「毛虫はさ、大人になったら綺麗な蝶になるのに、人間は、どんどん醜くなっていくよね。」
緩やかな坂道。
秋の終わりを告げる風が、頬をぴんと刺す。
「そうだね。」
私の前で、兄は笑った。
学習塾の帰り道。
自転車を漕ぐ兄の背中に捕まりながら、私は大人になりたくなかった。
幼かった私は、大人を綺麗な蝶とは、思えなかった。
時間が経てば経つほど、ぐにゃぐにゃに歪んでいく生き物に見えていた。
【幼虫、蛹、蝶】
「薄っぺらい人生を送っていくんだね。」
目の前の男は、軽蔑を含めた笑みと共に、そんな言葉を吐き出した。
「まぁ、平凡が一番だからね。」
私は、少しの苛立ちを全く表情に出す事もなく軽く答える。
人生に薄いも濃いもないのに。
むしろ、初対面の人間に、そんな事言われる筋合いもないのだけれど。
素晴らしい人生を送るつもりでいる目の前の男は、
私にとって何の魅力もない存在で、
そして同じ事を、彼も私に対して思ったのだろう。
ただ、それだけの事。
「ごめんね、感じ悪かったよね。」
「ううん、私も態度悪かったし。」
店を出て、美咲は、例の男の発言を詫びた。
その男は、美咲の勤めているラウンジの客で、しつこく誘ってくるけど、二人きりは嫌だから、ということで
私ともう一人別の男と、四人で飲みに行くという事になった。
私は、とばっちりを受けただけだ。
美咲と駅で別れて、歩いていると、ふと思い出したのだ。
幼い頃、兄の背中で呟いた何気ない一言を。
私は、今まだ蛹なのだろうか?
それとも、もうすでに成虫なのだろうか。
決して私は蝶では、ない。
未来にも現在にも何の魅力も希望も持っていない。
一人の部屋に帰り、薄暗い部屋で、疲れた顔を鏡に映し、
そして一人で朝を迎える。
そんな日々の繰り返し。
鏡に映る私の顔は、もう大人だ。
幼さなんて、微塵も残っていやしない。
私は、もう大人で、完璧に醜い何かなのだ。
私は、日に日に歪んでいく。
完璧に醜い何かは、また別の醜いものへと朽ちていく。
でも、それは仕方の無いことなのだ。
そんな私の目には、異常に見える人達がいる。
夢やら希望やら、意味不明な矜持を持って生きる人達。
美咲の連れて来た男が、まさにそれだ。
自分の価値観を正しいと信じて疑わない、生をまっとうしようとする人種。
それらときっと私は解り合う事は出来ないのだろう。
私は、死を望んでいるのだから。
人生を楽しむとか、夢を持って突き進むとか、別にそういう人達をバカにしているつもりはない。
大変結構な事だと思う。
でも、こういう私の態度がまた、そういう人達を苛つかせるらしい。
「お前、そんなんで社会に出てやって行けると思ってるのか。」
今まで、何度そう言われてきたのか分からない。
そんな私ももう、あと一年もすれば、社会に出ていく事になる。
もう私は、生きようとも死のうとも思わなくなった。
人並みに大学に入り成人を迎えた私は、もう大人になることを憂うこともない。
大人という枠に入れられた私は、ゆっくりと身体が老いていく事を望むだけだ。
時間の経過は、確実に私の身体を蝕んでくれる。
早いか遅いかは分からないが、死は近づいている事に変わりはないのだから。
数十年後か、数年後か、あるいは明日か。
死の権利は平等に私にも与えられている。
孵化を待つ幼虫のように、羽化の前の蛹のように、私はそれを待ちわびている。
平凡な時間の経過。
薄っぺらい人生。
そう、確かにそうなのに、どうしてこんなにも生き難く、こんなにも苦しい?
人は死ぬまでに、生きている苦痛を紛らわせなければ、生きてはいけないのかもしれない。
そう、だから私が、薄っぺらい人生の中で、意味もない、こんな薄っぺらい文章を書き綴ってしまう事も、仕方のない事なのだ。
了
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