛り上がった。あれは。もう2年も前の話だ。
「あれ?彼女は?」
「ああ、別れた。」
あっさりといった田代に、びっくりしてしまった。
「だって、無理なもの続けてもしょうがない。」
「あんなに長く付き合ってたじゃない?田代もすごい大事にしてたし。」
「大事だから、長いからって。それは理由にはなんないよ。」
納得いかなくて問い詰めようとした私を制して、田代は早く行かないと映画が始まってしまうと私を促した。釈然としない思いを抱きながら、私は田代の後を追った。
 映画が終わったら、仕事帰りの剛と合流しようかな。さすがに、田代カップルを見て自分が孤独を感じない自信がなくて、さっきメールをしたら、当然剛の反応は芳しくなかった。剛が田代のことを心配し、寂しそうな顔をしていたのが、思い出されたけど、結局はその程度か、なんて思った。
「剛に終わったら合流しようか?ってメールしたんだけど。」
といったら、田代は一瞬変な顔をしてから、今忙しいって言ってたけど、仕事終わるのかな。とつぶやいた。
 田代と剛が、いつから友達だったのかは知らない。
二人には、私には入れない空気みたいなのがあって、その信頼関係が深いこと。それだけは分かる。
だから私は安心して、剛を介して、彼と友人になった。
「ねえ、田代、今日、最初から一人で来る気だった?」
暗くなり始めた映画館で、私はふいに聞いた。
「ああ。」
即答だった。
「剛、知らなかったみたいだけど、言ってなかったの?」
返事がなかった。
私は田代が何かを言ってくれるのをまった。
けれど、そのまま。映画は始まった。
 なんのひねりもない。本当にただの恋愛映画だった。
人を愛することは素晴らしい。人を思いやる心を忘れちゃいけない。
そんなこと、映画でわざわざ言われなくたって分かってる。説教じみた話ならうんざりだ。
けれど、悪い映画じゃなかった。
ありがちなハッピーエンドは読めたけど、それでも、少しだけ幸福な気分になれる。
なぜ田代は恋愛映画なんて見たいといったのだろう?
田代が別れたことと、今日のことは何か関係しているんだろうか?
自分との関係を変えたいんだろうか?二人で何の話があるというのだろう?
そうなったら、私はなんて答えるんだろう?
 長いエンドロールを見つめながら、私は田代の無言の意味を考えた。
田代の横顔を盗み見たが、彼の表情を読み取ることはできなかった。

『映画どうだった?
 仕事つまっちゃったから、やっぱ無理だわ。
 また、田代の悩みでも聞いてやってよ』

ケータイの電源を入れて、すぐに届いたメールだった。
剛来ないって。と言うと、田代はそう。と答えただけだった。
これからどうする?と聞くと、田代は飲み屋を指差した。
田代がちょっと見てくる。と言って、歩き出したのを見送って。
その間に私は、ケータイの電話帳で、今、確実に暇ですぐにココに来られそうな名前を探した。
 二人でいるのが辛いわけじゃない。
だけど、ダメだ。
戻ってきた田代が連れていたのは地下2階の赤い居酒屋の客引きだった。
「何名様ですか?」
田代が二人、と言う前に「4人です」と言った。
驚く彼に、「築地と、浅川が来るって。」と短く告げた。
「4名様ですね。すぐにお席を用意できますので。」
客引きがケータイで連絡を取り始める。
「いつ誘った?」
田代の声は少し低く聞こえた。
「今。二人より大勢のほうがいいと思って。」
ちょうど二人のどちらからかメールが届いて、ケータイが震えた。
「浅川も築地も、田代に会いたがってたしさ。失恋の後はぱ〜っと飲むに限るよ!」
明るく顔を上げて、田代を見ると、あきれた顔でため息をついている姿が分かった。
「浅川は、もうすぐ来るって。
築地はバイト先がここから3駅ぐらいのことらしいから、30分ぐらいで来られるみたい。」
そんな様子が目に入らないように私は続けた。
「お席ご用意できましたんで、ご案内します。」
と、客引きがいい、田代は憮然とその後に続いた。
私はメールを気にするふりをして、ケータイをいじりながら、あとにくっついた。
どんなに彼が不機嫌になったとしても、譲れない気がした。
今、二人でいることが自分には苦痛だ。
どんな真意があるのか、分からない。というか、知りたくない。
 店の前まで来た。
田代が客引きのあとに続いて、地下の店に向かう階段を降りていく。
続いて、踏み出したとき、ふいに既視感を感じて、私は立ち止まった。
あたりを見回す。
知ってる。
この階段。この景色。この感覚。
でも、どこで?
胸に湧き上がる騒がしい思いを振り切れない。
抗っても、無駄なのかもしれない。
今日、きっと何かが終わる。
それが望むものであっても、なくても。
階段を一歩一歩降りていく田代の背中を見つめた。
私は何を失うんだろう。
あの映画。田代は、私に何を伝えたかったんだろう?
このまま逃げてしまおうか。
私は、まだ何かを失いたくはない。
 思わず振り返った瞬間、「あ、やっぱり」と言う声が聞こえた。
「やっぱり、鳴海先輩だと思ったんですよ!すぐわかってよかった!」
目の前には浅川がいた。
あわてて、階段の下を見た。
私を見上げている田代が見えた。
「よう。久しぶりだな。浅川」
田代の声が響いた。
「田代先輩!ホントひさしぶりっすね!」
浅川に促されるように、階段をゆっくりと降りていく。
次第に近くなっていく田代の姿に、こわばっていく自分を感じる。
 浅川と田代の声が、どこか遠くから聞こえてくるように思える。
逃げるために、浅川を呼んだはずなのに。私は何かに捕えられたように、震えていた。

「田代先輩と、鳴海先輩って、なんだかんだで超仲いいですよね。
 俺が剛先輩なら、間違いなく疑いますよ。なんで、二人で映画なんかみてんすか!」
食べ物のメニューを物色しながら、浅川が言った。
「俺が鳴海とは、ありえないっしょ。」
田代がそういったので私も、ないない、とうなづいて笑った。
「で、何見にいったんすか?」
今日見にいった映画のタイトルを告げると、浅川は「ありえないっす」と驚いた。
「でしょ?ありえないでしょ?
 どうして私が、たまの休みに田代と恋愛映画みなきゃいけないんだっつうの。って感じでしょ?
 大体、あの映画はありなの?」
と私がまくしたてる。田代はいたって普通に。
「ああいう馬鹿みたいに単純な話が恋しくなることもあるじゃん。」
と笑った。
「別れたばっかだから、誰かが恋しいんじゃないの?」
涼しい顔の田代の顔を少しでもゆがませてやりたくて、私は言った。
「え?先輩別れたんですか?」
浅川が身を乗り出す。田代は間をおかず、うなづいた。
「なんでですか!あんなに長く付き合った人、いなかったじゃないですか!」
思うとおりの話の展開になった。
大学時代、部活の後輩だった浅川は、色恋ネタがダイスキだ。
大抵の部活仲間のネタを握っていて、話していても次から次へとそれ系の話題が出てくる。
女子の噂話よりも強力な浅川ネタは、卒業した今でも健在だ。
「長いからどうだっての?
 一緒にいられないと思ったら、それで終わりでしょ。」
しかし、田代は浅川の勢いには乗らずに流した。
「そう、思わない?鳴海は。」
と、ふいに振られて、私は驚いた。
田代の目が自分をまっすぐにとらえていた。
「え〜。鳴海先輩とこもやばいんですか?」
浅川の目が自分に注がれる。
「んなわけないじゃん。」
多少つまったけれど、きちんと応えられたと思う。
田代が本当に?と視線を向けてくるのが分かる。
「意外に本質はああなのかもな。」
「…何の話?」
「恋愛。あの映画みたいに、好きとか、嫌いとか、単純なもんなのかなって。」
田代はまだ私を見つめている。
「田代先輩は、単純すぎますよ。
 大学時代、それでどれだけ泣かせてきたんですか?」
浅川が聞く。
私は視線を泳がせて浅川を見る。
「俺だって同じだけ、泣いてるんだよ。
いつだって本気だったし。」
田代の視線を、それでも感じる。
「え〜?」
浅川があからさまに非難の声をあげる。
「ホント、女の敵でしょ?こいつ。」
私は浅川に笑ってあいづちを求める。
 そして、頼んでいたビールが来た。
田代が顔を背け、おしぼりを手に取る。
私は浅川にメニューを開いて、なんこつのから揚げと、ポテトフライと、枝豆を頼んだ。
それはさすがにジャンキーすぎるだろ。と田代が突っ込んで、店の名前がついたサラダと、ナスの一夜干しを頼んだ。浅川は、散々なやんだ挙句、チヂミとトンペイ焼きを頼む。
店員が注文を確認してその場を後にすると、田代はまだ目を背けたままだった。
私たちは、軽くジョッキを合わせて、飲み始めた。
お通しは切干大根。田代はにんじんが嫌いだから、お通しは私のものだ。
何も言わずに、自分のほうにお通しを引き寄せる。
田代は何も言わず、ジョッキをあおった。
「なんすか、それ。」
と、いきなり浅川が言った。
何のことか分からず、浅川に不思議な顔をすると、
「なんで、田代先輩のお通しを、フツーに奪い取ってんですか。」
「いや、だって。田代はにんじん嫌いだから、切干大根ににんじん入ってたら絶対食べないの。
 でも、私は切干大根のにんじん入りは結構好きだから…」
「そういうことじゃないです。
 なんか、その自然さが、変じゃないですか?
 熟年カップルみたいな。
 やっぱ、俺。剛先輩だったら、絶対キレますよ。」
その言葉に、はっとして、お箸が止まる。
「馬鹿だな、こいつはお前がにんじん嫌いだと知っても、おんなじことする女だよ。
 だから、俺は、こいつはないって言っただろ?」
間髪いれず、田代が返して、なんだか安心する。
「そろそろ、築地来るかな?」
話をそらそうと、ケータイを取り出す。
「築地といえば、あいつも最近別れましたよね。」
浅川が話に乗ってきたので、私は安心して続けた。
「そうそう、あいつ、荒れて荒れて、大変だったなあ。」
築地は、思い込むと一直線に人を好きになるタイプで、恋愛での浮き沈みが激しい。
「俺も、大学時代、結構つき合わされたな。」
「マジで?田代先輩もですか?」
メールが来ていた。
「築地、もう着くって。」
浅川がすっくと立ち上がった。
「じゃあ、俺、迎えに行ってきます。あいつ、この辺詳しくないから」
私は、自分が行くといおうとしたが、浅川が席を後にしたほうが早かった。
田代がビールをあおった。
私も、つられてビールをあおった。
急に店が騒がしくなった気がした。
いろんな音が耳に飛び込んでくる。
妙な沈黙のせいで、騒がしいのがなお気になった。
もりあがった合コンの男女の声。
店員を呼ぶ声。
厨房から聞こえてくる音。
混じりあって、思考をさえぎる。
どんな話をふればいい?
「お前さ。築地と浅川と、前から仲よかったっけ?」
田代の声は、やたらとクリアに聞こえてきた。
「大学卒業して、1年くらいかな。
 ちょうど飲む機会があって、ほら、あいつらも就職したてて悩んでる時期だったから。
 色々と相談をうけたりしたのが、きっかけで…」
「ふうん…。」
会話はそれで、終わった。
田代の機嫌が、悪くなっているのは確実のように思えた。
もう、何か話題を探そうとするのは、やめていた。
浅川が、早く帰ってきてくれないか。それだけを待って。
「築地って、剛がめちゃかわいがってた後輩だったよな。」
田代がつぶやいた。
「そう。今でも、剛を尊敬してるみたいだよ。」
何かに気づいたように、田代が私を見た。
「なあ、鳴海、」
田代の言葉に顔をあげた。視線の先に、築地と浅川の姿が飛び込んできたとき、私は、いいようのない安心を、覚えた。
「築地!」
手を上げて、田代の言葉をさえぎった。
「先輩、遅れてすいません!」
築地が、いかつい体を小さくして、軽く礼をする。
田代が、すべてを見透かすように、私を見つめている気がした。
『なあ、鳴海…』
その先に、どんな言葉が続くだろう?
築地と浅川と。4人でテーブルを囲みながら、田代のことばかり考えている自分がいた。

 『俺、剛先輩ちょっとおかしいと思うんです。』
何度か一緒に飲むうちに、そんなことを、ぽつりと、築地がもらしたのはいつだったのか。
築地と浅川と、飲むようになったのは、社会人になってからだった。
私は後輩とは特に仲がよかったわけでもなかったが、築地とは唯一、業種が同じだった。悩みを聞いていた剛が、同じ業種だからこそ出来る相談もあるだろうから飲んでやったら?と言ったこともあって、最初は3人でという話だったのに、剛が来られなくなった。築地が、二人きりは剛に悪いといって、浅川をつれてきたのが始まり。
口下手な築地に比べると、浅川は、恋愛ネタが好きで、とにかく次から次へと話しまくって私たちを笑わせた。和んだところで、仕事の愚痴が始まって。それでも明日もがんばろう。大抵はそんな話。
 でも、3人で飲むのは思いのほか楽しくて、剛を介していたはずの関係が、次第に私を介した関係に変わり始めたのに気づいたのは、築地のふいの一言だった。
『なんか、最近鳴海先輩と会うことのほうが多くなった気がする。
だって、剛先輩、前に比べたら、格段に付き合いが悪くなったし、
 この前会ったときも。
今まで何でも話してくれたのに、なんか変に押し黙ったりするんですよ。
 あれ、なんなんですかね?俺のこと、嫌いになっちゃったんすかね?』
築地が本気で悩んでいる風に言うので、剛は仕事で忙しいだけだよ、と慰めた。
『それ、違うって、きっと』
築地があんまり「剛に嫌われている」と言うので、浅川はカラカラと笑いながら言った。
『なんでそう言い切れるんだよ?』
築地は笑われたのが癪なのか、怒ったように言った。
『俺の感じだと、剛さん、多分、夜の付き合いとかに借り出されてんだと思うよ?
 鳴海先輩、そう思いません?夜、連絡つかないときとかないですか?』
浅川が、特に気にする風でもなく言うので、私はよく分からないと答えた。
正直、あまり信じたい話ではなかったけれど、浅川が、剛の業種ではそういうことはよくあることで、ないほうがむしろおかしいんじゃないのか?という話をしているうちに、そういえば、あの業界ではよく聞くなあ。なんて思った。不思議とそんなに怒りは湧いてこなくて、社会人だもん、そういうこともあるかななんて思いながら、胸がざわざわしていた。別に夜の付き合いをして、そういうところに行っていてもかまわない。でもどうしてそれを言ってくれないんだろう?と。私は別に怒ったりなんてしないのに。
 その日は、御簾で区切られた個室風なところで飲んでいた。
私は剛に連絡を取りたくなって、ケータイを持って席をたった。
店の外にでて、電話をしたけれど、つながらなかった。
特に用もなかったけど、着信だけあるのも微妙かと思って、メールを打った。
そして、席に戻った。
 そうだ。あの時。
あのときの店も、地下だった。
ケータイが通じないから、私はわざわざ店の外に出たんだった。
そして、席に戻るため、ゆっくりと階段を下った。
今日と同じように。
「…先輩?鳴海先輩?何飲みますか?」
浅川の声が急に近くで聞こえた。
「へ?」
私が変な声を出して浅川を見た。
飲んでるときに勝手にトリップすんのやめてくださいよ。といいながら、築地がメニューを差し出す。
考えたくなくてビールと答えると、先輩がそんなに続けて何杯もビールっての珍しいですね、と言われる。
酔っているつもりはなかったが、なんだか目の前がぐらぐらと揺れている気がした。
「鳴海?お前、大丈夫?」
田代の声がずいぶん遠くで聞こえている。
「平気。平気。」
あれ。これ、どこかで言った。
『平気。平気。大丈夫。続けて。私は大丈夫』
あれ?どこで言った?
「鳴海」
田代の声がする。
「続けて。」
私はそういったつもりだったが、ふわっと気分が楽になって、壁によりかかった。
先輩?大丈夫ですか?
浅川の声が聞こえる。
平気、少し眠れば大丈夫。
うつつの中で答える。
鳴海先輩!
築地の声。
いいよ。少し寝かせとけよ。ホントにダメそうだったら、剛呼ぶから。
田代の声。
でも、鳴海先輩が酔うって、久しぶりに見ましたね。
浅川の声。
ああ、誰かの声が混じりあって、遠くから聞こえてくる。
俺、鳴海がこんなに酔うとこ、今まで見たことなかったけど。
田代先輩でも見たことないんですか?じゃあ、やっぱあの時、鳴海先輩相当無理してたんだ…。
あれは、築地が悪いよな。完全に。
俺だって、今でも後悔してるよ。なんで鳴海先輩なら大丈夫って思ったんだろ?
…お前たち、鳴海に何言ったの?
まあ…その…。俺が、悪いんですよ。鳴海先輩、剛先輩が業種的に夜の付き合いがあるのとか、結構平気そうに受け流してたんで、そういう話も平気なのかなと思って。思わず言っちゃって。
失恋して、まともじゃなかったもんな。あの時。
…浅川も、止めてくれればよかったのに。
いや、俺も鳴海先輩なら大丈夫って思ってたところ、あったのかも。
なんだよ。そしたらお前も同罪だよ…。
でも、俺。あの後の鳴海先輩、さすがだと思ったな。あの話聞いたすぐは、確かにすっごい酔っ払ってたけど、結局次に会ったときにはケロッとしてたもんな。やっぱ剛先輩との絆の深さみたいの感じちゃったよ。
 俺も。もとから剛先輩尊敬してたけど、鳴海先輩に対する尊敬が勝ったよな。あの瞬間。
 そうそう。懐が深いって言うか。俺も、そういう相手に出会いたいっていうか…。
 なあ、築地…それって、いつごろの話?
 いつだったかな…。俺が大失恋したころだから、1年ぐらい前かな…。
 違うだろ?もう少し前だよ。確か秋で。お前薄着すぎて寒いって言ってたから、1年半以上まえだろ?
 惚れっぽいお前にしては、失恋の引きずりすぎててうっとしかったころだから、覚えてる。
 そうだったか?
 なんで当人が忘れるんだよ。感じ悪いな。
 一年半以上、前か…。
うっすらと目を開く。
見えたのは居酒屋の茶色い壁だ。
「…そう、やっぱり。」
不機嫌そうな田代の声が聞こえた。
「すいません…でも、鳴海先輩、今では全然気にしてない風だし…」
「謝んなくていい。別に責めてない。
 それに、これは、剛と鳴海の問題だから。
 俺は、どうしてそうなったのか、知りたかっただけ。」
急に頭がさえてきた。
そう、これも、あの時と同じように。
目を開く。
「鳴海?起きた?」
目の前に座っている田代が気づいて、覗き込んでくる。
「起きた。ごめん、ごめん、ねちゃって。ここんとこ寝不足で」
後輩たちに笑って見せた。
「無理しないでくださいね。なんかウーロン茶とか飲みます?」
築地が気を回して頼んでいたお茶を差し出してくる。私はそれを受け取って、ごくごくと飲んだ。
のどに滑り込んでくるその苦さが、醒めた頭が。
ふいに、あのしどけなく優しい時間に逃げ込みたいと、訴えかけてくる。
「鳴海。剛、迎えに来るって。」
だから、田代のその言葉が、ひどく恐ろしいもののように思えて、固まった。
「でも、だって…剛、仕事だって…」
私は途切れ途切れに言った。
「仕事よりもお前が大事だろ?お前が酔いつぶれるなんてめったにないことだし、あいつ、焦ってた。」
田代が普通に言うのが、信じられなかった。
「俺も、あんなにあわてた剛先輩の声、初めて聞いたかも。」
築地が茶化すように言う。
「やっぱ、鳴海先輩と剛先輩は特別ですよね」
浅川が感心したように続けた。
分かってる。剛に愛されてるのは、分かってる。分かってるけど。
「…どうして呼んだの?
 私、一人で帰れるし、剛の邪魔はしたくなかったのに。」
ひどく冷たい汗が、背中を伝っているような気がした。
剛に会いたくない。
「別に、迷惑だったら、私のこと、ここにおいていってもよかったのに!」
わけの分からないことを口走り始めている気がした。
「迷惑なんて言ってないし。つか、何急に怒ってるの?剛呼んだのがまずかったわけ?」
田代がなだめようとしてるのが分かる。
でも、分からない。
なんで?
もし、帰れなくなったら、また前みたいに寝ればいいじゃん。
二人で会いたかったのはそのためじゃないの?
ああ、違う。
それを拒んだのは私だ。
なんで?
あの夜に逃げ込みたかったのは私だったはずなのに、どうして私は田代を拒絶したんだっけ?
醒めた頭の中で、何もかもがぐちゃぐちゃと混ざり始めた。
もう、これ以上、考えたくない。
「剛は、来るって言ったの?」
「ああ。
「…他の誰かと一緒にいるのに?私のところに来るって?」
言葉にしたときには、もう、すべてが終わるんだと分かった。
「先輩?」
築地が分からないというような顔で、こっちを見ている。
「…剛が来たら、帰った。って。
 一人で大丈夫だから。夜は長いんだから、楽しんで。って伝えて。」
私は、そういい捨てると、財布から、一万円札を出し、それを浅川につきつけた。
「払っといて。誘っといてごめん。」
かばんをひっつかむと、私は小走りで、居酒屋を出た。
ゆっくりと降りてきたさっきの階段を必死に駆け上がり、地上に出た。
築地が失恋の苦しさから、剛の話をした。でも、その前から。私は知ってた。
剛の手癖が悪いことも、私に隠れて遊んでいたことも。
 個室の御簾ってのがよくない。居酒屋は暗いし聞こえないと思って、思わず秘密を話してしまう。
あの日、メールを打ち終わって一旦戻った私が御簾ごしに聞いたのは、浅川がつかんでいた剛の浮気話だった。築地に、鳴海先輩の前で二度とそういう話するなよ。と言っているところまで聞いて、他にも色々ありそうな予感がした。
信じていたものが、足元から崩れていくような気がしていた。
私は、その場を後にして、剛に連絡を取ろうとさっき降りた階段を必死に駆け上がった。
ケータイを手にとって、メールを打とうとした。
でも、なんて?
最初の一言が思い浮かばなかった。
そんなことを聞いて、どうなるっていうの?そう自問して、ケータイをしまった。
確かに剛は、私と付き合う前に、色々あったと聞いている。
でも、私を選んでくれたときから、それはおさまったのだと信じていた。
 裏切られた、と、一瞬でも思った自分が、馬鹿だと思った。
剛は最初からそういう人だった。
私は、そういう彼を好きになった。
信じていた、なんて。私は彼の本質を知っていたのに目を背けていただけに過ぎないんだと。
築地からはっきりと、剛のことを聞いたときは、これですべてを問いただせると安堵すらした。
でも、できなかった。
失いたくないほど剛が好きだったのか?
かばんの中でケータイが振動している。
見なくたって分かってる。きっと剛だ。
でも、今はどうでもよかった。
私は、かつかつと靴の音をさせながら、早足で歩き出す。
何度も震えるケータイがうっとおしいから、歩きながら電源を切った。
 突然、眠れなくなった。
会えないのは、本当なのか?嘘なのか?
毎日毎日考えている自分。馬鹿らしいのにいつまでも辞められなかった。
夜の長さに耐えかねて、駅前に座った。
意味もなくただ、そこにいるだけで声をかけられると知ったのはいつだっただろう?
自暴自棄になっていたわけじゃない。
今でもはっきり記憶がある。
 剛と同じことをしてるんだ。
自分の単純さをどこかでおかしいと思いながら、それが一番いいと思っている自分がいた。
剛と同じように、剛がするように。
 きっと彼も、私じゃなくてもいいことが、いっぱいあるんだ。
私も、増やそう。彼じゃなくてもいいことを。
 最初は罪悪感で、泣いた。泣いて泣いて。でも、眠れた。
だんだん楽しくなって、剛に仕返ししているような気分になって、はまった。
でも、今はただ。
どうしてこんなことをしているのか分からない。
答えなんて出ているのに。
それでも剛のことを失いたくない自分が、馬鹿らしくて、悔しい。
帰ろうと、電車に乗った。
でも。
途中下車。
 繁華街の駅前。
あまりに耐えられない夜、ここに座る。
剛の気持ちを、少しでも理解できるかもしれない。
愚かしい思いが、報われないことを知っているのに。
人波を眺める。
ここを通り過ぎる人々、それぞれに。それぞれの思いや人生がある。
そう思えば、なんだか少しは救われる。
自分と同じように、何かをもてあましている人間が、他にもいると思うだけで少し楽になれる。

だから、その人波の中、自分の方に向かってくる見慣れた顔に、私は驚いて目を開いた。
「鳴海。」
声は優しかった。
少しの沈黙の後、私はゆっくり口を開いた。
「…追いかけて、来てた?」
「知ってた。」
おどろいて顔を上げると、田代はまっすぐに私を見つめていた。
「知ってた?どうして?」
田代はなんともいえない顔で笑った。
「俺がどうして別れたか知りたがってたよな。」
何の話か分からず首をかしげる。
「お前のことが発端だった。
あいつが、お前がこの駅でナンパ待ちみたいなことしてるって言い出した。
 俺は信じなかったけど、あいつは剛のことも知ってたし、あんなカップルおかしいから嫌だって。
 あいつがあんまり言うから、俺、確かめに来た。
 本当にそうなら、剛に別れたほうがいいって薦めるつもりで。
 でも、ここに実際座ってるお前見たら、なんか、違った。
 なんか。違ったんだ。俺が思ったのと。実際に座ってるお前が。
 お前に、これを辞めろって、剛に別れろっていうのも簡単だけど。
 俺は…」
田代が口ごもった。
言葉を探しても見つからないのか、田代は黙り込んだ。
「ねえ、田代。
 どうして、私と寝たの?
 田代は、絶対に剛を裏切らないと思ったのに。」
田代は、はき捨てるように言った。
「…お前、馬鹿だろ。」
意味が分からなくて、田代を見る。
「好き、とか、じゃ。ないでしょ?だって。ちがうでしょ?」
「違くていいよ。」
田代は、はっきり言った。
「でも、多分、俺は…お前を。助けたい。」
田代が私の手をとった。
「行こう」
私は逆らわずに、立ち上がった。
終電近づく繁華街の人波に、逆らうように私たちは歩き出した。
どこに向かうのか、私は分からない。
でも、田代が知っている。
つながっている手から伝わるぬくもりに、すべてを委ねる。
 行き場所などわからないのに。
きっと、その先には、失うことしか待っていないのに。
何一つ、怖いものも、不安も、ないのが不思議だった。


「疲れた?」
田代が尋ねる。
「大丈夫。」
私が答える。
今、何時だろう?
田代と私は、他愛ない話を繰り返しながら、ただ、ただ、歩いている。
どこかへ向かっているわけじゃない。ただ、ただ、歩いている。
横断歩道で立ち止まると、田代が聞く。
「右?左?」
私は適当にどちらかを答えて、田代はそれに従ったり、無視したりした。
「私に聞く意味あるの?」
笑いながら言ったら、
「気分の違いが分かる」
と言うから、もっとおかしくなって笑いがとまらなくなった。
ひとしきり笑うと、またくだらない話を始める。
ふいに、田代が、「トイレ」と言った。
私はまたおかしくなって笑い転げた。
コンビニを探して、トイレを借りよう。と話した。
トイレを貸してくれるコンビニは2件目に見つかった。
 田代は私の手をずっと握っていて、トイレの前まで来て、私を見た。
「待ってて」
そういって、ゆっくりと手を離す。
つないでいた手が急に冷えたのを感じた。
コンビニの店内ライトは明るくて、今が夜であることが分からなくなる。
 かばんの中に手を突っ込んだ。
電源を切っていたケータイを見つめ、思い切って電源ボタンを押してみた。
着信は、10件。
メールは倍の22件。
 剛だけじゃなくて、浅川と築地からも。
「電話。する?」
トイレから出てきた田代に急に言われて、動揺する。
「嘘。ゆっくりでいい。」
田代は私の手をひったくるようにつかむと、コンビニを出てまたゆっくりと歩き出した。
「…どうして、そんなに優しいの?」
しばらくの沈黙の後に、私は聞いた。
「お前のことが、好きだから。多分」
あんまり普通のことのように言うので、びっくりして立ち止まる。
振り返った田代の顔は、暗くてよくわからなかった。
「だから、違くていい。その、好き、じゃなくて。」
「そっちの好きのほうがいい。」
私は、言った。
「じゃあ、どうする?剛を裏切る?二人で。」
やっぱり田代の顔がよく見えない。
「もう、裏切ってる。」
つながった手を離そうとした。
田代は、はなれないように手を強く握ってきた。
「鳴海は、どうしたい?」
抗うように手を離そうとする。
「なあ、お前はどうしたい?鳴海。」
答えられなくて、黙り込む。
「考えて。鳴海が、どうしたいのか。」
田代はそういうと、またゆっくりと前を向きなおし、歩き出した。
私はまた、それについていった。
「右?左?」
「まっすぐ。」
「じゃ、右ね」
「まっすぐ?左?」
「右」
「じゃ、まっすぐね」
かみ合わないのか、合わせないのか。
田代は私を引きずるように歩いていく。
「田代。」
「何?」
「私のこと、嫌いになって。」
横断歩道の信号待ち。何十回かの行き先確認の後。
私の言葉に、田代が振り返った。
「それは、無理だな。」
私たちは見つめあった。暗いから分からなかったけど。多分。
「嫌いになって!お願い、嫌いになってよ!」
耐え切れなくて、私は声を荒げた。
田代は何も言わずに、前を向きなおした。
「青だ。行こう」
私は歩き出さずに、田代の手を引いた。
田代がもう一度振り返って言った。
「俺の気持ちは俺のもんだよ。お前を嫌ったりできない。」
頬を、何かが濡らした。
「ねえ。田代。私はどうすればよかったのかなあ?
 どうすれば、剛ともっとうまく付き合えたんだろう?
 別れるしかないって分かってるのに。許せないこと一杯あるのに。
 どうして、嫌いになれないのかな。どうして離れたくないのかな…。」
言葉にしたときには、もうその場にうずくまっていた。
鳴海…。
やさしく私を呼ぶ田代の声に、もう涙が止まらなくなっていた。
田代は私の腕をつかんで立ち上がらせた。
そして、かばんの中から私のケータイを取り出すと、それを押し付けてきた。
「決めろよ。どうするか。
 そうじゃなきゃ、俺もどうするか決められない。」
私は田代を見上げ、おずおずとケータイを受け取った。
「田代のウソツキ。さっきはゆっくりでいいって言ったくせに。」
恨めしげに田代を見る。
「…俺は自分の感情に素直でいるって決めてる。
 お前みたいな思考回路は、よく分からない。
どうしてあんなことしてたのかも、実はよくわかんない。
 でも、俺は、お前がそういう人間じゃないって知ってる。
 剛とお前は違うよ。お前があんなことしたら、自分を傷つけるだけだ。
 俺は、それが嫌だと思った。だからここにいる。
剛がどう思ってるのかは、お前が自分で確かめろよ。
そうじゃなきゃ、俺は今、どう慰めるのか決められない。」
はっとして、田代に聞く。
「剛は、私のこと、知ってるんだよね?」
田代は苦く息を吐いた。
「だから、それが、俺の別れた理由なんだよ。」
「彼女が、剛に言ったってこと?」
田代は何も答えなかった。
やっぱり剛は気づいていた。でも、結婚しようって言った。
なんだかおかしい。
「田代は、どうしたい?」
搾り出すように声を出した。
「剛もお前も、大事にしたい。」
「どちらかを選んで。って言ったら?」
「それ、お前が言うの?」
「そう…。」
「お前は言わないよ。そういう言葉は絶対言わない。」
「田代が期待してるような人間じゃない…。」
「じゃあ、そういう人間になれよ。」
私は受け取ったケータイを開いた。
「この間の夜のこと、剛に言うと思う。」
「うん。」
「いいの?」
「もう、話した。」
私たちは、何かおかしい。
大事なことに気づいてるのに、口には出せなくて。
「剛、なんて?」
田代は押し黙った。
「自分で聞けよ。」
田代は、息を吐いてからそう答えた。
ケータイのディスプレイの明かりが、やけに明るい。
道の端によって、縁石に座ると、手をつないだままでいた田代も横に座った。
届いていたメールをゆっくりと全部読んでから。
 着信履歴を表示した。
 そして、小さく息を吐いて、私は決定ボタンを押した。


 何度も何度も、その瞬間のことを考えていたのだ。
切り出す言葉。
別れの言葉。
私はきっと泣くんだろう。
そして、恋が終わった痛みに苦しむんだろう。
ふとした瞬間に剛との日々を思いだし、どうしようもなく寂しくなる思いに身を震わせて。
『鳴海、今、一人?それとも田代がいんのか?』
手が震えて、ケータイが小刻みに揺れている。
「うん。田代といる。」
事実だ。もう全部事実だけを言えばいい。
『よかった。田代と一緒で。』
「…よかったの?田代と一緒なことが?」
本当の気持ち。もうそれだけでいい。
『…とりあえず、無事なんだろ?』
ぎゅっと目をつぶって、次の言葉を探す。
「田代と私がどうしているのか、気にならないの?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「ねえ、剛、答えて。
 私が、どんなことしてても、剛はそれでかまわなかったんだよね?
 知ってても、私といたいって、思ったってことだよね?」
思わず荒げた声。
田代の手を強く握っている自分がいた。
『かまわないのは、お前のほうだろ?
 気づいてたけど、何にも言わなかったな。嫌なら嫌だって…』
「嫌って言って、やめてくれたの?」
『言われてないから、分からない。』
そう。私たちは大事なことをいつも話してこなかった。
「なんで田代と一緒にいるのがいいって思ったの?
 田代と何があったのか、知ってるのに、どうしてそう思ったの?
 お願い。それだけ、答えて。」
知りたかったことは、なんだったんだろう?
『…田代なら、まだいいと思った。
 お前の相手が分からないより、田代ならまだましだと、思った。
 俺は田代を殴ればそれで終わりだ。』
田代が、手を強く握り返してくれていた。
『鳴海。俺も、一つだけ答えて欲しい。
 田代のこと、好きなのか?』
握られた手が、痛いほどだった。
「…私が、失いたくないのは、剛だよ…。」
言葉にした瞬間に、また涙があふれてきた。
『ごめん。鳴海。
 俺が言わなきゃいけないってずっと分かってたのに、言えなかった。
 好きだよ。でも、もう辞めよう。
 お前にそういうことさせた自分のこと、許せない。
 許せないけど、お前のこと、多分、もっと許せない。』
涙声に変わっていく語尾につられる。
「うん。私も…ごめん。
 ごめん…。」
後はもう、声にならなかった。
二人で泣いているだけなのに、電話を切れなかった。
田代に握られた手だけがひどく熱くて、痛くて、これが現実なのだと分かる。
どれだけの時間そうしていたんだろう?
ひどく長い時間のような気がしたし、実はそれほどたっていない気もした。
『…鳴海、田代のこと、好きになれよ。』
嗚咽まじりの剛の声。
『もう、切るよ。』
その声は、あまりに頼りなくて、か細くて。
電話が切れた音。不通の電子音。
やけに大きな音で耳に響いて。
 終わった。
哀しくも辛くもないのに、涙は止まらないままだった。
心の中からは何かがごっそりとなくなっていく。
私は、長い時間をただずるずると逃げ回っていただけなのかもしれない。
「田代を、好きになれって。」
顔を上げて、天を仰ぐ。
「…無理な話だよ。だって、切干大根のにんじん、食べられないんだもん。」
ちゃかすように言った。
田代は、握っていた手を離して、私の肩を自分の方に引き寄せた。
「剛か、俺か、選べよ。」
声が体に響いた。
「…それ、田代が言うの?」
笑った。
「嘘。どうなるかは、わかんないよ。
 だって、俺がお前のこと明日には嫌いになってるかもしれない。」
「嫌いにならない、っていったのに。」
田代も、笑った。
私は田代に寄りかかった。
「ごめん。私、まだ、分からない。」
小さいけれどはっきりした声で告げた。
「いいよ。俺は好きだから。」
田代がつぶやくように言って、頭をなでた。
ゆっくりと目をつぶった。
ぬくもりはあたたかくて、けれどこれはあの夜とは違う。
意識が少しずつ少しずつ遠ざかっていく。
「鳴海。寝るの?」
田代の声が心地よく耳に響く。
少しだけ。
次に目を覚ましたら、何から始めようか?
浅川と築地に連絡しよう。
失恋したんだから慰めてくれなきゃ困る。
きっと浅川の恋愛ネタに加えられちゃうけど、それは仕方ない。
築地には、「気にするな」と言ってあげなきゃ。
そして、あの、恋愛映画をもう一度見に行こう。
胸の中には、今まで想像しかしていなかった失う哀しみと、本当の痛みが詰まっている。
でも。
誰かを好きになろう。
田代の言う、単純な感情で。
「おやすみ」
やわらかい唇の感触が、額にあたった。
私が覚えていられたのは、そこまでだった。
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
※感想を書く場合はログインしてください。
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。